無題2

  • 2013.04.28 Sunday
  • 14:41
前々回の記事は、「カバー」や「編曲」のことについてだけど…、それは、ほんの一例で。

「音楽はこうじゃなきゃいかん」「人間はこうじゃなきゃいかん」みたいなルールを作ってしまう人は、

そのルールを、自分だけに課すなら構わないのだけど、

他者にまでそのルールを強要してきたりすると、厄介なものだ、

という話でした。

どんな好き嫌いや価値観やポリシーを持っていても構わないから…、こちらにまで押し付けてくれるなよ、と思うのだな。

音楽にも、生き方にも、絶対的な正解など、無いはずだから。



でも、そうは言っても、

例えば、ピアノの教室とか、何かのレッスンとか、音楽制作会社とか、プロアマ問わず、合唱団・バンド・グループなどで、

一つの作品を創るために、(良い演奏を目指すために)、

指導者がダメ出しをしたり、仲間同士で、遠慮なく意見を言い合ったりするのは、もちろん大切だと思います。

ガンガン話し合って、ガンガン批判し合って、

様々な可能性を検討・取捨選択し、

最終的に、「私(達)は、これを目指そう!」、「私(達)にとっては、これが良い!」、「私(達)の作品は、こうじゃなきゃダメ!」、「私(達)は、こうしたい!」というふうに、

ある程度、自分(達)にとっての「正解」を、導き出すべきだと思う。

意図や感性のボヤけた演奏(作品)に、ならないように。



しかしながら、そういうふうに、理想や目的を共有している小さな「チーム」や「個人」ではなく、

もっと視野を広く、「世の中」や「世間」や「人類」に、目を向けた時…、

何が「良い」とか「悪い」とか「正解」とかは、簡単には言えないし、万人が目指すべき理想やルールなど、どこにも無いと思うのだな。

万人に共通する「正解」など、誰にも断言できないのではないか?と、思うのだよ。

いくら、大先生だろうが、大評論家であろうが。

なぜなら、言うまでもないことだが、人それぞれ(音楽の)好みや、価値観や、こだわりや、人生観は、全く違うから。



(それはもちろん、「合唱団」も、同じことだ。世の中の全ての合唱団が、全く同じ選曲・同じ目標・同じ方向性・同じ理念・同じペース・同じカラーで活動する必要なんて、無いのではないか。そういうところは、ルールや正解など、決めすぎてはいけないのではないか、と思う。)



一つの合唱団や、一つのチームや、一つの企業や、一つのバンドの内部では、

ある程度、メンバー全員が、同じ目標・同じ正解・同じ方向性を、目指すべきかもしれない。

例えば、具体的に、音楽のことで言えば、

合唱の練習で、「このメロディはレガートで歌おう」と決めたのなら…、

もし、一人でもスタッカートで歌ったりすると、アンサンブルの足並みは揃わない。(調和しない)。

でも、そのメロディを「レガートで歌う」という取り決めは、その合唱団内だけの「正解」。

他の合唱団・他の指揮者の場合は、そうは歌わないケースも、多々あるだろう。

私は、あらゆることにおいて、そういう自由さが、必要だと思っている。

「みんな同じ」なんてつまらないし、みんなに「同じ」を強要するなんて、不自然でザンコクなことだから。



つまり、私が大事だと思っていることは、概ね、次の二つだ。

(1)狭い視野においては、今現時点の、自分(達)にとっての「正解」をハッキリ定めて、その「正解」を全力で目指すことが、大事だと思われる。

(2)同時に、広い視野・長いスパンにおいては、「正解」をバラして、「正解」を疑い、「正解」を定めすぎないことが、大事だと思われる。

これは、アートや商品開発に限らず、人間的に、大事な気がしている。

(そう言いつつ、私は…、「人間的に大事なことがある」ということ自体も、もちろん疑ってます。そんなもん、私にとっては「大事」でも、他者にとっては、「大事」じゃないかもしれない。…加えて、私自身にとっても、「何が大事で何が大事じゃないのか」ということを、あまり、定めすぎるつもりはない)。



