三善作品3

  • 2016.02.21 Sunday
  • 23:58
前々回の記事に引き続き、もう一つ三善作品を。

「狐のうた」から「訓誡」による。(作詞:会田綱雄 作曲:三善晃)

 

この世ならぬ禍々しさ!

おののくほど不吉・災厄な雰囲気!

それでいて、どこか郷愁やユーモアも感じられるだろうか?(中間部のスローなブルース風とか)

朗読の説得力も見事だし、最後の1分くらいの鬼気迫る演奏に身震いします。

語弊があるかもしれないけど、とてもカッコイイ音楽だと思います。

(※大きめの音量推奨)



とにかく、戦慄を禁じ得ない音楽性。

曲の完成度は、至高の極み。

あががが。。。



何回か前の記事で紹介させて頂いた「生きる」とも「或る風に寄せて」とも、全く違う音世界。

どれも大傑作だと思う。

もしよろしければ、さかのぼって3曲聞き比べてみて下さい。
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    スパイス探訪

    • 2016.02.21 Sunday
    • 00:03
    上野の有名店「デリー」に再訪した。

    前回注文したのは「インドカレー」でしたが、今回は「カシミールカレー」をいただきました。




    まず目に付いたのが、異様なまでのカレーの黒さ。

    暗黒カレー。

    暗黒物質。

    この暗さ・この黒さ、まるで私の心のようだと思った。

    しかし何より気がかりなのは、「インドカレー」では目立っていたスパイスの粒が見当たらないことだ!

    嫌な予感がしつつ、いただきました。^^;



    まず、辛さはギリギリ大丈夫であった。

    かなり辛いが、やせ我慢すれば、何とか笑顔で食べられるレベルでした。

    (ただ単に辛いだけではなく、色々なスパイスが融合していることも味わえました)。



    が!

    私は、前回いただいた「インドカレー」のほうが好みだった。

    こちら「カシミールカレー」のほうが断然辛いですが、どちらがスパイシーかと言うと、「インドカレー」のほうのような気がした。

    なぜかと言うと、「インドカレー」のほうはスパイスの粒(ホール)がそのまま入っていたので、薬膳のような漢方のような複雑な風味を醸し出し、私はそれが好ましかったのだが、

    「カシミールカレー」のほうは、ホールスパイスが入っておらず、薬膳っぽさが薄れていた。

    もちろんカシミールのほうが好みの方もたくさんいるでしょうが、私は断然インドですね。



    というわけで、今後もたまに行きたいお店ですが、「インドカレー」のほうを食べに行きたいと思う。
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      「或る風に寄せて」

      • 2016.02.17 Wednesday
      • 00:12
      先日の記事、三善晃作曲「生きる」(混声合唱曲)、

      少し追記・書き直ししましたので、ご興味ある方は、さかのぼって見てやって下さいませ。



      本日の記事は、三善晃作品の第二弾です。



      さて三善先生の歌・合唱の作品では、とりわけ私は、

      「三つの叙情」の1曲目「或る風に寄せて」や、「四つの秋の歌」の1曲目「駅」あたり、

      本当に好きですね。




      心底素晴らしいと思います。

      透明感に満ちていているのに、どことなく妖しい不穏さ・官能性・夢幻性も感じられ、戦慄すら感じます。

      さりげないのに、まとわりつくような(?)、

      ゆったり揺蕩うようでいて、自由自在に羽ばたくような(?)、

      …もはや何を言っているのか分からなくなってきましたが。^^;

      まあ、うっとりですね。

      (詩にぴったり寄り添いつつ、分かりやすい自然発生的な音楽を作る技術にも、惚れ惚れするばかりです)。



      実は、私のピアノ作品「幼少のころ」は、少し影響受けています。(あと、キース・ジャレット「ステアケイス」あたりの影響も受けてる)。

      拙作「幼少のころ」は、こちらのサイトで聞けますので、もしよろしければ。



      三善晃作曲「麦藁帽子」(女声合唱)も、去年、指揮する機会がありましたが、

      やはり、上品な透明感の中に独特の揺らぎがあって、素晴らしいと感じました。

      小品とは言え、内包する小宇宙が無限大なのだ。

      ちなみに「或る風に寄せて」は、だいぶ前に振らせて頂いたことありますが、練習のみでした。(本番とかでは振ったことないです)。
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        三善晃作曲「生きる」(混声合唱曲)

        • 2016.02.15 Monday
        • 01:22
        本日、指揮させて頂いた曲の一つをご紹介。



        「生きる」三善晃作曲 

        谷川俊太郎氏の詩「生きる」に作曲された合唱曲です。



        名曲だと思います!

