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2017.07.31 Monday

無題731-4

「アートや音楽というものは、他者との比較ではなく、未来・過去に縛られるのでもなく、知識・理論でもなく、今この瞬間の感覚」、

 

「アートや音楽というものは、相対的ではなく絶対的なもの」、

 

というようなことを言っている人も、たくさんいらっしゃると思う。

 

 

でも、そう言う人達も、今まで見たり聞いたりしてきた数々の作品や演奏…、

 

それらを相対的に比較することも、ちゃんと出来ると思います。

 

(作曲家ごとの個性とか、演奏家ごとの特色とか、ちゃんと認識や比較は出来ると思う)

 

 

 

 

そもそも、もし、全く比較をしないような知性・感性・生命体というものが存在するなら、

 

そいつらは、何かを良いとか何かを悪いとか感じることは無いのではないか?

 

と思う。

 

ただ「現象」だけが在る感じ。

 

 

「これが良い」とか「これが悪い」とか、「これが好き」とか「これは嫌い」とか、「これは優しい」とか「これは冷たい」とか、「これは絶対的」とか「これは相対的」とか、「これは自然体」とか「これは作為的」とか、、、

 

そういう判断や認識するということは、そもそも我々は、相対的な比較や差別をする習性があることの証明だと思うのだが?

 

 

 

 

アート作品・音楽作品を鑑賞したり演奏したりしている時の感覚は、確かに「絶対的」「瞬間的」「無心」「忘我」「無条件」と言えるかもしれないが、

 

でも、どんな音色もどんなリズムも、何でもかんでもオーケーではないはずです。

 

 

どんな駄作でも、どんな下手な演奏でも、「心や魂や愛さえ込められていればオーケー!」「無我夢中で没入していればオーケー!」とはならないはずです。

 

(心や魂や愛が大事なことは異論ないけど、それだけで良いとは私には思えません)

 

 

あまりにも下手クソな演奏では、心地良く聞くことは無理だと、私は思う。(´・_・`)

 

もちろん音楽は、必ずしも技術第一ではなく、「ヘタウマ」や「ウマヘタ」みたいな作品(演奏)も、たくさんあるとは思いますが、

 

いずれにせよ、「なんでもかんでもオーケー」「どれもこれも同じくらい素晴らしい」とは、ならないはずです。

 

 

各々、好みの違いはあるだろうけど…、

 

誰でも、とりわけ好きに感じる作品もあれば、それほど好きにならない作品も、あるはずです。

 

 

 

 

だから私は、そう簡単に「比較は良くない」とも言い切れない気がしています。

 

なぜなら、そう言ってしまうと、自分に嘘をつくことになるから。

 

だって私には、「好み」や「嗜好」や「選り好み」というものが、明らかに有りますから。。

 

(※どんな音を聞いても、どんな音楽を聞いても、全く同じように感じることは、私には出来ません。なので、「比較は良くない」とか「音楽は絶対的だ」とか「誰もがオンリーワンで素晴らしい」とか、私はそう簡単には言えません)

 

 

 

 

たぶん我々は、鑑賞や演奏や作曲をする時、心の奥のどこかで、理想の音と現状に鳴っている音とを比較し、

 

それらを天秤にかけて、相対的にバランスをとったり、

 

理想の音・タイミングに近づくよう、(自分の)音を制御したり調節したりする知性・感性も、常に働かせているはずなのです。

 

意識的せよ、無意識的にせよ。

 

動物みたいに、ただただ無心で「わーっ!」と吠えたり叫んでいるだけではないはず。

 

(「わーっ!」と吠えるような表現や、「騒音」や「叫び声」のような雰囲気を目指す作品なども、もちろん多々あると思いますが…、だからと言って、そういうタイプの作品に、まったく技術が必要ないとは思えないです。

 

…あるいは、「偶然性」や「無意図」で創作する試みなども、大いにアリだと思いますが…、非人為的な「偶然」や「無意図」を意図しているわけだから、やはり知的ではあるし、「そういう意図が有る」と言えると思います)

 

 

 

 

あと、(音楽は)「今この瞬間」「今ここ」とかも、よく言われるけど…、

 

やはり音楽というものは、数秒前の旋律・和音からの繋がりで、「今この瞬間」が有るものだとも思うので、

 

私は、あまり安易に「今ここ」「過去にも未来にも縛られるな」とは言い切れないと思っています。

 

 

 

 

とは言え、私自身、

 

演奏や作曲というものは、冷静な「比較・検討」「調節・制御」というよりも、

 

むしろ「自然発生的」と感じられるほど、瞬間的かつ自動的な作業にまで昇華されている感覚も、実感として、よく分かります。

 

(例えば「体が勝手に動く」「メロディーが降ってくる」「考えるな感じろ」「ボールが止まって見える」みたいな状態)

 

 

 

 

しかしながら、表現・演奏・作曲をするには、長年の蓄積や修練が必要だし、

 

音と音の比較も必要だし、

 

余分な音や余分な力みの取捨選択も必要だし、(※音のコントロールや、呼吸や身体のコントロールが必要)

 

数秒前に鳴った音からの繋がりも大事だし、

 

数秒後に出す音のイメージも必要だろうし、

 

 

…要は、比較・調節・制御・知性・技術・取捨選択・論理的把握というものも、どう考えても必要!

 

 

そういう意味で私は、あまり断定的に、「音楽は絶対的なもの」「音楽は瞬間的なもの」「比較は良くない」「理論より魂が大事」「技術より心が大事」「直感と衝動のみが大事」「考えるな感じろ」とは、言いにくいと思っている。

 

 

 

 

そもそも僕は、理論や技術というものが、魂や心と相反するものだという認識が無いですね。

 

(※あと、「相対的」と「絶対的」も、相反する感覚だとは思えないです。音と音を冷静に比較したりしても、絶対的な感覚が薄れるとは思えないです)

 

 

 

 

したがって、音楽というものは、

 

絶対的ではあるが、大いに相対的でもあるし、

 

技術や理論というものにも、感情や直感が同居しているし、

 

意図的に音を選びつつ、無心&自然発生的な感じもするし、

 

「今この瞬間」の行為ではあるのだが、過去に聞いた音楽と比べたり、未来(数秒後)に出す音をイメージしていたりもするので、

 

あまり断定的に、「音楽は絶対的だ!」「音楽は今この瞬間だ!」「考えず感じろ!」「技術より心!」とは、私は言い切れないです。

 

言い切れないし、言うつもりもないですし、(たぶん)言ったこともないですし。

 

 

 

 

(音楽は)「相対的か絶対的か」、「瞬間的か永遠的か」、「技術か心か」、「意図的か無心か」、「自己の表出か自己の消失か」というのは、

 

個人個人の感じ方・とらえ方の違いに過ぎないとも言えるが、

 

 

私なりには、音楽というものは、

 

■「相対的感覚と絶対的感覚が矛盾なく両立している」

 

■「時間に則って表現しつつ時間は止まっている」

 

■「技術と心は別のものではない」

 

■「理論と直感(衝動)は別のものではない」

 

■「意図を持ちつつ意図を忘れている」

 

■「自己を表現しつつ自己を忘れている」

 

■「今この瞬間を意識しつつ、数秒前(数秒後)のフレーズとの相関関係・繋がり等も、大いに意識している」

 

■「自由で無条件な活動ではあるが、同時に、色々な制限・制約・条件に基づいた不自由な活動でもある」

 

 

そんな感じではないかと思っています。

 

 

様々な内的感覚が矛盾なく共存・混在しているので、

 

そのどれか一つの感覚だけを取り出して、「音楽はこういうもの!」とは、言い切れないのではないかと思います。

 

 

 

 

(※話は逸れますが…、知性による比較ではなく、本能や感覚で「こっちのほうが心地良い」「こっちは怖い」というような、動物的勘・野性的判断も、もちろん人間も持っていると思います。でも、そういう直感的な判断というものも、やはり、物事を比較・差別・選別している感じはします。