上記の(1)も(2)も、私なりには、「空気なんか読むな!」という感覚にも近いです。

常識や、マナーや、協調性や、社会の決まり・ルールなどを、ちゃんと認識したり、ちゃんと重んじたりすることも、もちろん私は、大事だと思っています。

しかし、同時に、「そういうものを、一切重んじない自由さ」も、私は、大事だと感じているのです。


上記の(1)や(2)を、とことん追求しすぎると…、もしかしたら、時に、自己否定や現状否定になってしまうこともあるかもしれないが、、、

私は、それでも全く構わない。

(そもそも、「自己否定しちゃいけない」という意見は、ややもすると、ネガティブすぎる気もします。守りすぎだし、私には、不自然にも感じられる。本来、「自己否定」という感覚は、前向きで自然で心地良い感覚なのではないか?と、私は感じていますから。…ま、何を「心地良いと感じるか」、何を「前向きと感じるか」、何を「自然と感じるか」ということも、人によって、違うのだろうが)。



ついでに言うと、「現状否定」というものも、果たして、悪いことなのだろうか?

だとしたら、例えば人種差別みたいなのが延々に続いていても…、「社会とはそういうもの」「人間とはそういうもの」と受け入れ続け、「変えよう」としてはいけないのだろうか?異議を唱えてはいけないのだろうか?

自分にとって、明らかに「これは間違っている」と感じる現状や状況や社会ならば…、むしろ、それを変えていこうと努力しないほうが、自分の気持ちを無視しているのではないか?授かった自分の魂を、否定しているのではないか?

(「今、私はこういう世界に生きている」という認識よりも…、「私は、こういう世界に住んでみたい」という気持ちのほうが、私には、大事に思われる)。

そういう、自分の夢や希望は、実現できるか・できないかなど分からないし、実現できる保証も無いけれど…、

何もチャレンジしないで、不平や文句ばかり言っているのが、私は、一番嫌なことだ。

人間、皆が皆、革命家やキング牧師のように生きる必要などないだろうが、

でも、現状を100パーセント受け入れすぎることもない。

自分なりに、自分勝手に、自分の分野で、(自分の出来る範囲で)、現状や常識とはズレていても、自分なりの愛や夢や理想を、どんどん発信・表現・実行しても、良いはずである。

その結果、社会や他者に受け入れられるかどうかなど分からないし、受け入れられる保証も無いし、むしろ、嫌われてしまうかもしれないが…、

しかし、自分の気持ちを押し殺して、「何もしない」「何も動かない」より、玉砕覚悟でもチャレンジしたほうが、私は爽やかだし、清々しいものだ。(そんなわけで私は、結果がどうあれ、自分なりの音楽を、発信・表現し続けています)。


無理矢理、他者の考え方や生き方を変えることなど、出来ないように思われる。

しかし、自分の見方や、自分の人生や、自分の考え方や、自分の生き方を変えることなら、いつでもトライすることが可能なように思われる。


(※私は、「現状を受け入れすぎる人」を、批判しているわけではないです。それはそれで、とても穏やかで素直で素敵だ。でも、そうじゃない素敵さも、きっとあるよね、ということ。

…世の中には、「現状に抗うことが心地良い」と感じる人もいるだろうし、「現状を受け入れることが心地良い」と感じる人もいるだろう。(同じ人でも、時期や状況によっても、変わるだろう)。

どちらが良い悪い、何が良い悪いではなく…、個人個人が、自分の裁量やセンスで、その時々の自分の気持ち・内面を、見つめれば良いと思う)。


いずれにせよ…、今日の自分にとっての「正解」が、明日の自分にとっての「正解」とは、限らない。

まして、他者にとっての「正解」なんて、勝手に決めてはいけない。

他者との協調や、会話・コミュニケーションは、もちろん大事だろうけど、

しかし、人生の根本的な選択…、「私はどう生きたいのか」「今、私はどうしたいのか」というところは、他者が、あまり口出しできるものでもないと思う。本人が、決めるべきだと思う。