        「好きな曲」とか「嫌いな曲」というような感想を超えて、

        もはやこれは、三善先生の人生観や、三善先生が生きていた(感じていた)感触・空気感、


        もっと言えば、「人生とは何なのか」「生きるとは何なのか」という普遍的なテーマが、

        概念や観念でなく、実感・空気感として伝わってくる気がします。



        全体的に、耳に心地良いだけの優しい音楽ではない。

        非常に厳しいし、喜怒哀楽の全てを表現しているような凄みを、(私は)感じます。

        それでいて、そういう喜怒哀楽一つ一つの感情に囚われすぎず、俯瞰している感じ??感情も人生も、ひたすら過ぎゆく感じ??

        (※オスティナート的な手法と一定のテンポ感が、そう感じさせる)。

        もはや個人の感情を超えて、全てを包み込む時の流れ・宇宙の流れ…、生まれては消失していく命の宿命・摂理…、

        そんな雰囲気すら、私は感じます。





        細かいところで言うと、

        ストイックなピアノ前奏には、実に厳しい苦い音が混じっていて、

        全曲を通じて、この前奏が、何度も何度も演奏されます。

        (まるで時の刻みのようでもあるし、心臓の鼓動のようでもあるし、人生の宿命や歩みのようでもあります)。



        色々凄いと思うところは多々あるのですが、

        個人的に最も鳥肌が立つのは、2:42からのピアノだろうか?

        「今が過ぎてゆく」という詩を歌った直後なので、

        「じゃあ、過ぎ去って新しいメロディーが生まれるのかな?」と思いきや、執拗に、ふたたび前奏のピアノが奏でられます。


        しつこい!

        何も過ぎ去ってなどくれないのです。

        これは、「「今」から逃げることは出来ない」「人生は「今」を生きるしかない」

        というような実感がこもっているようにも感じられます。

        (あるいは、「過ぎ去っていく時を止めることは出来ない」「やがて消え去りゆく命を留めておくことは出来ない」という、当たり前の真理を、厳しく厳粛に受け止めている感じもします)。


        なんと厳しく、それでいて、何と実直で誠実なのだろう。

        指揮をしていてここに差し掛かると、私の感性は、おののき打ち震えます。

        甘さが無くて、非常に心地良いです。




        あと合唱の出だしなども、何度聞いても、何度指揮しても、感動します。

        さりげなくて、自然発生的な感じだろうか?

        命を授かった感謝のようなものも感じられるし、宿命的に孤独を背負わされているような雰囲気も感じます。

        ところが、同じようなメロディーが1:05では強い力感を伴い、意思や決意すら感じさせるニュアンス。

        同じ言葉に、内容・印象がまるで違う表現をしていて、精神や感受性の深みを感じます。




        そして何と言っても終わり方でしょう。

        ピアノも合唱も、短調とも長調とも言えない、不思議な音がたくさん使われています。

        これは、色々な感じ方・色々な解釈の仕方があると思います。

        多くの人が感じることだと思いますが、「生きる」と言いつつ、ほとんど死を連想させるような響きですね。

        つまり、生に内包される死をも表現しているのではないか?と思います。



        その他、この終わり方に関して、個人的に感じたことを書きますと、、、

        「生きるとは何か」「人生とは何か」「生とは何か」「死とは何か」ということを、三善先生は安易に結論付けず、安易にハッピーエンドにもせず、ただ深々と味わっているだけのような印象も感じます。