 

…しかも、明らかにエサをくれる人を怖がる動物とか、直感的に突進して崖から転落死する動物とかもいるので、「動物的勘」や「直感」や「本能」というものは、常に正しいわけでもないです。…個人的には、正しいものなんてこの世に存在しえない、と思っていますがね)

 

 

 

 

そして、最後に一つ。

 

アートや音楽やヨガやスポーツだけが「絶対的」で「瞬間的」で「瞑想的」で「無条件」なのではなく。

 

人間のあらゆる行為は、絶対的かつ瞑想的でありうる、とも思います。

 

 

であれば、禅問答のようなことを言いますが、

 

何かと何かを相対的に比較検討することも、絶対的な体験なのかもしれないです。

 

(過去や未来に想いをはせることも、今この瞬間のことなのかもしれないし)

 

 

すなわち、究極的には、この世には「絶対的」も「相対的」も、「能動的」も「受動的」も、存在しないとも言えるかもしれません。

 

(同じものを、個別に切り取って名付けたり、違う側面から名付けているだけ)

2017.07.31 Monday

無題731-3

「夢」とか「願望」とかいうものは、考えて計画的に意図するというより、ブワーッと衝動的・直感的に湧き上がるものかもしれないが、

 

しかし同時に、皆、生まれた時代の状況・環境・科学・文化・知識・社会システムなどを、しっかり認識しながら、

 

その前提条件の範囲内の夢・願望しか、生まれにくいものだと思う。

 

(後天的に身についた固定概念からも、そう簡単には自由になれない)

 

 

 

 

例えば、ピアノという楽器が無い時代に、私と全く同じ魂・同じ感性の人間が生まれたとしても、「ピアノを弾きたい」という夢・欲求・願望など、持たなかったはずです。

 

なぜならピアノが存在しないので、そんな欲求・願望・衝動を持てるはずがありません。。すらりん

 

 

 

 

宇宙や地球という概念・知識が無い時代に生まれたら、「宇宙飛行士になりたい」なんて夢は存在し得ないだろうし。

 

独裁国家に生まれなければ、「革命を起こしたい」「人民を解放したい」「圧政をやめさせたい」なんて夢も、存在し得ないだろうし。

 

お金という概念・システムが存在しない社会に生まれたら、「金持ちになりたい」なんて夢も存在しえないだろうし、

 

人種差別が横行していなければ、それをやめさせたいという夢・願望も存在しえない。

 

野球というスポーツが存在していなければ、「野球をやりたい」「野球選手になりたい」という夢も存在しえない。

 

 

 

 

要するに、「I have a dream!」と言うためには、直感や衝動だけではなく、

 

ある程度は知的に、現在の状況・環境・常識・科学水準・音楽ルール・社会システム等を認識している必要があると思う。

 

 

要は、たいていの人は皆、知的で打算的な存在だと思う。(悪い意味ではなくて)

 

自分では、その事実に気づいていなくても。

 

意識的にせよ、無意識的にせよ、皆、状況・環境を頭で把握して、その範囲内で、夢や願望を心に描いているはず。

 

(※作曲や演奏も同じこと。我々は、思うがまま・思いつくままに演奏(作曲)しているつもりでも、そもそも「リズム」「メロディー」「ハーモニー」というような概念自体・ルール自体、生まれた時代の常識に従っているだけ。模倣しているだけ。…「音楽」というものは、無心で衝動的な活動でもありつつ、後天的に与えられた前提条件の範囲内での、知的な活動でもあるのだ)

 

 

 

 

それに気づかず、「俺は誰の影響も受けず、誰の真似もせず、時代や流行にも左右されず、自由に思うがまま生きてるぜィ!過去にも未来にも縛られず、頭で考えず、今この瞬間、魂と直感だけで生きてるぜィ!俺の音楽は唯一無二よ!」

 

などと言いながら、ギターなど弾いて、曲や詩などを歌っている人がいたとして、

 

でも、そもそも「ギター」という楽器自体、

 

「コード」「リズム」「ハーモニー」という概念自体、

 

「言葉」や「音楽」というツール自体、

 

後天的に身についたものであり、生まれた時代・環境・状況・文化・知識・他者が築いた仕組みに縛られている証拠。

 

過去に身に付けたことに、大いに縛られている証拠。

 

(要は、他者や社会から影響を受けているわけです。頭も使っているし、ちゃんと知的に色々と把握・認識しているわけです)

 

 

 

 

で、私は、それで良いと思っています、

 

時代や環境や他者の影響を受けず、「無」から何かを創造するつもりなんてありません。

 

個人的には、他者・時代・社会・環境からの影響のもとでしか生きれないと思うし、創作できないと思っています。

 

ただ、そのことを自覚していたいとは思いますが。

 

(「俺は誰にも影響受けてない」とか「俺は頭で考えず直感だけで生きてる」とか、あまり勘違いしたくない)

 

 

 

 

他者・時代・状況・環境・文化・社会から独立した「夢」や「願望」や「直感」や「自分らしさ」なんて、どこにも存在しないと思っています。

 

 

 

 

では、「自分とは何か?」と自問するなら、、、

 

大袈裟に言えば、「あらゆる全てが自分自身」であり、「独立した「自分」なんてどこにも存在しないのではないか?」

 

そんな感覚です。

 

 

 

 

なので、日々、自分の心に湧き上がる、

 

「これは心地良いこと」「これは心地悪いこと」「こうしたい」「こう生きたい」というような判断・直感・衝動・願望も、

 

無意識的に、後天的に身についた固定概念や、生まれた時代の常識・環境・科学水準の範囲内だけに囚われている可能性も高いので、私は、100パーセント信用しすぎたくないです。

 

もちろん全否定すべきものでもないけど、無条件に全肯定しすぎるものでもないかな、と。

 

 

今現在、心に湧き上がる判断・直感・衝動・願望・快不快・夢などは、ちゃんと大切にしつつ、

 

同時に、そういう判断や直感や夢が生まれる前提となっている、後天的に身についた概念自体・常識自体を、常に疑っているくらいが、私は心地良いです。

 

 

 

 

↑などと書いていること自体、私は常に疑ってもいます。

 

要は、自分の判断や直感や価値観に自信が強すぎて、心が狭い感じになってしまうのは、それもまた心地悪いのだ。

 

あまり自分自身を絶対視しすぎない態度・雰囲気が、私は心地良いと感じます。

 

(自分に自信が無い、ということとは違いますし、優柔不断とも違います)

 

 

 

 

上記のようなことを言ったり書いたりすると、「もっと自信を持て」とか言われたり、誤解されてしまうことも多いです。。。

 

でも、そういうことではないです。

 

しっかり自信は持っていても、

 

同時に、時には自分を反省したり見直したり改善したりする、柔和な態度・雰囲気が好ましく思います。

 

 

そもそも「自分」という存在自体、曖昧かつ多面的で、環境や状況とも絡み合っているので、

 

「これが本心」とか「これが自分らしさ」とか、あまり特定・断定できないとも感じています。

 

(「自分」という存在は、けっこう「暫定的」というか(?)、「今現時点では自分はこうしたい」「今現時点では自分はこう思う」とか、その程度のものでしかない気がしてます。「固定的に定まった自分」というのは、そもそも存在しないのではないか?という感覚です)

 

 

 

 

そんなわけで、冒頭にも書いたように。

 

あらゆる夢や願望や、あらゆる直感や発想や、あらゆる創作や表現というものは、

 

魂から直感的に湧き出たものかもしれないが、

 

同時に、生まれた時代の状況・環境・科学・文化・知識・社会システムなどを、しっかり認識しながら、

 

その前提条件の範囲内のものしか、生まれにくいものだと思う。

 

 

 

 

すると、究極的には、、、

 

■「自分」という個別な人格は存在していない

 

■「私」という存在は、環境や時代や状況や他者と結びついた、いわば「総体的な存在」としか言えない

 

上記のような認識にもなります。

 

そういう認識や感覚は、ちょっと寂しい気もする反面、不思議に安らぎや心地良さも感じます。

 

 

 

 

そして上記に書いてきたようなことは、私のことだけではなく、他者についても同じこと。

 

他者も、誰しも、「独立した個別の存在」というより、(後天的な)環境・境遇・時代・文化・状況と結びついた、総体的な存在、、、

 

どんな長所も短所も、どんな性格も能力も、100パーセントその人だけの功績ではないし、100パーセントその人だけの責任でもない気がします。

 

(※だからと言って、犯罪行為・迷惑行為・暴力行為などを、「後天的な教育・境遇が悪かっただけだから許そう」「本人だけの責任ではないからお咎め無し」、という主張ではないですが)

 

 

長所と思えるような人格や能力も、短所と思えるような人格や能力も、時代や状況が変われば、長所は短所になるかもしれないし、短所が実は優れた長所・才能でもあるかもしれない、

 

なので、あまり短絡的に、何が短所だとか決めすぎず、責めたり見下したりせず、

 

どんな資質・能力・パーソナリティーであれ、生きる道・活かす道はあるのではないか?

