2017.07.31 Monday

無題731-1

「どう生きるのが、その人にとって自然体なのか、心地良いのかは、人によって違うのではないか?」

 

と、僕は思ってしまうわけです。

 

なので、「全ての人間にとって、こう生きるのが自然体!」「自然体とは、こういうこと!」「自然とは、こういうもの!」

 

そういう前提で話されると、息苦しい気がしてしまいます。

 

(「もっと自然体になりましょう」「もっと自然な考え方をしましょう」みたいな言い方ね)

 

 

 

 

誰かが、自分自身にとっての「自然体」を語るなら、むしろ興味深く話を聞かせて頂きたいです、

 

しかし、それを他人や人類全体にまで当てはめすぎるような言い方だと、息苦しいと私は感じてしまう…。

 

私が上記のように感じること自体、批判されることもありますし、心が狭いとか気難しいとか、判断されてしまうこともありますが。

 

 

 

 

誰しも、自分目線で生きて良いと思うし、他者に気を使いすぎる必要もないと思いますが、

 

自分の感性・意見・価値観を、まるで「人間全体に共通する一般論」のように、勘違いしすぎないほうが良いと思うのだが。。。

 

 

それは「自分に自信が無い」ということではなく、

 

他者に気を使いすぎているわけでもなく。

 

むしろ、本当の自信というものは、過剰に自画自賛したり、自分の意見だけを正義・正論・良識・常識だと思い込みすぎたりしないのではないか?

 

という気もしています。

 

 

 

 

ここ数日、作詞の参考にと(笑)、「自然」や「自然体」や「ありのまま」に関する格言集を読んでいたのですが、

 

例えば、生き方的な格言であれば、

 

「あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい」(ガンジー)という格言とか、

 

僕は、とても素晴らしいと思います。

 

あまり、「これが自分の自然体」「これが人間の自然体」「これが自分のありのまま」「自分はこういう奴」みたいな感じで、

 

固定的に(自分の性格を)断定しすぎてしまうのではなく、

 

今後の人生の「自由度」というか。

 

願うことを実現しようとする心意気が、私は好きなのかもしれません。

 

…もちろん、変わらないことの良さや、無理に頑張りすぎないことの心地良さなども承知した上で、ですが!

 

 

 

 

その他、「自然」についての格言も、様々なものがありましたが、

 

「自然が作ったものこそ美しい」、「自然は、それを愛する者を裏切ることは決してない」、「自然は決して誤らない」、「自然=完璧」、「自然=愛」、「自然=善良」、「自然=平等」、

 

というような感じの格言よりも、

 

「自然は我々全てに同じ能力を与えなかった」(イソップ)

 

みたいな格言のほうが、僕は心地良く感じるし、その通りだと感じるのです。

2017.06.10 Saturday

2017.6.10-2

(今日、二つ目の記事です。先ほどの記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

どんな表現手段であれ、どんな表現ジャンルであれ、どんな言動であれ、どんな音楽作品であれ、

 

その表現者の心情や真意を、いつも100パーセント正確に表現できているわけではないはずだ、と思う。

 

我々人間は、不完全な存在だし。

 

言葉も音楽も行動も、不完全なツールだし。

 

(しかも、受け取る側も、誤解・偏見・思い込み・先入観などを一切捨てて、完璧に誤解なく受け取るなんてことは、人間には不可能だと思われる。それで良いと思うし、それで当然だと思われる)

 

 

 

 

だから、誰かの発言・作品・表情・演奏などを見て、

 

で、その人の内面や性格や真意を分かったつもりになりすぎて、

 

あまりにも(その人を)敵視しすぎたり、あまりにも神聖視しすぎたりしないほうが良いと思っています。

 

アートの表現であっても、何気ない日常の会話であっても。

 

 

 

 

どんな意見であれ、どんな言動であれ、どんな表現であれ、どんな表情であれ、どんな演奏であれ、

 

発言者(表現者)の意図・真意を完璧には現せていない可能性も高い。

 

なので、私は、あまりにも誰かを敵視してしまうのは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

他者の気持ち・真意は、一生懸命想像したいとは思いますが、あまりにも分かったつもりになってしまうことは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

(「神聖視」はともかくとして、短絡的に「敵視」してしまうのは、特に良くないと思う。…「神聖視」の場合も、ナチスやカルト宗教みたいなのは良くないと思いますが、好きなアイドルやアーチストの「信者」みたいなファン心理なら、まあ可愛いものだし、私も経験あるので、そういう気持ちはよく分かります)

 

 

 

 

さて、我々は、あらゆる表現メディア・あらゆる表現ジャンル・あらゆる表現ツールを、全て好きになる必要は無いと思われる。

 

人それぞれ、自分の好みの表現手段・コミュニケーション手段を使えば良いと思う。

 

わざわざ苦手な表現手段・コミュニケーション手段を使わなくても良いと思うし、

 

わざわざ苦手な音楽ジャンルを、無理してまで聞くことはないと(私は)思う、

 

 

しかしながら、「このツールでは心が伝わらないに決まってる」、「このコミュニケーション手段では気持ちが伝わらないに決まってる」、「このジャンルやこのツールはあたたかいが、あのジャンルやあのツールは冷たいに決まっている」、「このジャンルやこのツールは心がこもっているに決まってる」、「このジャンルはダメに決まってる」、「打ち込みやメトロノーム通りやテクノ音楽は機械的に決まってる」、「生楽器や民族楽器の演奏は人間的に決まってる」、etc…、

 

という感じの先入観が強すぎると、自分好みの表現手段やツール以外のものを、一切聞く耳を持たない態度にもなってしまい、ちと厄介である。

 

(※しかも、例えば…、生楽器の演奏で、冷たくて無機的(機械的)な雰囲気を目指すことなども多々あるので、上記のような先入観・思い込みが強すぎると、表現者(発言者)の意図や真意を誤解する可能性も高くなってしまう)

 

 

 

 

特定のツール・メディア・表現方法の問題点を、ちゃんと具体的に指摘している場合は良い。(問題点だけでなく、改善点も同時に提案していれば、なお良い)

 

しかし、あまりにも妄信的に、特定のツール・特定のジャンル・特定の表現手段・特定のメディアを、全否定しているような人や、全肯定しているような人は、思考回路的に、カルト宗教や人種差別者などと変わらないのではないか?

 

個々の中身・内容・人間性・音楽性を吟味しようとせず、外側のカテゴリーで中身を分かったつもりになってしまう、という。

 

(例:「人と人は一緒に酒を飲まないと分かり合えない」「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」「若者(老人)は皆こういうもの」「○○人は皆こういうもの」「このジャンルはこういう音楽性」「この楽器はこういう雰囲気」…、

そういう感じの見解も、同じこと。ジャンルやカテゴリーや表現メディアの種類によって、一括りにして、その中身・内容まで決めつけすぎだと思う。もっと個々の発言ごとに、個々の作品ごとに、個々の表現ごとに、その都度その都度、その内容や言い方や雰囲気を吟味しなければいけないと思う)

 

 

 

 

…などと書いている私自身、そういう発言をする人の真意を分かったつもりになりすぎて、それこそ「敵視」しすぎているかもしれないので、

 

私自身も、常に気をつけていたいことではあるが。

 

 

自分が感じたこと・考えたこと・判断したこと等は、全て、自信や愛着を持って良いと思うが、

 

同時に、あまりにも真実・正解だと信じ込みすぎないほうが良いのではないかと、私は思っています。

 

(「自分に自信が無い」「自分に自信を持たない」ということではない)

 

 

…というか、物事や出来事に「真実」「正解」というものが存在するとはイマイチ感じられず、

 

この世には、単に、無数の「主観」や「解釈」や「偏見」や「思い込み」が存在するだけだと思っている。

 

 

 

 

ちなみに私は、お互い自由に意見や批判を言い合える人間関係は好きだし、

 

音楽やアートでも、誰でも、自由な意見・感想・批評・レビューを言えるような空気が好きだ。

 

でも、生き方や感じ方を決めるのは、最終的には、その人本人だと思っている。

 

 

どんなに親しい間柄でも、価値観的なところや、生き方的なところや、音楽の好き嫌いなどは、

 

最終的には、「その人本人に任せる」という雰囲気が大事なのではないだろうか?

