2014.5.28(3)
- 2014.05.29 Thursday
- 00:55
先日、電車内で、リンゴを食べている人がいました。
しかも皮をむかず、丸ごと!
いいなあ、斬新だなあ!
私も、ニンジンとかキャベツとか、電車内で丸ごと食べるか…。
あるいは、羊羹やタクアンを丸ごと1本とかも、良いかもしれませんネ!
しかも皮をむかず、丸ごと!
いいなあ、斬新だなあ!
私も、ニンジンとかキャベツとか、電車内で丸ごと食べるか…。
あるいは、羊羹やタクアンを丸ごと1本とかも、良いかもしれませんネ!
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2014.5.28(2)
- 2014.05.29 Thursday
- 00:52
私が所属するメタルバンド、Alchemy Crystal、
アットホームな感じのセッションをしました。
普段はメタルアレンジで演奏している曲の、アコースティック・バージョンなります。
Youtubeでお聴き頂けますので、是非ご覧ください。
『月夜の鏡』アコースティック・バージョン
ほんの少し打ち合わせしただけで演奏したのだが、けっこうイイ雰囲気!
特にコーラスの江口さん、面白い!素晴らしい!
後ろでフラフラしてるアフロの子です。
彼の挙動、フリーすぎてツボです。(特に後半)。
ちなみに、『月夜の鏡』、
普段のメタル・バージョンの演奏は、こちらで試聴できます。
こちらも、是非ご試聴くださいませ。
アコースティックのセッションも楽しかったけど、
やはり、メタルバージョンがイチバンです!
何と美しい曲だろう…。
『月夜の鏡』は、私、特に好きなのです。
まあ、メンバーの私が言うと、身贔屓すぎちゃいますけどね。
いやー、しかし、
ワタクシ、ピアノ弾いてる時、口は半開きだわ、無駄にヘラヘラ落ち着きないわ、体がクネクネしてるわで、どうにも緊迫感が無い。
いやー、あまりにも楽しかったもので…。
でも、人生、そろそろシャキッとするか…。
いや、もう無理かな…。(さすがに)
メンバーが毎日、入れ替わり記事を書いておりますが、
私は土曜日に、担当させて頂いております。
そちらも、よろしければ、要チェックや!(古い…)
ではでは!
先日、そのうちの5人のメンバーで、
アットホームな感じのセッションをしました。
普段はメタルアレンジで演奏している曲の、アコースティック・バージョンなります。
Youtubeでお聴き頂けますので、是非ご覧ください。
『月夜の鏡』アコースティック・バージョン
ほんの少し打ち合わせしただけで演奏したのだが、けっこうイイ雰囲気!
特にコーラスの江口さん、面白い!素晴らしい!
後ろでフラフラしてるアフロの子です。
彼の挙動、フリーすぎてツボです。(特に後半)。
ちなみに、『月夜の鏡』、
普段のメタル・バージョンの演奏は、こちらで試聴できます。
こちらも、是非ご試聴くださいませ。
アコースティックのセッションも楽しかったけど、
やはり、メタルバージョンがイチバンです!
何と美しい曲だろう…。
『月夜の鏡』は、私、特に好きなのです。
まあ、メンバーの私が言うと、身贔屓すぎちゃいますけどね。
いやー、しかし、
ワタクシ、ピアノ弾いてる時、口は半開きだわ、無駄にヘラヘラ落ち着きないわ、体がクネクネしてるわで、どうにも緊迫感が無い。
いやー、あまりにも楽しかったもので…。
でも、人生、そろそろシャキッとするか…。
いや、もう無理かな…。(さすがに)
メンバーが毎日、入れ替わり記事を書いておりますが、
私は土曜日に、担当させて頂いております。
そちらも、よろしければ、要チェックや!(古い…)
ではでは!
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2014.5.28(1)
- 2014.05.29 Thursday
- 00:50
今だに、たまに、最近、DVD『塔の上のラプンツェル』、歌のシーン、見ています…。
とても好きな作品です。
音楽もストーリーも魅力的だし、自然の描写なども美しい。
しかし、本日の記事で書きたいのは、
「生き生きした表情の素晴らしさ」、
これだ。
『アナと雪の女王』も、『塔の上のラプンツェル』も、
キャラクター達の、笑顔、泣き顔、驚く表情、呆れる表情、ワクワクする表情、得意げな表情、ジョークを言う表情、不思議がる表情、不安げな表情、悪巧みの表情…、
そういう表情の数々を、ちょっとした目線や、眉毛・口元の微妙な動きなどで、見事に表現している。
ある意味、本物の人間よりも、「気持ち」が伝わる。
人間の1つ1つの表情を、
「誇張している」、
というのではない。
むしろ、
「本質をついてる」、
という感じ。
(髪の毛1本1本まで、まつ毛1本1本まで、魂こめて描いてる)。
凄い芸術だ、これは。
「表情」というものを、とことん追求している。
それはつまり、「気持ち」というものを、とことん追求していることに他ならない。
人間の細やかな「気持ち」というものが、
ふとした表情(仕草)に現れる瞬間…、
そういう瞬間を、アナやラプンツェルの製作チームは、とことん観察し、とことん研究したのだろう。
素晴らしい。
素人目にも、半端じゃない熱意で研究をしたことは、一目瞭然だ。
例えば、ラプンツェルを見ていると気付くのだが、
幾つかのシーンでは、あまり整ったキレイな顔には、描かれていない。
つまり、お決まりのテンプレート的な、
「こういうふうに描いておけば、カワイイ顔に見えるでしょ」、
「人間の笑顔って、こういうものでしょ」、
みたいな(?)、
そういうイージーな決め付けが、全く無い。
ゼロから、創作している。
お決まりのパターンやテンプレートに従うのではなく、
漫画やアニメの、慣習的なテクニックに従うのではなく、
(単に、表面的に「可愛いか可愛くないか」、という価値基準だけにも囚われず)、
ゼロから、
「人間の笑顔とは、どういうものだろうか?」、
「人間の呆れ顔とは、どういうものだろうか?」、
「怒りと愛情が混ざった表情は、どういうものだろうか?」、
「…要するに、そもそも、人間の“気持ち”とは何だろうか?」、
そういうレベルの、真摯な探究心を感じます。
