今年もお世話になりました
- 2015.12.31 Thursday
- 16:10
こんにちは。
何かと慌ただしくなりがちな年末、いかがお過ごしでしょうか?
前回記事のレビュー、ネチネチと追記・書き足しましたので、もしご興味ある方は。
今年一年共演して下さったバンドメンバーさん、合唱団メンバーさん、指揮者・声楽家・ピアニストの先生方、当ブログを訪問して下さった方、
今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
只今喪中ですので、当ブログでは、年頭の挨拶は遠慮させて頂きます。
良い年をお迎え下さいますよう、お祈り申し上げます。
何かと慌ただしくなりがちな年末、いかがお過ごしでしょうか?
前回記事のレビュー、ネチネチと追記・書き足しましたので、もしご興味ある方は。
今年一年共演して下さったバンドメンバーさん、合唱団メンバーさん、指揮者・声楽家・ピアニストの先生方、当ブログを訪問して下さった方、
今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
只今喪中ですので、当ブログでは、年頭の挨拶は遠慮させて頂きます。
良い年をお迎え下さいますよう、お祈り申し上げます。
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スターウォーズ、生徒諸君、レビューなど
- 2015.12.29 Tuesday
- 16:42
昨夜「スターウォーズ」放送していて、つい見てしまいました。
初期三部作、中学生頃から何度も見ているのに。^^;
(ちなみに新三部作(エピソード1〜3)は、私も失望した者です)。
昨夜はエピソード5と6が放送していました。
スターウォーズシリーズで、一番好きなところです。
「帝国の逆襲」のラストからエンドロールの流れとか好きすぎて、音楽も考えられないほど素晴らしい。
ストーリーのことは置いておいて、音楽のことを書くと、言うまでもなく素晴らしいの一言。
メインテーマ曲、ダースベイダー曲、ルーク曲、ヨーダ曲など、全ての音楽が素晴らしく、王道で壮大でロマンティックですが、たまに、めちゃくちゃ強引なコード進行があったりして(笑)、
それでも自然に聞こえるというのは、作曲家ジョン・ウィリアムズの天才的な手腕なのでしょう。
私は合唱や歌ものばかり作っていますが、実は、なにげに影響は大きいです。
例えば拙作「生徒諸君に寄せる」は、自分なりには、ジョン・ウィリアムズとベートーヴェンの影響が大きい作品です。
「生徒諸君に寄せる」(作詩:宮沢賢治 作曲:山下晋平)
さて今年も、まあまあ頑張った。
収入などに繋がらないのが悲しいところだが。^^;
特に今年は、所属しているメタルバンドで作曲・編曲を一部担当させて頂き、不器用ながら死力を尽くした。
とても成長できたし、自分の力量不足も痛感した。
来年も、この方向にさらに踏み込んで、何かしらの成果か、
もしくは成果まで行かなくても、理想の作曲に近づけるよう、一歩づつでも半歩づつでも研究していきたい。
さて、そんな想いもあり、ここ数日は、今まであまり聞き込めていなかったアルバムを聞いていました。
メタルやシンフォニックなロック中心ですが。
仮に気に入らなくても、物凄く勉強になりますね。
聞いていたのは、次のアルバム。
以下、一言レビューというか、一言感想を添えて。
■PATH FINDERの2ndアルバム。聞きながら、「とにかく明るいPATH FINDER」と呟いた。アルバム後半や日本版ボーナストラックが、笑っちゃうほど明るい。(1stは、そこまで明るい印象は無かったのですが)。ヴォーカルさんのハイトーン芸(?)が最初うざかったのですが、アルバム後半は、むしろ楽しみにしている自分もいた!?バカっぽくて素晴らしい。アルバム序盤こそ、頻繁なリズムチェンジ・音域の広すぎる歌メロ・細切れな構成に落ち着かなかったが、中盤からガッツリ楽しめた。メロディーがロマンティックで、聞いていると心のキャパシティが広がるようで、大変好ましい。また何度も聞きたい。良かったです!
■HEAVENLYの3rdアルバム。聞きながら、「安心してください、パクってませんよ」と言いたくなった。実際には、某大御所バンドのメロディーを、ほぼそのままパクっていますが…。でも久々に聞いたけど、以前聞いた時より楽しめた。というかこれ、名盤ですね!アレンジ的に、参考にしたいところもたくさん。
■Rhapsodyの2ndアルバム。今まで2ndは、1〜2回しか聞いていなかったので、あらためて聞いてみた。素晴らしかったが、クラシック合唱曲のテンプレっぽいフレーズや、よくある民謡調テンプレっぽいフレーズをパクって、それを自分の作品にそのまま流用してしまうような作曲方法だけは、やはり、あまり好きになれない。(「作曲」というより「引用」や「コラージュ」じゃん?と突っ込みたくなるところ満載)。…でも、とてつもなく素晴らしいアルバムでした。テンプレ流用や引用だけではなく、自力で作曲している部分も、ちゃんとあるし。
■ADAGIOの1stと2ndアルバム。久々に聞きましたが、やはり何度聞いてもダメだった。ここまで演奏とアレンジが完璧なのに、ここまで好きになれないアルバムも珍しい。好きな方、すみません…。^^;
■DARK MOORの6thアルバム。相当良かったけど、彼らの2ndアルバムや3rdアルバムのような、圧倒的なメロディーの美しさは感じられなかった。まあ、2ndと3rdが奇跡的に良すぎるのでしょうけど…。
■WUTHERING HEIGHTSの4thアルバム。曲調やリズムパターンがころころ変化しすぎ。せわしない。良いフレーズは多いのだが、歌の作品として、どっしり安定していない。「木を見て森を見ず」な感じの作曲。もちろん、そこが長所でもあるかもしれない。ころころ変わる変幻自在な刺激性ゆえに、好きになる人もいるかもしれない…。ハマる人はとことんハマる気がします。
■EQUILIBRIUMの3rdアルバム。何曲かは気に入りましたが、やはり「民謡調テンプレ風メロディー」を、そのままパクっているような曲は、イマイチ好きになれない。(あと、ブルース要素も好きになれない)。でも、1曲目と8曲目は、聞きながらガッツポーズ連発でした。素晴らしい!とてつもなく感動的じゃあないか!…さて3rd、私は2ndより気に入りました。2ndは、それこそ「よくある民族調メロディー」をそのまま借用しているような曲が多く、ある意味クラシックより古臭く、手垢のついた音楽に感じられ、(作曲家が自力で作曲していない印象)、何度も繰り返し聞く気にはなれなかった。(たまに、Rhapsodyなどにも同じことを感じる)。しかし3rdは、借り物のフレーズではなく、作曲家が自分自身の歌を奏で、自分自身の心を表現しているようなフレーズが多々あり、「そうこなくては!」と思わせてくれた。やはり私は、何らかの「ジャンルっぽさ」「○○っぽさ」を聞きたいわけではなく、その作曲家自身の魂に触れたいのだ。(例えばバッハなら、「バロックっぽさ」「ドイツっぽさ」という要素はもちろん強いのだが、それ以上に、バッハ自身の感性・美意識・職人芸が感じられるから、私は何度も聞きたくなるし、弾きたくなるのである)。
■LUCA TURILLIの1stアルバム。ダメでした。(個人の感想です)。Rhapsody以上に、テンプレートの借用・流用・引用のみで作曲している印象。…もちろん作曲というものは、ある程度、音楽の伝統・常識・形式などに則って表現するものだとは思うが、もう少し独自のこだわりや霊感が欲しい。(民謡調フレーズも、一回目=ブレイクしてリズム無し、二回目=リズム疾走、みたいなワンパターンが多すぎる)。ベルトコンベヤー式に、テンプレやパターンだけで作っている印象でした。要は、ほとんどのフレーズが理論・理性で割り切れてしまうので、ワクワク感やファンタジーが乏しいというか、左脳的すぎる印象を受けてしまうのです…。私には、心惹かれるフレーズやメロディーがあまり無かったです。あと女声合唱の声質・技術・音程なども稚拙だと思う。(ソロのソプラノは良いと思います)。Rhapsodyの幾つかのアルバムは好きなのですが…。「どちらも同じでは?」という方もいるかもしれませんが、作曲クオリティーが雲泥の差に思われます。…以上、全て個人的感想・個人的主観ではありますが。
■TURISASの3rdアルバム。1stと2ndが大好きだったが、3rdは未聴だった。とても良かったです!1st、2nd以上に好きかも。このバンドは、よくあるクラシックフレーズや、よくある民謡調フレーズも、ただパクって借用せずに、独自の創作・工夫・味わいを施すことが多いので素晴らしい。(転調・リズム・フレーズ作りに、ハッと驚く独自性が多く、なおかつ、分かりやすい爽快感・娯楽性も大事にしている)。独自性と普遍性がどちらも際立っていて、素晴らしいと思いました。ド派手なメイクばかり注目されがちなバンドだけど、とにかく作曲の実力が見事だと思う。(「民謡っぽさ」「ヴァイキングっぽさ」が感じられつつも、そこがメインではなく、ちゃんと作曲家の個性・感性・感情がメインに伝わってくる。理論・理性では解明できないフレーズが多いので、ハートからハートに伝わる感覚がある)。個人的には、2曲目と3曲目が特にお気に入りです。そして8曲目の壮大な盛り上がりは、とてつもない!
全て個人の感想です。
酷評したアルバムも、単に私がそう感じただけで、もちろん気に入る方もいらっしゃると思います。
しかも私も日々、思うがままに作曲できているわけでもない。
酷評したバンドの作曲家さんにも、もちろん応援やリスペクトの気持ちは常に持っています。
…逆に言えば、自分の作品を酷評することも、私は少なくないですし。
私はパクリに厳しいようですが、そういうわけでもないです。
作曲というものは、ある程度、音楽の伝統・常識・形式などに則って表現するものだと思っていますし。
(音楽の「型」を勉強して、それを借用・応用して自分の作品を作るのは、むしろ大切なことだと思っています)。
有名どころだと、例えばモーツァルトなども、「ソナタ形式」とか「ロンド形式」というような、伝統的な「型」「ルール」に則って作曲している…、
でも、フレーズ自体は彼の霊感に基づいているので、問題無いと思います。(問題無いというか、言うまでもなく素晴らしい)。
逆にベートーヴェンなんかは、あまり型・ルールには縛られず、それらをしっかり勉強したうえで、かなり自由に伝統や形式を破壊したタイプですね。
ちなみにベートーヴェンタイプの音楽家の場合、「形式や伝統を破壊する」ということ自体を目標にしてしまうと、作品に分かりやすさ・普遍性・娯楽性が無くなってしまうケースが多い気がします。
モーツァルトタイプの音楽家の場合、己の霊感・魂・美意識などを使わず、あまりにもテンプレートの借用・流用だけで作ってしまうと、魂込めずにベルトコンベヤー式に作っている印象がしてしまいます。
…もちろん音楽家のタイプなんて、きっちり分けられるはずもなく、現代日本人の多くは、伝統・形式を大事にしつつ、なおかつ、自分の心からストレートに出たようなフレーズ・サウンドも追求している方が多いと思いますが。
では最後に、レビュー最後のTURISASの有名な曲を貼っておきます。
TURISAS「Battle Metal」。彼らの最も有名な曲。ストレートでシンプルで分かりやすい、熱血な曲。人生を鼓舞してくれる力の有る曲だと思う!