そう考えると、私は…、自分を含めて人類全般・人間全般に、エールや応援や、労りやリスペクトの気持ちが、わき上がってきます。みんなそれぞれ頑張れ〜、と思う。


さて、まとめると、、、

アート作品や商品にしろ、人生観や価値観にしろ、生き方や性格やパーソナリティーにしろ、

自分(達)の「好み」や「正解」を、ハッキリ明確に持っていることは、大いに結構なことだと思う。

そして、そういう自分にとっての「好み」や「正解」を、世界に向けて提示したり、発信したり、表現したり、他者にオススメしたりするのも、良いことだと思う。

でも、そういう個人的な「好み」や「正解」を、絶対視しすぎたり、普遍的な真理だと思いすぎたり、他人に押し付けすぎたりすることは、いけない気がしている。
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    無題1

    • 2013.04.28 Sunday
    • 14:33
    私もよく言ってしまう言葉だけど、(前回記事でも書いてしまったけど)、

    「音楽やアートに、絶対的な正解は無い」、

    …とは言え、演奏者(作曲者)が表現する、作品の意図・イメージ・雰囲気・世界観などの受け取り方には、ある程度、「正解」があるかもしれません。



    感じ方・受け取り方は、一人一人「自由」とは言え、あまり誤解しすぎないほうが良いことも、ある。

    例えば、

    作者が「単純明快さ」を表現したつもりなのに、聴き手は「小難しい」と感じてしまったり、

    作者が「素朴さ」を表現したつもりなのに、聴き手は「オシャレ」と感じてしまったり、

    作者が伝統を模した曲を書いたつもりなのに、聴き手は「斬新」と感じてしまったり、

    作者が「アンニュイ」を表現したつもりなのに、聴き手は「情熱的」と感じてしまったり、

    作者が「無機的」を表現したつもりなのに、聴き手は「ハートウォーミング」と感じてしまったり、

    作者が抽象的な曲を書いたつもりなのに、聴き手は「メロディーが良い」と感じてしまったり…、

    そういう場合は、曲が悪いか、演奏が悪いか、聴き手がちゃんと聴けていないかの、どれかだと思います。

    (※その曲を、気に入るか気に入らないか、ということは、また別問題。今ここで問題にしているのは、「(作曲者の)意図や感性や、想いやイメージが、誤解なく伝わるかどうか」ということです。そこが伝わったうえで、好きになろうが、嫌いになろうが、どう感じようが、それは、聴き手の自由だと思います)。

     
    もちろん、“音楽”というものは、1曲の中で、たった1つの感情のみを表現しているわけではないし、感じ方も人それぞれ。

    簡単に定義・断定・言語化を出来ないからこそ、音楽だと思うのですけどね…。



    それから、当然、「演奏」にも、良し悪しはある。

    あるのだけれど、

    例えば、ドラマティックな表現と控え目な表現、どちらが良いか悪いかとか、テンポ速めとテンポ遅め、どちらが良いか悪いか、明るめの音色と暗めの音色、どちらが良いか悪いか、お客さんを意識したパフォーマンスをしたほうが良いのか、あるいは、お客さんの存在など意識せず、無心で没入したほうが良いのかとか、感情的に演奏したほうが良いのか、あるいは、クールに淡々と演奏したほうが良いのかとか…、

    そういう部分は、あまり何が「正解」とは、言えない気がしている。

    かなり好みの問題だし、曲の持つ雰囲気や世界観によっても、違ってくると思う。

    (演奏家の個性によっても、違ってくる)。



    そしてまた、音楽には、「あえて、強い想いや感情を表現しすぎない」「あえて、意図や感性を表現しすぎない」という感じの、奥ゆかしい曲や、奥ゆかしい演奏も、あると思います。

    「ただそこに在るだけ」みたいな、空気のような、さりげない音楽。

    (それは、言い換えれば、「“無意図”という意図がある」と言えるかもしれないし、「“無為”というニュアンスを、人為的に演出・創作している」とも、言えるかもしれません)。