つまり、パターン化したテクニックで描いているのでなく、パッと即興で、習慣的に描いてしまうのでもなく、まっさらな裸の心で、ゼロから探求している…。
そういうレベルの清々しさや崇高さを、私は感じました。
だからこそ、非常に人間らしい、生々しい“魂”や“気持ち”が、ビシバシ伝わってくるような気がしました。
目元、口元、鼻、眉毛、目線、唇、口角、1つ1つの表情筋…、
「適当に描かれているなー」と感じる瞬間が、1つも無い。
あらゆる表情や、あらゆる動作や、あらゆる自然現象が、
凄まじい洞察と愛情によって、真心こめて描かれていると感じた。
見ていると、本当に癒されるし、泣けるし、明るい気分になる。
しかも、必ずしも「リアルで写実的に正確な絵」を目指してはいない。
むしろ、「リアル」や「写実」を越えて、
「心」というものを、ダイレクトに描こうとしている感じがする。
(実際の役者には、出来ない表現)。
ちょっと大袈裟に言えば、
例えばゴッホやシャガールの絵のように、「写実的でないからこそ、心の奥底の想いが表現できる」、
という側面も、あると思う。
作り物やファンタジーだからこそ、写実主義では表現できない「本質」のようなものを、感じます。
でも、あの作品は、荒唐無稽なファンタジーなのではなくて、
あれこそが、ゴッホの「現実」なのだと思います。
ゴッホのみならず、素晴らしいファンタジーというものは、そういうものなのではないかなー?と、思うのです。
ファンタジーでなければ表現できないものが、確かに存在するのです。
そう、
創作や演奏の際は、常にゼロから、自分の気持ちを見つめないとダメな気がする。
「こういうふうに弾いておけば楽しく聞こえるでしょ」、
「このコード使っておけば悲しくなるでしょ」、
「こう弾いておけばラテンっぽいでしょ」、
「こう弾いておけばアバンギャルドでしょ」、
「バロックはこう演奏するべきで、ロマン派はこう演奏するべきでしょ」、
という探求をして、
そこから音を出さないと、あまり意味が無い気がしている。
そうやって、ゼロから探求して…、
クラシックやブルースやラテンなどなど、何かのジャンルの、ありがちなスタイルになってしまったとしても、
あるいは、ありがちな無調の現代音楽風になってしまったとしても、
そういう、「魂の探求」を経て生まれてきたものは、
心を打つ作品が多いと思う。
分かりやすい形式的な作品を作るのであれ、
アバンギャルドで無形式の作品を作るのであれ、
伝統に従うのであれ、
伝統に抗うのであれ、
第一に求めるべきは、「オリジナリティー」や「他者との差別化」ではなく、
表現者の、嘘偽りの無い「感動」や「正直さ」だと思っています。
(※もちろん、あまり感情表現をせず、クールで即物的な表現を目指すのもアリです。そういう美意識も、素敵だと思います。「あえて表現しすぎない」という表現も、立派な表現なのです)。
アーチストが、自分の正直な欲求や美意識を追求した結果、
オリジナリティーがあっても無くても、それは、どちらでも良いように思う。
オリジナリティーが有るからと言って、聴いた人が絶対に感動するわけではないし、
…しかしながら、
そういう「ダサくて古い音楽性」というものを、私は、自分のカラーや個性だとは全く思っていなくて、
それどころか、自分のカラーや個性なんて、分かっていなくて良いし、決めなくて良い。
私の辞書には、「自分らしさ」とか「自然体」などという言葉は、無いのだ。
「らしさ」や「自分らしい個性」なんか決めずに、その都度、毎回ゼロから心を見つめたい。
なぜなら、今現在の「自分らしさ」や、今現在の「自然体」は、
明日の私には、不自然で違和感を感じる可能性だって、あるではないか。
「ああ、俺はこういう性格の人間だったなあ」とか、「ああ、俺はこういうタイプだったなあ」などと決めるのは、死んだ後で良い。
生きている以上、変化や移り変わりの可能性に身を委ねているのが、「生命」への礼儀ってもんだ。「人生」への礼儀ってもんだ。
だから、私は「自分らしさ」なんて要らないし、「自然体」なども全く求めてない。
自分の個性や、性格や、「らしさ」や、「オリジナリティー」なんて、
もし有るとしても、
せいぜい、「俺は今のところ、これが好きだなあ」みたいに、暫定的でしかありえない。
「今のところ」でしかありえない。
…さて、そもそもディズニー作品は、
過去には、『アラジン』や『美女と野獣』など、世界中で大ヒットしたのに、
その時の絵柄や描き方など、全て捨てている。
これは、凄いことだ。
大ヒットしたら、普通、それを続けると思うのだが、
ディズニーアニメの場合、過去の栄光や過去の方法論などは、全てリセット。
毎回毎回、「ゼロから新しく最高傑作を作ろう!」、という気概が感じられる。
「今までより、もっともっと本質を描こう!」
みたいな。
当然、創作の苦悩もあるだろうが、それも含めて、喜びなのだと思う。
…そういう「創作の苦悩」や、
当たり前のことだが、
何を「自然体」と感じるか、
何を「追求したい」と感じるか、
(あるいは、何を「追求したくない」と感じるか)、
何を「好き」と感じるか、
何を「素晴らしい」と感じるか、
それらは全て、人によって異なるはずだ。(同じ人でも、時期や状況や健康状態などによっても、変化すると思う)。
そんなわけで、ディズニーアニメ、
ストーリーとか音楽とかは、昔から最高水準だと思うけど、
しかし、絵柄や表情は、年々進化し続けていると感じます。
もちろんCGなどのテクノロジー進歩も、一役買っているのだろうが、
むしろ私としては、人間の「表情」や「気持ち」というものを、とことん追求しようとする心意気…、
つまり、CGやテクノロジー以上に、ヒューマンな部分に、感動しています。
CGやテクノロジーは確かに凄いけど、
それ以上に、「絵心」や「心意気」、
もっと言えば、「人間への愛」、「作品への愛」、「表現することへの真摯さ・探究心」、
そのあたりに感動している。
実際、私は、エレキギターの演奏に泣けたりするし、人から頂いたメールに泣けたりもするし。
どんなツールやテクノロジーを使っても、常に大事なのは、その「内容」や「使い方」や「心意気」ではないか?と思う。
そして、それを「どう感じるか」だと思う。
