批評・批判・レビューについて(1)
- 2017.03.31 Friday
- 02:42
(※本日、三つ目の記事更新です)
最近の風潮なのか、あるいは昔からそうだったのかは分からないが、
例えば誰かが、何か意見や個人的好みを発言するだけで、「そう考えない人もいる」「そう思わない人もいる」「(その人達に)配慮せよ」「自粛せよ」、
みたいな空気には、少々息苦しさも感じます。
だいたい、「そう思わない人もいるから配慮せよ」とか言ってる人も、(大抵は)、本当に全ての立場の人間に配慮しているとも思えないのだ。。。
音楽界・エンタメ界でも、そのようなことは、よくあることです。
例えば、映画や音楽や小説など、何かの作品に否定的な感想を言った人がいたとして、(ちゃんと丁寧な言葉遣いで言ったとして)、
で、そういう感想に対して、「そう思わない人もいるから配慮せよ」とか、「ディスったり批判したりする人は心が狭い」とか、「もっと素直に楽しめばいいじゃん?」とか、「批判せず何でも楽しみなさい」とか言う人がいるものですが、
そういう方達は、ご自分はどうなのだろう?とも思ってしまう。
世の中の全ての音楽作品・全てのエンタメ作品を、平等に愛して楽しんでいるのだろうか?
(あるいは、そういう方達は、人それぞれの意見の違い・好き嫌いの違い自体は認めているけど、「否定的な感想を言うこと」を問題視しているのか?…つまり、「好き嫌いは持っても良いが、それを口外するな」という主張なのだろうか?それなら、分からなくもないが)
でも、そういう方達だって、たいてい、「この小説家は苦手」とか、「このテレビ番組は下らない」とか、「この歌手の声は好きになれない」とか、「このゲームはつまらない」とか、
ひどい場合は、「このアーチスト(タレント・アイドル)消えろ」などと言っていることも多いものである。
私の実体験でも、そのようなことは多々ありまして。
以前、口では「批判はやめて何でも幅広く楽しみなさい」とか、「みんなそれぞれ自分らしく歌えば(演奏すれば)それでオーケー。コンクールみたいに、良い悪いや上手い下手にこだわるな。飾らず作らず、ありのままで良い。誰もがもともと特別なオンリーワン。人と比べるな」とか言っている人が、
露骨に「彼の演奏は誰よりも素晴らしい」とか、「あのピアニストの演奏には心が無い(魂が無い)」とか、「Aさんの演奏には愛があるが、Bさんの演奏には愛が無い」とか、「ゲーム音楽やアニメソングなんか音楽じゃない」、
などと言っているのも、私は何度も聞いたこともある。
僕は、辛口な意見・感想・批判・レビュー自体は、構わないと思うのです、
私自身は、そこまで露骨に何かを全否定することはしないけど、そういう辛口・毒舌な人がいても良いとは思っています、
人それぞれで良いと思ってますので。
ただ、そういう方達は…、自分自身が辛口・毒舌で、明確な意見や好き嫌いを持っているくせに、
なぜ、他者の意見や好き嫌いを聞くと、「お前は気難しい」とか「ディスるな」とか、「もっと心を広く持て」とか「もっと何でも楽しめ」とか、「比較するな」とか「評論家ぶるな」とか、
どうして言えるのだろうか?
自分は意見・感想・好き嫌いを持っても良いが、他者は意見・感想・好き嫌いを持ってはいけない、ということだろうか?
例えば音楽大学の友人・講師・教授、プロ音楽家の知り合いなどでも、そういう矛盾に満ちたことを言う人はたくさんいましたが、
他者が意見を持つこと自体を禁止しているように見えてしまい、とても嫌な感じがしたものだ。
そういう方達は、ご自分の意見・感性・判断・価値観だけが正しいと、思い込みすぎてしまっているのではないか?
(あるいは、「人は皆、私と同じ意見や好みでなければダメ」と、思い込んでしまっているのではないか?)
幸い最近は、そういう方と実際に接する機会はほとんど無いが。
他者の意見や作品の「内容」「言い方」「表現の仕方」について、批判したり反論したりするなら、私は全然構わないと思ってます、
なぜなら、何かに反対したり反論したりすることは、誰もが持つ正当な権利だと思うから。
でも、他者が「(自分の)意見や好みを持つこと」自体を禁止するような言い方は、してはいけないのではないか?と思う。
よほど選民思想とか、よほど被害妄想とか、よほど自分の意見だけを正しいと思い込んでるとか、よほど偏見・差別・勘違いに基づいた意見や感想などは、諌めたり禁止したりする必要もあるでしょうが、
そうでないなら、人それぞれ、自分なりの意見や好みを持っていても良いと思うのだが?