    さて、「感想」や「批評」というものの中には、

    当然、表現者(演奏者)の、感性や意図そのものを否定するような感想(批評)も、有りうると思います。

    私は、滅多なことでは、そういう感想(批評)は、言いませんけど(笑)。

    なぜなら私は、演奏者(作曲者)の意図や感性自体には、究極的には、何が良くて何が悪いというのは、あまり無いと思っているからです。

    私が好きになれない感性や意図であっても、それを「悪い」とは、思えませんし。



    だから、もし、私が批評をするとしたら、

    「その意図で演奏するなら、もっとこうするべきではないか」、

    「その感性なら、もっとこういう方向性や表現方法で作るべきではないか」、

    「その歌声を活かすには、もっとこうしたほうが良いのではないか」、

    「曲の意図(感性)と演奏者の意図(感性)が、食い違っているのではないか」、

    (↑例えば、アンニュイでクールな曲なのに、演奏者が、情熱的にプレイしすぎている…、とか)、

    あるいは、逆に、「曲の意図(感性)と演奏者の意図(感性)が一致しすぎていて、演奏者の個性やエゴが、無さすぎるのではないか」、とか…、

    そのような観点で、個人的な意見・批評を述べさせて頂くことは、あるかもしれません。



    ※ちなみに、「指導」というものも、そういう感じが理想的だと、私は思っています。

    特に、個人指導の場合は。

    ようは、生徒の「意図」や「感性」自体は、可能な限り全肯定して、

    で、それを、より魅力的に活かすための「表現の磨き方」を、指導者が「教える」というよりは、一緒に追求・探求するような指導。

    (あるいは、様々な表現の方法を、指導者は「提示」や「紹介」をするだけにして、最終的に「どう表現するか」「何を表現するか」というところは、生徒自身に選ばせるような指導。
    そういう感じが理想ではないかと、感じています)。



    …もちろん、それとは逆に、

    表現(創作)の「意図」や「感性」自体を教えたり、「意図」や「感性」自体に白黒つけたりするような指導法も、あるだろう。

    「こういう意図やこういう感性は良い」「ああいう意図やああいう感性は悪い」という指導法も、あるだろう。

    そういうポリシーで指導していらっしゃる先生も、たくさんいるだろう。

    でも、私としては、究極的には、表現者の「意図」や「感性」というものは、その表現者が「持って生まれたもの」だと思っている。

    もしくは、表現者自身のセンスや裁量で、「自分で選ぶもの」「自分で創るもの」「自分で答えを出すもの」。

    あまり、他者がどうこう言えるものではない、と、私は思っています。


     
    …ただし、あまりに未熟すぎる曲や演奏だと、何の意図も感性も反映されていないような場合もあります…。

    そういう場合は、単に、技術的な問題であることが多いと思います。(意図や感性以前の問題)。

    だから、やはり、最低限の技術や知識を詰め込むような指導や、「型」を教え込むような指導も、有効だと思います。

    例えるなら、詩や小説を書くのに、感性や感情だけで書けるわけはないし、知らない言語で、書けるはずもない。

    まずは、「言語」や「単語」という、表現するための「手段」や「技術(ツール)」を持っていないと、いくら感受性が豊かな人間でも、詩も小説も書けないと思います。(コックリさん的・神懸かり的な自動書記とかなら、話は別だけど)。

    そしてそれは、音楽でも、似たようなものだと思っています。

     
    (※当記事で、私の言う「指導」とは、あくまで、音楽やアートの分野のことです。しかも個人指導についてです。音楽以外の分野や、幼児教育や義務教育のことについては、経験も無いのでよく分かりません)。



    さて、世の中で、一番まずい指導や批評(感想)は、

    「これはカバー曲だからダメ」「このジャンルの音楽は全て低俗」「電子楽器は全て冷たい」「生楽器は全てダサい」「このジャンルの曲は全て退屈」
    ○○人らしい演奏」「男性(女性)ならではの力強い(優しい)演奏」「若者(老人)ならではの演奏」「言葉という表現ツールでは気持ちは伝わらない」、

    みたいな批評(感想)だろうと思われる。

    要は、単なる決め付けタイプね。

    個々の曲や詩や演奏の、その中身や音楽性を、ちゃんと感じようとしていない感想。

    (作品の、「表現手段」や「ジャンル」
    や「楽器」や、表現者の人種や性別や年齢などなど…、いわば、外側の手段・パッケージ・額縁だけで、中身を批評してしまうタイプ)。