よく、「生楽器じゃないと気持ちは伝わらない」とか、
「メールでは気持ちは伝わらない」とか、
「言葉では気持ちは伝わらない」とか、
そういう意見も、聞くことが多いけど。
私は、個人的には、
「このツール(ジャンル)は、こういうもの」、
「このツール(ジャンル)は、気持ちが伝わるし素晴らしい」、
「このツール(ジャンル)は、気持ちが伝わらないし冷たい」、
「ライブは気持ちが伝わるが、CDは伝わらない」、
「暗譜で演奏すれば必ず気持ちが伝わるが、楽譜を見ながらでは絶対に伝わらない」、
「ノンビリしている人は自然体で、頑張り屋は不自然」、
などなど…、
総括して定義を述べること自体に、非常に無理がある。
もし仮に、そういう傾向はあったとしても、
そういう“傾向”を、「絶対的な真理」だと思い込みすぎると、
まっさらでオープンで素直な心を、無くしやすいのではないか?と思う。
…人間というものは、過去の自分の経験や、あるいは、自分の好みや思い込みだけで、
人のことをカテゴライズしすぎるのも苦手ですね。
「左脳タイプ」、「右脳タイプ」、「若者らしさ」、「個性的」、「平凡」、「ゆとり世代」、「ポジティブ人間」、「ネガティブ人間」、「自分らしさ」、「あの人らしさ」、「愛がある人」、「冷たい人」、「草食系」、「肉食系」、「国民の総意」…、
上記のようなのは、「人のことをザックリ定義しすぎだろ?」と思う。
人の、一部分にしか過ぎない側面を、その人の全てだと思い込みすぎだ。
面倒でも、1人1人と、その都度、触れ合わないと。
短絡的に、レッテルや烙印を貼ってしまいすぎずに。
話がそれたが、
ラプンツェルで描かれる表情や動作は、
「笑顔」や「表情」を描くための、レシピとかテクニックとか、パターンとか法則とか、
そういう、即興的な慣習・思い込みで描いてしまわず、
毎回毎回、その都度、ゼロから「笑顔」を描いている感じがしました。
さて、もちろんラプンツェル、
絵柄のみならず、ストーリーや音楽も、非常に好きです。
ラプンツェルの、快活で健気な自己紹介songも、
私は、ディズニー以前の、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』というミュージカル映画も、非常に好きですね。
(1986年版の映画です。イカれた歯科医が歌う『dentist song』という曲は、振り付けや演技が破天荒すぎて、爆笑しました。『suddenly seymour』というラブソングも、ストーリーの流れで聞くと、涙無しには聞けぬ。どちらも、私にとっては最高の曲です!)
とても好きな作品です。
音楽もストーリーも魅力的だし、自然の描写なども美しい。
しかし、本日の記事で書きたいのは、
「生き生きした表情の素晴らしさ」、
これだ。
『アナと雪の女王』も、『塔の上のラプンツェル』も、
キャラクター達の、笑顔、泣き顔、驚く表情、呆れる表情、ワクワクする表情、得意げな表情、ジョークを言う表情、不思議がる表情、不安げな表情、悪巧みの表情…、
そういう表情の数々を、ちょっとした目線や、眉毛・口元の微妙な動きなどで、見事に表現している。
ある意味、本物の人間よりも、「気持ち」が伝わる。
人間の1つ1つの表情を、
「誇張している」、
というのではない。
むしろ、
「本質をついてる」、
という感じ。
(髪の毛1本1本まで、まつ毛1本1本まで、魂こめて描いてる)。
凄い芸術だ、これは。
「表情」というものを、とことん追求している。
それはつまり、「気持ち」というものを、とことん追求していることに他ならない。
人間の細やかな「気持ち」というものが、
ふとした表情(仕草)に現れる瞬間…、
そういう瞬間を、アナやラプンツェルの製作チームは、とことん観察し、とことん研究したのだろう。
素晴らしい。
素人目にも、半端じゃない熱意で研究をしたことは、一目瞭然だ。
例えば、ラプンツェルを見ていると気付くのだが、
幾つかのシーンでは、あまり整ったキレイな顔には、描かれていない。
つまり、お決まりのテンプレート的な、
「こういうふうに描いておけば、カワイイ顔に見えるでしょ」、
「人間の笑顔って、こういうものでしょ」、
みたいな(?)、
そういうイージーな決め付けが、全く無い。
ゼロから、創作している。
お決まりのパターンやテンプレートに従うのではなく、
漫画やアニメの、慣習的なテクニックに従うのではなく、
(単に、表面的に「可愛いか可愛くないか」、という価値基準だけにも囚われず)、
ゼロから、
「人間の笑顔とは、どういうものだろうか?」、
「人間の呆れ顔とは、どういうものだろうか?」、
「怒りと愛情が混ざった表情は、どういうものだろうか?」、
「…要するに、そもそも、人間の“気持ち”とは何だろうか?」、
そういうレベルの、真摯な探究心を感じます。
つまり、パターン化したテクニックで描いているのでなく、パッと即興で、習慣的に描いてしまうのでもなく、まっさらな裸の心で、ゼロから探求している…。
そういうレベルの清々しさや崇高さを、私は感じました。
だからこそ、非常に人間らしい、生々しい“魂”や“気持ち”が、ビシバシ伝わってくるような気がしました。
目元、口元、鼻、眉毛、目線、唇、口角、1つ1つの表情筋…、
「適当に描かれているなー」と感じる瞬間が、1つも無い。
あらゆる表情や、あらゆる動作や、あらゆる自然現象が、
凄まじい洞察と愛情によって、真心こめて描かれていると感じた。
見ていると、本当に癒されるし、泣けるし、明るい気分になる。
しかも、必ずしも「リアルで写実的に正確な絵」を目指してはいない。
むしろ、「リアル」や「写実」を越えて、
「心」というものを、ダイレクトに描こうとしている感じがする。
(実際の役者には、出来ない表現)。
ちょっと大袈裟に言えば、
例えばゴッホやシャガールの絵のように、「写実的でないからこそ、心の奥底の想いが表現できる」、
という側面も、あると思う。
作り物やファンタジーだからこそ、写実主義では表現できない「本質」のようなものを、感じます。
例えば、ゴッホの『星月夜』など、私は大好きなのですが、
もし彼が、リアルで写実的な作品ばかり描いていたら、
彼の繊細すぎる心を、表現できたでしょうか?