TURISAS「Ten More Miles」。冒頭のメロディーとコード進行、素晴らしい!渋い低音ヴォーカルも好きである。
初期三部作、中学生頃から何度も見ているのに。^^;
(ちなみに新三部作(エピソード1〜3)は、私も失望した者です)。
昨夜はエピソード5と6が放送していました。
スターウォーズシリーズで、一番好きなところです。
「帝国の逆襲」のラストからエンドロールの流れとか好きすぎて、音楽も考えられないほど素晴らしい。
ストーリーのことは置いておいて、音楽のことを書くと、言うまでもなく素晴らしいの一言。
メインテーマ曲、ダースベイダー曲、ルーク曲、ヨーダ曲など、全ての音楽が素晴らしく、王道で壮大でロマンティックですが、たまに、めちゃくちゃ強引なコード進行があったりして(笑)、
それでも自然に聞こえるというのは、作曲家ジョン・ウィリアムズの天才的な手腕なのでしょう。
私は合唱や歌ものばかり作っていますが、実は、なにげに影響は大きいです。
例えば拙作「生徒諸君に寄せる」は、自分なりには、ジョン・ウィリアムズとベートーヴェンの影響が大きい作品です。
「生徒諸君に寄せる」(作詩:宮沢賢治 作曲:山下晋平)
さて今年も、まあまあ頑張った。
収入などに繋がらないのが悲しいところだが。^^;
特に今年は、所属しているメタルバンドで作曲・編曲を一部担当させて頂き、不器用ながら死力を尽くした。
とても成長できたし、自分の力量不足も痛感した。
来年も、この方向にさらに踏み込んで、何かしらの成果か、
もしくは成果まで行かなくても、理想の作曲に近づけるよう、一歩づつでも半歩づつでも研究していきたい。
さて、そんな想いもあり、ここ数日は、今まであまり聞き込めていなかったアルバムを聞いていました。
メタルやシンフォニックなロック中心ですが。
仮に気に入らなくても、物凄く勉強になりますね。
聞いていたのは、次のアルバム。
以下、一言レビューというか、一言感想を添えて。
■PATH FINDERの2ndアルバム。聞きながら、「とにかく明るいPATH FINDER」と呟いた。アルバム後半や日本版ボーナストラックが、笑っちゃうほど明るい。(1stは、そこまで明るい印象は無かったのですが)。ヴォーカルさんのハイトーン芸(?)が最初うざかったのですが、アルバム後半は、むしろ楽しみにしている自分もいた!?バカっぽくて素晴らしい。アルバム序盤こそ、頻繁なリズムチェンジ・音域の広すぎる歌メロ・細切れな構成に落ち着かなかったが、中盤からガッツリ楽しめた。メロディーがロマンティックで、聞いていると心のキャパシティが広がるようで、大変好ましい。また何度も聞きたい。良かったです!
■HEAVENLYの3rdアルバム。聞きながら、「安心してください、パクってませんよ」と言いたくなった。実際には、某大御所バンドのメロディーを、ほぼそのままパクっていますが…。でも久々に聞いたけど、以前聞いた時より楽しめた。というかこれ、名盤ですね!アレンジ的に、参考にしたいところもたくさん。
■Rhapsodyの2ndアルバム。今まで2ndは、1〜2回しか聞いていなかったので、あらためて聞いてみた。素晴らしかったが、クラシック合唱曲のテンプレっぽいフレーズや、よくある民謡調テンプレっぽいフレーズをパクって、それを自分の作品にそのまま流用してしまうような作曲方法だけは、やはり、あまり好きになれない。(「作曲」というより「引用」や「コラージュ」じゃん?と突っ込みたくなるところ満載)。…でも、とてつもなく素晴らしいアルバムでした。テンプレ流用や引用だけではなく、自力で作曲している部分も、ちゃんとあるし。
■ADAGIOの1stと2ndアルバム。久々に聞きましたが、やはり何度聞いてもダメだった。ここまで演奏とアレンジが完璧なのに、ここまで好きになれないアルバムも珍しい。好きな方、すみません…。^^;
■DARK MOORの6thアルバム。相当良かったけど、彼らの2ndアルバムや3rdアルバムのような、圧倒的なメロディーの美しさは感じられなかった。まあ、2ndと3rdが奇跡的に良すぎるのでしょうけど…。
■WUTHERING HEIGHTSの4thアルバム。曲調やリズムパターンがころころ変化しすぎ。せわしない。良いフレーズは多いのだが、歌の作品として、どっしり安定していない。「木を見て森を見ず」な感じの作曲。もちろん、そこが長所でもあるかもしれない。ころころ変わる変幻自在な刺激性ゆえに、好きになる人もいるかもしれない…。ハマる人はとことんハマる気がします。
■EQUILIBRIUMの3rdアルバム。何曲かは気に入りましたが、やはり「民謡調テンプレ風メロディー」を、そのままパクっているような曲は、イマイチ好きになれない。(あと、ブルース要素も好きになれない)。でも、1曲目と8曲目は、聞きながらガッツポーズ連発でした。素晴らしい!とてつもなく感動的じゃあないか!…さて3rd、私は2ndより気に入りました。2ndは、それこそ「よくある民族調メロディー」をそのまま借用しているような曲が多く、ある意味クラシックより古臭く、手垢のついた音楽に感じられ、(作曲家が自力で作曲していない印象)、何度も繰り返し聞く気にはなれなかった。(たまに、Rhapsodyなどにも同じことを感じる)。しかし3rdは、借り物のフレーズではなく、作曲家が自分自身の歌を奏で、自分自身の心を表現しているようなフレーズが多々あり、「そうこなくては!」と思わせてくれた。やはり私は、何らかの「ジャンルっぽさ」「○○っぽさ」を聞きたいわけではなく、その作曲家自身の魂に触れたいのだ。(例えばバッハなら、「バロックっぽさ」「ドイツっぽさ」という要素はもちろん強いのだが、それ以上に、バッハ自身の感性・美意識・職人芸が感じられるから、私は何度も聞きたくなるし、弾きたくなるのである)。
■LUCA TURILLIの1stアルバム。ダメでした。(個人の感想です)。Rhapsody以上に、テンプレートの借用・流用・引用のみで作曲している印象。…もちろん作曲というものは、ある程度、音楽の伝統・常識・形式などに則って表現するものだとは思うが、もう少し独自のこだわりや霊感が欲しい。(民謡調フレーズも、一回目=ブレイクしてリズム無し、二回目=リズム疾走、みたいなワンパターンが多すぎる)。ベルトコンベヤー式に、テンプレやパターンだけで作っている印象でした。要は、ほとんどのフレーズが理論・理性で割り切れてしまうので、ワクワク感やファンタジーが乏しいというか、左脳的すぎる印象を受けてしまうのです…。私には、心惹かれるフレーズやメロディーがあまり無かったです。あと女声合唱の声質・技術・音程なども稚拙だと思う。(ソロのソプラノは良いと思います)。Rhapsodyの幾つかのアルバムは好きなのですが…。「どちらも同じでは?」という方もいるかもしれませんが、作曲クオリティーが雲泥の差に思われます。…以上、全て個人的感想・個人的主観ではありますが。
■TURISASの3rdアルバム。1stと2ndが大好きだったが、3rdは未聴だった。とても良かったです!1st、2nd以上に好きかも。このバンドは、よくあるクラシックフレーズや、よくある民謡調フレーズも、ただパクって借用せずに、独自の創作・工夫・味わいを施すことが多いので素晴らしい。(転調・リズム・フレーズ作りに、ハッと驚く独自性が多く、なおかつ、分かりやすい爽快感・娯楽性も大事にしている)。独自性と普遍性がどちらも際立っていて、素晴らしいと思いました。ド派手なメイクばかり注目されがちなバンドだけど、とにかく作曲の実力が見事だと思う。(「民謡っぽさ」「ヴァイキングっぽさ」が感じられつつも、そこがメインではなく、ちゃんと作曲家の個性・感性・感情がメインに伝わってくる。理論・理性では解明できないフレーズが多いので、ハートからハートに伝わる感覚がある)。個人的には、2曲目と3曲目が特にお気に入りです。そして8曲目の壮大な盛り上がりは、とてつもない!
全て個人の感想です。
酷評したアルバムも、単に私がそう感じただけで、もちろん気に入る方もいらっしゃると思います。
しかも私も日々、思うがままに作曲できているわけでもない。
酷評したバンドの作曲家さんにも、もちろん応援やリスペクトの気持ちは常に持っています。
…逆に言えば、自分の作品を酷評することも、私は少なくないですし。
私はパクリに厳しいようですが、そういうわけでもないです。
作曲というものは、ある程度、音楽の伝統・常識・形式などに則って表現するものだと思っていますし。
(音楽の「型」を勉強して、それを借用・応用して自分の作品を作るのは、むしろ大切なことだと思っています)。
有名どころだと、例えばモーツァルトなども、「ソナタ形式」とか「ロンド形式」というような、伝統的な「型」「ルール」に則って作曲している…、
でも、フレーズ自体は彼の霊感に基づいているので、問題無いと思います。(問題無いというか、言うまでもなく素晴らしい)。
逆にベートーヴェンなんかは、あまり型・ルールには縛られず、それらをしっかり勉強したうえで、かなり自由に伝統や形式を破壊したタイプですね。
ちなみにベートーヴェンタイプの音楽家の場合、「形式や伝統を破壊する」ということ自体を目標にしてしまうと、作品に分かりやすさ・普遍性・娯楽性が無くなってしまうケースが多い気がします。
モーツァルトタイプの音楽家の場合、己の霊感・魂・美意識などを使わず、あまりにもテンプレートの借用・流用だけで作ってしまうと、魂込めずにベルトコンベヤー式に作っている印象がしてしまいます。
…もちろん音楽家のタイプなんて、きっちり分けられるはずもなく、現代日本人の多くは、伝統・形式を大事にしつつ、なおかつ、自分の心からストレートに出たようなフレーズ・サウンドも追求している方が多いと思いますが。
では最後に、レビュー最後のTURISASの有名な曲を貼っておきます。
TURISAS「Battle Metal」。彼らの最も有名な曲。ストレートでシンプルで分かりやすい、熱血な曲。人生を鼓舞してくれる力の有る曲だと思う!