 

 

…いや、そもそも活かす道や、誰かや何かに役立つ能力なんかでなくても、

 

どんな人も、まずは見下されないですむ世の中を目指すべきではないか?

 

そんなふうにも思う。

2017.07.31 Monday

無題731-2

(※前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

「日本の伝統を大切に」「日本らしさを大切に」などと言っている人の多くが、普通に洋式の衣食住で暮らしているし、そもそも大陸から伝わった文化を日本オリジナルのものだと勘違いしているフシも否めない。。

 

で、それと似た感じなのですが(?)、エコとかロハスとか言う人の「自然」は、むしろ人間に都合良く自然を制御してる場合が多いと思いますし、

 

「人は自然のままが良い」「あるがままが良い」みたいな意見も、人間の性格や言動を、社会的かつ文化的に調教・教育したものを、「これこそ人間の自然な姿だ」と思い込んでいる場合が多い気がします。

 

(あるいは、人間や自然の美しく見える部分だけを「自然」と思い込んでいるだけ、とか)

 

 

そもそも人間が、本当に自然のままの姿になってしまったら、過酷な自然環境の中では生き抜けないと思いますし。

 

 

 

 

例えば、虚言や自己保身や利己主義や、

 

あるいは、とんでもなく汚く残酷に見えるような病気や天災や、悪人や汚物だって、

 

それらも、この宇宙や生命や地球の生成の流れで現れたものである以上、「自然」っちゃあ「自然」なものだ、と思う。

 

 

で、それら汚いもの・病気的なもの・不潔なもの・理不尽なこと・傲慢なもの・暴力的なもの・利己主義的なものを、

 

嫌ったり、見下したり、矯正しようとしたり、掃除しようとしたり、治療しようとしたりするのもまた、自然なことだろうし。

 

(※科学や医療や人為的な創作・作為などを、「不自然なもの」とする考え方もあるかもしれませんが。個人的には、それらも「自然なもの」という認識です)

 

 

 

 

「起こったことを全て受け入れる」「何も変えない・何も足さない・あるがまま」というスタンスだけが、自然体なのではなく。

 

僕は、「これは受け入れがたい!」「これは変えなければ!」という感じの心理状態も、むしろ自然なものとして受け入れるほうが好きですね。

 

 

 

 

そもそも「自然」というものは、残酷で理不尽で利己的な側面もあるものだと思う。

 

時には、理不尽で不平等としか思えないような障害・病気・逆境・不遇もある。

 

生命や人生や動物というものは、不平等でもありますし。

 

(持って生まれた個体差がある。能力にも、容姿にも、寿命にも、生まれた環境や境遇にも)

 

 

…しかも、そこらへんの猫やハトや虫を見ても分かるが、強い者が弱い者に暴力を振るったり、食べ物を奪ったり殺害したりすることも、決して珍しいことではない。

 

生存本能や防衛本能というものは、利己的な側面も多いと思う。

 

とは言え、そういう「不平等さ」「不均一さ」こそ、「人それぞれの個性」「人それぞれの長所」であるとも思いますが。

 

 

 

 

もちろん動物は、利己的で弱肉強食なだけではなく、

 

利他的で献身的な衝動・本能というものも、人間含め、多くの動物は持っていると思う。

 

 

 

 

要するに、利己的な側面も利他的な側面も、そのどちらもが自然ってものだと思う。

 

 

 

 

…究極的には、宇宙のあらゆる現象は、全て等しく「単なる現象」だとは思う。

 

本来的には「美」も「醜」も無いし、「良」も「悪」も無いし、「自然」も「不自然」も無いし、「利己」も「利他」も無いし、「作為」も「ありのまま」も無いように思われる。

 

 

とは言え、たいていの人は、自分なりの好みや美醜観や善悪観を持ってしまっているはず。

 

たいていの人は、道端の犬のフンより、花や夕日を美しいと感じてしまうだろうし、野球の緩慢な消化試合より、極限まで訓練されたイチロー選手の大舞台でのプレーに感動(応援)してしまうだろうし、傲慢で不躾な人の言動より、他者のことを思いやろうとする人の言動を好きになってしまうだろうと思う。

 

でも、それで良いのではないか?と思う。

 

(犬のフンが「悪いもの」と言っているわけではなく。花や夕日だけが「良いもの」と言っているわけでもなく。名人や達人や成功者だけが素晴らしい、と言っているわけでもなく)

 

 

 

 

もし私がフンコロガシやハエとして生まれていたら、排泄物は「良い匂い」と感じると思いますし、

 

深海魚として生まれていたら、光は苦手なのだから、夕焼けなんて美しいとも思わないはずです。(直視できないかも?あるいは、そもそも視力が無いのかも?)

 

 

つまり、(人間の)「美的感覚」なんてものは、普遍的な宇宙の真理ではないし、善悪や道徳や人格とは無関係だと思う。

 

要は、自然自体が美しいわけではなく、

 

「ヒト」という動物の生理や習性や身体能力、あるいは後天的に身についた美的価値観などによって、花や夕焼けを「美しい」と判断しているにすぎない。

 

 

 

 

もちろん「自然は美しい」とか、言っても良いと思う!^^;

 

私も言うし。

 

でも、「そう言っている私って心が綺麗」「人間も自然もありのままが美しい」みたいなことを付け加えてしまうのは…、

 

人間や自然の美しく見える部分だけを見て、「これこそ自然」と決め込んでいるだけだと思われる。

 

 

 

 

もし私が「夕焼けが美しいなー」とか、「花が良い香りだなー」とか言っても、心が綺麗なわけでもないし人格が良いわけでもない、

 

そんなものは、ハエやフンコロガシが、排泄物を「良い匂い!」と感じるのと大差ない気さえしている。(※もちろん彼らが、そう感じているかどうかも分からないけど)

 

つまり、単なる個人的な主観である。

 

宇宙の真理でもなければ、道徳の規範でもない。

 

 

 

 

宇宙のあらゆる事象は単なる「現象」にすぎないが、

 

個人的な主観が、何かを美しいと感じたり醜いと感じたりしているだけ。

 

そういう個人の主観・判断・趣味・快楽を、(普遍的な)真理や道徳と結びつけすぎてしまうと、少々押し付けがましいし、ややもすると差別的でもある。

 

自分の主観・趣味・価値観と違う人に対して、「センス悪い」「心が無い」「愛が無い」「不自然」「もっと自然になれ」、などと言い出してしまう人も多いので。

 

 

僕は個人的には、「そんな小難しいこと言わず、個人的な趣味・快楽として、普通に楽しめば良いじゃん?」と思います、

 

単なる個人的な趣味・嗜好・感覚・判断・価値観などを、これこそ普遍的な真理だとか、これこそ道徳の見本だとか、これこそ自然体の見本だとか、人間は皆こういうものだとか(?)、

 

そういう、ややもすると排他的なことを思い込まずに。

 

 

 

 

もちろん自分が「良い」「美しい」と感じたものは、思ったまま発言して良いと思うし、他者に推奨したりしても良いと思います!