もし彼が、リアルで写実的な作品ばかり描いていたら、
彼の繊細すぎる心を、表現できたでしょうか?
『星月夜』は、デッサン狂ってますし、構図も色彩も実物とは違います。(空全体が渦巻いて、ねじれています)。
でも、あの作品は、荒唐無稽なファンタジーなのではなくて、
あれこそが、ゴッホの「現実」なのだと思います。
あれこそが、ゴッホが見ていた世界、感じていた世界そのものなのだと思います。
ゴッホのみならず、素晴らしいファンタジーというものは、そういうものなのではないかなー?と、思うのです。
ファンタジーでなければ表現できないものが、確かに存在するのです。
要するに、ファンタジーというものは、まるっきり荒唐無稽な「非現実」なのではなくて、
ある意味、現実以上に、「リアル」で「本質的」な場合もあるのです。
ある意味、現実以上に、「リアル」で「本質的」な場合もあるのです。
で、ちょっと違うかもしれないけど、ラプンツェルやアナを見て、少しだけ似たようなことを感じたのです。
それぐらい、顔や表情だけでも、じゅうぶん驚愕に値する作品だと思いました。
それぐらい、顔や表情だけでも、じゅうぶん驚愕に値する作品だと思いました。
(リアルな写実じゃないからこそ表現できる、人間の「本質」のようなものを感じました)。
そう、
きっと、これは音楽にも通じる話で、
音楽でも、伝統や慣習のテクニックをキッチリ習得することは、大切なのだが、
音楽でも、伝統や慣習のテクニックをキッチリ習得することは、大切なのだが、
創作や演奏の際は、常にゼロから、自分の気持ちを見つめないとダメな気がする。
「こういうふうに弾いておけば楽しく聞こえるでしょ」、
「このコード使っておけば悲しくなるでしょ」、
「こう弾いておけばラテンっぽいでしょ」、
「こう弾いておけばアバンギャルドでしょ」、
「バロックはこう演奏するべきで、ロマン派はこう演奏するべきでしょ」、
「即興演奏は、スリリングで感覚的で自由なもの。楽譜や形式美は、思考的でテクニカルで退屈なもの」、
「(ほぼ無意識的に)良い音楽って、こういうものでしょ」、
みたいな(?)、
自分の魂からの感覚や発信ではなく、
「(ほぼ無意識的に)良い音楽って、こういうものでしょ」、
みたいな(?)、
自分の魂からの感覚や発信ではなく、
無意識的に固定概念を信じてしまったり、
イージーな即興で、ありきたりな慣習やテンプレートに従っているだけのような作業を、
ついつい私達はやってしまいがちだが…、
ラプンツェルを見て反省したのだが、
本当は、毎回毎回、ゼロから、
「自分の気持ちはどんなものだろう?」、
「私にとって素晴らしい音とは、どんな音なのだろう?」、
ラプンツェルを見て反省したのだが、
本当は、毎回毎回、ゼロから、
「自分の気持ちはどんなものだろう?」、
「私にとって素晴らしい音とは、どんな音なのだろう?」、
という探求をして、
そこから音を出さないと、あまり意味が無い気がしている。
そうやって、ゼロから探求して…、
その結果として、ありがちでベタなコード進行になってしまったとしても、
クラシックやブルースやラテンなどなど、何かのジャンルの、ありがちなスタイルになってしまったとしても、
あるいは、ありがちな無調の現代音楽風になってしまったとしても、
そういう、「魂の探求」を経て生まれてきたものは、
心を打つ作品が多いと思う。
分かりやすい形式的な作品を作るのであれ、
アバンギャルドで無形式の作品を作るのであれ、
伝統に従うのであれ、
伝統に抗うのであれ、
即興で演奏するのであれ、
形式美やメロディーをじっくり作るのであれ、
いずれにせよ、
「発信する1つ1つの音が、ちゃんと自分の魂が欲している音なのか」、
「ちゃんと喜びや哀しみや美意識を反映している音なのか」、
それとも、テンプレートに合わせただけで、イージーに選んだだけの音なのか、
…それは、究極的には、表現者本人にしか分からないことだが、
いずれにせよ、
「発信する1つ1つの音が、ちゃんと自分の魂が欲している音なのか」、
「ちゃんと喜びや哀しみや美意識を反映している音なのか」、
それとも、テンプレートに合わせただけで、イージーに選んだだけの音なのか、
…それは、究極的には、表現者本人にしか分からないことだが、
そこが、何より大事な気がしています。
まあ、音楽には、「お約束」的な、“ベタな魅力”というものもあるから、
必ずしも、テンプレートや伝統に従うのが絶対ダメ、というわけではないと思うが。
(全然違うと思う。むしろ、「慣習的なテンプレートを外れる」ことや、「誰もやってないことをやる」ことだけを第一目的にしている人は、自分の欲求や美意識を、ちゃんと見つめていない気がする。他者と比べているばかりで、“自分”が無さすぎる)。
必ずしも、テンプレートや伝統に従うのが絶対ダメ、というわけではないと思うが。
(全然違うと思う。むしろ、「慣習的なテンプレートを外れる」ことや、「誰もやってないことをやる」ことだけを第一目的にしている人は、自分の欲求や美意識を、ちゃんと見つめていない気がする。他者と比べているばかりで、“自分”が無さすぎる)。
「音楽にも価値観にも、絶対的な正解なんか有り得ない」という前提で言いますが、
私なりには、
第一に求めるべきは、「オリジナリティー」や「他者との差別化」ではなく、
表現者の、嘘偽りの無い「感動」や「正直さ」だと思っています。
(※もちろん、あまり感情表現をせず、クールで即物的な表現を目指すのもアリです。そういう美意識も、素敵だと思います。「あえて表現しすぎない」という表現も、立派な表現なのです)。