TURISAS「Ten More Miles」。冒頭のメロディーとコード進行、素晴らしい!渋い低音ヴォーカルも好きである。
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パイプオルガン
- 2015.12.26 Saturday
- 23:59
(※昨日・今日で、ブログ記事を四つ更新しました。よろしければどうぞ)。
さて、「クリスマスだったから」という理由では全くないが。
昨日、パイプオルガンのCDを大量に購入しました。
仕事柄、パイプオルガンは生で聞いたり、共演させて頂いたことも多かったのだが、
「あの響きは生で体感しないと意味がない」という想いから、あまりCDは持っていなかったのです。
しかし、やはり参考資料として持っておきたいと思い、購入しました。
(メタルバンドのキーボードも、チェンバロやパイプオルガンを多用しますし)。
取り敢えず、バッハ、フランク、ラインベルガー、レーガー、ブルックナー、ヒンデミットあたりを購入しました。
バッハは言うまでもなくリスペクトですが、ヒンデミットのパイプオルガンのソナタ第2番とかも、わたくし大好きなのです。あの独特な空気感…!
これから聞こうと思いますが、ワクワクして腹が痛くなってきた。。。^^;
あとメシアンも欲しいのですが、作品数が多いので、「オルガン作品全集」まで要るのかどうか、迷うところ。
そして全集でないなら、どの曲のCDを購入するか?
などなど、選別が難しく、メシアン購入は後日ですね。^^;
そして、パイプオルガンと言えば、「宇宙戦艦ヤマト」の「白色彗星」ィィィ〜!
ヤマトは有名な主題歌も良いですが、あと「無限に広がる大宇宙」も、ほんと大好きです。
「無限に広がる大宇宙」
子供ながらに、身も心もどうかなりそうなほど感動した曲。宮川泰作曲。
ただ美しいだけでもない、ただ哀しいだけでもない、ただ切ないだけでもない…、恋焦がれながら憧れるような(?)、それでいて、身も心も今ここで朽ち果ててしまうような(?)、それでいて、安らぎや諦観にも満たされているような(?)、
要は、言語や概念や感情に置き換えるのは難しい、ということ。
子供ながらに、そんな印象でした。
(今聞いても、そういうふうに感じます。わたくし、当時から人格や性格は大きく変化しましたし、趣味や好みも広がりましたし、考え方や価値観も広がりましたが…、根本的な感性・音楽性は、あまり変わってませんねー。…それが良いのか悪いのかは分かりませんが)。
圧倒的名曲だと思います!
「白色彗星」
ズォーダー大帝率いる白色彗星帝国のテーマ。
パイプオルガンが荘厳に鳴り響きます。
白色彗星帝国は、戦力が強大すぎて、子供ながらに泣きそうになりました。
どう考えても、ヤマトが太刀打ちできる相手ではないのです。
それにしてもヤマト、名作でした。
あまりにも自己犠牲というか、特攻精神みたいなのは嫌いですが、絶望的状況の中でも地球の平和を目指す姿は、涙ぐましいです!
波動砲が好きだったな。。。
キャラでは、デスラー総統が好きですね。(青っちろい顔で、絶対、「ヤマトの諸君…」って言う。「ガミラスに下品な男は不要だ」も好きだった)。
ヤマトとガンダムは、どちらも名作だが、どちらも内容は根暗だ。。。
そしてパイプオルガンと言えば、FF6のラスボス「妖星乱舞」という曲も、壮大なパイプオルガンが入っていて、素晴らしい曲でした。
「妖星乱舞」
プログレ+メタル+バロック+現代音楽、という感じの音楽性。
好きに決まってる!
戦闘シーンのBGMなのに、8:15あたりからは、不思議に安らぎや荘厳ささえ感じられて、私はゲーム発売当時、リアルタイムでプレーしていましたが、心底、感動したものです。
作曲は植松伸夫さん。
中学生頃、ファンレター出した記憶あります。
多分、この人の曲を聞いていなかったら、私は作曲をやらなかっただろうな。
私はゲーム自体には夢中にはなりませんでしたが、FFシリーズ、ゼルダシリーズ、グラディウスあたりのBGMにはとても惹かれ、耳コピしてピアノで弾いたりしていました。
さて、FFシリーズだと、特にFF3の曲が、旋律が綺麗で、哀しいのに安らぐような優しいメロディーばかりで、非常に好きですね。
FF3「故郷の街ウル」とか「悠久の風」とか、「アムルの街」とか「果てしなき大海原」とか、「水の巫女エリア」とか「エンディングテーマ」の冒頭とか。
上記あたりの楽曲は、古今東西、あらゆる音楽作品の中で、「メロディー」ということに関して言えば、最高に好きな曲の一つです。
哀しいのに優しくて、儚いのに永遠のような(?)、本当に素晴らしいメロディーです。
ご興味ある方、ぜひ検索して聞いてみて下さい。
(ちなみにFFシリーズの音楽は、「FF3」、「FF5」、「FF6」、「FF7」、「ケルティックムーン」あたりが、特に好きです)。
さて、「クリスマスだったから」という理由では全くないが。
昨日、パイプオルガンのCDを大量に購入しました。
仕事柄、パイプオルガンは生で聞いたり、共演させて頂いたことも多かったのだが、
「あの響きは生で体感しないと意味がない」という想いから、あまりCDは持っていなかったのです。
しかし、やはり参考資料として持っておきたいと思い、購入しました。
(メタルバンドのキーボードも、チェンバロやパイプオルガンを多用しますし)。
取り敢えず、バッハ、フランク、ラインベルガー、レーガー、ブルックナー、ヒンデミットあたりを購入しました。
バッハは言うまでもなくリスペクトですが、ヒンデミットのパイプオルガンのソナタ第2番とかも、わたくし大好きなのです。あの独特な空気感…!
これから聞こうと思いますが、ワクワクして腹が痛くなってきた。。。^^;
あとメシアンも欲しいのですが、作品数が多いので、「オルガン作品全集」まで要るのかどうか、迷うところ。
そして全集でないなら、どの曲のCDを購入するか?
などなど、選別が難しく、メシアン購入は後日ですね。^^;
そして、パイプオルガンと言えば、「宇宙戦艦ヤマト」の「白色彗星」ィィィ〜!
ヤマトは有名な主題歌も良いですが、あと「無限に広がる大宇宙」も、ほんと大好きです。
「無限に広がる大宇宙」
子供ながらに、身も心もどうかなりそうなほど感動した曲。宮川泰作曲。
ただ美しいだけでもない、ただ哀しいだけでもない、ただ切ないだけでもない…、恋焦がれながら憧れるような(?)、それでいて、身も心も今ここで朽ち果ててしまうような(?)、それでいて、安らぎや諦観にも満たされているような(?)、
要は、言語や概念や感情に置き換えるのは難しい、ということ。
子供ながらに、そんな印象でした。
(今聞いても、そういうふうに感じます。わたくし、当時から人格や性格は大きく変化しましたし、趣味や好みも広がりましたし、考え方や価値観も広がりましたが…、根本的な感性・音楽性は、あまり変わってませんねー。…それが良いのか悪いのかは分かりませんが)。
圧倒的名曲だと思います!
「白色彗星」
ズォーダー大帝率いる白色彗星帝国のテーマ。
パイプオルガンが荘厳に鳴り響きます。
白色彗星帝国は、戦力が強大すぎて、子供ながらに泣きそうになりました。
どう考えても、ヤマトが太刀打ちできる相手ではないのです。
それにしてもヤマト、名作でした。
あまりにも自己犠牲というか、特攻精神みたいなのは嫌いですが、絶望的状況の中でも地球の平和を目指す姿は、涙ぐましいです!
波動砲が好きだったな。。。
キャラでは、デスラー総統が好きですね。(青っちろい顔で、絶対、「ヤマトの諸君…」って言う。「ガミラスに下品な男は不要だ」も好きだった)。
ヤマトとガンダムは、どちらも名作だが、どちらも内容は根暗だ。。。
そしてパイプオルガンと言えば、FF6のラスボス「妖星乱舞」という曲も、壮大なパイプオルガンが入っていて、素晴らしい曲でした。
「妖星乱舞」
プログレ+メタル+バロック+現代音楽、という感じの音楽性。
好きに決まってる!
戦闘シーンのBGMなのに、8:15あたりからは、不思議に安らぎや荘厳ささえ感じられて、私はゲーム発売当時、リアルタイムでプレーしていましたが、心底、感動したものです。
作曲は植松伸夫さん。
中学生頃、ファンレター出した記憶あります。
多分、この人の曲を聞いていなかったら、私は作曲をやらなかっただろうな。
私はゲーム自体には夢中にはなりませんでしたが、FFシリーズ、ゼルダシリーズ、グラディウスあたりのBGMにはとても惹かれ、耳コピしてピアノで弾いたりしていました。
さて、FFシリーズだと、特にFF3の曲が、旋律が綺麗で、哀しいのに安らぐような優しいメロディーばかりで、非常に好きですね。
FF3「故郷の街ウル」とか「悠久の風」とか、「アムルの街」とか「果てしなき大海原」とか、「水の巫女エリア」とか「エンディングテーマ」の冒頭とか。
上記あたりの楽曲は、古今東西、あらゆる音楽作品の中で、「メロディー」ということに関して言えば、最高に好きな曲の一つです。
哀しいのに優しくて、儚いのに永遠のような(?)、本当に素晴らしいメロディーです。
ご興味ある方、ぜひ検索して聞いてみて下さい。
(ちなみにFFシリーズの音楽は、「FF3」、「FF5」、「FF6」、「FF7」、「ケルティックムーン」あたりが、特に好きです)。
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岡本太郎の言葉
- 2015.12.26 Saturday
- 23:57
今年もあと5日とかいう悪質なデマが流れておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
…はい、デマではない、と。。。
今年一年、共演して下さったバンドメンバー、合唱団メンバー、声楽家・指揮者・ピアニストの先生方、
ありがとうございました!
来年もよろしくお願いいたします!
