電光掲示板は羊の夢を見るか?

  • 2015.11.18 Wednesday
  • 01:51
本日ブログ、なぜか三つ目の更新です。m(_ _)m

さて、昨夜。

バンドメンバー達と居酒屋で飲み、時間を忘れ、終電を逃す、、、

という夢を見ました。

夢の中で、私は終電が近いことを悟り、居酒屋を出て、急いで駅に行くと、

駅の電光掲示板に、「新宿行き、オワタ\(^o^)/」

と表示されていました。。。
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    最近の雑感

    • 2015.11.18 Wednesday
    • 01:49
    最近、痛ましいテロのニュースありましたね。
     
    宗教・思想の違いを理由に攻撃してしまうなら、人間と人間というのは、永久に交わらない、永久に交われない、
     
    人生自体が、何かの罰のような殺伐としたものになってしまう。。。



     
    あ、ちなみにこの文章は、2〜3週間前に書いたものなので、最近あった出来事とかは反映していないです。



     
    テロや宗教や思想だけの話でもなく、我々の日常にも同じことが言えると思う。
     
    人間、人それぞれに道がある。
     
    (根本的には「人間皆同じ」と感じられる部分も多いが、表面的には、それぞれに違いもあるように感じられる)。
     
    ポジティブ寄りの人もいればネガティブ寄りの人もいるし、行動的な人もいれば思索的な人もいるのが当たり前。
     
    のんびり屋さんもいれば、理想・目標に向かって頑張りたい人もいるだろうし、感情的な人もいれば論理的な人がいるのも当たり前。



     
    なので、お互い、感じ方や生き方を尊重し合うのが、私は好ましい。
     
    …いや、「尊重し合う」なんて高度でなくても良い、
     
    せめて「容認し合う」「やたらに攻撃しない」くらいの世の中なら、大満足かもしれない。



     
    あと、「人間とはどう生きるべきか」とか、他者の性格・心情とか、他者の置かれた事情・状況とか、、、
     
    そういうことを、あまり分かったつもりにならないのも大切だと思う。
     
    なぜなら、完璧に分かったつもりになってしまうのは、人間の能力の限界を超えているから。

     
    他者を思いやることは大切かもしれないが、

    他者の心境や事情を、我々は完璧に分かってあげられるわけではないし、

    そもそも「どう生きたいか」ということは、人によって違うし。



     
    …とは言え、「謙虚であること」「他者を尊重すること」が、あまりにもマスト・義務みたいな雰囲気になってしまうのも、それはそれで窮屈でもある。
     
    自分の意見に自信を持ったり、誰かの意見に反対したり、誰かを批判したりするのも、誰もが持つ当然の権利だと思います。
     
    自分の意見は一意見に過ぎないと自覚しつつ、その上で、相手の意見に「反対」を表明するのなら、特に問題ないと思う。
     
    (※議論や批判や意見の言い合いを、「良くないこと」と解釈しすぎてしまうことも、少し過敏すぎる。そういう雰囲気だと、自由な意見交換や、切磋琢磨までも失われてしまいやすい)。



     
    問題なのは、あまりにも「これが正しい意見」「これは間違った意見」という前提で話してしまうことだと思う。
     
    そういう話し方というのは、「私はあなたとは話し合いません。私が正義です。私が神です。私がルールブックです」と言っているのと、同じ雰囲気を感じます。
     
    個人的には、明らかな迷惑行為や犯罪行為以外は、あまり頭ごなしに否定したり禁止したりするべきではないのではないか?と思います。



     
    「1+1は3です」という感じのことを言っている人には、「それは間違ってます」と伝えて良いと思う。
     
    でも、「数学は好きだ」「数学は嫌いだ」という感じの意見に対しては、どんな意見であっても、「それは間違ってます」とも「それは正しいです」とも、私は言う気にならない。
     
    まずはその意見を尊重して、賛同するなり反対するなりスルーするなりします。

     
    ちなみに、「人は皆、数学を好き(嫌い)になるべきだ」、「人は皆、数学を専門的に学ぶべきだ」、「数学なんて、無くすべきだ」、「数学とは、こういう心構えで学ぶべきだ」、「アーチストたるもの、こうするべきだ」、「男(女)というものは、(○○人というものは)、こういうものだ」、「私は(あの人は)、こういうタイプの人間だ」、
     
