2017.6.10-2

  • 2017.06.10 Saturday
  • 17:51

(今日、二つ目の記事です。先ほどの記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

どんな表現手段であれ、どんな表現ジャンルであれ、どんな言動であれ、どんな音楽作品であれ、

 

その表現者の心情や真意を、いつも100パーセント正確に表現できているわけではないはずだ、と思う。

 

我々人間は、不完全な存在だし。

 

言葉も音楽も行動も、不完全なツールだし。

 

(しかも、受け取る側も、誤解・偏見・思い込み・先入観などを一切捨てて、完璧に誤解なく受け取るなんてことは、人間には不可能だと思われる。それで良いと思うし、それで当然だと思われる)

 

 

 

 

だから、誰かの発言・作品・表情・演奏などを見て、

 

で、その人の内面や性格や真意を分かったつもりになりすぎて、

 

あまりにも(その人を)敵視しすぎたり、あまりにも神聖視しすぎたりしないほうが良いと思っています。

 

アートの表現であっても、何気ない日常の会話であっても。

 

 

 

 

どんな意見であれ、どんな言動であれ、どんな表現であれ、どんな表情であれ、どんな演奏であれ、

 

発言者(表現者)の意図・真意を完璧には現せていない可能性も高い。

 

なので、私は、あまりにも誰かを敵視してしまうのは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

他者の気持ち・真意は、一生懸命想像したいとは思いますが、あまりにも分かったつもりになってしまうことは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

(「神聖視」はともかくとして、短絡的に「敵視」してしまうのは、特に良くないと思う。…「神聖視」の場合も、ナチスやカルト宗教みたいなのは良くないと思いますが、好きなアイドルやアーチストの「信者」みたいなファン心理なら、まあ可愛いものだし、私も経験あるので、そういう気持ちはよく分かります)

 

 

 

 

さて、我々は、あらゆる表現メディア・あらゆる表現ジャンル・あらゆる表現ツールを、全て好きになる必要は無いと思われる。

 

人それぞれ、自分の好みの表現手段・コミュニケーション手段を使えば良いと思う。

 

わざわざ苦手な表現手段・コミュニケーション手段を使わなくても良いと思うし、

 

わざわざ苦手な音楽ジャンルを、無理してまで聞くことはないと(私は)思う、

 

 

しかしながら、「このツールでは心が伝わらないに決まってる」、「このコミュニケーション手段では気持ちが伝わらないに決まってる」、「このジャンルやこのツールはあたたかいが、あのジャンルやあのツールは冷たいに決まっている」、「このジャンルやこのツールは心がこもっているに決まってる」、「このジャンルはダメに決まってる」、「打ち込みやメトロノーム通りやテクノ音楽は機械的に決まってる」、「生楽器や民族楽器の演奏は人間的に決まってる」、etc…、

 

という感じの先入観が強すぎると、自分好みの表現手段やツール以外のものを、一切聞く耳を持たない態度にもなってしまい、ちと厄介である。

 

(※しかも、例えば…、生楽器の演奏で、冷たくて無機的(機械的)な雰囲気を目指すことなども多々あるので、上記のような先入観・思い込みが強すぎると、表現者(発言者)の意図や真意を誤解する可能性も高くなってしまう)

 

 

 

 

特定のツール・メディア・表現方法の問題点を、ちゃんと具体的に指摘している場合は良い。(問題点だけでなく、改善点も同時に提案していれば、なお良い)

 

しかし、あまりにも妄信的に、特定のツール・特定のジャンル・特定の表現手段・特定のメディアを、全否定しているような人や、全肯定しているような人は、思考回路的に、カルト宗教や人種差別者などと変わらないのではないか?