 

でも、単なる自分の主観・価値観・好き嫌いを、人間全てに当てはまる、この世の普遍的な真理・正義・自然・良識だと思い込んでしまうのは、僕は良くないと思う。

 

 

…いや、思い込むだけなら仕方ないか。

 

考え方は人それぞれ、自由であるべきだし。

 

ただ、それを素朴に発言しすぎてしまうと…、自分好みの道徳や、自分好みの自然体や、自分好みの自然観を、他者に強要しているだけになってしまう可能性はある。。。

 

(もちろん私も、そうなっている可能性は常に有る)

 

 

 

 

さて長くなりましたが、

 

個人的には、今のところ、「自然よりも不自然のほうが好き」という意見です。

 

理不尽で利己的で、不平等で残酷な「自然」や「あるがまま」よりも、

 

頑張って理想の世界を築かなきゃ、と思う!

 

 

 

 

人間も自然の一部なので、

 

ある程度、不平等・利己主義・弱肉強食なのは当然ですし、そられ全てを無くすべきとは思いません。

 

ある程度は、利己主義も自然なものだと思いますし。

 

 

ただ、それを認めたうえで、

 

最低限、誰でも衣食住や教育が保証され、ある程度は均等にチャンスを与えられ、

 

そして、あからさまな差別・誤解・暴力・偏見・冤罪・不平等・利己主義・イジメ・パワハラ・セクハラなどが、あまりにも公然のこととして存在しない世界のほうが、私は好きです。

 

 

 

 

私の主張は、「誰もが利他的になれ」というようなことではなく。

 

むしろ逆かもしれません。

 

人間完璧ではないので、誰でも、無意識的に差別をしてしまったり、無意識的に利己的になってしまったり、無意識的に(他者を)誤解してしまうこともある、

 

(※「言葉」も「行動」も「音楽」も完璧なツールではないので、(表現者の)気持ちや真意や意図は、常に、誤解されたりする可能性はある)

 

 

でも、それが当然だと思うので、

 

その事実を認め、「あまりにも自分の判断・解釈・価値観を盲信しすぎないようにする」、

 

そんなイメージです。

 

 

自分が感じたこと・判断したことに、大いに自信は持っていて良いと思いますが、

 

同時に、(自分のことを)盲信・過信しすぎず、

 

たまには一歩立ち止まって、自分の判断・言動・価値観を見つめなおしたり、反省したりすることも大事なのではないだろうか。

 

 

「私という人間は、時には誤解や差別をしてしまう存在である」、

 

そういうことを素直に認めている感性は、僕は大事ではないかと思っています。

 

 

 

 

そんなわけで、あまりにも自信満々に「ありのまま」で、自然すぎるのや自然体すぎるのは、僕は良くない感じがしてます。

 

 

すなわち、「あるがまま」「自然のまま」に甘んじるだけではなく、

 

(人間社会や自分自身の)現状を、反省したり、嫌悪したり、時には憤ったりして、

 

より理想的な世界(より理想的な自分)を創造する力を持っていると思うわけです。

2017.07.31 Monday

無題731-1

「どう生きるのが、その人にとって自然体なのか、心地良いのかは、人によって違うのではないか?」

 

と、僕は思ってしまうわけです。

 

なので、「全ての人間にとって、こう生きるのが自然体!」「自然体とは、こういうこと!」「自然とは、こういうもの!」

 

そういう前提で話されると、息苦しい気がしてしまいます。

 

(「もっと自然体になりましょう」「もっと自然な考え方をしましょう」みたいな言い方ね)

 

 

 

 

誰かが、自分自身にとっての「自然体」を語るなら、むしろ興味深く話を聞かせて頂きたいです、

 

しかし、それを他人や人類全体にまで当てはめすぎるような言い方だと、息苦しいと私は感じてしまう…。

 

私が上記のように感じること自体、批判されることもありますし、心が狭いとか気難しいとか、判断されてしまうこともありますが。

 

 

 

 

誰しも、自分目線で生きて良いと思うし、他者に気を使いすぎる必要もないと思いますが、

 

自分の感性・意見・価値観を、まるで「人間全体に共通する一般論」のように、勘違いしすぎないほうが良いと思うのだが。。。

 

 

それは「自分に自信が無い」ということではなく、

 

他者に気を使いすぎているわけでもなく。

 

むしろ、本当の自信というものは、過剰に自画自賛したり、自分の意見だけを正義・正論・良識・常識だと思い込みすぎたりしないのではないか?

 

という気もしています。

 

 

 

 

ここ数日、作詞の参考にと(笑)、「自然」や「自然体」や「ありのまま」に関する格言集を読んでいたのですが、

 

例えば、生き方的な格言であれば、

 

「あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい」(ガンジー)という格言とか、

 

僕は、とても素晴らしいと思います。

 

あまり、「これが自分の自然体」「これが人間の自然体」「これが自分のありのまま」「自分はこういう奴」みたいな感じで、

 

固定的に(自分の性格を)断定しすぎてしまうのではなく、

 

今後の人生の「自由度」というか。

 

願うことを実現しようとする心意気が、私は好きなのかもしれません。

 

…もちろん、変わらないことの良さや、無理に頑張りすぎないことの心地良さなども承知した上で、ですが!

 

 

 

 

その他、「自然」についての格言も、様々なものがありましたが、

 

「自然が作ったものこそ美しい」、「自然は、それを愛する者を裏切ることは決してない」、「自然は決して誤らない」、「自然=完璧」、「自然=愛」、「自然=善良」、「自然=平等」、

 

というような感じの格言よりも、

 

「自然は我々全てに同じ能力を与えなかった」(イソップ)

 

みたいな格言のほうが、僕は心地良く感じるし、その通りだと感じるのです。

2017.06.10 Saturday

2017.6.10-2

(今日、二つ目の記事です。先ほどの記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

どんな表現手段であれ、どんな表現ジャンルであれ、どんな言動であれ、どんな音楽作品であれ、

 

その表現者の心情や真意を、いつも100パーセント正確に表現できているわけではないはずだ、と思う。

 

我々人間は、不完全な存在だし。

 

言葉も音楽も行動も、不完全なツールだし。

 

(しかも、受け取る側も、誤解・偏見・思い込み・先入観などを一切捨てて、完璧に誤解なく受け取るなんてことは、人間には不可能だと思われる。それで良いと思うし、それで当然だと思われる)

 

 

 

 

だから、誰かの発言・作品・表情・演奏などを見て、

 

で、その人の内面や性格や真意を分かったつもりになりすぎて、

 

あまりにも(その人を)敵視しすぎたり、あまりにも神聖視しすぎたりしないほうが良いと思っています。

 

アートの表現であっても、何気ない日常の会話であっても。

 

 

 

 

どんな意見であれ、どんな言動であれ、どんな表現であれ、どんな表情であれ、どんな演奏であれ、

 

発言者(表現者)の意図・真意を完璧には現せていない可能性も高い。

 

なので、私は、あまりにも誰かを敵視してしまうのは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

他者の気持ち・真意は、一生懸命想像したいとは思いますが、あまりにも分かったつもりになってしまうことは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

(「神聖視」はともかくとして、短絡的に「敵視」してしまうのは、特に良くないと思う。…「神聖視」の場合も、ナチスやカルト宗教みたいなのは良くないと思いますが、好きなアイドルやアーチストの「信者」みたいなファン心理なら、まあ可愛いものだし、私も経験あるので、そういう気持ちはよく分かります)

 

 

 

 

さて、我々は、あらゆる表現メディア・あらゆる表現ジャンル・あらゆる表現ツールを、全て好きになる必要は無いと思われる。

 