    というような意見は、まずは言い分を聞いてみて、納得すれば、「なるほど、そうなのかもしれない」と思うことも、たまにあります。

     
    が、そういう感じの意見は、だいたい視野が狭く、独善的な意見も多いので、納得できないことのほうが多いです。

    個人の意見ならともかく…、

    「人は皆」「○○人は皆」「男(女)は皆」「アーチストは皆」という感じの、文章の主語が大きすぎる場合、やや独善的に感じられてしまうことも少なくない。

    (※とは言え、「主語が大きい」ということ自体に過剰に反応し、その主張の内容を聞く前から、頭ごなしに否定しすぎてしまわないよう、気をつけたいと思っています)。



     
    いづれにせよ、そういう独善性というものが、争いの元になってしまう理由の一つだと思う。

     
    しかしながら、独善性というものは、我々は誰でも持っているものなので、それを「無くそう」としすぎるより、
     
    ■自分自身も独善性を持っていると自覚すること
     
    ■自分自身も視野が狭いと自覚すること
     
    ■他者の独善性や視野の狭さにムカついたとしても、心の奥のどこかで、「ああ、自分も同じだな」というような共感性・許容性を持つこと

    その三つが、大事ではないかと思う。
     
    でないと、「私は真理や愛や思いやりを知っている」「あなたは真理や愛や思いやりを知らない」というパターンにも陥ってしまいやすい。



     
    そもそも言葉というものは不完全で、物事の一面だけを定義してしまうものである。
     
    言葉は大切であるし、言葉や態度や行動や表情で、我々は自己を表明し、他者を判断するしかない。
     
    しかしながら、表面上の言葉・態度・行為・表情だけで、その人の中身や本質を100パーセント分かったつもりで判断してしまうのは、人と人を分断させるだけで、あまり良いことは無いように思われる。

    誰だって、誤解されたら嫌な気持ちになるだろうから…。



     
    我々は、表面に見える言葉や態度や行為で、どうしたって人のことを判断してしまうけど、
     
    そういう自分の判断・直感・感情・思考を、絶対視しすぎない態度というものが、私は大切なように思われる。
     
    (※自信を持ってはいけない、ということではない。「自分に自信を持つ」ということと「自分を絶対視しない」ということは、矛盾無く両立すると思う)。



     
    あらゆる言葉、あらゆる行為、あらゆる表情、あらゆる思考、あらゆる直感、あらゆる感情は、一応は大切にしつつ、(なるべく言葉や行為に心も込めつつ)、
     
    でも、心のどこかで、それらをあまり信用しすぎない態度も、そんなに悪くないように思えてくる。
     
    信用しすぎると、自分の価値観に自惚れてしまい、自分の判断や価値観のみが正しいと信じ込んでしまう。
     
    すると、自分とは違う判断をする人や、自分とは違う感じ方をする人や、自分とは違う価値観を持つ人を、「間違っている」と思い込みやすくもなってしまう。

    (あるいは、「この人はこういうタイプ」「あの人はああいうタイプ」「私はこういうタイプ」と、固定的に定義してしまいやすくもなる)。


    そんなスケールの小さい自信なら、むしろ、無くても良いのではないか?と思う。

    むしろ、「何も分からん!」という感覚のほうが、個人的には「自信」と呼べる感覚もあります。

    その理由は、まとまったら、また近々更新してみたいと思いますが。






    もちろん、どう考えても批判されるべき破壊的な考え方・攻撃的な考え方・短絡的な考え方というものは、あるかもしれない。。。

    そういう考え方に対して、「自分は同意しない」と表明することも、全然悪いことではない。






    思うに…、どんな考え方・どんな感じ方であっても、それを他者に強要したり、他者に強引に同意を求めたり、明らかに迷惑行為をしないなら、私は、許容できるはずだと思う。

    私だって、狭い視野のまま、好き勝手に考え、好き勝手に感じているのだ。

    誰しも、狭い視野でしか生きられないのだ。

    そういう意味では、人間皆同じだし、そこに共感性を感じれば、愛しさや労りのような感情も込み上げます。






    だから、キーポイントは、私なりには、「自分の考え方・感じ方は、世界に多様に存在する感じ方の一つにすぎない」と、自覚しているかいないかだと思う。

    …いや、自覚などしていなくても良いから、少なくとも多少は、他者の考え方・感じ方に、許容的なムードを持っていること。

    そのムードさえ有れば、どんなにトンチンカンな価値観であろうが、どんなに破天荒な感性であろうが、むしろ興味深いものとして、私は受け入れることが出来る。

    逆に、どんなに立派な価値観であろうと、妙な自負・優越感が強すぎたり、その価値観のみを「正義」「正解」「常識」と思い込んでいるムードが強いと、やはり、受け入れることは難しいのではないだろうか。
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      クロックムッシュ

      • 2015.11.18 Wednesday
      • 01:19
      最近感動したもの。
       
      ドトールのクロックムッシュ。
       
      完成度、いと高きこと限りなし。



       
      …古文ポク書き始めてみたが、後が続かないので止めることにします。



       
      そう、ドトールのクロックムッシュですよ。
       
      先日はじめて食べたのだが、圧倒的チーズ感!
       