 

個々の中身・内容・人間性・音楽性を吟味しようとせず、外側のカテゴリーで中身を分かったつもりになってしまう、という。

 

(例:「人と人は一緒に酒を飲まないと分かり合えない」「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」「若者(老人)は皆こういうもの」「○○人は皆こういうもの」「このジャンルはこういう音楽性」「この楽器はこういう雰囲気」…、

そういう感じの見解も、同じこと。ジャンルやカテゴリーや表現メディアの種類によって、一括りにして、その中身・内容まで決めつけすぎだと思う。もっと個々の発言ごとに、個々の作品ごとに、個々の表現ごとに、その都度その都度、その内容や言い方や雰囲気を吟味しなければいけないと思う)

 

 

 

 

…などと書いている私自身、そういう発言をする人の真意を分かったつもりになりすぎて、それこそ「敵視」しすぎているかもしれないので、

 

私自身も、常に気をつけていたいことではあるが。

 

 

自分が感じたこと・考えたこと・判断したこと等は、全て、自信や愛着を持って良いと思うが、

 

同時に、あまりにも真実・正解だと信じ込みすぎないほうが良いのではないかと、私は思っています。

 

(「自分に自信が無い」「自分に自信を持たない」ということではない)

 

 

…というか、物事や出来事に「真実」「正解」というものが存在するとはイマイチ感じられず、

 

この世には、単に、無数の「主観」や「解釈」や「偏見」や「思い込み」が存在するだけだと思っている。

 

 

 

 

ちなみに私は、お互い自由に意見や批判を言い合える人間関係は好きだし、

 

音楽やアートでも、誰でも、自由な意見・感想・批評・レビューを言えるような空気が好きだ。

 

でも、生き方や感じ方を決めるのは、最終的には、その人本人だと思っている。

 

 

どんなに親しい間柄でも、価値観的なところや、生き方的なところや、音楽の好き嫌いなどは、

 

最終的には、「その人本人に任せる」という雰囲気が大事なのではないだろうか?

 

どんなに親しい間柄でも、結局は「別の人間」なのだから。

 

 

どういう音楽が好きか嫌いか、何を幸せと感じるか、何を楽しいと感じるか、何を自然体と感じるか、何を心地良いと感じるか、どう生きたいか、どう生きたくないか、何を頑張りたいか、何を頑張りたくないか、何に興味を持つか、何に興味を持たないか、、、

 

それらは全て、人によって異なることだ。

 

 

 

 

だからと言って、あまりにも「人に意見してはいけない」「人に配慮しなければいけない」「自分の好み・考えを言ってはいけない」という風潮では、息苦しいし寂しい。

 

お互いに、自由に意見や助言を言い合っても良いと思うし、批判や批評も自由に言って良いと思うのだけど、(私も言うし)、

 

しかし、その意見・助言・批評に同意しなかったとしても、そのことで誰かを責めたり、強引に同意させようとするのは、良くないのではないか?

 

 

 

 

誰かのことを責めても良いのは、明らかに他者の危害・迷惑になるような言動や、明らかな虚言や、明らかに他者を見下すような態度だけだと思う。

 

(あるいは、例えばワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想・意見を言っているような人も、明らかに間違いであり勘違いなので、指摘したり否定したりしても良いと思う。※事実に基づいていない意見・感想・勘違い・思い込み等)

 

 

 

 

さて、数回にわたって書いたシリーズも今回で最後です。

 

当初のテーマからは、かなり話もそれましたし、長くもなりましたが。

 

 

強引にまとめると、今のところの私の意見としては、

 

■「オープンな意見交換は好きだし、お互いオープンに意見・批評・批判し合うのも嫌いじゃないけど、最終的には、各々の生き方・感じ方を決めるのは、その人本人」

 

■「自分の好き嫌い・感じ方・価値観に、いくらでも自信を持っても良いけど、それを他者にまで当てはめすぎることは良くないのではないか。自分の好き嫌い・感じ方・価値観・道徳観念を、絶対的な正義(正論)だと思い過ぎないほうが良いのではないか」

 

■「感じ方・価値観は自由。ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在する。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想。(あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想)」

 