人それぞれ、自分の好みの表現手段・コミュニケーション手段を使えば良いと思う。

 

わざわざ苦手な表現手段・コミュニケーション手段を使わなくても良いと思うし、

 

わざわざ苦手な音楽ジャンルを、無理してまで聞くことはないと(私は)思う、

 

 

しかしながら、「このツールでは心が伝わらないに決まってる」、「このコミュニケーション手段では気持ちが伝わらないに決まってる」、「このジャンルやこのツールはあたたかいが、あのジャンルやあのツールは冷たいに決まっている」、「このジャンルやこのツールは心がこもっているに決まってる」、「このジャンルはダメに決まってる」、「打ち込みやメトロノーム通りやテクノ音楽は機械的に決まってる」、「生楽器や民族楽器の演奏は人間的に決まってる」、etc…、

 

という感じの先入観が強すぎると、自分好みの表現手段やツール以外のものを、一切聞く耳を持たない態度にもなってしまい、ちと厄介である。

 

(※しかも、例えば…、生楽器の演奏で、冷たくて無機的(機械的)な雰囲気を目指すことなども多々あるので、上記のような先入観・思い込みが強すぎると、表現者(発言者)の意図や真意を誤解する可能性も高くなってしまう)

 

 

 

 

特定のツール・メディア・表現方法の問題点を、ちゃんと具体的に指摘している場合は良い。(問題点だけでなく、改善点も同時に提案していれば、なお良い)

 

しかし、あまりにも妄信的に、特定のツール・特定のジャンル・特定の表現手段・特定のメディアを、全否定しているような人や、全肯定しているような人は、思考回路的に、カルト宗教や人種差別者などと変わらないのではないか?

 

個々の中身・内容・人間性・音楽性を吟味しようとせず、外側のカテゴリーで中身を分かったつもりになってしまう、という。

 

(例:「人と人は一緒に酒を飲まないと分かり合えない」「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」「若者(老人)は皆こういうもの」「○○人は皆こういうもの」「このジャンルはこういう音楽性」「この楽器はこういう雰囲気」…、

そういう感じの見解も、同じこと。ジャンルやカテゴリーや表現メディアの種類によって、一括りにして、その中身・内容まで決めつけすぎだと思う。もっと個々の発言ごとに、個々の作品ごとに、個々の表現ごとに、その都度その都度、その内容や言い方や雰囲気を吟味しなければいけないと思う)

 

 

 

 

…などと書いている私自身、そういう発言をする人の真意を分かったつもりになりすぎて、それこそ「敵視」しすぎているかもしれないので、

 

私自身も、常に気をつけていたいことではあるが。

 

 

自分が感じたこと・考えたこと・判断したこと等は、全て、自信や愛着を持って良いと思うが、

 

同時に、あまりにも真実・正解だと信じ込みすぎないほうが良いのではないかと、私は思っています。

 

(「自分に自信が無い」「自分に自信を持たない」ということではない)

 

 

…というか、物事や出来事に「真実」「正解」というものが存在するとはイマイチ感じられず、

 

この世には、単に、無数の「主観」や「解釈」や「偏見」や「思い込み」が存在するだけだと思っている。

 

 

 

 

ちなみに私は、お互い自由に意見や批判を言い合える人間関係は好きだし、

 

音楽やアートでも、誰でも、自由な意見・感想・批評・レビューを言えるような空気が好きだ。

 

でも、生き方や感じ方を決めるのは、最終的には、その人本人だと思っている。

 

 

どんなに親しい間柄でも、価値観的なところや、生き方的なところや、音楽の好き嫌いなどは、

 

最終的には、「その人本人に任せる」という雰囲気が大事なのではないだろうか?

 

どんなに親しい間柄でも、結局は「別の人間」なのだから。

 

 

どういう音楽が好きか嫌いか、何を幸せと感じるか、何を楽しいと感じるか、何を自然体と感じるか、何を心地良いと感じるか、どう生きたいか、どう生きたくないか、何を頑張りたいか、何を頑張りたくないか、何に興味を持つか、何に興味を持たないか、、、

 

それらは全て、人によって異なることだ。

 

 

 

 

だからと言って、あまりにも「人に意見してはいけない」「人に配慮しなければいけない」「自分の好み・考えを言ってはいけない」という風潮では、息苦しいし寂しい。

 

お互いに、自由に意見や助言を言い合っても良いと思うし、批判や批評も自由に言って良いと思うのだけど、(私も言うし)、

 

しかし、その意見・助言・批評に同意しなかったとしても、そのことで誰かを責めたり、強引に同意させようとするのは、良くないのではないか?

 

 

 

 

誰かのことを責めても良いのは、明らかに他者の危害・迷惑になるような言動や、明らかな虚言や、明らかに他者を見下すような態度だけだと思う。

 

(あるいは、例えばワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想・意見を言っているような人も、明らかに間違いであり勘違いなので、指摘したり否定したりしても良いと思う。※事実に基づいていない意見・感想・勘違い・思い込み等)

 

 

 

 

さて、数回にわたって書いたシリーズも今回で最後です。

 

当初のテーマからは、かなり話もそれましたし、長くもなりましたが。

 

 

強引にまとめると、今のところの私の意見としては、

 

■「オープンな意見交換は好きだし、お互いオープンに意見・批評・批判し合うのも嫌いじゃないけど、最終的には、各々の生き方・感じ方を決めるのは、その人本人」

 

■「自分の好き嫌い・感じ方・価値観に、いくらでも自信を持っても良いけど、それを他者にまで当てはめすぎることは良くないのではないか。自分の好き嫌い・感じ方・価値観・道徳観念を、絶対的な正義(正論)だと思い過ぎないほうが良いのではないか」

 

■「感じ方・価値観は自由。ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在する。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想。(あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想)」

 

■「外見・表情・ファッション・話し方・話す内容・行動・仕事ぶり・演奏・作曲などには、その人の内面や人間性が、確かに現れるとは思う。とは言え、どんな表現ツールも表現メディアも、不完全なものである。(そして誰しも、他者の内面(人間性)を100パーセント完璧に分かることも不可能だと思う)。というわけで、他者の内面・性格・境遇・事情・心情・人間性などを、あまりにも完璧に分かったつもりになりすぎてしまうのは、人間の能力と権限を超えているのではないか?」

 

そんなところです。

 

 

 

 

そしてさらに言えば、

 

言葉や音楽や価値観について、考えたり、追求したり、学んだり、(自分を)反省したりすることは、私にとっては、とても大切なことだけど、

 

実は、そこは「入口」にしか過ぎなくて、

 

そういう表面的な言葉・音楽・価値観の領域を超越してしまうような感覚に、日々、アートを鑑賞したり、創作したり、人と触れ合ったりすると、出逢うこともあります。

 

 

 

 

(自分の)感性・価値観・好き嫌いは大事だと思うのですが、それらを盲信しすぎていると、その側面・尺度・角度でしか感じることが出来ない。

 

だから、自分の感じる全てのことを大事にしつつ…、

 

同時に、自分の感じること全て、(自分の判断、自分の意見、自分の感性、自分の快不快、自分の価値観、自分の道徳観、自分の善悪感、自分の人生観)、

 

それら全てを、いっさい信用しないような感覚のほうが、私は心地良く感じます。

 

 

ほとんど説明不能なのですが、

 

自分自身をバカにして、自分自身を全否定しているような時こそ、実は、自分自身をとても大切にしているような感覚さえあります。

 

 

 

 

今まで生きてきた流れの中で、「自分はこういう人間」と、定まってしまっているようにも思えるが、(性格的にも、能力的にも、運命的にも、趣味も、感性も、価値観も、好き嫌いも)、

 

確かに、人生のほとんどは、人知や自力ではコントロールできないことばかりではあるし、

 

先天的な資質・体質・身体能力や、生まれ育った環境・境遇にも左右されてしまうのは事実だが、

 

しかしながら、今日の決意とか、今日の覚悟とか、あるいは根性や努力や意思によって、性格も能力も運命も創ることが出来るのではないか?今後、大いに変化する可能性も生まれてくるのではないか?