 

どんなに親しい間柄でも、結局は「別の人間」なのだから。

 

 

どういう音楽が好きか嫌いか、何を幸せと感じるか、何を楽しいと感じるか、何を自然体と感じるか、何を心地良いと感じるか、どう生きたいか、どう生きたくないか、何を頑張りたいか、何を頑張りたくないか、何に興味を持つか、何に興味を持たないか、、、

 

それらは全て、人によって異なることだ。

 

 

 

 

だからと言って、あまりにも「人に意見してはいけない」「人に配慮しなければいけない」「自分の好み・考えを言ってはいけない」という風潮では、息苦しいし寂しい。

 

お互いに、自由に意見や助言を言い合っても良いと思うし、批判や批評も自由に言って良いと思うのだけど、(私も言うし)、

 

しかし、その意見・助言・批評に同意しなかったとしても、そのことで誰かを責めたり、強引に同意させようとするのは、良くないのではないか?

 

 

 

 

誰かのことを責めても良いのは、明らかに他者の危害・迷惑になるような言動や、明らかな虚言や、明らかに他者を見下すような態度だけだと思う。

 

(あるいは、例えばワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想・意見を言っているような人も、明らかに間違いであり勘違いなので、指摘したり否定したりしても良いと思う。※事実に基づいていない意見・感想・勘違い・思い込み等)

 

 

 

 

さて、数回にわたって書いたシリーズも今回で最後です。

 

当初のテーマからは、かなり話もそれましたし、長くもなりましたが。

 

 

強引にまとめると、今のところの私の意見としては、

 

■「オープンな意見交換は好きだし、お互いオープンに意見・批評・批判し合うのも嫌いじゃないけど、最終的には、各々の生き方・感じ方を決めるのは、その人本人」

 

■「自分の好き嫌い・感じ方・価値観に、いくらでも自信を持っても良いけど、それを他者にまで当てはめすぎることは良くないのではないか。自分の好き嫌い・感じ方・価値観・道徳観念を、絶対的な正義(正論)だと思い過ぎないほうが良いのではないか」

 

■「感じ方・価値観は自由。ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在する。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想。(あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想)」

 

■「外見・表情・ファッション・話し方・話す内容・行動・仕事ぶり・演奏・作曲などには、その人の内面や人間性が、確かに現れるとは思う。とは言え、どんな表現ツールも表現メディアも、不完全なものである。(そして誰しも、他者の内面(人間性)を100パーセント完璧に分かることも不可能だと思う)。というわけで、他者の内面・性格・境遇・事情・心情・人間性などを、あまりにも完璧に分かったつもりになりすぎてしまうのは、人間の能力と権限を超えているのではないか?」

 

そんなところです。

 

 

 

 

そしてさらに言えば、

 

言葉や音楽や価値観について、考えたり、追求したり、学んだり、(自分を)反省したりすることは、私にとっては、とても大切なことだけど、

 

実は、そこは「入口」にしか過ぎなくて、

 

そういう表面的な言葉・音楽・価値観の領域を超越してしまうような感覚に、日々、アートを鑑賞したり、創作したり、人と触れ合ったりすると、出逢うこともあります。

 

 

 

 

(自分の)感性・価値観・好き嫌いは大事だと思うのですが、それらを盲信しすぎていると、その側面・尺度・角度でしか感じることが出来ない。

 

だから、自分の感じる全てのことを大事にしつつ…、

 

同時に、自分の感じること全て、(自分の判断、自分の意見、自分の感性、自分の快不快、自分の価値観、自分の道徳観、自分の善悪感、自分の人生観)、

 

それら全てを、いっさい信用しないような感覚のほうが、私は心地良く感じます。

 

 

ほとんど説明不能なのですが、

 

自分自身をバカにして、自分自身を全否定しているような時こそ、実は、自分自身をとても大切にしているような感覚さえあります。

 

 

 

 

今まで生きてきた流れの中で、「自分はこういう人間」と、定まってしまっているようにも思えるが、(性格的にも、能力的にも、運命的にも、趣味も、感性も、価値観も、好き嫌いも)、

 

確かに、人生のほとんどは、人知や自力ではコントロールできないことばかりではあるし、

 

先天的な資質・体質・身体能力や、生まれ育った環境・境遇にも左右されてしまうのは事実だが、

 

しかしながら、今日の決意とか、今日の覚悟とか、あるいは根性や努力や意思によって、性格も能力も運命も創ることが出来るのではないか?今後、大いに変化する可能性も生まれてくるのではないか?

 

そういう気概や側面も、見逃したくはないのだ。

2017.06.10 Saturday

2017.6.10-1

前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

良く聞くのですが、いつも「本当だろうか?」と疑問を持ってしまう発言がある。

 

それは例えば、「(人と人は)一緒に酒を飲めば分かり合える」、「目を見て話せば分かりある」、「メールでは心が伝わるわけない」みたいな(?)、

 

要は、表現方法やコミュニケーションの種類・ジャンル・ツール自体で、その中身や質までも決め付けてしまうような発言。

 

 

そういうのは、「生楽器の演奏はあたたかい」、「テクノやシンセや電子音は冷たい」、「アドリブ演奏は自由で直感的なもの」、「楽譜を見て演奏するのは不自由で理屈っぽいこと」、「メトロノーム通りのリズムは機械的・非人間的・心が無い」、「ハグや握手やタメ口は心がオープン」、「お辞儀や丁寧語は心が閉鎖的で愛が無い」、「ポップスは自由」、「クラシックは真面目」、「ゲームやアイドルの曲は下らない」、「男(女)は皆こういうもの」、「子供(老人)は皆こういうもの」、「音楽家は皆こういうもの」、「成功者は皆こういう思考回路」、「CDやダウンロードには心が無い」、「ライブ演奏なら心が伝わる」、「文章や言葉では気持ちは伝わらない」、「○○人は皆こういうもの」、etc…、

 

というのと同じで、ほとんど差別か偏見か、あるいは短絡的な決め付けではないかと思われてしまう。

 

(上記の意見、どれも私の創作ではなくて、今までに、実際に誰かが言っていたこと。心の底から、上記のようなことを信じ込んでいるようでした。まったく思考停止というか、感性停止というか、差別的というか、上辺や先入観だけで判断しすぎというか…)

 

 

 

 

人それぞれ、どんな考え方やどんな価値観を持っていても自由だと思います。

 

そもそも私は、誰かが自信満々に話したりする様子は、全然嫌いじゃないですし。

 