私は、誰しも意見や好みや価値観を自由に持って良いと思うし、自分の好きなものを表明したりすることも、誰しも、やって良いと思っている。
この森羅万象・千変万化の世の中、各々、とりわけ惹かれるものや、とりわけ感動するものがあるのは、当たり前のことだと思うからだ。
そしてまた、各々、苦手なものや嫌いなものがあるのも、仕方ないと思うからだ。
そういう、「差別に満ちた自分」というものを自覚しつつ…、
「私の好みや意見や価値観は偏っている」ということを自覚しつつ…、
せいぜい、「あまりにも食わず嫌いにならないよう注意しよう」、「自分の好み(価値観)を他者に押し付けすぎないよう注意しよう」、「よく知りもしない人や音楽作品を、先入観や知ったかぶりで嫌わないよう注意しよう」、
そう気をつけようとするくらいしか、私には出来ないですね。
「全てを平等に好きになれ」という価値観や、「批判・比較・選り好みは絶対ダメ」という価値観は、私には、ちょっと難しい。
(あと、「この音楽作品は誰にとっても素晴らしい」「この音楽作品は誰にとってもクズ」「誰もがこういう考え方をすべき」というような意見・価値観も、私には馴染めるものではない。自由度が狭すぎて、息苦しくなってしまう)。
「何でもかんでも好きになりましょう」「誰とでも必ず仲良くしましょう」という雰囲気よりも、
気を使いすぎず、意見も批判も、お互い自由に言い合える雰囲気のほうが、私は好きですね。
(※ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在します。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想です。あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想です。いくら、意見や感想は各々の自由とは言え、最低限、そういう部分は「正解」が有ると思います)。
そんな私とて、嫌いな作品・嫌いな人に対しても、もちろん愛や尊重や応援の気持ちは感じています。
心の奥底では、全てを平等に愛しているような感触も持っています。
…しかしながら、多少の選り好み・好き嫌いを持ってしまうことも、仕方ない気がします。
そもそも、「愛」と「好き嫌い」は違うものだとも思います。
嫌いなものを応援したり愛したりすることは、充分可能だと思っていますし、
愛している者を叱ったり批判したりすることも、そう珍しいことではないと思います。
(愛していたりリスペクトしたりしている人に対しても…、その人の個々の行動、個々の発言、個々の作品、個々の演奏・パフォーマンスを、批判したり問題視したりすることは、ありうると思います。どんなに好きな人のことでも、「教祖」みたいに、その人の全ての行動・発言は正しいものだと、盲信しすぎてはいけないとも思いますし)。
「意見が違う」ということと「仲が悪い」ということは、イコールではないはずだとも思うし、
…逆に言えば、「仲が良い」ということは、必ずしも「(お互いの)意見が同じ」、というわけではないとも思います。
ついでに言うと、「多様性を重んじる」ということは、、、
必ずしも、この世の全ての価値観に同意・共感するということではなく、全てを完璧に思いやるということでもなく、
むしろ、この世の中には、自分には同意・理解・共感できない人や立場や価値観がたくさん有るということを、当然のこととして認めることだと思っています。(※自分の視野や理解力には限界があることを認める)
で、無理してまで理解しようとしたり、無理してまで仲良くしようとするのでなく、
せめて、お互いに争ったり、自分の価値観だけを正しいと信じすぎないようにする…、
そんな感じのイメージです。個人的には。
「好みや価値観は、一人一人違うものである。一人一人違って良い」、
そんな感覚が、私は好ましいです。
「一人一人違って良い」と思うからこそ、自分とは違う意見・感性・価値観の人のことも、リスペクトを感じられますし。
私は、よほど独善的で傲慢な人でなければ、どんな意見や感性や価値観の持ち主であっても、(私とは違う意見・価値観であっても)、たいてい、リスペクトや親しみを感じられます、
反面、「一人一人違ってはいけない」「こういう考え方こそが正しい」「こういう作品だけが素晴らしい」「全てを好きにならなければいけない」「選り好み・好き嫌い・比較・批判は悪」「私の意見だけが正論・正義」という感じの言い方は、息苦しく感じられてしまいます。
一人一人自由なはずの嗜好・意見・価値観が、禁止されてしまっている気がするので。
最低限、価値観や生き方の多様性さえ認めていれば、
誰でも、自分なりの意見・好き嫌いを表明して良いと、私は思っています。
もちろん、無理して表明することもないけど。
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「自分探し」よりも「自分殺し」を
- 2017.03.31 Friday
- 00:20
(※前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)