さて当記事では、何となく岡本太郎氏の言葉を。
■「人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ」
■「自信は無い。でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ」
■「人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それで爽やかだ」
■「本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ」
■「持って生まれた性格は、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい。内向性は悪いことだと思っているから、ますます内向的になってしまう」
■「挑戦したうえでの不成功者と、挑戦を避けたままの不成功者とでは天地の隔たりがある」
■「人生に命を賭けていないんだ。だから、とかくただの傍観者になってしまう」
■「この瞬間、瞬間に、若さとか、年よりとか、力があるないとか、才能とか、金とか、あらゆる条件を超えて、その持てるぎりぎりいっぱいの容量で挑み、生きるということだ」
■「自分には才能がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい、今まで世の中で能力とか、才能なんて思われていたものを超えた、決意の凄みを見せてやる、というつもりでやればいいんだよ」
■「自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ」
■「自然に生き、自分の気持ちをほんとうに伸ばしてゆこうとすれば、まず、いたるところで残酷に、壁に突き当たる」
■「なぜ、友達に愉快な奴だと思われる必要があるんだろう。こういうタチの人は自動的にみんなに気を使って、サービスしてしまうんだろうけど。それは他人のためというより、つまりは自分の立場を良くしたい、自分を楽なポジションにおいておきたいからだということをもっと突き詰めて考えてみたほうがいい。もっと厳しく自分を突き放してみてはどうだろう」
■「芸術なんて、道ばたに転がっている石ころと等価値だ」
■「この世には根性を貫いたがゆえに、敗れ去った人だっていっぱいいる。純粋であればあるほど、この世では敗れざるを得ない。まったくの無名の人物でも、素晴らしい、己を貫いた尊敬に価する人物はいっぱい存在したはずだろう」
■「孤独感を持っているのはキミだけじゃない。人間全部が孤独感を持っている」
■「宇宙的ではなく宇宙なんだ」
私は、太郎氏の言葉や作品、その全てに感動を覚えるわけではないです、
しかし上記の言葉には、どれも心から共感です。
(※ちなみに太郎作品は、絵画だと「夜」「森の掟」「樹人」「エクセホモ」「千手」あたり、彫刻だと「動物」「犬の植木鉢」「午後の日」あたり、とても好きですね)。
私も、来年も挑んでいきます。
もちろん、一生作品が日の目を見ない可能性も覚悟はしているし、志半ばで朽ち果ててしまう可能性も覚悟している、
だからこそ、太郎氏の言葉には共感します。
挑まないという選択肢は、全くイメージできないし。
岡本太郎氏の言葉に共感するのは、安易なポジティブさが無いからでしょうか。(ただし、魂の底からのポジティブさは感じられる)。
…そして私の場合、子供の頃から、「そもそも自分が何をやりたいか分からない」、「そもそも自分の想い・人格・価値観などは全て幻想で嘘っぱち」、「すなわち自己の不在感・アイデンティティの虚構性」、
というような感覚も、着いて回っていました。
でも太郎氏の「内向性」の話や、「決意の凄み」の話にもあるように、
自分の中の、そういう一見ネガティブなところを見ないフリをするのは、どうも居心地が悪い。
それに、普通に誠実に生きようと思ったら、自分自身の嘘・自分自身の矮小さ・自分自身の卑小さ・自分自身の能力の低さ・視野の狭さ・自信の無さ・才能の無さなど、気付いてしまうのが当たり前なので、
ちゃんと気付きつつ、でも、そんなことは関係ないし、問題視することでもない。
自分の心の中に何が有っても、どんな経験や出来事がやって来ても、
まずは、自分に縁があるものとして、(自分自身として)、丸ごと認めたい感覚がある。私の場合は。
苦しみ・悩み・迷い・絶望感・虚無感なども、見ないフリをせず、むしろ味わい尽くしたい。
そのうえで、
■「自信はない。でもとにかくやってみようと決意する。ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また。それしかないんだ」
■「人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか」
■「本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ」
■「持って生まれた性格は、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい」
上記のような言葉に共感するし、その通りだと思います。
太郎氏のメッセージには、「前向きになれ」「自信を持て」「こうすれば成功できる」みたいなムードは感じない、
感情や価値観を表面的に操作・整備しようとするのでなく、本質からのポジティブさを感じます。
…はい、デマではない、と。。。
今年一年、共演して下さったバンドメンバー、合唱団メンバー、声楽家・指揮者・ピアニストの先生方、
ありがとうございました!
来年もよろしくお願いいたします!
さて当記事では、何となく岡本太郎氏の言葉を。
■「人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ」
■「自信は無い。でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ」
■「人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それで爽やかだ」
■「本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ」
■「持って生まれた性格は、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい。内向性は悪いことだと思っているから、ますます内向的になってしまう」
■「挑戦したうえでの不成功者と、挑戦を避けたままの不成功者とでは天地の隔たりがある」
■「人生に命を賭けていないんだ。だから、とかくただの傍観者になってしまう」
■「この瞬間、瞬間に、若さとか、年よりとか、力があるないとか、才能とか、金とか、あらゆる条件を超えて、その持てるぎりぎりいっぱいの容量で挑み、生きるということだ」
■「自分には才能がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい、今まで世の中で能力とか、才能なんて思われていたものを超えた、決意の凄みを見せてやる、というつもりでやればいいんだよ」
■「自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ」
■「自然に生き、自分の気持ちをほんとうに伸ばしてゆこうとすれば、まず、いたるところで残酷に、壁に突き当たる」
■「なぜ、友達に愉快な奴だと思われる必要があるんだろう。こういうタチの人は自動的にみんなに気を使って、サービスしてしまうんだろうけど。それは他人のためというより、つまりは自分の立場を良くしたい、自分を楽なポジションにおいておきたいからだということをもっと突き詰めて考えてみたほうがいい。もっと厳しく自分を突き放してみてはどうだろう」
■「芸術なんて、道ばたに転がっている石ころと等価値だ」
■「この世には根性を貫いたがゆえに、敗れ去った人だっていっぱいいる。純粋であればあるほど、この世では敗れざるを得ない。まったくの無名の人物でも、素晴らしい、己を貫いた尊敬に価する人物はいっぱい存在したはずだろう」
■「孤独感を持っているのはキミだけじゃない。人間全部が孤独感を持っている」
■「宇宙的ではなく宇宙なんだ」
私は、太郎氏の言葉や作品、その全てに感動を覚えるわけではないです、
しかし上記の言葉には、どれも心から共感です。
(※ちなみに太郎作品は、絵画だと「夜」「森の掟」「樹人」「エクセホモ」「千手」あたり、彫刻だと「動物」「犬の植木鉢」「午後の日」あたり、とても好きですね)。
私も、来年も挑んでいきます。
もちろん、一生作品が日の目を見ない可能性も覚悟はしているし、志半ばで朽ち果ててしまう可能性も覚悟している、
だからこそ、太郎氏の言葉には共感します。
挑まないという選択肢は、全くイメージできないし。
岡本太郎氏の言葉に共感するのは、安易なポジティブさが無いからでしょうか。(ただし、魂の底からのポジティブさは感じられる)。
…そして私の場合、子供の頃から、「そもそも自分が何をやりたいか分からない」、「そもそも自分の想い・人格・価値観などは全て幻想で嘘っぱち」、「すなわち自己の不在感・アイデンティティの虚構性」、
というような感覚も、着いて回っていました。
でも太郎氏の「内向性」の話や、「決意の凄み」の話にもあるように、
自分の中の、そういう一見ネガティブなところを見ないフリをするのは、どうも居心地が悪い。
それに、普通に誠実に生きようと思ったら、自分自身の嘘・自分自身の矮小さ・自分自身の卑小さ・自分自身の能力の低さ・視野の狭さ・自信の無さ・才能の無さなど、気付いてしまうのが当たり前なので、
ちゃんと気付きつつ、でも、そんなことは関係ないし、問題視することでもない。
自分の心の中に何が有っても、どんな経験や出来事がやって来ても、
まずは、自分に縁があるものとして、(自分自身として)、丸ごと認めたい感覚がある。私の場合は。
苦しみ・悩み・迷い・絶望感・虚無感なども、見ないフリをせず、むしろ味わい尽くしたい。
そのうえで、
■「自信はない。でもとにかくやってみようと決意する。ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また。それしかないんだ」
■「人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか」
■「本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ」
■「持って生まれた性格は、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい」
上記のような言葉に共感するし、その通りだと思います。
太郎氏のメッセージには、「前向きになれ」「自信を持て」「こうすれば成功できる」みたいなムードは感じない、
感情や価値観を表面的に操作・整備しようとするのでなく、本質からのポジティブさを感じます。
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村上龍「映画小説集」
- 2015.12.25 Friday
- 22:47
数日前、なぜか久々に村上龍氏の自伝的な小説を読みたくなりました。
そしてここ数日、「映画小説集」を読んでいました。
福生を舞台にした、半自伝的な小説です。
(龍氏は若い頃、福生の米軍ハウスに住んでいました。当時、米軍ハウスに住む若手アーチストは多かったようです)。
龍氏の文章の、ハードボイルドさというか、タフな感じの精神性に惹かれます。
もちろん、その「タフさ」というのは、ドラッグやヒッピー文化みたいな、浅い表面的なところではない。
では、どういう「タフさ」か?
龍氏の小説は、たまに、驚くほど、大事なところを説明しない時があるのです。
私は割と、「私の気持ちを分かって欲しい」「私のことを理解して欲しい」みたいな(?)、良くも悪くも甘えたようなところがあるのだが(笑)、
だからこそ、龍氏の文章の説明不足な感じ…、
「誰に分かってもらわなくても構わないさ」とでも言い出しそうなタフさに、惹かれることがあります。
もちろんそれは、「バカには説明しても分からない」みたいな、少し自惚れた考え方も含んでいるのかもしれませんが、
そうであっても、そういう強気な自惚れというものが、心地良く感じる時もあります。
(人の目を気にしない感じ)。
龍氏の文章は、私にとっては読みにくいです、
マシンガンのようにダダダダーッと言葉を羅列し、その過剰さに辟易させたところで、「最後の最後で説明不足」、みたいな(笑)。
ズコーッ、みたいな。
私にとっては、龍氏の文章は、ジャンクフードとかハンバーガーとかホットドックとかと同じで、毎日は食べたくないですが、たまに食べたくなりますね。
(ところが、龍氏短編集「空港にて」は、恐ろしく静寂というか、「無心」や「無我」や「静観」のような境地を感じた…。事象や意識の流れを徹底的に静観することで、「自己の不在感」というか、拠り所にしている自我・アイデンティティーの脆さを暴く感じ。タフで自我が強い感じの作品ばかりだと思っていたので、かなり意外でした。機会があったら、また読み直してみたいものだ。今読んだら、また違う印象を抱くかもしれないが)。
ちなみに私にとって読みやすいのは、村上春樹、山田詠美、小川洋子あたり。
もちろん作品によっては苦手なものも多々ありますが。
春樹氏の、表面的にはポップだけど、深遠を覗き込むような怖い感じ。人生や生命の謎を理性で解明しようとしない感じ。(「アフターダーク」「スプートニクの恋人」「納屋を焼く」「午後の最後の芝生」あたりが、特に好きです)
詠美氏の、常人は気付こうともしない感情の裏の感情・意識の裏の意識・自意識の裏の自意識にまで、徹底的に光を当てて、それを極上の美しい言葉で紡ぐ感じ。(「晩年の子供」「色彩の息子」あたりがお気に入り)
洋子氏の、まるで石を一つ一つ積み上げるように、丁寧に丁寧に言葉を紡ぎ、祈りや瞑想のような静けささえ感じさせる雰囲気。(「偶然の祝福」「シュガータイム」あたりとか?)