(↑むしろ、好きですらある。愛しくも感じるし、頼もしくも感じるし、思わず応援したくなったりもします)

 

…でも、そうは言っても、自分の見方や意見や感性に「自信満々」になりすぎるあまり、あまりにも差別的・排他的・攻撃的になってしまうのは、あまり良くないのではないか?とも思うわけです。

 

 

 

 

私は個人的には、

 

作品や表現やコミュニケーションの種類・媒体・方法・ジャンル・メディア・ツール等によって、その中身や質が決定されてしまうわけではないと思っている。

 

例えば、メールやSNSで、誰かの優しさやユーモアにほっこりすることも多々あるし、

 

逆に、実際に対面して話したり、一緒に酒を飲んだりしても、いつも必ず心が通じると感じるわけでもないし。

 

生楽器や民族楽器にだって、冷たくて「無機的」「無感情」な表現は可能だし、

 

テクノやシンセや電子楽器にだって、ドラマティックな表現や、あたたかくてコミカルだったりする表現も可能だと思うし。

 

知識や理論に基づいたアドリブ演奏など、山ほど聞いたことがあるし、

 

逆に、楽譜に書かれていることが、理論では解明できない直感・インスピレーションに基づいたものも、山ほど見たことある。

 

70代・80代の作曲家の曲が激しい曲調なんて全く珍しくないし、

 

10代・20代が静かで瞑想的な曲を書くのも、全く珍しいことではない。

 

行動的で好奇心旺盛な老人も珍しくはないし、

 

消極的で好奇心の乏しい子供も全く珍しくはない。(どっちが良い悪いじゃなくて)

 

 

 

 

人間も、音楽作品も、コミュニケーションも、

 

ジャンル・表現メディア・楽器の種類・言葉遣い・表情・服・ルックス・職業・収入・人種・国籍・性別・年齢などは、

 

その人間の内面や、その作品の中身や、そのコミュニケーションの中身を、判断する材料にはなるだろう。

 

でも、それのみで、100パーセント(中身を)断定することは出来ないと思う。

 

 

 

 

…そもそも、他者のことも、音楽作品のことも、100パーセント誤解なく理解したり、100パーセント誤解なく鑑賞することは、私は不可能だと思っています、

 

私は私の狭い目線でしか見れないし、私の感性や解釈でしか受け取りようがないので。

 

 

とは言え私が言いたいのは、「どうせ人と人は分かり合えない」という主張ではないです、

 

そうではなく、「人と人は、100パーセント誤解なく分かり合うのは難しいからこそ、言葉・コミュニケーションを大切にしたいし、人の内面や性格をあまり分かったつもりになりすぎたくないし、相手の主張・気持ちを(完璧には分からないまでも)丁寧に想像したい」、

 

そういう主張です。

 

 

 

 

何百年か昔は、奴隷や人種差別も当たり前だったが、今現在は、多少は改善されてきているように、(まだまだ課題は多いだろうが)、

 

それと同じように、何百年か後には、表現方法やコミュニケーションのジャンル・媒体・ツール自体で、その中身や質を決め付けてしまうのも、「差別的なこと」「愚かしいこと」という認識が広まれば良いと、個人的には思っている。

 

 

 

 

そんなわけで、表現方法の種類やジャンルやツール自体は、信頼しすぎてもいけないし、見下しすぎてもいけないと思っている。

 

大事なのは、その都度その都度の「中身」だと思うので。

 

なので、「一緒に酒を飲まないと分かり合えない」とか、「メールやSNSでは心が通じない」とかいうのも、表現手段・コミュニケーション手段そのもので、その中身まで決め付けすぎに思われるのだ。(´・_・`)

 

 

 

 

ツール自体を全否定して良いのは、例えば武器とか兵器とか拷問用具とか(?)、明らかに人を殺す意図で作られたようなものだけではないか?

 

「ナイフ」や「爆弾」ですら、美味しい料理を作るためだったり、工事をスムーズに進行させるために役立つ、

 

まして音楽表現の方法や、コミュニケーションの方法・手段など、

 

その種類・方法・ジャンル・メディア・ツール自体を全否定して良いものなど、一つも無いと思うのだが。

 

 

全否定して良いツールも、全肯定して良いツールも、一つも無いと思っています。

 

(「このジャンル・このメディア・このツールは必ず素晴らしい」というものは無いし、「このジャンル・このメディア・このツールは必ずクズ」というのも無い)

 

大事なのは、その都度その都度の中身・内容・雰囲気・使い方・言い方・表現の仕方だと思う。

 

 

 

 

もちろんツール・ジャンルの違いにより、伝えやすい内容・雰囲気には、違いがあるとは思う、

 

だからと言って、発言(作品)の内容や雰囲気というものは、ツール・ジャンル・表現手段によって、100パーセント決定されてしまうわけではない。

 

その都度その都度、一つ一つの作品・一つ一つの表現・一つ一つの発言・一つ一つの振る舞いを、ちゃんと吟味するべきだと思う。

 

 

 

 

P.S.

 

武器や兵器や制服も、人間が作ったものである以上、美しさを感じさせることもあると思います。

 

射撃や格闘技のような世界も、スポーツや芸術と同じような精神集中が必要な場合もあるだろうと思います。

 

したがって、(私自身は興味ありませんが)、そういうものを好きな人が、必ず100パーセント暴力的な内面なわけはない、と思っています。

 

 

…ちなみに、それに似た感じで(?)、「音楽を好きな人に悪人はいない」とか「若い頃スポーツに取り組んだ人は礼儀正しくて人間性が良い」とか、たまに言われますが、

 

僕は、そんなことは無いと思う。

 

(あと、「芸術は情操教育に役立つ」とか「音楽を聞けば心が安らぐ・優しくなる」とかも、必ずしも言い切れないと思う)

 

例えばヒトラーとか、音楽が好きだったし、絵を描くのも上手でしたし。

 

 

 

ついでに言うと、誰かの演奏や作曲を聞いて、「この人は魂が綺麗」とか「この作者はこういう性格」とか、

 

まるでエスパーかスピリチュアルカウンセラーのようなことを言う人もいますが(笑)、

 

もちろん、そういうことを言って良いと思うのですが、(私も言うし)

 

でも、あまりにも、そういうことを信じすぎてしまうのは、僕は良くないと思っている。

 

でないと、

 

「演奏や作曲やスポーツが得意な人は、魂・精神性・人間性・生き方・考え方・創作姿勢・エネルギーが素晴らしい」

 

「演奏や作曲やスポーツがイマイチな人は、魂・精神性・人間性・生き方・考え方・創作姿勢・エネルギーが悪い」

 

そういう風潮にもなってしまう。(もう、結構なってるけど)

 

でも僕は、必ずしも、100パーセントそうは言い切れないと思っています。

 

作品や演奏(プレー)というものは、たしかに、その人の人格やセンスが現れますし、取り組む姿勢や努力も大事なことは言うまでもありませんが、

 

作者(演者)の内面や努力が、必ず100パーセント、作品や演奏(プレー)に直結するとは言い切れないと思います。

 

例えば、ものすごく意地悪で差別的でエゴイスティックな人の作品で、とても優しい感じがする作品とか、

 

その逆に、穏やかで温厚な人が、非常にドラマティックで激しい表現をするとか、

 

気性の激しい人が、まるで瞑想しているかのような、静かな表現をする瞬間もあるでしょうし、

 