■「外見・表情・ファッション・話し方・話す内容・行動・仕事ぶり・演奏・作曲などには、その人の内面や人間性が、確かに現れるとは思う。とは言え、どんな表現ツールも表現メディアも、不完全なものである。(そして誰しも、他者の内面(人間性)を100パーセント完璧に分かることも不可能だと思う)。というわけで、他者の内面・性格・境遇・事情・心情・人間性などを、あまりにも完璧に分かったつもりになりすぎてしまうのは、人間の能力と権限を超えているのではないか?」

 

そんなところです。

 

 

 

 

そしてさらに言えば、

 

言葉や音楽や価値観について、考えたり、追求したり、学んだり、(自分を)反省したりすることは、私にとっては、とても大切なことだけど、

 

実は、そこは「入口」にしか過ぎなくて、

 

そういう表面的な言葉・音楽・価値観の領域を超越してしまうような感覚に、日々、アートを鑑賞したり、創作したり、人と触れ合ったりすると、出逢うこともあります。

 

 

 

 

(自分の)感性・価値観・好き嫌いは大事だと思うのですが、それらを盲信しすぎていると、その側面・尺度・角度でしか感じることが出来ない。

 

だから、自分の感じる全てのことを大事にしつつ…、

 

同時に、自分の感じること全て、(自分の判断、自分の意見、自分の感性、自分の快不快、自分の価値観、自分の道徳観、自分の善悪感、自分の人生観)、

 

それら全てを、いっさい信用しないような感覚のほうが、私は心地良く感じます。

 

 

ほとんど説明不能なのですが、

 

自分自身をバカにして、自分自身を全否定しているような時こそ、実は、自分自身をとても大切にしているような感覚さえあります。

 

 

 

 

今まで生きてきた流れの中で、「自分はこういう人間」と、定まってしまっているようにも思えるが、(性格的にも、能力的にも、運命的にも、趣味も、感性も、価値観も、好き嫌いも)、

 

確かに、人生のほとんどは、人知や自力ではコントロールできないことばかりではあるし、

 

先天的な資質・体質・身体能力や、生まれ育った環境・境遇にも左右されてしまうのは事実だが、

 

しかしながら、今日の決意とか、今日の覚悟とか、あるいは根性や努力や意思によって、性格も能力も運命も創ることが出来るのではないか?今後、大いに変化する可能性も生まれてくるのではないか?

 

そういう気概や側面も、見逃したくはないのだ。

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    2017.6.10-1

    • 2017.06.10 Saturday
    • 17:38

    前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

     

    良く聞くのですが、いつも「本当だろうか?」と疑問を持ってしまう発言がある。

     

    それは例えば、「(人と人は)一緒に酒を飲めば分かり合える」、「目を見て話せば分かりある」、「メールでは心が伝わるわけない」みたいな(?)、

     

    要は、表現方法やコミュニケーションの種類・ジャンル・ツール自体で、その中身や質までも決め付けてしまうような発言。

     

     

    そういうのは、「生楽器の演奏はあたたかい」、「テクノやシンセや電子音は冷たい」、「アドリブ演奏は自由で直感的なもの」、「楽譜を見て演奏するのは不自由で理屈っぽいこと」、「メトロノーム通りのリズムは機械的・非人間的・心が無い」、「ハグや握手やタメ口は心がオープン」、「お辞儀や丁寧語は心が閉鎖的で愛が無い」、「ポップスは自由」、「クラシックは真面目」、「ゲームやアイドルの曲は下らない」、「男(女)は皆こういうもの」、「子供(老人)は皆こういうもの」、「音楽家は皆こういうもの」、「成功者は皆こういう思考回路」、「CDやダウンロードには心が無い」、「ライブ演奏なら心が伝わる」、「文章や言葉では気持ちは伝わらない」、「○○人は皆こういうもの」、etc…、

     

    というのと同じで、ほとんど差別か偏見か、あるいは短絡的な決め付けではないかと思われてしまう。

     

    (上記の意見、どれも私の創作ではなくて、今までに、実際に誰かが言っていたこと。心の底から、上記のようなことを信じ込んでいるようでした。まったく思考停止というか、感性停止というか、差別的というか、上辺や先入観だけで判断しすぎというか…)