        「なぜ生きているか、なぜ生かされているか、究極的には分からない」ということを受け入れつつ、それでも実直に生と死に向き合っている姿勢に思えてなりません。


        あるいは、こうも言えるかもしれません。

        あえて疑問符の残るような旋律・和音で終わることにより、

        聞き手・歌い手、それぞれ一人一人に回答を委ねているのかもしれません。

        三善先生の回答を押し付けるのではなくて。


        (結果的に、それが、一人一人への応援・問いかけ・同胞愛のようなニュアンスさえ、私は感じます)。


        人生・命というものへの諦観・絶望感もあるのでしょうが、だからこそ、強い祈りや愛のような想いも感じます。

        (レクイエムのようにすら感じられる時もあります)。




        (注※全て個人の感想・主観です。もし三善先生がご存命で、この記事を読んだら、「僕はそんなつもりで作曲してない」と言う可能性も高いです。笑)




        いやはや、しかし、これぞアートでしょう!

        作品に、作者の個性・感性・人生観が見事に反映されつつ、

        なおかつ、作者個人の視座を超えた凄みさえ感じられる。

        (そして、それを実現できる、作曲技術の素晴らしさ!)




        とてつもなく孤高の境地・孤高の技術でありつつ、万人が楽しめるエンターテインメントとして成立しているところが、また見事!

        本当に凄いものだ。


        作曲の技術的にも、感銘を受けるところは多数ですが、ここで手短かに書けることでもないので、そのあたりは割愛。

        感想的なことのみ、書かせて頂きました。
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          悲報

          • 2016.02.14 Sunday
          • 01:50
          なんと山下、数日前、帯状疱疹なんぞ発症してしまいました。

          只今、クスリ漬けの日々であります。

          もちろん帯状疱疹のクスリですが。



          幸い症状は軽く、水疱の数も少なめ。

          痛みも少ないのがありがたい。



          実は帯状疱疹は二十歳頃にもやっていて、その時は水疱・発疹が多く、激痛&高熱も酷かった。。。

          ワタシ、なりやすい体質なのだろうか?

          よく「疲労・ストレスがたまった時になりやすい」と言われますが、

          最近は、そんなに忙しくもなかったし、過度なストレスも無かったのだが。。。

          まあ、むしろあまり忙しい時期でなくて良かったか。

          今日は午前の仕事を終え、早々に帰宅し安静にしておりました。





          只今、Dark Moor聞きながら。(2ndアルバムと3rdアルバム)。

          やはり素晴らしい、

          曲と言いヴォーカルと言い、こんなにも好みな音楽はそう沢山は無い、

          私にとって、間違いなく一生聞き続ける音楽の一つですね。

          帯状疱疹の痛みに、エリサの憎々しくもカリスマティックな歌いっぷりが沁みます。

          ありがとう、良〜いクスリです!



          ではまだまだ寒い日も続くと思いますので(今日はかなり暖かいものの)皆様もお体ご自愛下さい。
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            個性・自己の消失4

            • 2016.02.14 Sunday
            • 01:49
            音楽も、人生も、日々、「これが自分らしさ」「これが私らしさ」「これが美しさ」「これが人間らしさ」「これが自然体」と思い込んでいたことの破壊。(そして再創造)。

            私は、大切だと思っています。



            それは大袈裟なことでもなく、アート・音楽だけの話でもなく。

            例えば、子供が生まれたばかりの親とか?

            「自分らしさ」の追求などより、子供の命・健康を守ることが第一になるのではないかと思います。



            つまり時期や状況の変化によっても、我々は誰でも、今まで「これが私らしさ」と思い込んできた生き方を、捨てなければならないし、割と簡単に捨てられるのではないかと思います。

            大袈裟に言えば、それまでの人格や人生観が破壊されるというか、激変させられるというか。。。

            (音楽でも、場面・フレーズ・メロディーによっては、そういう瞬間が多々あるのではないかと感じています。いつもいつも、自分の想い・自分の感情・自分の個性ばかりを表現するのでなはなく、むしろ、「自分(の個性)が消失する」「自分(の感情)が無になる」というような感覚です)。