      メニュー写真で見ると、申し訳程度のスライスチーズが乗っかっているだけに見えるが…、
       
      実際に食してみると、チーズの量と言い、味と言い、とろけるチーズの洪水やー!(もちろん、パンのサクッ感も楽しめる)。
       
      普通、食品のメニュー写真というものは、割と美化しているものだと思うが、ドトールはむしろ逆!
       
      なんという気高き精神性!



       
      そう言えば、以前、こんなことがあった。
       
      江ノ島を散策中、私は「生しらす丼」の写真を見た。
       
      白いごはんが隠れるほど、生しらすが山盛りの写真を見て、私はとても食べたくなり、勇んでその店に入ったのだ。
       
      しかし、注文して出てきた生しらす丼は、ごはんの上に、ちょびっと生しらすが乗っているだけ。
       
      ほぼ、写真詐欺であった。
       
      (※「写真はイメージです」の表記も無し)



       
      山下は激怒した。
       
      必ず、かの邪知暴虐の生しらす丼を除かなければならぬと決意した。
       
      山下は料理が分からぬ。
       
      山下は単純な男である。
       
      山下は、しがない音楽家である。
       
      鍵盤を弾き、指揮を振り、曲を書き、ヘドバンをして暮らしてきた。
       
      けれども写真詐欺に対しては、人一倍に敏感であった。
       
      「呆れた生しらす丼だ。生かして置けぬ」



       
      さて最近は、会う人会う人に、ドトールのクロックムッシュの素晴らしさを述べております。
       
      先日、仕事仲間のピアニストさんにも、電車の中でオススメしました。
       
      Wikipediaで、レシピや名前の由来などを調べると、楽しいものですね。
       
      (卵をのせたものは「クロックマダム」というそうですね)。



       
      それにしても、そのピアニストさんとの会話、、、
       
      私と同年代の方なのですが、
       
      二人とも年のせいか(?)、
       
      あるいは、先天的に記憶力に難があるのか(?)、
       
      会話中、単語が出ないこと、出ないこと!
       
      クロックムッシュから派生して、食品の話題になったのだが、
       
      まず、そのピアニストさんが、
       
      「ほら、あれ!卵を溶かしながらパンに付けて食べるの、何て言ったっけ?」
       
      「はいはい、最近日本でも流行ってる、あれでしょ?確か、ニューヨーク発祥だよね?」
       
      「そうそうそう!オシャレなやつ!何だっけ?」
       
      「クゥ〜、ここまで出かかってんだけど!」(喉あたりにクビチョンパの手つきをする私)
       
      2〜3分後に、ようやく、「エッグ・ベネディクト」だと思い出しました。
       
      そして次は私が、
       
      「ほら、あれ!フランスの甘いお菓子というか、甘い菓子パン!何だっけ?」
       
      「ああ、あれね!何だっけ?コンビニとかでも、よく売ってるやつでしょ?」
       
      「そうそう、バターの風味が美味しいやつ」
       
      「そうそう、何だっけ〜!」
       
      数分後、ようやく「クイニー・アマン」だったと思い出す。
       
      で、話が戻っても、
       
      「そもそもエッグ・ベネディクトのパン、何て言いましたっけ?」
       
      「ええと、スコーン?ビスケット?いや、違うな…」
       
      「普通のパンと違うのよね。何だっけ、あれ?」
       
      「クゥ〜、何だっけな?ここまで、ほぼ出かかってんだけどな!」(私、喉にクビチョンパのポーズ)
       
      答えは「マフィン」でした。



       
      いやはや、単語が、なかなか出ませんな〜!
       