あるいは、ポジティブに取り組んでいる人の演奏がイマイチだったり、その逆の例なども多々ありますし。

2017.05.31 Wednesday

2017.5.31-2

昨日の記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

「言葉はレベル低い」「言葉は陳腐」「このメディアはダメ」「このジャンルはダメ」「メールでは気持ちは伝わらない」などと言っているような人が、

 

自分自身が寡黙になるだけなら自由だし、饒舌な人を嫌うのも自由だし、特定のジャンル・メディア・メール・SNS等に手を出さないのも自由だと思います。

 

無理してまで、自分の美学や好みや価値観を変える必要はないと思う。

 

 

 

で、そういう自分の美学(価値観)に自信や愛着を持ち、それを他者に「推奨」するくらいなら素晴らしいと思うのですが…、

 

あまりにも自分の美学(価値観)だけを盲信・絶対視してしまうのは、少々狂信的すぎると思う。

 

自分の美学(価値観)に自信や愛着を持ちつつ、同時に、「これはあくまで自分個人の見方でしかない」と、わきまえようと努めることも大事なのではないかと思ってしまいます。

 

 

 

そう言うと、「もっと自信を持て」「そんなに人に気を使ってられない」「細かいこと言うな」と思われる方もいるかもしれませんが、でも、私は気を使っているわけではないのです。

 

例えば、暴力や殺人や人種差別をしてしまうことは、たいていの人は心地良くないと思います、

 

それは、「他人に気を使っている」からではないし、「細かいこと言っている」わけでもないはず。

 

他者の肉体を痛めつけたり、他者が生きる権利を剥奪してしまうような行為は、やはり、単純に不快なものだと思います。

 

 

私にとっては、価値観的なことも同じ。

 

あまりにも何か一つの見解・意見・感覚・価値観のみを盲信し、それ以外を否定するような態度は、差別や暴力やイジメとほとんど変わらない、という感覚です。

 

(とても、心地良くない。決して、人に気を使っているわけではなく。決して、自分に自信が無いわけではなく。決して、細くて気難しいこと言っているわけでもなく)

 

 

 

 

…とは言え私は、自分自身の感じていることを、常に疑ってもいます。

 

上記のように感じること自体、「気にしすぎではないか?」、「神経過敏すぎるのではないか?」、「偏見・負けん気・攻撃本能・防衛本能・利己主義・自己正当化なども、誰もが持つものだし、(もちろん私も持っているし)、ある程度は容認すべきではないか?」、

 

そのように、常に自分自身を疑っているくらいで丁度良いです。

 

 

 

要は、自分のこだわり・正義感が強すぎて、心が狭い感じになってしまっては、それもまた心地悪いのだ。

 

人間、誰もが無知で独善的で利己的な部分を持っているので、

 

そういう苦しさ・愚かさ・哀しさもまた、人類全体の宿命のように感じることもある。(妙な連帯感や同胞愛)

 

 

なので、お互い指摘し合ったり、問題視し合ったりすることも大事だと思うし、

 

同時に、あまり責めすぎない感じの柔和な雰囲気が、何より大事だとも思っている。

 

 

 

いずれにせよ、犬や猫にだって、性格や行動パターンに個体差がある。

 

(例えば、引っ込み思案な子もいれば、好奇心旺盛な子もいる。無口な子もいれば、よく鳴く子もいる。大人しくて無欲な感じの子もいれば、多動的で強欲な感じの子もいる)

 

人間だって動物。

 

たいていのことは「人それぞれ」のはずだ。

 

 

もちろん人間は、努力次第・意識次第で、性格や個性を変えようとすることも出来るし、そうすることも大事かもしれない。

 

「持って生まれた性質のまま」ではなく、自分の意識次第で変えようとしたり、性格や生き方を成長させようとすることも、とても大事だと思う。

 

 

でも、そうであったとしても、

 

どういう生き方をしたいと感じるか、どういう生き方を心地良いと感じるか、どういう生き方を自然体と感じるか、

 

何を楽しいと感じるか、何を幸せと感じるか、何に興味を感じるか、

 

何を頑張りたいと感じるか、何を頑張りたくないと感じるか、、、

 

 

決めるのは自分だし、人類、全員一致なんてしてなくて良いと思う。

 

誰もが同じパーソナリティーを目指さなくても良いし、誰もが同じアートを気に入らなくても良いし、誰もが同じ考え方・感じ方・振る舞い方を目指さなくて良いはず。

 

 

そんなわけで、「これが誰にとっても共通する幸福」、「これが誰にとっても共通する良識(常識)」、「これが誰にとっても共通する自然体」、「このジャンル・メディアは(誰がどう使っても)こういうもの・ダメなもの・陳腐なもの・心が伝わらないもの」、

 

そういう感じの考え方や言い方は、私は抵抗ありますし、大いに疑問視しています。。。

 

 

…で、さっき言ったように、そういう感じの考え方(言い方)を、責めすぎる気持ちはないのだが、

 

日々、何かに疑問・抵抗感を感じ、それを表明することは、私は、悪いことではないし攻撃的なことでもないと思っている。

 

(例えば、誰かや自分の言動が、「これは差別・偏見・いじめではないか?」と思ったら、素直に疑問や怒りを表明することが、むしろ必要ではないか?と思ってます)

 

 

一人一人の人間も、我々の社会や文化も、「今ここ」が全てではない、

 

誰でも、今後も変化・成長していく可能性のある存在だと確信しているからこそ、時には、現状に対して批判・疑問視・問題提起することも、私は必要だと思っているわけです。(※自分自身が批判されたりすることも、そんなに嫌ではない)

 

…もちろん、人間、無理して変わる必要はないと思いますし、変わらないことの魅力もあるとも思います。

 

加えて、もし何かを批判・疑問視・問題提起するにしても、その言い方(伝え方)には、最低限の礼儀は大切だと思っていますが。

2017.05.31 Wednesday

2017.5.31

前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

(我々の)発言や行動や音楽作品の、その「内容」「中身」「雰囲気」「言い方」「伝え方」「表現の仕方」について、

 

お互いに批判したり問題視したりすることは、私は大切だと思います。

 

どんな作品でも、どんな仕事でも、どんな表現でも、批判や意見を言い合ってクオリティーを高めることは、まったく悪いことではないと思う。

 

 

もちろん最終的には、どういう表現をしたいか、どういう言動をしたいか、どういう生き方をしたいかは、各々、自分で決めるしかありませんが、

 

だからと言って、「お互いに意見・感想を言ってはいけない」「他者のやることに口を出してはいけない」ということはないと思う。

 

(あまり作品クオリティーとか気にしすぎず、「楽しけりゃ良いじゃん」みたいなスタンスも、大いにアリだと思います。あるいは、「俺は俺の言いたいことを言い、やりたいことをやる。批判は受け付けない。意見は受け付けない」というスタンスも、賛同はできかねますが、アリだとは思います)

2017.05.30 Tuesday

2017.5.30

ところで、「言葉はレベル低い」「大切なのは言葉じゃない」というような意見を、割とよく聞きます。

 

(※誰かの発言・意見の、その内容を吟味する前から、「多言は陳腐」「文字や言葉では気持ちは伝わらない」「メールやSNSでは気持ちは伝わらない」というふうに、決め込んでしまうような価値観)

 

 

そういう意見も、もちろん個人の自由だから良いのだけど、いまいち釈然としない感じもする。

 

そのあたり、思うところを書いてみたいと思う。

 