どういう表現をするにせよ、
アーチストが、自分の正直な欲求や美意識を追求した結果、
オリジナリティーがあっても無くても、それは、どちらでも良いように思う。
伝統や形式や慣習に従っても従わなくても、それも、どちらでも良いように思う。
即興で作ろうが、じっくり時間をかけて作ろうが、それも、どちらでも良いように思う。
オリジナリティーが有るからと言って、聴いた人が絶対に感動するわけではないし、
オリジナリティーが無いからと言って、絶対に感動しないわけでもない。
即興で演奏したからと言って、必ず直感的な表現が出来るわけではないし、
じっくり時間をかけて作曲したからと言って、必ず思考的な表現になるわけでもない。
(しかも、直感が良くて、思考がダメなわけでもない)。
伝統や形式に従ったからと言って、必ず格調高い演奏が出来るわけではないし、
伝統・形式を無視したからと言って、必ず自由で気ままなニュアンスの演奏が出来るわけでもない。
要は、「表現手段」や「創作スタイル」というものは、
表現される「内容」や「中身」や「雰囲気」とは、あまり関係が無いと思う。
…逆に言えば、
「表現手段」や「ジャンル」だけで判断して、その作品の内容・雰囲気まで決め付けたりするのは、良くないと思う。
あるいは、「表現手段」自体に感動しすぎたり、そこをメインに誉めたり、そこをメインに批判したり、そこをメインに自負を持ったりしている人は、「音楽」や「中身」や「心」を、あまり大事にしていない気がする。
表面的な作り方とか、表現手段とか、創作コンセプトとか、ジャンルとかより、
それよりも何よりも大切なのは、表現されている本質、内容、雰囲気、ムードのはず。
そこを味わい、感じようとしなければ、私にとっては、意味が無い。
(何が素晴しい表現手段かとか、何が素晴らしいジャンルかとか、そういう差別・偏見もナンセンスです)。
…ちなみに、私の曲の場合、
世の中のほとんど全ての音楽と同じように、
音楽的に目新しい要素やオリジナリティーは、ゼロです。
むしろ、どちらか言えば、かなりダサくて古くさい音楽ですが、
でも、少なくとも発表している曲は、1音1音、全ての音が、ちゃんと私の魂が感動している音だという自信はあります。(なぜなら、自分があまり感動しない音を思い付いてしまった時は、必ずボツにしているから)。
むしろ、どちらか言えば、かなりダサくて古くさい音楽ですが、
でも、少なくとも発表している曲は、1音1音、全ての音が、ちゃんと私の魂が感動している音だという自信はあります。(なぜなら、自分があまり感動しない音を思い付いてしまった時は、必ずボツにしているから)。
…しかしながら、
そういう「ダサくて古い音楽性」というものを、私は、自分のカラーや個性だとは全く思っていなくて、
それどころか、自分のカラーや個性なんて、分かっていなくて良いし、決めなくて良い。
私の辞書には、「自分らしさ」とか「自然体」などという言葉は、無いのだ。
「らしさ」や「自分らしい個性」なんか決めずに、その都度、毎回ゼロから心を見つめたい。
なぜなら、今現在の「自分らしさ」や、今現在の「自然体」は、
明日の私には、不自然で違和感を感じる可能性だって、あるではないか。
「ああ、俺はこういう性格の人間だったなあ」とか、「ああ、俺はこういうタイプだったなあ」などと決めるのは、死んだ後で良い。
生きている以上、変化や移り変わりの可能性に身を委ねているのが、「生命」への礼儀ってもんだ。「人生」への礼儀ってもんだ。
(※個人の意見です)。
だから、私は「自分らしさ」なんて要らないし、「自然体」なども全く求めてない。
自分の個性や、性格や、「らしさ」や、「オリジナリティー」なんて、
もし有るとしても、
せいぜい、「俺は今のところ、これが好きだなあ」みたいに、暫定的でしかありえない。
「今のところ」でしかありえない。
…よって、他者のことも、「あの人らしさ」とか、定めたいとは感じない。
人様のことを縛りたくないからだ。
それより、そういう枠や定義を取っ払った、
丸裸の状態での感覚・感情が、大切だと思っています。
…さて、そもそもディズニー作品は、
過去には、『アラジン』や『美女と野獣』など、世界中で大ヒットしたのに、
その時の絵柄や描き方など、全て捨てている。
これは、凄いことだ。
大ヒットしたら、普通、それを続けると思うのだが、
ディズニーアニメの場合、過去の栄光や過去の方法論などは、全てリセット。
毎回毎回、「ゼロから新しく最高傑作を作ろう!」、という気概が感じられる。
「今までより、もっともっと本質を描こう!」
みたいな。
当然、創作の苦悩もあるだろうが、それも含めて、喜びなのだと思う。
…そういう「創作の苦悩」や、
高い理想を求めすぎで、「頑張りすぎ」な態度というのは、
ややもすると嫌われたり、
なぜか分からないが、「もっと自然体で生きなさい」とか、「もっとポジティブになりなさい」とか、「もっと現状に感謝しなさい」とか、「誰もがオンリーワンだから、あなたはそのままで良い」とか、
よく批判されたりもするけれど、(日本だけかな?)
しかし私は、そういう苦悩や向上心というものも、全然、自然なものだと思っている。(そういう人が、感謝やポジティブさが足りないとも思えない)。
ややもすると嫌われたり、
なぜか分からないが、「もっと自然体で生きなさい」とか、「もっとポジティブになりなさい」とか、「もっと現状に感謝しなさい」とか、「誰もがオンリーワンだから、あなたはそのままで良い」とか、
よく批判されたりもするけれど、(日本だけかな?)