 

そういう気概や側面も、見逃したくはないのだ。

2017.06.10 Saturday

2017.6.10-1

前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

良く聞くのですが、いつも「本当だろうか?」と疑問を持ってしまう発言がある。

 

それは例えば、「(人と人は)一緒に酒を飲めば分かり合える」、「目を見て話せば分かりある」、「メールでは心が伝わるわけない」みたいな(?)、

 

要は、表現方法やコミュニケーションの種類・ジャンル・ツール自体で、その中身や質までも決め付けてしまうような発言。

 

 

そういうのは、「生楽器の演奏はあたたかい」、「テクノやシンセや電子音は冷たい」、「アドリブ演奏は自由で直感的なもの」、「楽譜を見て演奏するのは不自由で理屈っぽいこと」、「メトロノーム通りのリズムは機械的・非人間的・心が無い」、「ハグや握手やタメ口は心がオープン」、「お辞儀や丁寧語は心が閉鎖的で愛が無い」、「ポップスは自由」、「クラシックは真面目」、「ゲームやアイドルの曲は下らない」、「男(女)は皆こういうもの」、「子供(老人)は皆こういうもの」、「音楽家は皆こういうもの」、「成功者は皆こういう思考回路」、「CDやダウンロードには心が無い」、「ライブ演奏なら心が伝わる」、「文章や言葉では気持ちは伝わらない」、「○○人は皆こういうもの」、etc…、

 

というのと同じで、ほとんど差別か偏見か、あるいは短絡的な決め付けではないかと思われてしまう。

 

(上記の意見、どれも私の創作ではなくて、今までに、実際に誰かが言っていたこと。心の底から、上記のようなことを信じ込んでいるようでした。まったく思考停止というか、感性停止というか、差別的というか、上辺や先入観だけで判断しすぎというか…)

 

 

 

 

人それぞれ、どんな考え方やどんな価値観を持っていても自由だと思います。

 

そもそも私は、誰かが自信満々に話したりする様子は、全然嫌いじゃないですし。

 

(↑むしろ、好きですらある。愛しくも感じるし、頼もしくも感じるし、思わず応援したくなったりもします)

 

…でも、そうは言っても、自分の見方や意見や感性に「自信満々」になりすぎるあまり、あまりにも差別的・排他的・攻撃的になってしまうのは、あまり良くないのではないか?とも思うわけです。

 

 

 

 

私は個人的には、

 

作品や表現やコミュニケーションの種類・媒体・方法・ジャンル・メディア・ツール等によって、その中身や質が決定されてしまうわけではないと思っている。

 

例えば、メールやSNSで、誰かの優しさやユーモアにほっこりすることも多々あるし、

 

逆に、実際に対面して話したり、一緒に酒を飲んだりしても、いつも必ず心が通じると感じるわけでもないし。

 

生楽器や民族楽器にだって、冷たくて「無機的」「無感情」な表現は可能だし、

 

テクノやシンセや電子楽器にだって、ドラマティックな表現や、あたたかくてコミカルだったりする表現も可能だと思うし。

 

知識や理論に基づいたアドリブ演奏など、山ほど聞いたことがあるし、

 

逆に、楽譜に書かれていることが、理論では解明できない直感・インスピレーションに基づいたものも、山ほど見たことある。

 

70代・80代の作曲家の曲が激しい曲調なんて全く珍しくないし、

 

10代・20代が静かで瞑想的な曲を書くのも、全く珍しいことではない。

 

行動的で好奇心旺盛な老人も珍しくはないし、

 

消極的で好奇心の乏しい子供も全く珍しくはない。(どっちが良い悪いじゃなくて)

 

 

 

 

人間も、音楽作品も、コミュニケーションも、

 

ジャンル・表現メディア・楽器の種類・言葉遣い・表情・服・ルックス・職業・収入・人種・国籍・性別・年齢などは、

 

その人間の内面や、その作品の中身や、そのコミュニケーションの中身を、判断する材料にはなるだろう。

 

でも、それのみで、100パーセント(中身を)断定することは出来ないと思う。

 

 

 

 

…そもそも、他者のことも、音楽作品のことも、100パーセント誤解なく理解したり、100パーセント誤解なく鑑賞することは、私は不可能だと思っています、

 

私は私の狭い目線でしか見れないし、私の感性や解釈でしか受け取りようがないので。

 

 

とは言え私が言いたいのは、「どうせ人と人は分かり合えない」という主張ではないです、

 

そうではなく、「人と人は、100パーセント誤解なく分かり合うのは難しいからこそ、言葉・コミュニケーションを大切にしたいし、人の内面や性格をあまり分かったつもりになりすぎたくないし、相手の主張・気持ちを(完璧には分からないまでも)丁寧に想像したい」、

 

そういう主張です。

 

 

 

 

何百年か昔は、奴隷や人種差別も当たり前だったが、今現在は、多少は改善されてきているように、(まだまだ課題は多いだろうが)、

 

それと同じように、何百年か後には、表現方法やコミュニケーションのジャンル・媒体・ツール自体で、その中身や質を決め付けてしまうのも、「差別的なこと」「愚かしいこと」という認識が広まれば良いと、個人的には思っている。

 

 

 

 

そんなわけで、表現方法の種類やジャンルやツール自体は、信頼しすぎてもいけないし、見下しすぎてもいけないと思っている。

 

大事なのは、その都度その都度の「中身」だと思うので。

 

なので、「一緒に酒を飲まないと分かり合えない」とか、「メールやSNSでは心が通じない」とかいうのも、表現手段・コミュニケーション手段そのもので、その中身まで決め付けすぎに思われるのだ。(´・_・`)

 

 

 

 

ツール自体を全否定して良いのは、例えば武器とか兵器とか拷問用具とか(?)、明らかに人を殺す意図で作られたようなものだけではないか?

 

「ナイフ」や「爆弾」ですら、美味しい料理を作るためだったり、工事をスムーズに進行させるために役立つ、

 

まして音楽表現の方法や、コミュニケーションの方法・手段など、

 

その種類・方法・ジャンル・メディア・ツール自体を全否定して良いものなど、一つも無いと思うのだが。

 

 

全否定して良いツールも、全肯定して良いツールも、一つも無いと思っています。

 

(「このジャンル・このメディア・このツールは必ず素晴らしい」というものは無いし、「このジャンル・このメディア・このツールは必ずクズ」というのも無い)

 

大事なのは、その都度その都度の中身・内容・雰囲気・使い方・言い方・表現の仕方だと思う。

 

 

 

 

もちろんツール・ジャンルの違いにより、伝えやすい内容・雰囲気には、違いがあるとは思う、

 

だからと言って、発言(作品)の内容や雰囲気というものは、ツール・ジャンル・表現手段によって、100パーセント決定されてしまうわけではない。

 

その都度その都度、一つ一つの作品・一つ一つの表現・一つ一つの発言・一つ一つの振る舞いを、ちゃんと吟味するべきだと思う。

 

 

 

 

P.S.