これらは、文句なく読みやすいし、共感できます。
(※詠美氏「色彩の息子」は、内容に共感するというより、徹底的に自意識の裏に気付いてしまう精神性そのものに共感します)。
でも、音楽鑑賞や人付き合いも同じことが言えるけど、
私の場合、必ずしも「共感」「同意見」だけを求めたいわけでもないです。
むしろ、「自分の発想では、理解も共感も出来ないからこそ惹かれる」という場合も、多いと思います。
音楽で言えば、ベートーヴェンとかシューベルトあたりの音楽は、私は自分自身のことのように、すんなり共感・同調しますが、
例えばメシアンとか、どうしてああいう和音やフレーズが出てくるのか、私の感性・頭脳では、理解も共感も不可能です(笑)、
…でも、だからこそ、聞いていると「スゲー!」と感じるし、私の想像や予想を超えて「美しい!」と感じるし、大袈裟に言えば「超常現象的」とも感じられて、トランスしてしまうような心地良さがあります。
音楽も文学も人付き合いも、
自分と同類・同意見のものを求めていくのも心地良いですが、意外と、自分とは異質と感じるものも、食わず嫌いせず、付き合ってみたり、取り入れてみることで、
むしろ、「自分で自分を狭く限定していただけだった」と、気付くことも多々あるのではないかと思う。
もちろん、どうしても嫌いなものを、無理してまで聞いたり読んだりする必要はないでしょうけど。
でも、「同類」「同質」ばかりに囲まれて生きるのは、私はつまらないかな。
一度限りの人生、凝り固まった自分の感性・常識・見解など、日々、徹底的に破壊したって心地良いのではないか。
…とは言え、粋がって、いかにも自己破壊・自己変革しているように振る舞うのでは、もちろん意味は無いから、
無理することはないし、何かをアピールして演じることもないが、
(「自分はアピールしない人間である」ということをアピールすることもない)、
少なくとも、今現在の私には理解・共感が困難なものに対しても、あまり食わず嫌いや拒絶をしすぎないよう、オープンな心持ちでいたいものである。
そんなわけで、村上龍氏「映画小説集」を読んでの雑感でした。
近々「空港にて」も読み直してみたい。
そして本日はイエスさんお誕生日おめでとうございます、
私のような人間ですら、今日という日は、優しい音楽とか聞きたくなりますね。(^^)
…いや、そこをあえて「オーメン」のサントラでも聞くか?
それはそうとイエス誕生日は諸説あるらしく、本当は不明らしいですね。
まあ、今日が生誕を記念する日であることは、間違いないと思うが。。。
そしてここ数日、「映画小説集」を読んでいました。
福生を舞台にした、半自伝的な小説です。
(龍氏は若い頃、福生の米軍ハウスに住んでいました。当時、米軍ハウスに住む若手アーチストは多かったようです)。
龍氏の文章の、ハードボイルドさというか、タフな感じの精神性に惹かれます。
もちろん、その「タフさ」というのは、ドラッグやヒッピー文化みたいな、浅い表面的なところではない。
では、どういう「タフさ」か?
龍氏の小説は、たまに、驚くほど、大事なところを説明しない時があるのです。
私は割と、「私の気持ちを分かって欲しい」「私のことを理解して欲しい」みたいな(?)、良くも悪くも甘えたようなところがあるのだが(笑)、
だからこそ、龍氏の文章の説明不足な感じ…、
「誰に分かってもらわなくても構わないさ」とでも言い出しそうなタフさに、惹かれることがあります。
もちろんそれは、「バカには説明しても分からない」みたいな、少し自惚れた考え方も含んでいるのかもしれませんが、
そうであっても、そういう強気な自惚れというものが、心地良く感じる時もあります。
(人の目を気にしない感じ)。
龍氏の文章は、私にとっては読みにくいです、
マシンガンのようにダダダダーッと言葉を羅列し、その過剰さに辟易させたところで、「最後の最後で説明不足」、みたいな(笑)。
ズコーッ、みたいな。
私にとっては、龍氏の文章は、ジャンクフードとかハンバーガーとかホットドックとかと同じで、毎日は食べたくないですが、たまに食べたくなりますね。
(ところが、龍氏短編集「空港にて」は、恐ろしく静寂というか、「無心」や「無我」や「静観」のような境地を感じた…。事象や意識の流れを徹底的に静観することで、「自己の不在感」というか、拠り所にしている自我・アイデンティティーの脆さを暴く感じ。タフで自我が強い感じの作品ばかりだと思っていたので、かなり意外でした。機会があったら、また読み直してみたいものだ。今読んだら、また違う印象を抱くかもしれないが)。
ちなみに私にとって読みやすいのは、村上春樹、山田詠美、小川洋子あたり。
もちろん作品によっては苦手なものも多々ありますが。
春樹氏の、表面的にはポップだけど、深遠を覗き込むような怖い感じ。人生や生命の謎を理性で解明しようとしない感じ。(「アフターダーク」「スプートニクの恋人」「納屋を焼く」「午後の最後の芝生」あたりが、特に好きです)
詠美氏の、常人は気付こうともしない感情の裏の感情・意識の裏の意識・自意識の裏の自意識にまで、徹底的に光を当てて、それを極上の美しい言葉で紡ぐ感じ。(「晩年の子供」「色彩の息子」あたりがお気に入り)
洋子氏の、まるで石を一つ一つ積み上げるように、丁寧に丁寧に言葉を紡ぎ、祈りや瞑想のような静けささえ感じさせる雰囲気。(「偶然の祝福」「シュガータイム」あたりとか?)
これらは、文句なく読みやすいし、共感できます。
(※詠美氏「色彩の息子」は、内容に共感するというより、徹底的に自意識の裏に気付いてしまう精神性そのものに共感します)。
でも、音楽鑑賞や人付き合いも同じことが言えるけど、
私の場合、必ずしも「共感」「同意見」だけを求めたいわけでもないです。
むしろ、「自分の発想では、理解も共感も出来ないからこそ惹かれる」という場合も、多いと思います。
音楽で言えば、ベートーヴェンとかシューベルトあたりの音楽は、私は自分自身のことのように、すんなり共感・同調しますが、
例えばメシアンとか、どうしてああいう和音やフレーズが出てくるのか、私の感性・頭脳では、理解も共感も不可能です(笑)、
…でも、だからこそ、聞いていると「スゲー!」と感じるし、私の想像や予想を超えて「美しい!」と感じるし、大袈裟に言えば「超常現象的」とも感じられて、トランスしてしまうような心地良さがあります。
音楽も文学も人付き合いも、
自分と同類・同意見のものを求めていくのも心地良いですが、意外と、自分とは異質と感じるものも、食わず嫌いせず、付き合ってみたり、取り入れてみることで、
むしろ、「自分で自分を狭く限定していただけだった」と、気付くことも多々あるのではないかと思う。
もちろん、どうしても嫌いなものを、無理してまで聞いたり読んだりする必要はないでしょうけど。
でも、「同類」「同質」ばかりに囲まれて生きるのは、私はつまらないかな。
一度限りの人生、凝り固まった自分の感性・常識・見解など、日々、徹底的に破壊したって心地良いのではないか。
…とは言え、粋がって、いかにも自己破壊・自己変革しているように振る舞うのでは、もちろん意味は無いから、
無理することはないし、何かをアピールして演じることもないが、
(「自分はアピールしない人間である」ということをアピールすることもない)、
少なくとも、今現在の私には理解・共感が困難なものに対しても、あまり食わず嫌いや拒絶をしすぎないよう、オープンな心持ちでいたいものである。
そんなわけで、村上龍氏「映画小説集」を読んでの雑感でした。
近々「空港にて」も読み直してみたい。
そして本日はイエスさんお誕生日おめでとうございます、
私のような人間ですら、今日という日は、優しい音楽とか聞きたくなりますね。(^^)
…いや、そこをあえて「オーメン」のサントラでも聞くか?