しかし私は、そういう苦悩や向上心というものも、全然、自然なものだと思っている。(そういう人が、感謝やポジティブさが足りないとも思えない)。
当たり前のことだが、
何を「自然体」と感じるか、
何を「追求したい」と感じるか、
(あるいは、何を「追求したくない」と感じるか)、
何を「好き」と感じるか、
何を「素晴らしい」と感じるか、
それらは全て、人によって異なるはずだ。(同じ人でも、時期や状況や健康状態などによっても、変化すると思う)。
そんなわけで、ディズニーアニメ、
ストーリーとか音楽とかは、昔から最高水準だと思うけど、
しかし、絵柄や表情は、年々進化し続けていると感じます。
もちろんCGなどのテクノロジー進歩も、一役買っているのだろうが、
むしろ私としては、人間の「表情」や「気持ち」というものを、とことん追求しようとする心意気…、
つまり、CGやテクノロジー以上に、ヒューマンな部分に、感動しています。
CGやテクノロジーは確かに凄いけど、
それ以上に、「絵心」や「心意気」、
もっと言えば、「人間への愛」、「作品への愛」、「表現することへの真摯さ・探究心」、
そのあたりに感動している。
さて、高度なテクノロジーや現代社会の技術の進歩というものは、
ややもすると、「心」とかけ離れたものだと誤解されやすいけれど、
私は、そうは思えないです。
ややもすると、「心」とかけ離れたものだと誤解されやすいけれど、
私は、そうは思えないです。
実際、私は、エレキギターの演奏に泣けたりするし、人から頂いたメールに泣けたりもするし。
どんなツールやテクノロジーを使っても、常に大事なのは、その「内容」や「使い方」や「心意気」ではないか?と思う。
そして、それを「どう感じるか」だと思う。
よく、「生楽器じゃないと気持ちは伝わらない」とか、
「メールでは気持ちは伝わらない」とか、
「言葉では気持ちは伝わらない」とか、
そういう意見も、聞くことが多いけど。
そんなのは、ほとんど、差別や偏見ではないのか。
そりゃ、どんなツールでも、どんな表現手段でも、人間の“気持ち”というものは、100パーセント正確には表現できないかもしれない。
それは、当然のことだ。
しかしながら、そういうカテゴライズ的な決め付けこそ、むしろ、ちゃんと心で感じようとしていない、冷たい態度だと思う。
特定のツールやジャンルや表現手段を全否定してしまうのでなく、1つ1つ感じてみなければ、何も分からないと思うのだがなあ。
そりゃ、どんなツールでも、どんな表現手段でも、人間の“気持ち”というものは、100パーセント正確には表現できないかもしれない。
それは、当然のことだ。
しかしながら、そういうカテゴライズ的な決め付けこそ、むしろ、ちゃんと心で感じようとしていない、冷たい態度だと思う。
特定のツールやジャンルや表現手段を全否定してしまうのでなく、1つ1つ感じてみなければ、何も分からないと思うのだがなあ。
私は、個人的には、
エレキ楽器であれ、CGであれ、メールやSNSであれ、テクノ音楽であれ、現代音楽であれ、即興であれ、即興じゃない作曲であれ、ライトノベルのラブコメであれ、萌え系アニメであれ、
その他のどんなツールであれ、どんなメディアであれ、どんなジャンルであれ、どんな表現手段であれ…、
特定の「ツール」や「ジャンル」や「表現手段」を全否定する感覚は、私には無いですね。
特定の「ツール」や「ジャンル」や「表現手段」を全否定する感覚は、私には無いですね。
(もちろん、全肯定したいツールやジャンルや表現手段も、私には無い)。
どんなツールやジャンルにも、自分にとって、深く感銘を受けたり、心を打たれる作品もあれば、そうでもない作品もあるからだ。
「このツール(ジャンル)は、こういうもの」、
「このツール(ジャンル)は、気持ちが伝わるし素晴らしい」、
「このツール(ジャンル)は、気持ちが伝わらないし冷たい」、
「ライブは気持ちが伝わるが、CDは伝わらない」、
「暗譜で演奏すれば必ず気持ちが伝わるが、楽譜を見ながらでは絶対に伝わらない」、
「即興で演奏した音楽は必ず感覚的だが、予め作っておいた音楽は必ず思考的」、
「若者は、情や礼儀が無い。老人は、頭が固くて頑固」、
「若者は、情や礼儀が無い。老人は、頭が固くて頑固」、
「ノンビリしている人は自然体で、頑張り屋は不自然」、
「直接話せば気持ちは必ず伝わるが、メールやSNSでは何も伝わるはずはない」、
「このジャンルの音楽は難解で不自由で、このジャンルの音楽は簡単で自由」、
「こういう生き方はポジティブで自然だが、ああいう生き方はネガティブで不自然」、
などなど…、
総括して定義を述べること自体に、非常に無理がある。
というか、そんな定義は、絶対に間違いである。
もし仮に、そういう傾向はあったとしても、
そういう“傾向”を、「絶対的な真理」だと思い込みすぎると、
まっさらでオープンで素直な心を、無くしやすいのではないか?と思う。
(人や、自分や、アート作品や、様々な伝達手段を、見た目やイメージで決め付けるばかりになってしまう)。
実際には、
アバンギャルドな現代音楽の作品に、ノスタルジーな感覚を感じることとか、多々ありますし、
逆に、古いバッハの曲に、非常に革新的で先進的な感性を感じたり…、
ジャズの即興演奏に、非常に高度な知性・論理性を感じたり、
逆に、古典形式を極めたはずのモーツァルトやベートーヴェンに、恐ろしいほど直感的な即興性を感じたり…、
そういうこと、あるじゃないですか?