 

武器や兵器や制服も、人間が作ったものである以上、美しさを感じさせることもあると思います。

 

射撃や格闘技のような世界も、スポーツや芸術と同じような精神集中が必要な場合もあるだろうと思います。

 

したがって、(私自身は興味ありませんが)、そういうものを好きな人が、必ず100パーセント暴力的な内面なわけはない、と思っています。

 

 

…ちなみに、それに似た感じで(?)、「音楽を好きな人に悪人はいない」とか「若い頃スポーツに取り組んだ人は礼儀正しくて人間性が良い」とか、たまに言われますが、

 

僕は、そんなことは無いと思う。

 

(あと、「芸術は情操教育に役立つ」とか「音楽を聞けば心が安らぐ・優しくなる」とかも、必ずしも言い切れないと思う)

 

例えばヒトラーとか、音楽が好きだったし、絵を描くのも上手でしたし。

 

 

 

ついでに言うと、誰かの演奏や作曲を聞いて、「この人は魂が綺麗」とか「この作者はこういう性格」とか、

 

まるでエスパーかスピリチュアルカウンセラーのようなことを言う人もいますが(笑)、

 

もちろん、そういうことを言って良いと思うのですが、(私も言うし)

 

でも、あまりにも、そういうことを信じすぎてしまうのは、僕は良くないと思っている。

 

でないと、

 

「演奏や作曲やスポーツが得意な人は、魂・精神性・人間性・生き方・考え方・創作姿勢・エネルギーが素晴らしい」

 

「演奏や作曲やスポーツがイマイチな人は、魂・精神性・人間性・生き方・考え方・創作姿勢・エネルギーが悪い」

 

そういう風潮にもなってしまう。(もう、結構なってるけど)

 

でも僕は、必ずしも、100パーセントそうは言い切れないと思っています。

 

作品や演奏(プレー)というものは、たしかに、その人の人格やセンスが現れますし、取り組む姿勢や努力も大事なことは言うまでもありませんが、

 

作者(演者)の内面や努力が、必ず100パーセント、作品や演奏(プレー)に直結するとは言い切れないと思います。

 

例えば、ものすごく意地悪で差別的でエゴイスティックな人の作品で、とても優しい感じがする作品とか、

 

その逆に、穏やかで温厚な人が、非常にドラマティックで激しい表現をするとか、

 

気性の激しい人が、まるで瞑想しているかのような、静かな表現をする瞬間もあるでしょうし、

 

あるいは、ポジティブに取り組んでいる人の演奏がイマイチだったり、その逆の例なども多々ありますし。

2017.05.31 Wednesday

2017.5.31-2

昨日の記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

「言葉はレベル低い」「言葉は陳腐」「このメディアはダメ」「このジャンルはダメ」「メールでは気持ちは伝わらない」などと言っているような人が、

 

自分自身が寡黙になるだけなら自由だし、饒舌な人を嫌うのも自由だし、特定のジャンル・メディア・メール・SNS等に手を出さないのも自由だと思います。

 

無理してまで、自分の美学や好みや価値観を変える必要はないと思う。

 

 

 

で、そういう自分の美学(価値観)に自信や愛着を持ち、それを他者に「推奨」するくらいなら素晴らしいと思うのですが…、

 

あまりにも自分の美学(価値観)だけを盲信・絶対視してしまうのは、少々狂信的すぎると思う。

 

自分の美学(価値観)に自信や愛着を持ちつつ、同時に、「これはあくまで自分個人の見方でしかない」と、わきまえようと努めることも大事なのではないかと思ってしまいます。

 

 

 

そう言うと、「もっと自信を持て」「そんなに人に気を使ってられない」「細かいこと言うな」と思われる方もいるかもしれませんが、でも、私は気を使っているわけではないのです。

 

例えば、暴力や殺人や人種差別をしてしまうことは、たいていの人は心地良くないと思います、

 

それは、「他人に気を使っている」からではないし、「細かいこと言っている」わけでもないはず。

 

他者の肉体を痛めつけたり、他者が生きる権利を剥奪してしまうような行為は、やはり、単純に不快なものだと思います。

 

 

私にとっては、価値観的なことも同じ。

 

あまりにも何か一つの見解・意見・感覚・価値観のみを盲信し、それ以外を否定するような態度は、差別や暴力やイジメとほとんど変わらない、という感覚です。

 

(とても、心地良くない。決して、人に気を使っているわけではなく。決して、自分に自信が無いわけではなく。決して、細くて気難しいこと言っているわけでもなく)

 

 

 

 

…とは言え私は、自分自身の感じていることを、常に疑ってもいます。

 

上記のように感じること自体、「気にしすぎではないか?」、「神経過敏すぎるのではないか?」、「偏見・負けん気・攻撃本能・防衛本能・利己主義・自己正当化なども、誰もが持つものだし、(もちろん私も持っているし)、ある程度は容認すべきではないか?」、

 

そのように、常に自分自身を疑っているくらいで丁度良いです。

 

 

 

要は、自分のこだわり・正義感が強すぎて、心が狭い感じになってしまっては、それもまた心地悪いのだ。

 

人間、誰もが無知で独善的で利己的な部分を持っているので、

 

そういう苦しさ・愚かさ・哀しさもまた、人類全体の宿命のように感じることもある。(妙な連帯感や同胞愛)

 

 

なので、お互い指摘し合ったり、問題視し合ったりすることも大事だと思うし、

 

同時に、あまり責めすぎない感じの柔和な雰囲気が、何より大事だとも思っている。

 

 

 

いずれにせよ、犬や猫にだって、性格や行動パターンに個体差がある。

 

(例えば、引っ込み思案な子もいれば、好奇心旺盛な子もいる。無口な子もいれば、よく鳴く子もいる。大人しくて無欲な感じの子もいれば、多動的で強欲な感じの子もいる)

 

人間だって動物。

 

たいていのことは「人それぞれ」のはずだ。

 

 

もちろん人間は、努力次第・意識次第で、性格や個性を変えようとすることも出来るし、そうすることも大事かもしれない。

 

「持って生まれた性質のまま」ではなく、自分の意識次第で変えようとしたり、性格や生き方を成長させようとすることも、とても大事だと思う。

 

 

でも、そうであったとしても、

 

どういう生き方をしたいと感じるか、どういう生き方を心地良いと感じるか、どういう生き方を自然体と感じるか、

 

何を楽しいと感じるか、何を幸せと感じるか、何に興味を感じるか、

 

何を頑張りたいと感じるか、何を頑張りたくないと感じるか、、、

 

 

決めるのは自分だし、人類、全員一致なんてしてなくて良いと思う。

 

誰もが同じパーソナリティーを目指さなくても良いし、誰もが同じアートを気に入らなくても良いし、誰もが同じ考え方・感じ方・振る舞い方を目指さなくて良いはず。

 

 

そんなわけで、「これが誰にとっても共通する幸福」、「これが誰にとっても共通する良識(常識)」、「これが誰にとっても共通する自然体」、「このジャンル・メディアは(誰がどう使っても)こういうもの・ダメなもの・陳腐なもの・心が伝わらないもの」、

 

そういう感じの考え方や言い方は、私は抵抗ありますし、大いに疑問視しています。。。

 

 

…で、さっき言ったように、そういう感じの考え方(言い方)を、責めすぎる気持ちはないのだが、

 

日々、何かに疑問・抵抗感を感じ、それを表明することは、私は、悪いことではないし攻撃的なことでもないと思っている。

 

(例えば、誰かや自分の言動が、「これは差別・偏見・いじめではないか?」と思ったら、素直に疑問や怒りを表明することが、むしろ必要ではないか?と思ってます)

 

 

一人一人の人間も、我々の社会や文化も、「今ここ」が全てではない、

 

誰でも、今後も変化・成長していく可能性のある存在だと確信しているからこそ、時には、現状に対して批判・疑問視・問題提起することも、私は必要だと思っているわけです。(※自分自身が批判されたりすることも、そんなに嫌ではない)

 

…もちろん、人間、無理して変わる必要はないと思いますし、変わらないことの魅力もあるとも思います。

 

加えて、もし何かを批判・疑問視・問題提起するにしても、その言い方(伝え方)には、最低限の礼儀は大切だと思っていますが。

2017.05.31 Wednesday

2017.5.31

前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

(我々の)発言や行動や音楽作品の、その「内容」「中身」「雰囲気」「言い方」「伝え方」「表現の仕方」について、

 

お互いに批判したり問題視したりすることは、私は大切だと思います。

 

どんな作品でも、どんな仕事でも、どんな表現でも、批判や意見を言い合ってクオリティーを高めることは、まったく悪いことではないと思う。

 

 