以前どこかで目にした文章ですが、「自分探し」よりも「自分殺し」をせよ、みたいなのがあって、とても共感したことがあります。
よく言われるような「自分らしさ」とか、「自分らしい個性」とか、「自分らしい自然体」とか、
少々「自分」にこだわりすぎていて、どうも苦手です。
音楽作品・アート作品・エンタメ作品を鑑賞する時も、創作する時も、
後天的に刷り込まれた「自分」という概念や定義、
(あるいは、「自分はこういうタイプだ」と思い込んでいる固定概念)
そういう「自分」という概念がぶっ飛ぶような(?)音楽や小説や映画を好むし、私もそういう作品を作りたいなー、と思います。
とは言え、鑑賞も創作も、人それぞれに道があると思う、
「自分らしさ」や「等身大」を表現したい人がいても、それはそれで良いと思うし、心から尊重します。
上記に書いたようなことは、あくまで、私の場合です。
私の場合は、「自分」「等身大」「自分らしさ」という概念をブチ壊してくれるような体験や味わいを求めている、というだけのことです。
私が好きな、例えばベートーヴェンやシューベルト、チャイコフスキーやマーラー、ナイトウィッシュやパスファインダー、ダークムーアやアングラ、キース・ジャレットやパット・メセニー、、、
どれも、リラックスして聞けるし、心の底から共感できる音楽ではあるのですが、
同時に、この狭い「自分」という枠を超えて、「人生」や「生命」や「宇宙」の本質・神秘・深遠を感じさせてくれるような音楽だと感じています。
(あるいは、自分でも気づいていない、心の奥底の本質や潜在意識を味わせてくれる音楽だと感じています)。
言い換えれば、この「自分」では到達できない、人間では到達できない、圧倒的な格好良さとか、圧倒的な慈愛とか、圧倒的な雄大さ・壮大さなどを実感させてくれる感覚なのです。
要は、「自分らしさ」「等身大」を表現しているだけではなく、
時には、むしろ「自分」という固定概念・思い込みから、自由にしてくれる気がするのです。
(私が勝手に、そういう聞き方をしているだけかもしれませんが)。
もし「自分らしさ」というものが有るとしても、作曲の時は、それを第一目的とするより、「自然と(自分らしさが)出ちゃった」という感じのほうが好きですね。
私にとって何より大事なのは、「感動」や「官能」や「味わい」。(要は、音楽そのもの。「作品至上主義」とも言えます)。
大いに感動できる作品であれば、自分らしくなんかなくても良いし、独創性が乏しいベタな作品でも全然構わないです。
作品が自分らしいかどうかとか、(他のアーチストよりも)独創性が有るか無いかとか、作品のコンセプトとか…、
そういうのは二の次で良いかな、と思っています。
結果として、自分らしさが出ちゃったり、独創性が出ちゃったりするなら良いけど、
それらを出すことが、創作や鑑賞の第一目的ではない気がするのですよね。。。
(前述したように、第一目的は「感動」や「味わい」だと思っています。もしくは、「感動」や「味わい」さえ消失してしまうような、「忘我」と呼べるような瞬間だと思っています)。
…でも、ホント、人それぞれで良いと思います。
みんなそれぞれ、自分の好きなようにやれば良いのではないか?
自分の目指したいように目指せば良いのではないか?
と思う。
「創作やアートはこうでなければダメ」みたいな意見や、「こういう考え方はレベル高いがああいう考え方はレベル低い」みたいな意見が、一番面倒くさいし、わずらわしい。
P.S.
さて、上記のように書きましたが。
私とて、ピアノを弾いたり指揮したり作曲したりしている時、
私自身の等身大の感情・個性・想いなどを表現しているような感覚も、もちろん持っています。^^;
とは言え、そういう感覚は、ほんの一部にしか過ぎない。
「自分」や「自分らしさ」を表現しつつ、同時に「忘我」「無我」のような感覚になることも多々あります。
…つまり、様々な感覚が同時に混在しているので、
そのどれか一つだけを指して、「音楽とはこういうこと」「創作とはこういうこと」「音楽家はこう考えることが大事」などと言ってしまうことは、私には不可能かも。
音楽や創作について語り合ったりすると、兎角、「俺はAだと思う」「いや、俺はBだと思う」というように、喧嘩腰になっている場面もよく見かけます、
でも、音楽を演奏・創作している時の内面というのは、実のところ、「AでもありBでもありCでもあり、しかも、そのどれでもない」、
という状態だと思います。
(※そもそも、物事を断定的・断片的に定義する「言葉」というツールで、重層的・多面的・忘我的・瞑想的な感覚を味わうことのできる音楽を説明すること自体、無理のあること)。
芸術論やアート観の分野で、些細な言葉尻にこだわりすぎたり、あまりにも正解・不正解、良い・悪いを決めすぎることもないと思う。
アートへの考察を深めるため、言葉(文章)で説明したり語ったりすることも、私は大いに賛成ですが、
同時に、気持ちをゆるく寛容に持っておいて、お互いの意見・見解の相違に、目くじら立てすぎる必要もないと思います。