それはそうとイエス誕生日は諸説あるらしく、本当は不明らしいですね。
まあ、今日が生誕を記念する日であることは、間違いないと思うが。。。
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全ての価値観はクズ
- 2015.12.25 Friday
- 22:46
「今ここ」「今が全て」という格言(価値観)は好きだし、真実だとも思う。
しかし一方で、フレディー・マーキュリーの発言、「Fuck today,it’s tomorrow(今日なんかクソくらえ。明日が勝負さ)」や、名曲「明日があるさ」や、嵐の歌詞「今が全てじゃないから、あんまりムキになるなよ」、
というような考え方も、とても痛快&安心な感じがする。
(アニメ「キャンディ・キャンディー」の終わりの歌は、「明日が好き」という歌詞でした。素晴らしい歌でした。ミュージカル「アニー」の「Tomorrow」も、そんな感じの素晴らしい歌だと思います。…一方で、「RENT」の「No day,but today」も、大好きなのですが)。
「今が全てじゃない」という感性や価値観も、「今」の過ごし方の一つとして、充分アリだと思う。
ただし行き過ぎると、「俺はまだ本気出してないだけ」というふうにもなってしまうが(笑)、
懸命に誠実に生きた結果、今日、失敗したり誤解されたりしてしまったら、そんなふうに気持ちを切り替えるのも悪くないのではないか、と思う。
(例えば小さい子供とか、今は野菜が食べられなかったり、一人で電車に乗れなかったりするけど、少し大きくなれば成長することは、我々は誰でも分かる)。
というわけで、矛盾するようだけど、「今ここが全て」という考え方も、「今が全てじゃないさ」という考え方も、どちらも素晴らしいと思う。
それで、何が言いたいかと言うと、「物事の見方・考え方・感じ方は自由だし、たった一つの正解は無いのではないか」、ということです。
「これは真理に違いない」「人間とは、人生とは、仕事とは、教育とは、道徳とは、音楽とは、創作とは、生き方とは、私とは、こうでなくてはならない。こういうものに違いない」と、確信するような価値観があったとしても、
見方を変えれば、それと真逆の意見や価値観も、案外、そう悪くもない気がします。
…一例にすぎませんが、「今を受け入れて自分のことを肯定したい」というような価値観も良いと思うし、「今を受け入れずもっと理想を求めたい」というような価値観も良いと思う。
当たり前だが、人それぞれで良いように思われる。
しかも人間はデジタルではないし、終始一貫した「キャラ」でもないから、人生観・価値観も変化していくものでもある。
上記の例で言えば…、「現状を静かに受け入れるような時期」、逆に、「現状以上を求めて頑張りたくなるような時期」、
それぞれ、どちらも良いのではないかと思われる。
しかも年齢とかも関係なくて、老年になってから、猛烈に理想・変革を求めるような人もいるだろうし、子供時代や若い頃ほど、現状維持でいたい気質の人もいるかもしれない。。。
そもそも、人間の見方や価値観というものは、けっこう不平等なものでもある。
例えば我々は、ストイックなスポーツ選手を褒め称える一方で、趣味を持たない仕事人間を「頑張りすぎ」「視野が狭い」などと、批判したりもする。
そうかと思えば、多才で多趣味なアーチストを賞賛する一方で、趣味や興味が長続きせず、気持ちが移り気な人を批判したりもする。
「夢を持て・やりたいことを探せ」と駆り立てる風潮がありつつ…、そういうことを言う人にかぎって、「そのままで良い・頑張らなくて良い・誰もが特別なオンリーワン」とか言ったりもする。
高い理想を求める人を「頑張りすぎるな」「多くを求めすぎるな」などと諌めつつ、大きな理想・目標を達成した人を賞賛したりする。
昔気質の不器用な俳優・職人を絶賛しながら、新しいテクノロジーに対応できない人や、仕事の要領が悪い人や、ジョークが苦手でクソ真面目なだけの人間は、呆れられたりもする。
ポジティブな発言や性格を礼賛しながら、二流くらいのスポーツ選手が前向きな発言をしたりすると、自分に甘い、闘志がない、危機感が足りない、現状を見ろ、一流の結果を出すまで偉そうなことを言うなと叩かれたりもする。
まあ、何事も「行き過ぎは良くない」ということかもしれない。
(あるいは、結果を出した者は、どんなパーソナリティーでも賞賛されやすくて、結果を出していない者は、どんなパーソナリティーでも批判されやすい、ということかもしれない)。
いずれにせよ、たいていの意見や格言や、たいていの批評や人物評価なんて、ほとんど無責任で一面的なものだ、と思う。
ほとんど、下らないものだ。
あまりにも安易に、物事の良し悪しを決め付け過ぎる人や、あまりにも一面的にしか物事を見れない人の意見は、
忠告・批評には、ありがたく感謝の気持ちは持ちたいものだが、最終的には、耳を貸す必要は無いのではないか?
乱暴な言い方をすれば、「全ての発言はクズ」「全ての価値観はクズ」と思っても良いと思います。
もちろん、自分自身の発言や価値観も含めて。
良い意味で、言葉・発言・思考・感情・直感・価値観などを、あまり深刻に受け止めすぎない態度は、そう悪くもないように思えてくる。
自分の思ったこと・感じたことは、盲信しすぎず、ただ観察するだけで良いように感じる時もある。
(すると、固定的な「自己」など、どこにも存在しないようにも思えてもくる)。
もちろん、言葉や感情や思考や価値観は大切だと思う、
特に発言というものは、ちゃんと受け止めようとしますし、ちゃんと心を込めて、今現在の自分の想いを表現しようと努めます。
しかし同時に、100パーセント絶対視しすぎない感覚も持っていたいです。
完璧に100パーセント、他者の性格・人間性・言いたいこと等を、「私は理解している」と決め込みすぎないほうが良いし、
完璧に100パーセント、自分の性格・人間性・言いたいこと等が、「必ず相手に伝わっている」と決め込みすぎないほうが良い。
だからこそ、言葉や表情や伝達は大切にしたいものですが。
(しかし、そもそも言葉や表情というものは、自分の内面や考えを、必ず100パーセント、誤解なく相手に伝えられるツールではない)。
「人間がクズ」とは感じませんし、人間自体には愛着や慈しみを感じるとしても…、
あらゆる発言・意見・見解・思想・直感・価値観等は、不完全なもの。自分本位なもの。「絶対に誤解や思い違いなど無い」とは、どんな場合でも、言い切れないものだと思う。
(もちろん私も、無意識のうちに、誰かへの偏見や差別や無理解・誤解・思い込みや決め付けをしている可能性も、常にある)。
個人的には、自分が何かを思った瞬間、何かを感じた瞬間、何かを考えた瞬間…、「あ、これは間違いかも」「これは思い込みかも」「これは先入観かも」、
と思うくらいが、私は心地良いですね。
(「自信が無い」という感覚ではない)。
宮沢賢治:「何がしあわせかわからないです。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら、峠の上りも下りもみんな本当の幸せに近づく一足づつですから」。(「銀河鉄道の夜」より)
同感です。
何につけても、究極的には「分からない」ということに尽きる。
意見や価値観を持たないわけではないです。
発言の責任を負いたくないわけでもない。
(自信を持たないわけでもない)。
今現在の自分なりの意見に自信を持ちつつ、
今現在の自分なりの感性・好み・見解・道徳観・価値観等に自信を持ちつつ、
(そして、他者の意見や見解や価値観も尊重しつつ)、
…でも、何か一つの感じ方や考え方を、あまりにも過信・盲信・絶対視しすぎてしまうのは、私は抵抗感が強い。
人生のことも、人間のことも、アートのことも、道徳のことも、他者の心の中も、他者の性格も、(自分自身のことさえも)、究極的には「分からない」としか言えません。
(むしろ、「分かったつもりになったらダメ」とすら感じます。…そう感じることもまた、私の狭い視野での思い込みなのかもしれませんが)。
ただ、「自分の意見は一意見に過ぎない」と自覚しつつ、自分の意見に自信を持ったり、誰かを批判したり、誰かを人物評価したりするなら、全く問題ないと思う。
「絶対に自分に自信を持ってはいけない」、「絶対に自分や誰かのことを分かったつもりになってはいけない」、「絶対に正解を分かったつもりになってはいけない」、
そういう空気は、かえって窮屈ですし、むしろ非人道的ですし。
(↑そのあたりは、コチラの記事に書きました)
自分の意見に自信を持ったり、それを自由に発言・表現したりすることは、誰もが持つ権利だと思う。
もちろん最低限の礼儀は必要だと思いますし、発言する以上、誰かから反論・反対される可能性も有ることは、受け入れなければなりませんが。
心の底から、何か一つの意見・見方・感情・判断・価値観を盲信しすぎてしまうと、ややもすると、排他的で独善的なムードになってしまうことが多いように思う。
もちろん、そういう独善性や偏りこそが人間らしさであるし、「個性」とも呼べるものではあるので、それらを無くしたいわけではないです、
各々、自分なりの見方・偏見・偏りを大切にしつつ、
同時に、見方や価値観の自由さや、様々な多様性を許容する雰囲気も、(むしろ自分自身のためにも)、意識的に育むべきではないかと思っている。
…人間、とことん偏ることが大事だし、同時に、その偏りを絶対視しすぎないことも大事、(どちらも大事)、
という感覚です。
そしておそらく大事なことは、「意見が違う」ということと「仲が悪い」ということは、イコールではない、ということ。
意見や価値観が違っても、好きな人や尊敬する人なんか、私はたくさんいます。
しかし一方で、フレディー・マーキュリーの発言、「Fuck today,it’s tomorrow(今日なんかクソくらえ。明日が勝負さ)」や、名曲「明日があるさ」や、嵐の歌詞「今が全てじゃないから、あんまりムキになるなよ」、
というような考え方も、とても痛快&安心な感じがする。
(アニメ「キャンディ・キャンディー」の終わりの歌は、「明日が好き」という歌詞でした。素晴らしい歌でした。ミュージカル「アニー」の「Tomorrow」も、そんな感じの素晴らしい歌だと思います。…一方で、「RENT」の「No day,but today」も、大好きなのですが)。
「今が全てじゃない」という感性や価値観も、「今」の過ごし方の一つとして、充分アリだと思う。
ただし行き過ぎると、「俺はまだ本気出してないだけ」というふうにもなってしまうが(笑)、
懸命に誠実に生きた結果、今日、失敗したり誤解されたりしてしまったら、そんなふうに気持ちを切り替えるのも悪くないのではないか、と思う。
(例えば小さい子供とか、今は野菜が食べられなかったり、一人で電車に乗れなかったりするけど、少し大きくなれば成長することは、我々は誰でも分かる)。
というわけで、矛盾するようだけど、「今ここが全て」という考え方も、「今が全てじゃないさ」という考え方も、どちらも素晴らしいと思う。
それで、何が言いたいかと言うと、「物事の見方・考え方・感じ方は自由だし、たった一つの正解は無いのではないか」、ということです。
「これは真理に違いない」「人間とは、人生とは、仕事とは、教育とは、道徳とは、音楽とは、創作とは、生き方とは、私とは、こうでなくてはならない。こういうものに違いない」と、確信するような価値観があったとしても、
見方を変えれば、それと真逆の意見や価値観も、案外、そう悪くもない気がします。
…一例にすぎませんが、「今を受け入れて自分のことを肯定したい」というような価値観も良いと思うし、「今を受け入れずもっと理想を求めたい」というような価値観も良いと思う。
当たり前だが、人それぞれで良いように思われる。
しかも人間はデジタルではないし、終始一貫した「キャラ」でもないから、人生観・価値観も変化していくものでもある。
上記の例で言えば…、「現状を静かに受け入れるような時期」、逆に、「現状以上を求めて頑張りたくなるような時期」、
それぞれ、どちらも良いのではないかと思われる。
しかも年齢とかも関係なくて、老年になってから、猛烈に理想・変革を求めるような人もいるだろうし、子供時代や若い頃ほど、現状維持でいたい気質の人もいるかもしれない。。。
そもそも、人間の見方や価値観というものは、けっこう不平等なものでもある。
例えば我々は、ストイックなスポーツ選手を褒め称える一方で、趣味を持たない仕事人間を「頑張りすぎ」「視野が狭い」などと、批判したりもする。
そうかと思えば、多才で多趣味なアーチストを賞賛する一方で、趣味や興味が長続きせず、気持ちが移り気な人を批判したりもする。
「夢を持て・やりたいことを探せ」と駆り立てる風潮がありつつ…、そういうことを言う人にかぎって、「そのままで良い・頑張らなくて良い・誰もが特別なオンリーワン」とか言ったりもする。
高い理想を求める人を「頑張りすぎるな」「多くを求めすぎるな」などと諌めつつ、大きな理想・目標を達成した人を賞賛したりする。
昔気質の不器用な俳優・職人を絶賛しながら、新しいテクノロジーに対応できない人や、仕事の要領が悪い人や、ジョークが苦手でクソ真面目なだけの人間は、呆れられたりもする。
ポジティブな発言や性格を礼賛しながら、二流くらいのスポーツ選手が前向きな発言をしたりすると、自分に甘い、闘志がない、危機感が足りない、現状を見ろ、一流の結果を出すまで偉そうなことを言うなと叩かれたりもする。
まあ、何事も「行き過ぎは良くない」ということかもしれない。
(あるいは、結果を出した者は、どんなパーソナリティーでも賞賛されやすくて、結果を出していない者は、どんなパーソナリティーでも批判されやすい、ということかもしれない)。
いずれにせよ、たいていの意見や格言や、たいていの批評や人物評価なんて、ほとんど無責任で一面的なものだ、と思う。
ほとんど、下らないものだ。
あまりにも安易に、物事の良し悪しを決め付け過ぎる人や、あまりにも一面的にしか物事を見れない人の意見は、
忠告・批評には、ありがたく感謝の気持ちは持ちたいものだが、最終的には、耳を貸す必要は無いのではないか?