     

     

     

     

    人それぞれ、どんな考え方やどんな価値観を持っていても自由だと思います。

     

    そもそも私は、誰かが自信満々に話したりする様子は、全然嫌いじゃないですし。

     

    (↑むしろ、好きですらある。愛しくも感じるし、頼もしくも感じるし、思わず応援したくなったりもします)

     

    …でも、そうは言っても、自分の見方や意見や感性に「自信満々」になりすぎるあまり、あまりにも差別的・排他的・攻撃的になってしまうのは、あまり良くないのではないか?とも思うわけです。

     

     

     

     

    私は個人的には、

     

    作品や表現やコミュニケーションの種類・媒体・方法・ジャンル・メディア・ツール等によって、その中身や質が決定されてしまうわけではないと思っている。

     

    例えば、メールやSNSで、誰かの優しさやユーモアにほっこりすることも多々あるし、

     

    逆に、実際に対面して話したり、一緒に酒を飲んだりしても、いつも必ず心が通じると感じるわけでもないし。

     

    生楽器や民族楽器にだって、冷たくて「無機的」「無感情」な表現は可能だし、

     

    テクノやシンセや電子楽器にだって、ドラマティックな表現や、あたたかくてコミカルだったりする表現も可能だと思うし。

     

    知識や理論に基づいたアドリブ演奏など、山ほど聞いたことがあるし、

     

    逆に、楽譜に書かれていることが、理論では解明できない直感・インスピレーションに基づいたものも、山ほど見たことある。

     

    70代・80代の作曲家の曲が激しい曲調なんて全く珍しくないし、

     

    10代・20代が静かで瞑想的な曲を書くのも、全く珍しいことではない。

     

    行動的で好奇心旺盛な老人も珍しくはないし、

     

    消極的で好奇心の乏しい子供も全く珍しくはない。(どっちが良い悪いじゃなくて)

     

     

     

     

    人間も、音楽作品も、コミュニケーションも、

     

    ジャンル・表現メディア・楽器の種類・言葉遣い・表情・服・ルックス・職業・収入・人種・国籍・性別・年齢などは、

     

    その人間の内面や、その作品の中身や、そのコミュニケーションの中身を、判断する材料にはなるだろう。

     

    でも、それのみで、100パーセント(中身を)断定することは出来ないと思う。

     

     

     

     

    …そもそも、他者のことも、音楽作品のことも、100パーセント誤解なく理解したり、100パーセント誤解なく鑑賞することは、私は不可能だと思っています、

     

    私は私の狭い目線でしか見れないし、私の感性や解釈でしか受け取りようがないので。

     

     

    とは言え私が言いたいのは、「どうせ人と人は分かり合えない」という主張ではないです、

     

    そうではなく、「人と人は、100パーセント誤解なく分かり合うのは難しいからこそ、言葉・コミュニケーションを大切にしたいし、人の内面や性格をあまり分かったつもりになりすぎたくないし、相手の主張・気持ちを(完璧には分からないまでも)丁寧に想像したい」、

     

    そういう主張です。

     

     

     

     

    何百年か昔は、奴隷や人種差別も当たり前だったが、今現在は、多少は改善されてきているように、(まだまだ課題は多いだろうが)、

     

    それと同じように、何百年か後には、表現方法やコミュニケーションのジャンル・媒体・ツール自体で、その中身や質を決め付けてしまうのも、「差別的なこと」「愚かしいこと」という認識が広まれば良いと、個人的には思っている。

     

     

     

     

    そんなわけで、表現方法の種類やジャンルやツール自体は、信頼しすぎてもいけないし、見下しすぎてもいけないと思っている。

     

    大事なのは、その都度その都度の「中身」だと思うので。

     

    なので、「一緒に酒を飲まないと分かり合えない」とか、「メールやSNSでは心が通じない」とかいうのも、表現手段・コミュニケーション手段そのもので、その中身まで決め付けすぎに思われるのだ。(´・_・`)

     

     

     

     

    ツール自体を全否定して良いのは、例えば武器とか兵器とか拷問用具とか(?)、明らかに人を殺す意図で作られたようなものだけではないか?