■「アート・人生・生命・自然などは、結局のところ、謎であり神秘。心や創作の秘密については、表面的な技術的なことは分かるけど、その本質や真髄は、完璧には分かることは出来ない」
■「そもそも、なぜ人は感動するのか?そして、なぜ感動する作品とそうでない作品があるのか?その解答やメカニズムは、完璧には分からない。推察・想像するくらいしか出来ない」
個人的には、そんな感覚です。
私も、技術的なところは年々進歩していますし、その部分については、いくらでも断定できます。
(技術的に、自分の得意なところ・苦手なところは、ちゃんと断定できます。今後に習得したいこと、今後に目指したいこと、今後やりたい活動なども、いくらでも断定できます。…というか、そういう部分は、断定できなきゃダメだと思う(笑)。人の意見や助言や批判を聞くことも大事ですし、全然嫌いじゃないですが、やはり自分の活動なのですから、最終的には、自分の夢や希望や意思が大事。自分が舵を握っていないといけないと思います)。
そういう部分は、いくらでも断定できるし、むしろ断定できなきゃダメなことも多々ありますが、
しかし、音楽や人間や創作の、その深遠・神秘・真髄・本質・メカニズムについては、そうそう断定することは出来ない。
一生、謎のまま・神秘のままではないか?と思っています。
であれば、「自分」や「自分らしさ」に、自信や愛着を持つことは悪くないと思いますが、
あまりにも盲信しすぎてしまうこともない、あまりにも固着しすぎてしまうこともない、あまりにも分かろうとしすぎてしまうこともない、謎のままでも良い、
と思います。
なぜなら、この自分自身も、当然「謎」や「神秘」や「深遠」そのもの。
その大いなる一部。
「自分らしさ」や「音楽」について、規定して定めすぎてしまうと、むしろ自分自身の本質とズレてしまう、音楽の本質とズレてしまう、、、
要は、わざわざ自分で自分を牢獄に閉じ込めてしまうような感覚なのです。
(「自分らしさ」というものも、あるのかもしれないけど、意識しすぎて限定的・固定的になる必要はないと思ってます)。
日常囚われている固定概念の数々、、、
「これが自分だ」「これが音楽だ」「これが才能だ」「これは良いことだ」「これは悪いことだ」「これは心地良いことだ」「これは心地悪いことだ」「これは自然なことだ」「これは不自然なことだ」「創作とはこういうことだ」「独創性とはこういうことだ」「美しいとはこういうことだ」「幸福とはこういうことだ」「これはこういうことだ」「これはこうあるべきだ」、、、
というような、諸々の概念を破壊する、諸々の判断を破壊する…、
すなわち「自分殺し」をするような感覚も、個人的には心地良いことです。
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無題
- 2017.03.31 Friday
- 00:14
個人的には、人生というものは、自分自身の夢・願望、衝動・直感、快・不快、愛・良心、信念・価値観、、、
そういうものに、なるべく正直に従おうとするしかないと思っています。
でも、だからと言って、自分のそれらを自信満々に絶対視してしまうのではなく。
(自分にとって)何が心地良いとか、何が心地良くないとか、何が楽しいとか、何は楽しくないとか、何は幸せだとか、何は不幸だとか、何は自然かとか、何は不自然かとか、
あまり断定しすぎたりしてしまうと、私は、いまいち居心地が悪い気がしてしまいます。
時々は自分自身を疑うというか、
自分の発想・判断・好み・信念・価値観などを、あまりにも盲信しすぎるよりは、時々は見直し・反省したり改善したりするのも、私は好きなことです。
人生、「私は絶対こうなりたい!」「私は絶対これは嫌だ!」みたいな情熱は、必要だとは思います。
でも、実際、昔は嫌いだったり、苦手だったり、軽蔑していたりしたことが、今現在は好きだったり尊く感じられたりすることも、私は多々あります。
価値観や人生観はもちろん、(自分の)性格・感性・直感・快不快といった、一見定まった資質のように思えることも、実は変化し続けてもいるのだと思います。
…そもそも、自分や他人の人生を、「こいつ幸福」とか「こいつ不幸」とか、あまりにも決めすぎてしまったらお終いだ、と思う。
「こういう人生は幸福」「こういう生き方は不自然」などと、レッテルを貼りすぎてしまうのは、我々人間の視野・理解力の限界を越えているように思われるから。。
そんな狭量な判断や感性なら、持たないでも良いかも?とすら思う。
しかも、今現在が幸福だろうが不幸だろうが、通過点でしかないし、全て過ぎ去っていくもの。変化していくもの。
今現在、(自分が)幸福か不幸かとか、あまり重要視しすぎるものでもない、と思われます。
次(今)、何を選択するか、何をどうしていきたいか、どういうふうになりたくて、そのためにどういう行動・努力をしていくのか、
そこのほうが大事だと思っています。
(※個人の見解です)
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