 

 

 

もちろん「言葉」というツールは不完全なものである。

 

言葉では、人生や音楽の真髄を現すことは不可能に近いと思う。

 

 

しかしながら、我々人間の多くは、「他者と気持ちを分かち合いたい」「自分の気持ちを表現したい」というような欲求があり、

 

それを100パーセント正確に実現するツールは、今のところ、世の中に一つも存在しないと思いますが、

 

 

我々はそれを承知で、気持ちの「分かち合い」を目指して、

 

(あるいは、自分の想い・魂・気持ちの「表現」や「発信」を目指して)、

 

止むに止まれず、我々は言葉を発したり、音楽を発したり、何か行動や表情やアクションを起こすのだと思う。

 

そのこと自体を否定的に見てしまうのは、個人的には、あまり好きになれないです。

 

 

 

 

我々の言葉も、音楽も、表情も、行動も、礼儀作法も、ジョークも、全て不完全なもの。

 

思っていることを、誰かに完璧に誤解なく伝えるなんて、そう簡単には出来やしない。

 

誰かの心や性格を、完璧に誤解なく理解するなんてことも、そう簡単に出来やしない。

 

(自分の心・信念・感性・価値観・美的センスなどを、100パーセント完璧に(作品として)表現することも、そう簡単なことではない)

 

 

でも、発言することや表現することに、尻込みしすぎることもないと思う。(慎重になる必要はあるとしても、必要以上にブレーキをかけることはないと私は思う)

 

誰でも、自分なりに思い付いた発言・行動・表現をすれば良いと思う!

 

 

 

 

そもそも、我々の発言や行動や作品や価値観というものは、何が正解か、何が良いか悪いか、何が愛があるかないか、何が思いやりがあるか無いか、、、

 

そう簡単には決められない。

 

 

だから、何が良いとか悪いとか、何が思いやりが有るとか無いとか、完璧には分からないまま、

 

今現時点での自分の感性や信念や良心に従って発言・行動・表現するしかないと思う。

 

 

…やがて自分の内面や価値観も、経験によって変化するだろうし、(他者からの影響や批判やアドバイスで変化することもあるし)、

 

そうしたら、発言・行動・表現も、自然と変化するだろうと思う。

 

 

 

 

人というものは、一生涯、信念や性格や価値観が変わらないことは稀だと思うので、

 

毎日毎日、その都度その都度、あらためて行動や表現を選択するしかないと思います。

 

(自分の)信念・感性・性格・快不快・価値観・善悪観などを、あまり固定化・正当化・マニュアル化してしまわず。

 

 

だからこそ、我々はお互いに、発言や行動や作品の内容(中身)を、時には批判し合ったり、問題視し合ったりすることも、僕は大事だと思っています、

 

誰しも完璧な人間ではないし、誰しも自分本位の尺度・立場でしか物事を見れないので、

 

誤解してしまったり、ひどいことを言ってしまったりする可能性も、誰にでもあると思うので。

 

 

 

 

そんなわけで、音楽作品についても、お互いの言動についても、オープンに意見や批判を言い合ったりするのは、私は全然嫌いじゃない。

 

 

 

 

でも、発言や作品の内容(中身)を、よく吟味しないうちから、

 

「(言葉は)どうせレベル低い」、「(文字や文章では)どうせ心が伝わらない」、「そのジャンルはどうせダメ」、「そのメディアはどうせ心が伝わらない」、「SNSはどうせ心が伝わらない」、「音楽はこうでなければならん」、「アーチストはこうでなければならん」、「言葉(文字)で語る奴は本質を分かってない」、「言葉(文字)で語る奴は理論・理屈でしか考えてない」、「こういうタイプの発言は冷たいに決まってる」、「こういう意見こそ良識・常識に決まってる」、

 

というような感じの意見(批判)は、その発言やその作品の内容を、いっさい聞く耳を持たない態度に思えてしまう。

 

(内容を吟味しようとする前に、外側のジャンル・パッケージの印象で決めてしまっているだけ。表現スタイルの印象で決めてしまっているだけ)

 

 

 

 

例えば「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」みたいな意見も、たまに聞くことありますが、

 

そういう意見は、コミュニケーション方法や表現ツール・表現ジャンルという、「外側のパッケージ」で、その中身・内容まで決め付けすぎに思われてしまう。。。

 

もっと、個々の作品ごとに、個々の発言ごとに、その内容を判断しなければいけないと思うのだが?

 

なぜ一括りにして、そのジャンル(ツール)の発言・表現・コミュニケーションは、「全てがダメ」と思い込んでしまうのかが謎です。

 

 

批判や問題視をするなら、少なくとも、その発言について、その作品について、その文章や言い方について、(その表現内容について)、

 

よくよく内容を確かめた上でないと失礼だと思う。

 

 

…もちろん、例えば夜中に路上で大声で演説・演奏などしている場合、その「内容」や「クオリティー」以前に、行為そのものが迷惑なので、

 

そういう場合は、内容・中身を吟味する以前に、行為そのものを問題視して良いと思いますが。

 

 

 

 

我々はお互いに、発言・行動・作品・表現の、その中身や内容や言い方(伝え方)に対して、批判を言ったりしても良いと思うけど、

 

ちゃんと内容・中身・真意を確かめる前から、

 

表面的なジャンルや、表現手段や、表現ツールや、言葉数(文字数)や、しゃべり方や、ルックスや、年齢や、性別や、人種や、表現メディアの種類等で、過度に見下したり否定しすぎたりしてしまうのは、

 

イメージや先入観で、発言(表現)の内容までをも決めつけてしまっているだけだと思う。

2017.05.09 Tuesday

先日のライブ動画

こんにちは。

 

少し更新が途絶えましたが、生きております、生存しております、クリボー

 

さて先日5/6は、僕が所属するもう一つのバンド「ArqphoniA」のデビューライブでした。

 

ライブの様子がYoutubeにアップされましたので、もしよろしければWatch!

 

 

まだまだアラいところ・反省点も多いですが。

 

ちなみに8:28からのシンセソロとか、クラシック出身の自分には慣れない弾き方なので、少々緊張しました、

 

その直前、わたしスーハーと深呼吸しているのがバレバレな動画です(笑)

 

 

今後、近い将来、発表したい自作品は「シンフォニックメタル」!

 

なので、そのための勉強のつもりでも参加させて頂いています。

 

机での勉強も大切でしょうが、やはり実践あるのみ、でしょう。

 

…もちろん、そういう勉強や経験値のためばかりでもなく、

 

純粋に単純に、このメムバーの中で演奏するのが楽しいとか、リーダーの作詞作曲のこだわりに共感する部分が多いとか、

 

そういう打算抜きの楽しさも感じています。

 

もしよろしければ、今後チェックして頂ければ嬉しいです!

 

 

ArqphoniAのTwitterはこちら。

https://twitter.com/arqphonia

 

ちなみに私のTwitterはこちらさ。

https://twitter.com/shimpei_yama8

2017.04.17 Monday

トレーラー

こんばんは。めたるすらいむ

 

私がキーボードで参加しているもう一つのバンド「ArqphoniA」(アークフォニア)、

 

本日、1stシングルのトレーラーが公開されました。

 

よろしければチェックお願いします!

 

 

上記トレーラーには有りませんが、

 

このバンド、間奏などでは、けっこうシンセソロ・オルガンソロ・ピアノソロなんかをビシバシ弾かせて頂いているシーンもあります。(ぼそ)

 

そんなわけで、お知らせでした!