     

    「ナイフ」や「爆弾」ですら、美味しい料理を作るためだったり、工事をスムーズに進行させるために役立つ、

     

    まして音楽表現の方法や、コミュニケーションの方法・手段など、

     

    その種類・方法・ジャンル・メディア・ツール自体を全否定して良いものなど、一つも無いと思うのだが。

     

     

    全否定して良いツールも、全肯定して良いツールも、一つも無いと思っています。

     

    (「このジャンル・このメディア・このツールは必ず素晴らしい」というものは無いし、「このジャンル・このメディア・このツールは必ずクズ」というのも無い)

     

    大事なのは、その都度その都度の中身・内容・雰囲気・使い方・言い方・表現の仕方だと思う。

     

     

     

     

    もちろんツール・ジャンルの違いにより、伝えやすい内容・雰囲気には、違いがあるとは思う、

     

    だからと言って、発言(作品)の内容や雰囲気というものは、ツール・ジャンル・表現手段によって、100パーセント決定されてしまうわけではない。

     

    その都度その都度、一つ一つの作品・一つ一つの表現・一つ一つの発言・一つ一つの振る舞いを、ちゃんと吟味するべきだと思う。

     

     

     

     

    P.S.

     

    武器や兵器や制服も、人間が作ったものである以上、美しさを感じさせることもあると思います。

     

    射撃や格闘技のような世界も、スポーツや芸術と同じような精神集中が必要な場合もあるだろうと思います。

     

    したがって、(私自身は興味ありませんが)、そういうものを好きな人が、必ず100パーセント暴力的な内面なわけはない、と思っています。

     

     

    …ちなみに、それに似た感じで(?)、「音楽を好きな人に悪人はいない」とか「若い頃スポーツに取り組んだ人は礼儀正しくて人間性が良い」とか、たまに言われますが、

     

    僕は、そんなことは無いと思う。

     

    (あと、「芸術は情操教育に役立つ」とか「音楽を聞けば心が安らぐ・優しくなる」とかも、必ずしも言い切れないと思う)

     

    例えばヒトラーとか、音楽が好きだったし、絵を描くのも上手でしたし。

     

     

     

    ついでに言うと、誰かの演奏や作曲を聞いて、「この人は魂が綺麗」とか「この作者はこういう性格」とか、

     

    まるでエスパーかスピリチュアルカウンセラーのようなことを言う人もいますが(笑)、

     

    もちろん、そういうことを言って良いと思うのですが、(私も言うし)

     

    でも、あまりにも、そういうことを信じすぎてしまうのは、僕は良くないと思っている。

     

    でないと、

     

    「演奏や作曲やスポーツが得意な人は、魂・精神性・人間性・生き方・考え方・創作姿勢・エネルギーが素晴らしい」

     

    「演奏や作曲やスポーツがイマイチな人は、魂・精神性・人間性・生き方・考え方・創作姿勢・エネルギーが悪い」

     

    そういう風潮にもなってしまう。(もう、結構なってるけど)

     

    でも僕は、必ずしも、100パーセントそうは言い切れないと思っています。

     

    作品や演奏(プレー)というものは、たしかに、その人の人格やセンスが現れますし、取り組む姿勢や努力も大事なことは言うまでもありませんが、

     

    作者(演者)の内面や努力が、必ず100パーセント、作品や演奏(プレー)に直結するとは言い切れないと思います。

     

    例えば、ものすごく意地悪で差別的でエゴイスティックな人の作品で、とても優しい感じがする作品とか、

     

    その逆に、穏やかで温厚な人が、非常にドラマティックで激しい表現をするとか、

     

    気性の激しい人が、まるで瞑想しているかのような、静かな表現をする瞬間もあるでしょうし、

     

    あるいは、ポジティブに取り組んでいる人の演奏がイマイチだったり、その逆の例なども多々ありますし。

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