             
            なので、私は、あまりにも固定化した「自分らしさ」「あなたらしさ」「キャラ」「自然体」というような概念が、いまいちリアルに感じられないことが多い。
             
            むしろ、「これが自分らしさ」「これがあなたらしさ」「これが愛」「これが優しさ」「これが思いやり」「これが(人として)自然体」「これは良いこと」「これは悪いこと」「これは誇らしいこと」「これは恥ずかしいこと」「これは美徳」「これは悪徳」「これは本音」「これは建前」「これは誠実」「これは不誠実」「これが私のキャラ」「これがあなたのキャラ」、、、

            そのような思い込みを、一つ一つ手放したり解いたりするほうが、私は心地良さを感じます。

            そういう一つ一つの感性や判断や価値観というものは、大事なものでもあるけど、他者や自分自身を縛ってしまう原因だとも感じているので。



            自分らしさの表現方法や愛の表現方法は無数にあるだろうし、人間の生き方・考え方・感じ方も、無数にあるだろうと思う。

            その無数の可能性を、わざわざ狭く限定してしまうような物言いには、息苦しさ・面倒臭さを感じます。
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              個性・自己の消失3

              • 2016.02.14 Sunday
              • 01:47
              音楽・アートというものは、

              「(作品に)感情や情熱を込める」

              「(作者の)想いや個性や美意識を表現する」

              というのが、基本姿勢かもしれない。


              しかし同時に、「感情の放下」「情熱の放下」「自己の消失」「自己の破壊」「個性の消失」「人格の崩壊」「美意識の消失」「美意識の破壊」「エゴの消失」、

              という側面もあるのではないかと思う。



              曲調の話ではないです。

              速くて激しいような曲でも、感情を排して、無心的・無私的・無機的な曲は多々ありますし、

              逆に、静かでスローな曲調でも、情熱的・感情的・主観的な曲は山ほどありますし。



              音楽表現においても日常生活においても、「自分」や「個性」は大事ですし、「感情」や「想い」も大事ですが、

              時にはそれらを放棄し、自己や心を「明け渡す」みたいな感覚も必要ではないか?と。

              (自分の意思で音楽を「操る」ことも大事なのですが、同時に、「音楽が私を操る」という感触も、多くの人が感じていることだと思います)。
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                無題

                • 2016.02.14 Sunday
                • 01:46
                「私はこれが好き」「私はこう生きたい」「私はこういう性格」「これが私らしさ」というようなことを、

                自分自身のことを断定するだけなら、自由だし勝手である。


                しかし主語が広がって、「あなたはこういう性格」「人はこう生きるべき」「(人間にとって)自然体とはこういうもの」「(人間にとって)幸せとはこういうもの」、

                というようなことを、自分の価値観を誰にでも当てはめようとする人は、私は苦手である。

                たいてい独善的だし、人それぞれの感じ方・生き方の自由や権利を、侵害しているようにも思えてしまうからだ。

                (他者への誤解・偏見も、少なくない気がしてしまう)。

                人それぞれの事情・状況・境遇・個性の違いなども、まるで無視しているように思えてしまう。。。



                もちろん、そういうことを気軽に言っても良いと思いますが、

                その「言い方」というか、、、

                普通に謙虚さを持つ人なら、言葉の端々のどこかに、「これは自分なりの見解にすぎない」というようなニュアンスが、ちゃんと感じられるのではないか?と思う。



                私が上記のようなことを書いたり言ったりすると、

                「自由に思ったことを言って何が悪い?」「自信を持って何が悪い?」「そんなに他者に気を使って生きたくない」「そんなこと言われたら何も言うことが出来なくなる」、

                と、反論したい人もいらっしゃるかもしれない。

                そういう言い方は、私には、「道で他者の足を踏んでも謝りたくなんかない」「他者の足を踏まないよう気をつけたくなんかない」「自由に他者の足を踏んで何が悪い?」

                そう言っているのと、同じに聞こえてしまう。

                要は、「他者の足を踏むのは私の自由」「足を踏まれて気にするほうが悪い」「足を踏まれて痛がるほうが貧弱」という言い方だ。

                そうではなくて、誰かの足を踏んだら申し訳ないし、誰かを怪我させたら自分も心が痛むから、そんなことしたくないとは考えられないのだろうか?