2017.04.16 Sunday

無題3

前回記事からの続きですが、少し話はそれるのですが、

 

以前、とある明治の文豪の書いた日記・紀行文を読んだことがあります。

 

(イギリスに留学し、新聞社に勤め、猫を主人公にした作品を書いたりした、日本を代表するあの大作家です)。

 

 

で、その日記や紀行文、

 

あれほど素晴らしい作家なのに、時々、差別的とも思えるような記述も少なくなかったです。

 

(外国人への差別・偏見や、女性(妻)への支配的な態度・DV)

 

 

基本的には知的で、客観的で、ユーモアもあり、他者への気遣いや思いやりにも溢れた文章なのですが、

 

時々、外国人を差別するような表現や、妻への乱暴な言動・思考も目立ちました。

 

(※アジアの旅の途中、出会った外国人労働者が、汚かったり臭かったりしたのは事実だと思います。…でも、そのことを客観的に描写しただけではなく、国籍や人種で、人間の価値や上下を決め付けてしまっているとも読み取れる部分も、いくつか見られました)。

 

 

 

時代と言えば時代なのでしょうが、

 

でもそれは、私達にも同じことが言えるのではないか?と思います。

 

 

 

今の時代は、人種・国籍・性別に対する偏見や差別は、さすがに昔より減ってきてはいるでしょうが、

 

むしろ、私が言いたいのは、それ以外のことです。

 

今我々が「これが常識」「これが良識」と思い込んでいることも、実は、差別的なことだったり、間違っていたりするかもしれません。

 

 

例えば、もう空気のように当たり前になってしまっている、お金とか学校とか政治・経済のシステムとか、

 

どういう人が良い人だとか、どういう人が優しいとか、

 

どういう人が立派だとか、どういう人が思いやりあるとか、

 

(そういう定義や常識・良識)、

 

その他、人生について、教育について、子育てについて、善悪について、道徳について、愛について、健康について、成功について、幸福について、生死について、音楽について、

 

 

我々は生きていれば、あらゆる人・出来事・価値観に対して、「これは良いな」「これは良くないな」「これが普通だな」「これは非常識だな」「これが(健康や成功の)秘訣だな」「これはこういうものだな」などと、様々な感想・判断・想いが生じますが、

 

個人的には、自分が感じたこと・思ったことには自信を持ちつつ、

 

しかし同時に、常に自分を疑っているくらいが心地良いです。

 

 

(※↑と、書いたこと自体も疑っていますが)

 

 

 

 

そう書くと、「もっと自分に自信を持て」とか言う人もいますが、

 

あえて断言しますが、人間、あまりにも盲目的に、自信など持たないほうが良いのではないか?と、

 

私は自信を持って、そう思っています。

 

 

アート創作や演奏などは、根拠の無い自信過剰さが必要な時もありましょうが、

 

道徳や価値観や人生観などは、自分の意見や感性に自信・愛着を持ちつつ、

 

(そして、現代社会の常識・良識とされる価値観も理解しつつ)、

 

でも、それら全ては、限られた視野・限られた科学・限られた状況や社会システムの中での話なので、

 

あまり盲目的に信じ込みすぎないほうが良いのではないか?

 

と思っています。

 

 

 

 

例えば大昔は、地動説を唱えるだけで悪魔的・不道徳とされ処刑されたり、

 

風邪や発熱を治すためには身体を水で冷やすことが重要だと考えられていたり。(風邪や発熱の時は、「寝ていたら死ぬ。運動したほうが良い」と考えられたり)。

 

人種差別・身分制度・奴隷制度・宗教弾圧なども、当たり前だった時期もあったし。

 

(日本でも、例えば「おじろく・おばさ」みたいな制度も、二十世紀まで存在していた地域もあったようです。※家の長男以外は人権が認められず、世間との交流も許されず、結婚も許されず、村の行事・祭りなどにも参加を許されず。長男の家で、一生奴隷のように働かされる制度)

 

 

そういう差別的な制度や虐待は、世界中、いくらでも存在したようです、

 

「これは悪いこと」という認識もなく、当然のごとく行われていた風習・因習。

 

…そもそも人類は、割と最近まで、武力・暴力で領土を奪ったり、不当に搾取したり、力づくで奴隷にしたり、(生きる)権利や命を奪ったりすることも、世界中で頻繁に行われていたし。

 

 

 

 

上記のような例は、「これは悪いこと」という認識が本人に無い場合も少なくない、(無知・無意識・無反省)

 

これは、意図的な悪意・意地悪なんかより、よほど厄介ではないかと思います。

 

 

なので、個人的には、「これが当たり前」「これが正義」「これが常識」「これが道徳」「これが自然体」などと思い込みすぎることは、狂気や盲信や洗脳に近いと思っています。

 

今現在、「これが当たり前だ」と思われているような常識・道徳に対しても、もし違うと思ったら、疑問視したり問題視したりすることも、私は悪いこととは思わないです。

 

 

 

 

…現代の人類は、昔よりはマシだろうが、でも、本質的には変わっていないというか、当時と五十歩百歩ではないかという気もする。(もちろん私も含めて)。

 

現代も、偏見、盲信、独善、勘違い、思い込み、いじめ、虐待、思想やセンスの強要、パワハラなどなど、、、

 

要は、危害を加える側が悪びれていないというか、「これは悪いこと」という認識が本人に無いケースも多い。(無知・無意識・無反省)

 

むしろ、「自分こそ正しい」「自分こそ自然」「これこそ良識」「相手は叩かれて当然」「相手はこういうタイプに決まってる」「自分に非があるわけない」と、

 

自分の正当性を信じて疑わないようなケースも少なくない。

 

 

 

 

そんなわけで人類は、本質的にはあまり変わっていないようにも思われる。(多少マシにはなってきている気はする)

 

しかも今現在も、宇宙や生命や身体・心・脳などの仕組みについて、まだまだ分からないことばかりなので、

 

我々も、迷信や偏見を信じている可能性も無いとは言えないと思います。

 

 

 

今、我々が、「これが正しい」「これが優しい」「これが自然体」「これが当たり前」「これが健康に良い」などと感じていることが、

 

実はとても差別的なことだったり、実はとても不自然なことだったり、誤ったことだったりする可能性も無いとは言えない。

 

 

 

 

…などと書くと、「そんなこと言われたら、何も考えられないし何も出来ない」と思う人もいらっしゃるかもしれませんが、

 

そんなことないと思います。

 

なぜなら人間は、同時に複数のことを意識できると思いますので。

 

 

私たちは、基本的には、自分の意見・感性・価値観に、自信を持って良いと思いますし、

 

思ったことを、気楽に発言したり行動したりして良いと思います、

 

 

しかし同時に、心のどこか片隅で、「自分も誰でも、いつでも間違う可能性はある」、「自分も誰でも、(言葉や態度で)暴力や差別をしている可能性はある」、「自分も誰でも、他者より優位・上位に立ちたい欲求に縛られている可能性はある」、「自分も誰でも、物事を誤解・偏見・印象・先入観で思い込んでしまっている可能性はある」、「正しいと思っていることでも、もしかしたら科学的・医学的に間違っている可能性もある」、

 

心のどこか片隅で、そのように意識していたほうが良いのではないかと思います。

 

 

それは、「謙虚」とか「自信が無い」という感覚とは違います、

 

単に、人間の能力の限界を認めているだけだし、

 

人間が本質的に持つ無知・エゴ・利己性・無意識性を認めているだけだし、

 

我々は常に発展途上であるということを、素直に認めているだけです。

 

 

 

それを認めたうえで、

 

あまり悲観的・厭世的・閉鎖的・人間嫌いにならず、気楽にオープンに前向きに生き、自分の意見・価値観にも明るく自信を持ち、

 

でも、時々は自分自身のことを反省したり改善しようとする生き方は可能ではないか?