もちろん最終的には、どういう表現をしたいか、どういう言動をしたいか、どういう生き方をしたいかは、各々、自分で決めるしかありませんが、

 

だからと言って、「お互いに意見・感想を言ってはいけない」「他者のやることに口を出してはいけない」ということはないと思う。

 

(あまり作品クオリティーとか気にしすぎず、「楽しけりゃ良いじゃん」みたいなスタンスも、大いにアリだと思います。あるいは、「俺は俺の言いたいことを言い、やりたいことをやる。批判は受け付けない。意見は受け付けない」というスタンスも、賛同はできかねますが、アリだとは思います)

2017.05.30 Tuesday

2017.5.30

ところで、「言葉はレベル低い」「大切なのは言葉じゃない」というような意見を、割とよく聞きます。

 

(※誰かの発言・意見の、その内容を吟味する前から、「多言は陳腐」「文字や言葉では気持ちは伝わらない」「メールやSNSでは気持ちは伝わらない」というふうに、決め込んでしまうような価値観)

 

 

そういう意見も、もちろん個人の自由だから良いのだけど、いまいち釈然としない感じもする。

 

そのあたり、思うところを書いてみたいと思う。

 

 

 

 

もちろん「言葉」というツールは不完全なものである。

 

言葉では、人生や音楽の真髄を現すことは不可能に近いと思う。

 

 

しかしながら、我々人間の多くは、「他者と気持ちを分かち合いたい」「自分の気持ちを表現したい」というような欲求があり、

 

それを100パーセント正確に実現するツールは、今のところ、世の中に一つも存在しないと思いますが、

 

 

我々はそれを承知で、気持ちの「分かち合い」を目指して、

 

(あるいは、自分の想い・魂・気持ちの「表現」や「発信」を目指して)、

 

止むに止まれず、我々は言葉を発したり、音楽を発したり、何か行動や表情やアクションを起こすのだと思う。

 

そのこと自体を否定的に見てしまうのは、個人的には、あまり好きになれないです。

 

 

 

 

我々の言葉も、音楽も、表情も、行動も、礼儀作法も、ジョークも、全て不完全なもの。

 

思っていることを、誰かに完璧に誤解なく伝えるなんて、そう簡単には出来やしない。

 

誰かの心や性格を、完璧に誤解なく理解するなんてことも、そう簡単に出来やしない。

 

(自分の心・信念・感性・価値観・美的センスなどを、100パーセント完璧に(作品として)表現することも、そう簡単なことではない)

 

 

でも、発言することや表現することに、尻込みしすぎることもないと思う。(慎重になる必要はあるとしても、必要以上にブレーキをかけることはないと私は思う)

 

誰でも、自分なりに思い付いた発言・行動・表現をすれば良いと思う!

 

 

 

 

そもそも、我々の発言や行動や作品や価値観というものは、何が正解か、何が良いか悪いか、何が愛があるかないか、何が思いやりがあるか無いか、、、

 

そう簡単には決められない。

 

 

だから、何が良いとか悪いとか、何が思いやりが有るとか無いとか、完璧には分からないまま、

 

今現時点での自分の感性や信念や良心に従って発言・行動・表現するしかないと思う。

 

 

…やがて自分の内面や価値観も、経験によって変化するだろうし、(他者からの影響や批判やアドバイスで変化することもあるし)、

 

そうしたら、発言・行動・表現も、自然と変化するだろうと思う。

 

 

 

 

人というものは、一生涯、信念や性格や価値観が変わらないことは稀だと思うので、

 

毎日毎日、その都度その都度、あらためて行動や表現を選択するしかないと思います。

 

(自分の)信念・感性・性格・快不快・価値観・善悪観などを、あまり固定化・正当化・マニュアル化してしまわず。

 

 

だからこそ、我々はお互いに、発言や行動や作品の内容(中身)を、時には批判し合ったり、問題視し合ったりすることも、僕は大事だと思っています、

 

誰しも完璧な人間ではないし、誰しも自分本位の尺度・立場でしか物事を見れないので、

 

誤解してしまったり、ひどいことを言ってしまったりする可能性も、誰にでもあると思うので。

 

 

 

 

そんなわけで、音楽作品についても、お互いの言動についても、オープンに意見や批判を言い合ったりするのは、私は全然嫌いじゃない。

 

 

 

 

でも、発言や作品の内容(中身)を、よく吟味しないうちから、

 

「(言葉は)どうせレベル低い」、「(文字や文章では)どうせ心が伝わらない」、「そのジャンルはどうせダメ」、「そのメディアはどうせ心が伝わらない」、「SNSはどうせ心が伝わらない」、「音楽はこうでなければならん」、「アーチストはこうでなければならん」、「言葉(文字)で語る奴は本質を分かってない」、「言葉(文字)で語る奴は理論・理屈でしか考えてない」、「こういうタイプの発言は冷たいに決まってる」、「こういう意見こそ良識・常識に決まってる」、

 

というような感じの意見(批判)は、その発言やその作品の内容を、いっさい聞く耳を持たない態度に思えてしまう。

 

(内容を吟味しようとする前に、外側のジャンル・パッケージの印象で決めてしまっているだけ。表現スタイルの印象で決めてしまっているだけ)

 

 

 

 

例えば「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」みたいな意見も、たまに聞くことありますが、

 

そういう意見は、コミュニケーション方法や表現ツール・表現ジャンルという、「外側のパッケージ」で、その中身・内容まで決め付けすぎに思われてしまう。。。

 

もっと、個々の作品ごとに、個々の発言ごとに、その内容を判断しなければいけないと思うのだが?

 

なぜ一括りにして、そのジャンル(ツール)の発言・表現・コミュニケーションは、「全てがダメ」と思い込んでしまうのかが謎です。

 

 

批判や問題視をするなら、少なくとも、その発言について、その作品について、その文章や言い方について、(その表現内容について)、

 

よくよく内容を確かめた上でないと失礼だと思う。

 

 

…もちろん、例えば夜中に路上で大声で演説・演奏などしている場合、その「内容」や「クオリティー」以前に、行為そのものが迷惑なので、

 

そういう場合は、内容・中身を吟味する以前に、行為そのものを問題視して良いと思いますが。

 

 

 

 

我々はお互いに、発言・行動・作品・表現の、その中身や内容や言い方(伝え方)に対して、批判を言ったりしても良いと思うけど、

 

ちゃんと内容・中身・真意を確かめる前から、

 

表面的なジャンルや、表現手段や、表現ツールや、言葉数(文字数)や、しゃべり方や、ルックスや、年齢や、性別や、人種や、表現メディアの種類等で、過度に見下したり否定しすぎたりしてしまうのは、

 

イメージや先入観で、発言(表現)の内容までをも決めつけてしまっているだけだと思う。

2017.05.09 Tuesday

先日のライブ動画

こんにちは。

 

少し更新が途絶えましたが、生きております、生存しております、クリボー

 

さて先日5/6は、僕が所属するもう一つのバンド「ArqphoniA」のデビューライブでした。

 

ライブの様子がYoutubeにアップされましたので、もしよろしければWatch!

 

 

まだまだアラいところ・反省点も多いですが。

 

ちなみに8:28からのシンセソロとか、クラシック出身の自分には慣れない弾き方なので、少々緊張しました、

 

その直前、わたしスーハーと深呼吸しているのがバレバレな動画です(笑)

 

 

今後、近い将来、発表したい自作品は「シンフォニックメタル」!

 

なので、そのための勉強のつもりでも参加させて頂いています。

 

机での勉強も大切でしょうが、やはり実践あるのみ、でしょう。

 

…もちろん、そういう勉強や経験値のためばかりでもなく、

 

純粋に単純に、このメムバーの中で演奏するのが楽しいとか、リーダーの作詞作曲のこだわりに共感する部分が多いとか、

 

そういう打算抜きの楽しさも感じています。

 

もしよろしければ、今後チェックして頂ければ嬉しいです!

 

 

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