    …確かに、「ジャンル」や「楽器」というものは、ある程度は、その音楽の中身を決定付けることも多いけれど、

    しかし、ジャンルや楽器の持つステレオタイプ的なイメージと、その曲の持つ中身・内容・本質は、必ずしもイコールではなことが少なくないのではないかと、私は実感しています。

    例えば、真面目で大人しくて伝統的なイメージのクラシック音楽にだって…、むしろ、非常に官能的で、情熱的で、不道徳で、騒がしくて、音楽理論ぶっ壊すほど革新的な曲は、数えきれないほどあります。

    逆に、騒々しくて自由なイメージのロック音楽にだって…、むしろ、非常に真面目な内容で、音楽理論のルールを壊さず、伝統的な音楽形式の枠の中だけで表現しているような作品も、これまた、数えきれないほどあります。

    (どちらのタイプの音楽が「良い」とか「悪い」とか、そういうことではなくて)。

    やはり、外側のジャンルやカテゴライズやパッケージや先入観で、音楽や人間の中身まで結論付けすぎず、

    1曲1曲、ちゃんと心で感じたほうが、楽しいのではないか?心地良いのではないか?と、思います。



    というわけで、話は少々それましたが、

    アートには、絶対的な「正解」は無いけれど、

    ある程度、バシッと誤解なく伝わりたい部分は、あると思います。

    文学や小説で言えば、

    その作品が、ファンタジー寄りなのか、リアルなのか、いつの時代の物語なのか、あるいは、特に時代は設定されていないのか、登場人物それぞれ、どういう気持ちなのか、あるいは、あえて気持ちは描写されていないのか、結末はどうなったのか、あるいは、結末はハッキリ書かれていないのか、文体や比喩はどうなのか…、などなど、

    そういう部分の読み取りには、ある程度、「正解」があると思う。

    で、そのうえで…、それをどう感じるか、どう解釈するか、その作品を好きか嫌いか、その文体を気に入るか気に入らないか、

    というような部分は、必ずしも正解は無いことが多いのではないか、と思います。
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      呆れたことだ

      • 2013.04.26 Friday
      • 16:52
      何日か前の記事で、「最近、合唱祭の選曲してる」とか書いたが、

      合唱祭と言えば、以前、とある合唱祭にて。

      私が指揮させて頂いている合唱団は、シューベルト歌曲がコーラス用に編曲された曲を、歌いました。

      その合唱祭の講評には、とある作曲家の大先生が来ていて、

      私が指揮する合唱団への、その大先生のコメントは、

      「合唱用に編曲された曲は、しょせん、オリジナルには勝てません。今後は、最初から合唱のために作曲された作品だけをやりなさい」、

      みたいな感じだった。

      要するに、上手い下手以前に、「カバー作品なんか歌うのはやめろ」、というわけ。

      でも、これって結構、ママさんコーラスの活動とか、ジャズ音楽とかを、全面的に否定している発言なのよね…。

      (いや、コーラス界やジャズ界のみならず、音楽界全体を、萎縮させてしまう危険性もある発言…。)



      例えば…、ウィーン少年合唱団やキングスシンガーズや、世界三大テノールやケルティックウーマンなどだって、クラシック曲や、映画音楽や、ポップス曲のカバー、しているし。

      (もともとソロ歌曲だったものを合唱でハモったり、ポップスの曲を歌ったり、もともとドイツ語だった歌をイタリア語で歌ったりもしている)。

      あるいは、ジャズなどは、既存の有名曲・スタンダードナンバーのカバーも、とても多いし。

      リストやラヴェルなども、他人の作曲した曲を、ピアノ用(オーケストラ用)に編曲したりしているし…、ブラームスやバルトークやベルリオーズのように、既存の民謡・グレゴリオ聖歌などを、自作品に引用した例も多々ある。

      山下達朗さん・徳永英明さん・平井堅さん・平原綾香さんなども、(他にも沢山)、洋楽や邦楽や、童謡やクラシック曲など、様々なジャンルの歌をカバーしているし。

      加えて…、バッハのピアノ曲なども、もともとはチェンバロ用に作曲された曲なのだから、(当時はピアノは無かった)、現在我々は、バッハの曲を、ピアノでは弾いていけないことになってしまうのではないか?もし、絶対に、オリジナルしか許されないのだとしたら。