      そうかと思えば、「ザッハトルテ」みたいな、あまりメジャーじゃないものは楽勝で覚えていたりして。
       
      まあ、ドイツ語の攻撃力は抜群で、記憶に残りやすい…、というか、響きが格好良いので、意味もなく言いたくなります。
       
      ドイツ語さえ叫んでいれば、気合いも入るし、人生幸せってもんだ。
       
      (嘘だけど)。
       
      そして強引に話を戻すけど、クロックムッシュを食べた時のNGワードは、「(チーズが)トロトロ!」です。
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        盗作疑惑

        • 2015.11.02 Monday
        • 15:44
        こんにちは。

        最近わたくし、いよいよバカ化が加速しておりまして…。

         
        例えば何かを茹でたり、カップラーメンを作ったりすると、
         
        たった「三分」とか「五分」、数えられないのですよね。。。
         
        時計を見ているのに。
         
        何かを茹ではじめ、その後、ちょくちょく時計を見るのだが、
         
        次に秒針が同じ位置に回ってきた時、果たして一分経ったのか二分経ったのか三分経ったのか?
         
        忘れてしまって、分からない時がある。
         
        まあ、新曲の練習とか作曲とかしているからなのだが、あまりにも上の空すぎる…。



         
        ちなみに、あまり関係ないですが、
         
        私は大人になるまで、「どん兵衛」と「赤いきつね」は、同じものだと思っていました。
         
        「どん兵衛」という商品の中に、「赤いきつね」と「緑のたぬき」という二種類がある、
         
        そう思っておりました。
         
        なぜなら、似ているんだもの。。。
         
        子供の時、同じものだと勘違いしてしまい、そのまま大人になってしまいました。



         
        それにしても、食品業界ってパクリに寛容なのでしょうか?
         
        大ヒットした「食べるラー油」とかも、元祖は桃屋だと思いますが、
         
        その後、類似商品が後追いでたくさん発売されましたが、著作権侵害で訴えられる様子もない。
         
        「どん兵衛」と「赤いきつね」も、どちらが先かは分かりませんが、
         
        もしデザイン業界や音楽業界で、あれぐらい似ていたら、おそらく盗作で訴えられると思います。



         
        音楽業界でも、たまに大御所作曲家とかで、「盗作された」と言って訴える人いますけど、
         
        元の曲と盗作疑惑の曲を聞き比べてみると、1小節か2小節、せいぜい「似てる」くらいの印象。
         
        調性音楽で、多少メロディーが似てしまうことなど、普通にあると思うのだけどな。^^;
         
        音の並べ方の組み合わせには、限界ありますから。
         
        何かの曲と何かの曲が似ていたりしていても、ほとんどの場合、作曲家が故意に意図したわけではないでしょうし、元の曲を知らないことすら多々あると思います。
         
        個人的には、「いちいち訴えるほどか?心が狭いな〜」と思いますね。^^;
         
        (もしかすると、心の狭さこそが成功の秘訣なのでしょうか?)
         
        明らかに盗作している場合は別として、フレーズが多少似ているくらい、仕方ない気がします。



         
        しかしまあ、私も曲を作る以上、気をつけねば。
         
        以前、とある曲を作曲して、自分では気づかずに、某AKBの曲に似ていたことがあり、人から指摘されて気づきました。(発表前だったので、大丈夫でした)。
         
        いや〜、怖いですね。
         
        怖いから、俺、寝る。
         
        (↑これもパクリ)





         
        P.S.
         
        ちなみにAKBは「カチューシャ」以降、全く聞いていないですが、井上ヨシマサさん作曲の作品で、好きなものが多いです。
         
        「大声ダイヤモンド」「Beginner」「RIVER」あたりとか。
         
        あと「涙サプライズ」は、本当に素晴らしい楽曲だと思います。
         
        曲の素晴らしさ・歌詞の素晴らしさ・振付けの素晴らしさの三位一体。
         
        曲の最初から最後まで、実に人間的なメロディーと歌詞のオンパレード。
         
        感動しないわけにはいかない感じでした。
         
        (※ただし、公式MVは顔のアップや演技シーンが多く、残念ながら、素晴らしい振付けはあまり堪能できません)。
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          クロイツェル

          • 2015.11.01 Sunday
          • 00:34
          こんばんワニ、いかがお過ごしでしょうか?
           