 

と思っています。

 

 

 

 

私自身、自分の言動や作品や演奏を、反省したり自己批判したりすると、

 

「もっと自信を持て」とか「もっとポジティブになれ」とか「もっと自然体で生きろ」とか言われることもあります、

 

でも個人的には、なぜ、現在の自分を反省したり、改善を目指そうとすることがネガティブで不自然と判断されてしまうのか、いまいち分からないです。

 

 

自分の価値観を過信・盲信することが、自然でポジティブだとは、僕には、あまり感じられないです。

 

むしろ、「本当にこれで良いのか?」

 

本当に今現在の生き方・在り方・考え方・感じ方で良いのか?

 

そして、今現在の自分・社会・芸術の在り方が、ほんとうに私自身が望んでいることなのか、、、

 

 

常に自分に問いかけ、常に自分を批判し、あらゆる価値基準を「当たり前」と思わない態度、

 

そういう意識状態のほうが、私は心地良いです。

 

(自分のことも人のことも、正義や道徳のことも、人間や生き方のことも、音楽やアートのことも、「分かったつもりになりすぎたら最後」とさえ思う)。

 

 

自分自身に対して、そして世の中の価値基準に対して、常に疑問や批判や反省を感じつつ、

 

とは言え、あまり厳しくはなりすぎず、基本的には気楽にオープンに友好的にで良いと思いますが、

 

今この瞬間自分はどうしたいのか、どう感じるのか、何を目指したいのか、何を選択したいのか、

 

常に自問し続けていたい、と思う。

 

 

それは「自信がない」とか「優柔不断」ということではなくて、

 

むしろ「完璧には何も分からない」というのが、人生の常態ではないかと思っています。

 

 

 

 

そんなわけで、このカテゴリーで幾つか記事を書きましたが、

 

「批判精神」というものは、私は、悪くないと思います。

 

…いや、「悪くない」どころか、今現在の自分を盲信・過信しすぎてしまうより、むしろ前向きなことではないか?と思っています。

2017.04.16 Sunday

無題2

この記事は、前回記事までの続きです。すらりん

 

評論やレビュー・批判や批評ということについて、まとめ的な内容です。

 

(この記事だけお読み頂いても意味は通じます)

 

 

 

 

さて、いきなりまとめると、

 

僕は、「(人の言動や作品や演奏について)批評や批判をしてはいけない」という感覚は、あまり持っていないです。

 

皆それぞれ、自分なりの感想や好みを自由に語って良いと思うし、

 

時には否定的な感想や批判を言っても、全然悪くないのではないか?遠慮することないのではないか?と思う。

 

最低限、音楽の多様性を認めてさえいれば。

 

そして最低限、人それぞれの好み・価値観の多様性を認めてさえいれば。

 

(私自身、否定的・批判的なことを言われることは、そんなに嫌でもないです。先入観の感想ではなく、ちゃんと作品を味わって下さったうえでの感想なら)。

 

 

 

 

 

多様性を認めながら批判する、というのは可能だと思っています、

 

そもそも「批判する」ということは、相手のことを見下したり全否定したりすることとは違うはず。

 

相手のことを心から尊重しつつ、(音楽や価値観や生き方の多様性も認めつつ)、

 

時には、言動や振る舞いを疑問視したり、

 

時には、作品(演奏)の表現内容・表現の仕方などを批判するような時も、多々あり得ると実感してます。

 

 

(※もっとも、「多様性を認めない」「自分と違う意見は見下す」というような頑固な生き方も、アリっちゃアリだとは思いますが…。でも、それが本当に心地良い生き方かと言えば、個人的には、あまりそうは思えないです。ある程度は、人それぞれの多様性を容認(もしくは黙認)したほうが、結局は、心地良く日々を過ごせるのではないか?と思っています)。

 

 

 

 

 

ちなみに、私にとって「多様性を容認(黙認)する」ということは、「全ての価値観を尊重する」「全てのアート作品を好きになる」「全ての立場の人に共感する・思いやる」「何に対しても寛容である」「誰とでも仲良くなる」、

 

というようなイメージではないです。

 

むしろ逆かもしれません。

 

 

私にとって、「多様性を容認(黙認)する」とは、、、

 

■「人それぞれ皆、好みは自由で良い。何でもかんでも好きならなくて良い」

 

■「人それぞれ皆、趣味・感性・好み・考え方・価値観等は一致していなくて良い。この世の全ての価値観を理解(共感)しなくても良い」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、無理してまで理解(共感)しようとしすぎる必要はない。無理してまで思いやろうとする必要はない」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、無闇に批判的・攻撃的になってしまう必要もない」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、(その人達が)良いとか悪いとか、優しいとか冷たいとか、心が有るとか心が無いとか、こういうタイプだとかどういうタイプだとか、あまりにも断定(判断)しすぎるべきではない。あまりにも分かったつもりになりすぎるべきではない」

 

そういう感覚です。

 

 

 

 

 

いずれにせよ、各々が自由に感想を述べたり、時には批判したり、あーだこーだ語り合ったりするのも、それはそれで楽しいし、

 

音楽やアートや人間について、深く考察する良い機会でもあると思っています。

 

 

人それぞれ感じ方・考え方が違うのを知るのは、とても興味深いことでもありますし、

 

誰かの感じ方・考え方などに感化され、自分の感じ方・考え方も変わってしまうようなこともありますしね。

 

 

 

 

 

そういうわけで私は、意見・感想・批判などは、割と自由に表明しても良いのではないかと思っている。

 

ただし!

 

どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも、存在すると思います。

 

それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想です。

 

あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想とか。

 

(自分が思ったこと・感じたこと・判断したことなどを、実際は事実ではないのに、事実だと信じ込んでしまっているような発言。私も誰でも、そういう状態に陥ることは、珍しいことではないと思いますが)。

 

 

そういう感じの感想や批判は、やはり「的外れ」「間違っている」と言わざるを得ないと思う。

 

そういう部分を、ある程度は正確に受け取ったうえで、どう感じるか・好きか嫌いか、

 

そこは、完璧に個人の自由だと思いますが。

 

 

 

 

 

あと、何か一つ作品を鑑賞しただけで、何か一つの文章を読んだだけで、何か一つのツイートを読んだだけで、

 

その作者や発言者のことを完璧に分かったつもりになってしまったり、

 

その作品やその発言を生んだ国・文化・時代・ルーツ・ジャンルのことを、全て完璧に分かったつもりになってしまうような感想も、

 

たいてい、的外れなことが多いように思われます。

 

 

多数の作品(演奏)を鑑賞したうえで、(多数を比較したうえで)、

 

あえて、「これぞジャズ!」「これぞロック!」「これぞ印象派!」「とても君らしい作品!」「若さ溢れる演奏!」「ベテランらしい円熟!」「アメリカ人らしい演奏!」「男性(女性)らしい演奏!」

 

とか言うのなら、まだ良いと思いますが。。。

 

 

 

 

 

でも個人的には、その作曲者(演奏者)の属するジャンル・国籍・人種・性別・世代(年齢)などで、その作品内容を判断しようとしすぎるより、

 

まずは、個々の作品(演奏)の内容・中身・個性・雰囲気を味わおうとする鑑賞態度のほうが、私は好ましく思います。

 

 

 

 

 

そして、ジャンル(カテゴリー)を分類しようとする鑑賞態度や、

 

作者の性格や創作意図を解明しようとする鑑賞態度よりも、

 

まずは「自分自身がどう感じたか」、

 

そこを見つめるような態度のほうが、私は好ましく思います!