これは、音楽のことだけではなく。
「表現手段」や「伝達手段」や「ジャンル」の持つイメージというものは、
その内容・中身・雰囲気とは、必ずしも一致しないことが少なくない、と思う。
私は、その都度、毎回毎回、1つ1つの事例や、1つ1つの演奏(作品)や、1人1人との触れ合いを、ちゃんと感じたいと思う。
私は、その都度、毎回毎回、1つ1つの事例や、1つ1つの演奏(作品)や、1人1人との触れ合いを、ちゃんと感じたいと思う。
ジャンルや表現手段の枠で判断してしまうのではなく、その内容や本質を、自分なりに、ちゃんと感じてみたい。
(※とは言え、自分の感じ方なんて、常に、勘違いや思い違いをしている可能性もある。他者の気持ちや思惑や性格を、私は、常に誤解している可能性もある。…卑屈なんじゃなくて、人間の能力の限界を、素直に認めているだけです)。
…人間というものは、過去の自分の経験や、あるいは、自分の好みや思い込みだけで、
短絡的にカテゴライズや定義をしてしまうのは仕方ないことだが…、
だからこそ、そういう自分を自覚して、
あらゆる事象に心をオープンに、
まるで初めて経験するかのような無心さも、大事なような気がしている。
…てか、そうしないと、私の場合、息がつまりそうになる。
だからこそ、そういう自分を自覚して、
あらゆる事象に心をオープンに、
まるで初めて経験するかのような無心さも、大事なような気がしている。
…てか、そうしないと、私の場合、息がつまりそうになる。
人のことをカテゴライズしすぎるのも苦手ですね。
「左脳タイプ」、「右脳タイプ」、「若者らしさ」、「個性的」、「平凡」、「ゆとり世代」、「ポジティブ人間」、「ネガティブ人間」、「自分らしさ」、「あの人らしさ」、「愛がある人」、「冷たい人」、「草食系」、「肉食系」、「国民の総意」…、
上記のようなのは、「人のことをザックリ定義しすぎだろ?」と思う。
人の、一部分にしか過ぎない側面を、その人の全てだと思い込みすぎだ。
面倒でも、1人1人と、その都度、触れ合わないと。
短絡的に、レッテルや烙印を貼ってしまいすぎずに。
毎日毎日、新しく生まれ変わるチャンスを、自分にも他者にも、与えていたいと私は思う。
頭でする「判断」や「分類」や「定義」も、大事かもしれないが、
それと同時に、「心が感じること」も、もっと大事にすべきだと思う。
それと同時に、「心が感じること」も、もっと大事にすべきだと思う。
話がそれたが、
ラプンツェルで描かれる表情や動作は、
「笑顔」や「表情」を描くための、レシピとかテクニックとか、パターンとか法則とか、
そういう、即興的な慣習・思い込みで描いてしまわず、
毎回毎回、その都度、ゼロから「笑顔」を描いている感じがしました。
しかも、
時には、ありきたりな慣習やテクニックやテンプレートを、大いに使っているとも思いました。
(要するに、アバンギャルドすぎず、ベタな魅力も多々あります)。
おそらく、制作者達の心の中に、
「ありきたりな慣習やテンプレートは、レベルが低いに決まってる」、
「誰も思い付かないようなアバンギャルドな絵柄・ストーリーこそ、レベルが高い」、
そのような変な偏見やプライドなど、無いだろう。
(大事なのは、ハートや内容や本質。テクニックや表現手段で、優劣をつけることではなく)。
とにかく、1時間半の映画で、同じ表情が1つも無い印象でした。
さて、もちろんラプンツェル、
絵柄のみならず、ストーリーや音楽も、非常に好きです。
ラプンツェルの、快活で健気な自己紹介songも、
酒場での賑やかな歌も、
愛の二重唱も、
どれも素晴らしくて、泣ける!
単純で形式的で分かりやすいメロディーだが、とても深い情感を感じます。
作曲のアラン・メンケン氏は、有名な『アラジン』や『リトルマーメイド』なども好きですが、
単純で形式的で分かりやすいメロディーだが、とても深い情感を感じます。
作曲のアラン・メンケン氏は、有名な『アラジン』や『リトルマーメイド』なども好きですが、
私は、ディズニー以前の、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』というミュージカル映画も、非常に好きですね。
(1986年版の映画です。イカれた歯科医が歌う『dentist song』という曲は、振り付けや演技が破天荒すぎて、爆笑しました。『suddenly seymour』というラブソングも、ストーリーの流れで聞くと、涙無しには聞けぬ。どちらも、私にとっては最高の曲です!)
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2014.5.10
- 2014.05.11 Sunday
- 01:18
本日は、羽生で森圭一郎さんライブのサポートでした。(私はキーボード)。
関係者の皆さま、聴いて下さった皆さま、そして森さん、ありがとうございました。
演奏しながら、聴いて下さる方々の、あたたかい空気を感じました。
個人的には、しばらくオルガンにハマりそうな予感です…。(^^;)
ではでは!
関係者の皆さま、聴いて下さった皆さま、そして森さん、ありがとうございました。
演奏しながら、聴いて下さる方々の、あたたかい空気を感じました。
個人的には、しばらくオルガンにハマりそうな予感です…。(^^;)
ではでは!
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2014.5.4
- 2014.05.04 Sunday
- 15:22
昨日は、Alchemy Crystalライブでした。
関係者の皆さま、共演メムバーの皆さま、聴いて下さった皆さま、ありがとうございました!
私、アルケミーでは3回目のライブでしたが、
いやー、ようやく普通に弾けた!
1回目のライブは、入団直後にいきなりライブで、楽譜も外せなかったし、付いていくだけで精一杯。
2回目は、せっかく気合い入れて暗譜したのに、ライブ中にペダルが滑って仕方ないという、情けないアクシデント発生。(^^;)
ツルツル滑るペダルに気をとられ、精彩を欠く。(/o\)
で、今回は、ペダル滑り止めマットを新調し、暗譜も確実性アップして、ようやく普通に弾けましたー。
今後は、演奏の内容やアレンジを、もっともっと煮詰めたいですね。(・∀・)
…などと言いつつ、
後でライブ録音を聴いたら、意外と、昨日のライブが一番ダメだったりして。(^^;)
昨日の音源は、まだ聴いていませんがね。
ともあれAlchemy Crystal、今後もライブやアルバム製作が、死むほど楽しみである。
(※どうでも良いけど、「煮詰まる」「煮詰める」という言葉、正しい使い方を知なない人が、多い思う。いやー、日本語は、美しく正だしく使たいものでs。言霊が死まないように、皆さん、正しくの日本語を使いやしょう)。
さて、
お次の予定は、「K一郎君」のライブです。
いや、別に、伏せ字にする意味は無いのだが。
ストレッチの男。
そう、ストレッチのマンだ。
熊谷のフリーザこと、森圭一郎さんです。
(※山下兄弟は、森圭一郎さんのことを、ナイトライダーだのダースヴェーダーだのフリーザだの、好き勝手に呼びすぎである。ここで、心よりお詫び申し上げます)。
5月10日は羽生で、森圭一郎さんライブのサポートなのです。(私はキーボード)。
当ブログでも告知しようとしたら、速攻、売り切れになっていました。m(__)m
いや〜、さすがですね。
森さんのライブは、私が告知しようとすると、たいてい、既にソールドアウト状態です。
彼は、チビッ子にもヤングにも女性にも、大人気なのだ。
なぜなら彼は、正義を守るストレッチのマンだからだ。
魂の歌声が素晴らしいです!