          山下は昨日、ATMで振り込む時、ATMの機械にSuicaを入れてしまった。。。
           
          ありがちです…。
           
          お店のポイントカードを出す時に、キャッシュカード出してみたり。
           
          学生の頃、学生証を出すべき時に定期券を出してしまったこともあったな。



           
          あと、スーパーやコンビニで買い物したあと、
           
          レジの人物に「ありがとうございました〜」と言われ、無意識的に「ごちそうさまでした〜」と言ってしまったことも、一度や二度ではない。
           
          いつも、何となく上の空なのですよね…。^^;



           
          幸い私は、学生時代、先生に「お母さん」とか言ったことはないです。。。
           
          たまにクラスメートが、女の先生に間違えて「お母さん」と呼びかけるのを見たことがありますが、あれは超絶に恥ずかしいですね。
           
          中学の時、ヤンチャで有名なK君が、国語の先生に「ママぁ〜」と呼びかけたのは、クラス中、驚きつつ大爆笑でした。



           
          さて本日の記事は、名曲紹介です。



           
          ベートーヴェン作曲「ヴァイオリンソナタ第9番」



           
          通称「クロイツェル」という曲です。
           
          全三楽章。
           
          有名な曲ですが、私も大好きです。
           
          ベートーヴェンさん、なぜこんな素晴らしい曲が書けるのだろう?
           
          お時間ある方、ぜひ聞いてみて下さい。



           
          さて、まず第一楽章。
           
          序章が長いですが、2:02から主部です。(疾走系)。
           
          特に4:01〜4:30あたりの勇壮なメロディーは、ガッツポーズせずにはいられない。
           
          (このメロディーは、9:04〜9:30あたりにも出てきます)。
           
          一度聞いたら、一生歌い続けたくなるほどのインパクト。
           
          スタッカートやトリルを含む、ダイナミックかつ「濃い」感じのするメロディーですね。
           
          ヴァイオリンとピアノ低音のユニゾンが、格好良くて最高です!(4:15あたり)
           
          マジで泣けてくる。。。
           
          あと、夢見るようなメロディーや、少し物憂げになるあたりも素晴らしい。(3:08〜3:40あたり)。
           
          全てのフレーズが格好良く、実直で、胸を打つ。
           
          全体的に熱血な感じがするが、格調高さも感じられる。



           
          そして次、第二楽章。
           
          第二楽章は11:55からです。
           
          この楽章は変奏曲なのですが、やはり、素晴らしいの一言。
           
          最初に安らかなテーマが奏でられ、14:15から、軽やかな変奏になります。
           
          全ての音がミューズの思し召しのような、奇跡的な音楽。
           
          20:35あたりからの軽やかさも素晴らしく、ピチカートがプチプチしてて心地良い。(※弓でなく、指で弾く奏法)



           
          そして、26:05からの第三楽章も凄い。
           
          調子のりすぎ。
           
          爆発的エネルギー。
           
          全体的に、タランテラ的な狂気とスピード感が感じられます。
           
          (※「タランテラ」とは、イタリアの舞曲。毒蜘蛛タランチュラに刺された人が、発狂して踊る舞曲らしいです。リズム的には、高速シャッフルです)。
           
          この楽章は、全体的に暴走しすぎなのだが、繊細でチャーミングでもある。(27:27からのメロディーとかは、ちょっと悩ましくもあるし、愛らしくもある)。
           
          時折、野蛮で不穏で攻撃的なところも素晴らしい。
           
          緩と急、柔と剛、気品さと無骨さ、狂気と抑制など、相反する要素が見事に同居しています。



           
          そして、この動画のピアニストかわいい。
           
          ユジャ・ワンんんん〜、
           
          ちなみに、このピアニストさんが来日して、日本の某有名オーケストラと共演したコンサートにて、
           
          オイラ、合唱団員の一員としてステージで歌ってたんですよね。(このピアニストさんはコンサート前半、私はコンサート後半のプログラムでしたが)。
           
          本番前トイレに行く時、廊下ですれ違いました。
           
          素敵すぎて、足がもつれて転びかけました。
           
          すこここっ!