乱暴な言い方をすれば、「全ての発言はクズ」「全ての価値観はクズ」と思っても良いと思います。
もちろん、自分自身の発言や価値観も含めて。
良い意味で、言葉・発言・思考・感情・直感・価値観などを、あまり深刻に受け止めすぎない態度は、そう悪くもないように思えてくる。
自分の思ったこと・感じたことは、盲信しすぎず、ただ観察するだけで良いように感じる時もある。
(すると、固定的な「自己」など、どこにも存在しないようにも思えてもくる)。
もちろん、言葉や感情や思考や価値観は大切だと思う、
特に発言というものは、ちゃんと受け止めようとしますし、ちゃんと心を込めて、今現在の自分の想いを表現しようと努めます。
しかし同時に、100パーセント絶対視しすぎない感覚も持っていたいです。
完璧に100パーセント、他者の性格・人間性・言いたいこと等を、「私は理解している」と決め込みすぎないほうが良いし、
完璧に100パーセント、自分の性格・人間性・言いたいこと等が、「必ず相手に伝わっている」と決め込みすぎないほうが良い。
だからこそ、言葉や表情や伝達は大切にしたいものですが。
(しかし、そもそも言葉や表情というものは、自分の内面や考えを、必ず100パーセント、誤解なく相手に伝えられるツールではない)。
「人間がクズ」とは感じませんし、人間自体には愛着や慈しみを感じるとしても…、
あらゆる発言・意見・見解・思想・直感・価値観等は、不完全なもの。自分本位なもの。「絶対に誤解や思い違いなど無い」とは、どんな場合でも、言い切れないものだと思う。
(もちろん私も、無意識のうちに、誰かへの偏見や差別や無理解・誤解・思い込みや決め付けをしている可能性も、常にある)。
個人的には、自分が何かを思った瞬間、何かを感じた瞬間、何かを考えた瞬間…、「あ、これは間違いかも」「これは思い込みかも」「これは先入観かも」、
と思うくらいが、私は心地良いですね。
(「自信が無い」という感覚ではない)。
宮沢賢治:「何がしあわせかわからないです。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら、峠の上りも下りもみんな本当の幸せに近づく一足づつですから」。(「銀河鉄道の夜」より)
同感です。
何につけても、究極的には「分からない」ということに尽きる。
意見や価値観を持たないわけではないです。
発言の責任を負いたくないわけでもない。
(自信を持たないわけでもない)。
今現在の自分なりの意見に自信を持ちつつ、
今現在の自分なりの感性・好み・見解・道徳観・価値観等に自信を持ちつつ、
(そして、他者の意見や見解や価値観も尊重しつつ)、
…でも、何か一つの感じ方や考え方を、あまりにも過信・盲信・絶対視しすぎてしまうのは、私は抵抗感が強い。
人生のことも、人間のことも、アートのことも、道徳のことも、他者の心の中も、他者の性格も、(自分自身のことさえも)、究極的には「分からない」としか言えません。
(むしろ、「分かったつもりになったらダメ」とすら感じます。…そう感じることもまた、私の狭い視野での思い込みなのかもしれませんが)。
ただ、「自分の意見は一意見に過ぎない」と自覚しつつ、自分の意見に自信を持ったり、誰かを批判したり、誰かを人物評価したりするなら、全く問題ないと思う。
「絶対に自分に自信を持ってはいけない」、「絶対に自分や誰かのことを分かったつもりになってはいけない」、「絶対に正解を分かったつもりになってはいけない」、
そういう空気は、かえって窮屈ですし、むしろ非人道的ですし。
(↑そのあたりは、コチラの記事に書きました)
自分の意見に自信を持ったり、それを自由に発言・表現したりすることは、誰もが持つ権利だと思う。
もちろん最低限の礼儀は必要だと思いますし、発言する以上、誰かから反論・反対される可能性も有ることは、受け入れなければなりませんが。
心の底から、何か一つの意見・見方・感情・判断・価値観を盲信しすぎてしまうと、ややもすると、排他的で独善的なムードになってしまうことが多いように思う。
もちろん、そういう独善性や偏りこそが人間らしさであるし、「個性」とも呼べるものではあるので、それらを無くしたいわけではないです、
各々、自分なりの見方・偏見・偏りを大切にしつつ、
同時に、見方や価値観の自由さや、様々な多様性を許容する雰囲気も、(むしろ自分自身のためにも)、意識的に育むべきではないかと思っている。
…人間、とことん偏ることが大事だし、同時に、その偏りを絶対視しすぎないことも大事、(どちらも大事)、
という感覚です。
そしておそらく大事なことは、「意見が違う」ということと「仲が悪い」ということは、イコールではない、ということ。
意見や価値観が違っても、好きな人や尊敬する人なんか、私はたくさんいます。
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悪夢
- 2015.12.21 Monday
- 16:21
昨夜、異常に疲れる夢を見ました。
指揮の本番の日、遅刻ギリギリで慌てて家を出る、
ところが最寄りの駅まで着き、楽譜を持っていないことに気づく、
急いで家に戻り、楽譜を探すがなかなか見つからない、
ようやく見つけ出し、ふたたび家を出るも、本番の衣装を持っていないことに気づく、
慌ててクローゼットを探すが、なかなか見つからない、
ようやく見つけ出し、走って駅に着き、電車に乗る、
ところが、ホールまでの行き方が分からない、
当てずっぽうに電車に乗ってしまったことに気づく…。
時計を見ると、もはや開演時間。
車窓の風景、夕暮れる…。
というような夢でした。
私は普段、けっこうファンタジックな夢やSFっぽい夢も多いので、むしろ、こういう現実的な夢は珍しいかも。
目が覚めたら、肩凝りが激しかったです。^^;
指揮の本番の日、遅刻ギリギリで慌てて家を出る、
ところが最寄りの駅まで着き、楽譜を持っていないことに気づく、
急いで家に戻り、楽譜を探すがなかなか見つからない、
ようやく見つけ出し、ふたたび家を出るも、本番の衣装を持っていないことに気づく、
慌ててクローゼットを探すが、なかなか見つからない、
ようやく見つけ出し、走って駅に着き、電車に乗る、
ところが、ホールまでの行き方が分からない、
当てずっぽうに電車に乗ってしまったことに気づく…。
時計を見ると、もはや開演時間。
車窓の風景、夕暮れる…。
というような夢でした。
私は普段、けっこうファンタジックな夢やSFっぽい夢も多いので、むしろ、こういう現実的な夢は珍しいかも。
目が覚めたら、肩凝りが激しかったです。^^;
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無題
- 2015.12.20 Sunday
- 03:07
本日、(というか昨日の夕方から)、作曲していたのですが、久々に物凄くお気に入りが出来ました。
もちろん、人様にどう評価されるかは分かりませんが。^^;
ひれ伏して感謝したい気分。
音楽も仕事も社会的にも、どうにも不器用で壁にぶつかってばかりだが、まあそんなことは関係なく、今後も精進あるのみ。
今日の曲、いつかどこかでお聞かせできれば。(^^)
出来れば例のメタルバンドで発表したいですが、メムバー達の好みに合わないようだったら、いづれ、ソロプロジェクトかなんかで。
いやはや、ありがたい日でござった、、、
が、何かが出来た日も出来なかった日も、心の中で差別しすぎず過ごしたいものだ。
もちろん、人様にどう評価されるかは分かりませんが。^^;
ひれ伏して感謝したい気分。
音楽も仕事も社会的にも、どうにも不器用で壁にぶつかってばかりだが、まあそんなことは関係なく、今後も精進あるのみ。
今日の曲、いつかどこかでお聞かせできれば。(^^)
出来れば例のメタルバンドで発表したいですが、メムバー達の好みに合わないようだったら、いづれ、ソロプロジェクトかなんかで。
いやはや、ありがたい日でござった、、、
が、何かが出来た日も出来なかった日も、心の中で差別しすぎず過ごしたいものだ。
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ねらわれた学園
- 2015.12.19 Saturday
- 01:42
いや〜、ヤバい!
何がヤバいって、まじヤバい。
子供の頃、夢中になったテレビドラマがありました、
「ねらわれた学園」。
当時14歳の原田知世さんが主演していたテレビドラマです。(映画「時をかける少女」よりも昔)。
人気ドラマだったようで、毎年のように、何度も再放送していた記憶があります。
私が見た時も再放送でした。
悲しいかな、古すぎてDVDリリースもされていないのだが(笑)、
先日、Youtubeに全話アップされているのを見つけてしまったァァァ!
もちろん違法だろうが…。
消されないうちに、速攻見ました。
いや〜、懐かしかった!
街並みやギャグが1980年代っぽく、セットやSFXもチープで。^^;
普通に黒電話でしたし。
塾のセットとか、ほんとチープで。^^;
原田知世さんなんて、ほぼ子供でしたわ。
私は、時の流れの光陰の無情さも痛感しました、
懐かしさと喪失感に悶えました、
人生とは、色々なものを喪失していくものでもありますね?