 

 

 

 

 

その他にも、あまり良くないと思われるタイプの感想・批判があって、

 

それは、アーチストやバンドを「私物化」してしまうような発言です。

 

例えばですが、「今回の作品はこのアーチストらしくないからダメ」「今回の作品はこのバンドらしくないからダメ」、みたいな。

 

 

でもピカソだってベートーヴェンだって、ビートルズだって村上春樹だって、生涯、作風は変わり続けたではないか。(春樹さんは、もちろん故人ではなく、現在進行中のアーチストですが)。

 

あまりにも、「このアーチストはこうでなきゃダメ」「このバンド(アイドル)はこうでなきゃダメ」「このジャンルはこうじゃなきゃダメ」「音楽はこうじゃなきゃダメ」と決め込んでしまうのは、表現の自由の精神に反するし、

 

アーチストさんに対して、「あんたはこういうふうに生きなきゃダメ」「あんたはこういうタイプに決まってる」と言っているのに等しい。

 

(アーチストに対してだけではなく、誰に対しても、そんなことは言ってはいけないのではないか?「その人らしさ」「そのアーチストらしさ」「そのジャンルらしさ」というものは、もちろん存在するとは思いますが、あまりにも断定・限定しすぎてしまわないほうが良いのではないか?本人が「自分らしさ」を断定するなら全然自由だけど、第三者が、「あんたはこういうタイプ」「あんたはこういう作風でなきゃダメ」と断定しすぎてしまうのは、ちょっと傲慢だと思う)。

 

 

…もっとも、レコード会社や出版社の担当・プロデューサー・マネージャー等が、売り出す戦略を決めたうえで、そういう「個性」や「らしさ」を、作家やタレントやアーチストに指示するケースは、多々あると思います、

 

それは当然の生存戦略だと思いますし、必要なことだろうとも思います。

 

でも、それはそれとして、

 

本来的には、アートとか生き方とか人生というものは、誰かが誰かに命令したり強要したりは出来ないはずです。

 

 

誰かが誰かに感銘を受け、影響を受け、「自発的に」沸き起こる変化なら素晴らしいと思いますが、

 

外側から無理矢理に命令・強制するようなものではないと感じます。

 

 

 

 

 

私の主張は、「アーチストの作風が変化した時、ファンは絶対に気に入らなければいけない。絶対に批判してはいけない」ということではないです、

 

(作風の変化を)好きになるか嫌いになるか、作品を気に入るか気に入らないかは、常に、受け取り側の自由だと思います。

 

気に入らなかったら、遠慮なく否定的な感想・批判を言っても良いと思いますし。

 

 

私の主張は、気に入る・気に入らない以前の話で、

 

■「変化すること自体を禁止したり問題視したりする態度は、良くないのではないか?」

 

■「その人らしさ・そのアーチストらしさ・そのジャンルらしさというようなものを、あまりにも固定化・限定化しすぎるのは、良くないのではないか?」

 

■「表現の自由を禁止しすぎたり制限しすぎたりしてしまう態度は、良くないのではないか?」

 

という主張です。

 

 

 

人は、様々な経験を通して変化・成長する存在だと思うので、

 

当然アーチストや作家も、その作風・芸風・価値観・身体能力など、徐々に変化するものだと思う。

 

…もちろん、「(人は)絶対に変化しなきゃダメ」ということも無いけど。

 

 

 

 

 

とは言え、もちろん人というものには「その人らしさ」があり、

 

人種や民族というものには「お国柄」があり、

 

アートのジャンルには「そのジャンルらしさ」というものがあり、、、

 

そういう「○○らしさ」「○○の特徴」というものを、ちゃんと分かったうえで、

 

でも、あえて、そういうカテゴリー的なところには囚われすぎず、

 

個々の作品に宿る、その作品固有の個性・空気・雰囲気をこそ、まずは味わおうとするべきではないか?

 

と思います。

 

 

 

これは個人的な考えですが、

 

アートや文学というものは、究極的には、そういう「その人らしさ」「そのジャンルらしさ」「お国柄」「ナショナリズム」「性格」「人格」「感情」「思想」「人間性」というような概念や感覚を破壊し、

 

(後天的に身についたアイデンティティーやナショナリズムや人格などを破壊し)、

 

もっと生命(本能)の根源的な衝動だったり、感情・思考・理性・直感などが「無」になるような感覚だったり、心の奥底の深層心理なども暴く可能性が有るのではないかと、個人的には思っています。

 

 

 

 

 

さて、何回かのシリーズ記事でしたが。

 

私なりの意見を、最後に強引にまとめると、

 

■「オープンな意見交換は好きだし、お互いオープンに意見・批評・批判し合うのも好きだけど、最終的には、各々の生き方・感じ方を決めるのは、その人本人」

 

■「それぞれ皆、感じ方・価値観は自由。意見・感想・批判を言うのも自由。ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在する。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想。(あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想)」

 

■「手厳しい批評や批判やレビューというのも、大いにアリだと思う。皆それぞれ、自分なりの感想や好みを自由に語って良いと思うし、時には否定的な感想や批判を言っても、全然悪くないと思う」

 

■「ただし、誰かの言動・作品・演奏などを見て、その人の内面や性格や、心理状態や創作意図を、あまりにも断定しすぎてしまわないほうが良いのではないか?その前に、まずは「私自身がどう感じたか・どう感じるか」にフォーカスするほうが大事ではないか?」

 

■「自分の意見・感想・判断・快不快・価値観などを、まるで「人間全体に共通する一般論」のように、絶対的な正義(正論)だと思いすぎてしまわないほうが良いのではないか?」

 

■「批判」や「反対意見」というものを、即、相手のことを見下したり全否定しているのだと、勘違いしてしまわないほうが良いのではないか?(相手のことを尊重しつつ、アートや価値観の多様性も認めつつ…、時には、個々の言動や個々の作品を批判(疑問視)するような時も、多々あり得るはず)

 

■「アート作品・エンタメ作品・アーチスト・タレント・映画・テレビ番組等に対して、よく否定的な感想を言っているような人が、他の誰かが批判的な感想を言うと、「お前は気難しい」とか、「批判をする人は心が狭い」とか、「評論家ぶるな」とか、「ディスるな」とか、「もっと素直に何でも楽しめ」とか、「競争や比較や良い悪いじゃないですよ」とか言ってしまう人、けっこう出会ったのだが…、そういうのは、喝!「自分はやって良いけど他の人はやってはダメ」という態度は、素朴と言えば素朴だが、やはり、良くないと思う。(人生は自己中心的で良いとは思うが、あまりにも公平性に欠ける言動は、許容すべきではないと思う)」

 

 

そんなところです。マリオ

 

おしまい。