           
          それにしても、ベートーヴェンさんは良くも悪くもぶっ壊れていて凄いですわ。
           
          今聞くと、さすがに古典的ではあるのだが、当時としては、前例がないほど革命的だったはず。
           
          長い音楽の歴史の中で、ジャンル問わず、これほどまでに伝統や常識を打ち破った人は、なかなかいないのではないか。



           
          もちろん音楽は、「革新的=素晴らしい」というわけではない。
           
          ロックでもクラシックでも、伝統・常識・形式の枠の中で、素晴らしい創作やパフォーマンスをする人、たくさんいますし。
           
          だから、革新的であるかどうかより、好きになる作品というのは、何よりも作品の内容・本質・雰囲気に惹かれるわけですが。



           
          あと、ベートーヴェンさんの場合、彼の病や人間性・精神性ばかりが注目されがちでもあるが、言うまでもなく、曲の内容・作曲の技術面も凄い。
           
          有名すぎる耳の障害や、気難しそうなイメージの先入観を捨てて、曲そのものを味わって欲しいです。



           
          さて「クロイツェル」を聞いていて、あらためて私が感じたのは、、、
           
          ベートーヴェンならではの表現・個性・独自性への感嘆が、50パーセント。
           
          プラス、私は、彼の音楽に勝手に共感や同調を感じ、「ベートーヴェンの音楽は他人事ではない。この音楽は、他ならぬ私自身の心なのだ」という気持ちが50パーセント。



           
          ベートーヴェンのみならず、私の場合、気に入った音楽はほとんどそんな感じです。
           
          もちろんクラシックだけではなく、メタルやアニソンやアイドルなども同じです。
           
          その作曲家・そのアーチストならではの表現・個性・独自性に感嘆しつつも、同時に、「他ならぬ私自身の内面」として、心から共感・同調・高揚・感動している感じです。
           
          あまりにも分析的に、冷静に他人事っぽく聞いてもつまらないもん。
           
          やはり、聞きながら、一緒にエモーショナルに盛り上がったり、恐ろしいほどの畏怖や緊張感を感じたり、あるいは、「無心」とも呼べるほどの静寂を体感したり…、
           
          さらには、感情の奥の感情、哀しみの奥の喜び、喜びの奥の哀しみ、明るさの中の暗さ、暗さの中の明るさ、本音の中の嘘、建前の中の本音、自分の中の他人、他人の中の自分、そして、そもそも「自分」など無くなってしまうような自由さ・広大無辺さ、、、
           
          色々な感じを味わいます。




          あと、私の場合、音楽を聞いたり演奏したり作曲したりすると、よくスポーツ選手が言う「ランナーズハイ」「体が勝手に動く」「ボールが止まって見える」、
           
          というような感じも味わうことがあります。
           
          要は、自分の意志・感情・思考・思想・人格とは関係なく、まるで「音楽」のほうが主役・主流で、「自分はその中の一部」という感覚。
           
          (自分が音楽をコントロールしているのではなく、自分がコントロールされている感じ。音楽に操られて、体や意識が勝手に動く感じ。心や意識が、音楽に憑依されてしまう感じ)。
           
          もちろんそんな感覚は、錯覚なのかもしれません。
           
          でも、そういうふうに感じる瞬間も確かにあるので、それが快感で音楽をやっている気がします。



           
          …とは言え、そういう神掛かり的な境地ばかりを求めても実が無い。
           
          技術不足で、最低限レベルの演奏や作曲も出来ないのに、直感やインスピレーションに頼ることほど空しいことはない。
           
          まず大切なのは、心や意識や技術で、しっかり音楽をコントロールしようと努めることだと思う。
           
          でも、それと同時に…、「心や技術が全てではないはず」、「人知が全てをコントロールするのではないはず」、「人間の知性・感性・感情などでは計り知れない現象が、世の中にはあるはず」、「心や精神や創造の働き・メカニズムなどは、人間に理解できることのほうが少ないはず」、「アートや音楽というものは、その「計り知れないもの」の一部も、具現化され得るかもしれない」、
           
          そんな感覚も、常に同居しています。



           
          例えば我々の「呼吸」というものは、意識次第で速くしたり遅くしたり出来るし、感情によって速まったり遅まったりもする。
           
          けど、なぜそれ(呼吸)が起きるのか、どうしてそれがこの世に生じ、どうしてやがて消失するのか、どうして感情や意識と連動させることが出来るのか…、
           
          究極のところは、何一つ分からない。
           
          音楽も、少しだけ似ている気がしています。
           
          多少はコントロール出来るし、絶対、全力でコントロールすべきです。
           
          でも究極的には、「私にコントロール出来ることは何も無い」という、諦めや静観に似た心境が、常に心の中に同居しているのです。
           
          (春になったら新芽が芽吹き、花々が咲き乱れますが、それをコントロールできないのに似ている感覚です。もちろん水をやったり肥料をやったりして、芽吹きやすい状況を作ることは出来る。だが、生命や自然そのものの働き・メカニズムは、人知では完全にはコントロールできない感覚。ひとりでに開花し、ひとりでに芽吹くのを、眺めたり感動するしかできない感覚。それに近いです)。

          それは残念なことでも苦痛なことでもなく、むしろ、最高に自由で解放的な感じがします。
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