…いや喪失というか、、、
そもそも我々は、何も獲得・所有など出来ないのだろうけど?(自分自身の?生命や人格や自我さえも?)
さて、ドラマの内容は、ザックリ言えば学園を舞台にした超能力ウォーズもの。
(魔法少女ものとも言えるやもしれん)。
私は、子供ながらにストーリーに夢中になったのだが、
ライバルの超能力少女「高見沢みちる」にも魅せられました!
まだ高校生くらいの伊藤かずえさんが演じていて、これが、恐ろしいほどのクールビューティーであった!
一切ニコリともせず、冷酷に学園を支配しつつ、超能力で原田知世を攻撃…、
ところが最終話で改心し(?)、優しげに笑い、切なげな表情や、恥じらう表情や、恋する表情を見せはじめる、、、
あと、オマケでNG集があったのだが、その時も、本編の冷酷な表情からは想像もできない笑顔。
今で言うギャップ萌えというか。。。
最終話は甘々なストーリー展開で、BGMも無駄に甘くて、80年代風のラブストーリーに涙腺崩壊でした。
もう高見沢みちるが主人公で良いのではないかと。
凄い衣装ですな(笑)。まさに昭和クオリティー。それにしても凛々しい。。。
蛇だって、顔色変えずに掴んじゃいます。
学園ものとは言え、スクールウォーズではなく超能力ウォーズなのだ。(そう言えば「スクールウォーズ」にも出演されていましたね)
ニコリともしない、冷酷非道なライバル超能力者なのだ。
ところがNG集では、この笑顔。
凄まじいギャップ萌え。
最終話の演技が、特に見事でした。
それまでの冷酷なキャラから、見事に豹変していました。
今見ると、子供の時には気付けなかったことも多々あり、、、
例えば最終話の演技は、表情のみならず、まばたきの数や呼吸の仕方まで変えていることに気付き、
(それが意識的なのか、無意識的なのかは分からないけど)、
いずれにせよ、魂込めて演じているなーと思われました。
最終話で、先生に「色々ご迷惑おかけしました」と、恥じらうように、少し悲しそうに、微笑みながら言うシーンは、特別な美しさを感じた。
大袈裟に言えば、人間の崇高ささえ感じました。
人間というのは、心次第で、こんなにも変われるものなのだなー、と。
私も、自分が間違っていたと思ったら、素直に改善できる心の持ち主でありたいと思ったことでした。
うーむ、DVDリリースしないでしょうか?
とても欲しい…。
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前向きな自己否定
- 2015.12.19 Saturday
- 01:41
どんな曲を書いても、どんなメロディーを書いても、「これは自分じゃない」感というのが、よくある。
いや、音楽のみならず。
何を考えても、何を言っても、(ジョークや軽口でさえ)、既に誰かが言ったり書いたりしたことを、私は借用しているだけ・応用しているだけ…、という感覚。
もちろんそれは悪いことではなく、我々は誰しも、リスペクトする誰かの発言・考え方を真似てみたり、好きな作品を見習ってみたり、尊敬する先輩や上司の仕事ぶりを参考にしたり、、、
そうやって、自分以外の誰かに影響されたり、感化されたりするのは、とても自然なことだ。
…でも、たまに「自分」なんてどこにも存在していないような気分になってしまうことも、私だけではない気がします。
誰かや何かをコピーしているだけの存在。
ただ空気を読んで、社会の常識・仕組みに従っているだけの存在。
(現代社会の文化・習慣・常識・流行・道徳・科学・生活様式の枠組みの中だけで、発想しているだけの存在)。
作曲や演奏でさえ、100パーセント自分自身を表現しているわけではなく、先人の開発した音楽形式に則っているだけなのは、紛れもない事実だと思う。
とは言え私の場合、いわゆる「個性」や「オリジナリティー」というものは、あまり求めていないです。
音楽においても、人格や感性やライフスタイルにおいても。
なぜなら、音楽も人間も、「変わっていて個性的であれば素晴らしい」というわけではないと思うから。
ベタな作品や、波乱万丈ではない地味な人生であっても、価値が無いわけではない。
(※例えばモーツァルトとか、あまり独自性が強いわけではないが、言うまでもなく素晴らしい。チャイコフスキーなんかも、言ってみれば「ベタの権化」だけど、とても感動する。…もちろんモーツァルトもチャイコフスキーも、圧倒的な表現力・技術力を持っていたし、「高い表現力や技術力こそが彼らの独自性だ」と言えるかもしれません。しかし彼らは、割と素直に、音楽のベタな形式・常識・伝統に従っていて、「他者と違う独自性」というものを、第一に目指していたようには感じられません。でも、言うまでもなく素晴らしい…。
…そんなわけで私は、他者と違う独自性・オリジナリティーを持たなくても、素晴らしい作品は世の中に沢山あると思っています。まして人間の価値というものは、個性や独自性の有無は全く関係ないと思っています)。
私の場合、「人と違う」とか「個性的」ということは、求めていないです。
人と違おうが、人と似ていようが、あまり問題では無い。
(自分が個性的であろうが、非個性的であろうが、どちらでも良い。そこは、問題ではない)。
私にとって問題になるのは、いつも、
■「今私が作ったり弾いたりしている音楽は、本当に私が深々と感動している音楽なのか?」
■「今私が言ったり書いたりしている言葉は、本当に私が心から感じていることなのか?」
■「今私が思ったり感じたりしていることは、本当に私が心から感じていることなのか?」
■「今私が行っている行為・表情・動作・仕事・礼儀作法などは、本当に私が心からやりたいことなのか?」
■「今私が作ったり弾いたりしている音楽は、本当に今現在の自分を表現しつつ、なおかつ、今現在の自分をコテンパンに破壊しようとしているか?」
ということであろう。
音楽や人生、堅苦しくなりすぎる必要はないけど、そういう自問自答も大事だと思っている。
とは言え、理想主義になりすぎると、何を言っても、何をやっても、たくさん曲を作っても、「まだまだイマイチ」「なんか違う」「これじゃない」「俺ダメすぎ」としか感じられなくなる。
…そもそも、100パーセント自信満々で、100パーセント迷いのない夢や衝動など、珍しいとも思われる。
「絶対にこの仕事をしたい!」「絶対にこれをやりたい!」という夢や趣味や願望でなければ、やってはいけない、チャレンジしてはいけない、取り組んではいけない、、、
そんなことは無いと思う。
一途で純粋な夢・欲望が無くても、取り合えず「そこそこ惹かれる」「そこそこやりたい」「そこそこ興味がある」「そこそこ嫌いじゃない」、ということに取り組んでいくことは、全然、悪くないと思う。
だいいち、天啓のような強い衝動や欲望が沸き起こるのを待っていたら、一生、何にも取り組むことが出来なくなってしまうかもしれないし(笑)。
(作曲も、1小節すら、1音すら、書けなくなってしまうかもしれない)。
それに、心の広い人なんかは、「どんな仕事でも楽しさ・やりがいを見いだせる」というような人だって、少なく無いと思う。
(あるいは、「仕事にはなるべく労力を使わず、理想など求めず。最低限にチャチャッとやって、趣味や家庭や人付き合いを大事にしたい」というような考えの人がいたとしても、(私は共感しないが)、全然悪くない。そういう価値観も、全く問題ないと思う)。
だから、あまりにも「夢を持たなきゃ」「やりたいことを探さなきゃ」「前向きに積極的に生きなきゃ」「本当に自分らしい生き方を探さなきゃ」、
というところに、固着しすぎることはないと思う。
(※あらゆる考えや感情や価値観というものは、それがどんなものであれ、固着しなくて良いし、鵜呑みにしなくて良いし、盲信しなくて良いと思われる)。
そんなわけで、人間、一途な夢や願望や理想など無くても良いし、基本的には楽観的に、自分に甘くても良いと思うのだが、
しかし時には、現状に不満・違和感を感じたり、現状の自分に納得いかなくなったり、新たな理想が湧き上がったり、
現状の自分を否定して、より理想に近づいていこうとする、、、
それもまた、決して不自然なことでもなく、多くを求めすぎでもなく、頑張りすぎでもないと思うのだ。
というわけで本題に戻りますが、
(我々が)何かをしたり、何かを作ったり、何かを言ったりした時に、
「これは自分じゃない」「こんなんじゃダメだ」と感じることは、とても自然なことだし、とても良い気づきなのだ。
(と、私は思っている)。
そういう自己否定に近い感情をバネにして、より良い仕事の仕方だったり、より望ましい人間関係だったり、より深い創作活動が可能になったりもするから。
つまり自己否定というものは、「ネガティブ」というよりも、むしろ、真摯に誠実に前向きに生きている証とも思えます。
自己否定的な感情が湧き上がったら、「チャンス」とさえ言えるのではないか。(改善のチャンス。新生のチャンス。成長のチャンス)。
一般的に、自己否定的な発言や考え方というのは、嫌われる傾向があると思うのですが、
個人的には、「自己否定は良くないもの」と、頭ごなしに決めすぎる必要は無いと思います。
誠実で真面目な、とても良い資質なのではないかと思います。
…もちろん、あまりにも自虐的すぎて、周囲に八つ当たりとか、逆に自傷行為とかしてしまうとマズいかもしれませんが。。。
「自己否定」ということに関して、今のところ私は、だいたい上記のような考えです。
いずれにせよ、大抵のことは、否定的にとらえることはないと思います。
よほどの迷惑行為・暴力行為・独善思考・差別思考等でない限り、自分にも他者にも、応援や共感や尊重の気持ちは、だいたいいつも感じられるのではないかと思う。
いずれにせよ、大抵のことは、否定的にとらえることはないと思います。
よほどの迷惑行為・暴力行為・独善思考・差別思考等でない限り、自分にも他者にも、応援や共感や尊重の気持ちは、だいたいいつも感じられるのではないかと思う。
…言うまでもなく、「自己否定など要らない」「何を言っても何をやっても自信満々」というような価値観の人がいたとしても、尊重しますし、魅力的だとも思います。
どちらの価値観であれ、(どんな価値観であれ)、それぞれ長所だと思うし、それぞれ魅力的だと思います。
他者に、その価値観を強要さえしなければ。
(生き方や感じ方というものは、本人が選ぶしかないので、お互い強要しすぎてはいけないと思いますが、お互いに尊重・リスペクトの雰囲気があった上で、批判し合ったり意見を言い合ったりするのは、心地良いものだと思います)。
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