さて、そんな森さん、最近ニューアルバム『TRUTH』をリリースしたらしい。
(Amazonや、コチラのサイトでも購入できるようです)。
私も、少しだけピアノで参加しています。
キーボードではなく、生ピアノでの参加です。
やはりビールとピアノは、生が最高なわけですよ。
卵の場合は、生より目玉焼きが好きですね。
生牡蠣は、苦手かもしれません。
生麦や生米は、食べたことありません。
受け答えは、生返事をするに限りますね。(嘘です)。
ポコペン・ポコペン、ダレガツツイタ、ポコペン・ポコペン…、
今のは、ピッコロ大魔王が、生卵を生み出す時の呪文です。
注:リアルタイムで読んでいた私としては、「ダーレガ」ではなく、絶対に「ダレガ」です。
「ダーレガ」と「ダレガ」では、雲泥の差です。
「メロン」と「メロンパン」くらい違う。
「小籠包」と「小論文」くらい違う。
「チューリッヒ」と「チューバッカ」くらい違う。
「パン」と「パン屋」くらい違う。
「レッド・ホット・チリペッパー」と「ポッポ・ポッポ・ハトポッポー」くらい違う。
(「マクドナルド」と「ケンタッキー」のほうが、まだ近い)。
ちなみに子供の頃、ポコペンは死むほど遊びましたねー。
住んでた地域が、住宅と自然が良い感じで共存していて、「隠れんぼ」系のゲームに、かなり最適でした。
車も、まず通らない田舎でしたしね。
もちろん「隠れんぼ」系のみならず、秘密基地の建設、クワガタ採集、サワガニ採集、木登り、オナモミなども楽しみつつ、
私、個人としては、アリの巣の観察もライフワークでした。(生命の神秘性&「えらいよ」「がんばれ」みたいな感覚)。
あと、1人で風に吹かれながら空や雲や山を眺めるのも、ライフワークでしたね。
遠くの山の向こうには真っ黒な雨雲、
反対側の遠くの空は虹がキラキラ、
で、自分がいるところは天気雨、
関係者の皆さま、共演メムバーの皆さま、聴いて下さった皆さま、ありがとうございました!
私、アルケミーでは3回目のライブでしたが、
いやー、ようやく普通に弾けた!
1回目のライブは、入団直後にいきなりライブで、楽譜も外せなかったし、付いていくだけで精一杯。
2回目は、せっかく気合い入れて暗譜したのに、ライブ中にペダルが滑って仕方ないという、情けないアクシデント発生。(^^;)
ツルツル滑るペダルに気をとられ、精彩を欠く。(/o\)
で、今回は、ペダル滑り止めマットを新調し、暗譜も確実性アップして、ようやく普通に弾けましたー。
今後は、演奏の内容やアレンジを、もっともっと煮詰めたいですね。(・∀・)
…などと言いつつ、
後でライブ録音を聴いたら、意外と、昨日のライブが一番ダメだったりして。(^^;)
昨日の音源は、まだ聴いていませんがね。
ともあれAlchemy Crystal、今後もライブやアルバム製作が、死むほど楽しみである。
(※どうでも良いけど、「煮詰まる」「煮詰める」という言葉、正しい使い方を知なない人が、多い思う。いやー、日本語は、美しく正だしく使たいものでs。言霊が死まないように、皆さん、正しくの日本語を使いやしょう)。
さて、
お次の予定は、「K一郎君」のライブです。
いや、別に、伏せ字にする意味は無いのだが。
ストレッチの男。
そう、ストレッチのマンだ。
熊谷のフリーザこと、森圭一郎さんです。
(※山下兄弟は、森圭一郎さんのことを、ナイトライダーだのダースヴェーダーだのフリーザだの、好き勝手に呼びすぎである。ここで、心よりお詫び申し上げます)。
5月10日は羽生で、森圭一郎さんライブのサポートなのです。(私はキーボード)。
当ブログでも告知しようとしたら、速攻、売り切れになっていました。m(__)m
いや〜、さすがですね。
森さんのライブは、私が告知しようとすると、たいてい、既にソールドアウト状態です。
彼は、チビッ子にもヤングにも女性にも、大人気なのだ。
なぜなら彼は、正義を守るストレッチのマンだからだ。
魂の歌声が素晴らしいです!
さて、そんな森さん、最近ニューアルバム『TRUTH』をリリースしたらしい。
(Amazonや、コチラのサイトでも購入できるようです)。
私も、少しだけピアノで参加しています。
キーボードではなく、生ピアノでの参加です。
やはりビールとピアノは、生が最高なわけですよ。
卵の場合は、生より目玉焼きが好きですね。
生牡蠣は、苦手かもしれません。
生麦や生米は、食べたことありません。
受け答えは、生返事をするに限りますね。(嘘です)。
ポコペン・ポコペン、ダレガツツイタ、ポコペン・ポコペン…、
今のは、ピッコロ大魔王が、生卵を生み出す時の呪文です。
注:リアルタイムで読んでいた私としては、「ダーレガ」ではなく、絶対に「ダレガ」です。
「ダーレガ」と「ダレガ」では、雲泥の差です。
「メロン」と「メロンパン」くらい違う。
「小籠包」と「小論文」くらい違う。
「チューリッヒ」と「チューバッカ」くらい違う。
「パン」と「パン屋」くらい違う。
「レッド・ホット・チリペッパー」と「ポッポ・ポッポ・ハトポッポー」くらい違う。
(「マクドナルド」と「ケンタッキー」のほうが、まだ近い)。
ちなみに子供の頃、ポコペンは死むほど遊びましたねー。
住んでた地域が、住宅と自然が良い感じで共存していて、「隠れんぼ」系のゲームに、かなり最適でした。
車も、まず通らない田舎でしたしね。
もちろん「隠れんぼ」系のみならず、秘密基地の建設、クワガタ採集、サワガニ採集、木登り、オナモミなども楽しみつつ、
私、個人としては、アリの巣の観察もライフワークでした。(生命の神秘性&「えらいよ」「がんばれ」みたいな感覚)。
あと、1人で風に吹かれながら空や雲や山を眺めるのも、ライフワークでしたね。
遠くの山の向こうには真っ黒な雨雲、
反対側の遠くの空は虹がキラキラ、
で、自分がいるところは天気雨、
あたり一面、雨のニオイ…。
そんな感じの天気は、最高です。
ではまた。
皆さま、どうぞ良いゴール・デン・ウィークリーをお過ごし下さいませ。
そんな感じの天気は、最高です。
ではまた。
皆さま、どうぞ良いゴール・デン・ウィークリーをお過ごし下さいませ。
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