                もちろん、あまり敏感になりすぎることはないし、遠慮しすぎることもないと思う。

                人間関係は、ズカズカお互いの心に土足で上がりこんでこそ、分かり合えることも多いと思うから。

                とは言え、あまりにも他者の性格・内面などを分かったつもりになりすぎたり、自分の価値観・道徳観・幸福観などを絶対視しすぎることは、

                本人は無自覚のまま、他者の足を踏むのと同じようなもので、時には誰かを傷つけたり、他者の自由・個性・尊厳を否定するものだとも感じる。





                ちなみに私の場合、上記のようなことは、アートや本や映画などを鑑賞する時にも通じます。

                私は、メッセージ性の強い小説・漫画・映画・エッセイ・本なども嫌いではないが、

                あまりにも、そのメッセージを盲信しすぎていたり、全ての人に当てはめようとしすぎている感じだと、私は苦手である。

                それが、どんなに前向きなメッセージでも。

                それが、どんなに共感できるメッセージでも。



                私が好きになる本や映画は、たいてい、主張されるメッセージは「単なる主人公(作者)の個人的な想い」として描かれているか、

                あるいは、作品のどこかに、そのメッセージ(価値観)とは逆の生き方をしている人の素晴らしい姿を描くとか、(※世の中や人間の多様性・多面性を描く)

                あるいは、「でも本当のところは分からない。本当は真理は分からない」と描くとか、

                さもなければ、茶化したようなギャグやユーモアで落とすとか、

                …何でも良いのだけど、作品のどこかに、一つのメッセージ・一つの価値観に縛られることの馬鹿らしさ・愚かしさを匂わせるニュアンスを描いてくれると、共感することが多いです。

                つまり私の場合、「多様性」を認めるニュアンスが無いと、いまいち居心地が悪い。

                人それぞれの尊厳というか、生き方の自由というか。。。





                私は、人それぞれの違い・多様性を大切だと思うからこそ、意見や見解がぶつかったりしてしまうことも、人間関係では当たり前だと思っています。

                なので私は、お互いの言動や作品を批判したり、批判されたりすることも、全然悪いことじゃないと思っている。

                (むしろ、人それぞれの違いを一切認めない態度や、批判や反論を一切許さない雰囲気のほうが苦手です。「そんなの不自然ではないか?」と思ってしまう。皆、違って当然なのだから)。

                「意見や価値観が違う」ということは、「仲が悪い」ということと、全然イコールではないし。



                しかしながら、批判や意見交換をする時でも、

                最低限、人それぞれの違いや多様性も許容している雰囲気が少しは無いと、どうも居心地が悪いのも事実。

                (あるいは、自分自身の感じること・考えることを全く疑おうとしない人との会話は、どうも居心地が悪い)。


                「私の判断や直感や意見や価値観は、もしかしたら間違い・勘違いかもしれない」、

                「私は他者の事情・状況・内面・主張などを、完璧には分かっていないかもしれない」、

                「世の中には私とは違う判断・違う感じ方をする人もいるかもしれない」、

                「私とは違う判断・違う感じ方・違う意見・違う美意識も、案外、悪くないかもしれない」、

                「私にとっての常識・好み・道徳観・倫理観・価値観・死生観・幸福観などは、普遍的な真理ではないかもしれない。全ての人に当てはめてはいけないかもしれない。(意外と、私自身にも当てはめてはいけないのかもしれない。私自身も心や視野が狭く、頑迷なところがあるかもしれない)」、


                そういう感性や想像力を僅かでも持っていない者は、何かに洗脳されている印象を感じてしまいますし、本人は気づかずに、周囲の人の足を踏みまくってしまう印象です。

                私自身も、特定の視点や観点に、常に洗脳されているわけだが。




                P.S.

                もちろん、「多様性を許容したい」とは言え、

                どう考えても「間違い」「愚か」というような意見・価値観は、否定されなければいけないとも思いますがね。

                (例:「1+1は3です」みたいな意見とか、ワルツを聞いているのに「心地良い四拍子だね」という感想とか、受け答えが明らかに論点ズレてるとか、暴力や強制を肯定する価値観とか)。
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