      私が言いたいのは、「カバーや二次創作なんて、みんなやってるから良いじゃん」ということではない。

      みんなやっているからと言って、悪しき風習みたいなのは、多々あると思う。

      でも、「カバー」や「編曲」や、「引用」や「変奏曲」というものは、

      疑いようもなく、音楽文化における、伝統的な表現方法の一つだと思う。

      (注:盗作やパクリとは違います)。

      作曲家やプロ演奏家の、自己表現の一つとして…、

      あるいは、アマチュア演奏家の、趣味や楽しみの一つとして…、

      「カバー」や「編曲」や、「引用」や「二次創作」は、容認されるべきことだと思う。

      (※「カバーするな」と言って良いのは、その曲の作者だけだと思う)。

      私は、著作権さえ守れば、プロアマ問わず、誰が何の曲をカバーしても良いと思っています。

      と言うか…、そういう“表現の自由”を禁止して良い権利など、誰にも、無いのではないか?



      念のために申し上げておくと、

      僕は、「他者の演奏や他者の活動について、批判をしてはいけない」なんて、全く思っていない。

      むしろ、「批判的なコメントを言ってはいけない」、「何でも肯定しならなければいけない」、「何でも好きになりなさい」、

      みたいな空気のほうが、苦手です。

      なぜなら、意見や感想や好き嫌いは、一人一人、自由であるべきだと思うから。

      だから、音楽を聴いて、誰でも、否定的な感想を述べたり、個人的な好き嫌いを述べても、全く構わないと思っている。

      ただ、自分の意見や感想や価値観などを、あまりにも「絶対視」しているような発言・言い方、

      そういう言い方に、傲慢さや違和感を感じるわけです。

      とりわけ、曲や演奏の「内容」「クオリティー」以前の…、

      「表現手段」や「表現方法」や、「表現スタイル」や「表現ジャンル」等について、

      そのあたりの部分について、個人的な好き嫌いを述べるくらいなら構わないが、あまりに良し悪しや、あまりに正解・不正解を定義しすぎてしまうと、

      本来アートやエンターテインメントが持つべき自由さ・遊び心・衝動性・発想力・想像力などが、損なわれてしまわないだろうか?

      と、感じます。

      (ガンジガラメすぎるルール化や、正解・不正解を設けすぎてしまうような態度は、アートや人生の本質と、相反するのではないか?

      …確かに、“音楽”というものは、ただただ感情的に泣き叫び、わめき散らすような「完全フリー」ではなく…、ある程度、「型」が定まった芸能。(「作品」として、昇華される必要のある表現手段)。

      であれば、批評や批判や指導は、必要だろうけど…、

      しかし、あまりにも、限られた特定の表現手段だけを「正解」とする態度は、偏狭すぎる気がしてならない。

      音楽というものは、絶対的な正解や理想やルールがあって…、「必ず、皆がそのルールに従って表現しなければならない」、「必ず、皆が同じ理想を目指さなければならない」、というものでは、ないはずだ。

      人間は、人それぞれ、センス・好み・感性・創造性・パーソナリティなどなど…、全く同じではないはず)。



      話が少々それましたが、

      その大先生さんも…、「カバー」や「編曲」という表現手段が嫌いなら、自分がしなければ良いだけの話。

      それを、他者にまで押し付けて良いとは、私には思えなかった。

      いくら大先生だからって、「お前は音楽界のルールブックなのか?」、みたいな!(^O^)/

      これだから、年寄りの頭の固い大先生って、私は嫌いなのだ。(←偏見)

      誰しも、自分なりの“こだわり”を持っていて当然だと思うが、

      しかし、他者に押し付けてはいけないタイプの“こだわり”も、あるのだ。



      ※その大先生が、「カバー作品は全てダメに決まってる」、みたいな価値観を持っていること自体は、実は私は、批判するつもりないです。

      もちろん共感は出来ないけど、どんな価値観を持っている人がいても、それぞれの人の自由だし、私は、尊重したいですから。

      私が批判しているのは、彼が、彼の個人的な価値観を、こちらにまで強要してくることだ。

      つまり私は、彼の「価値観」自体を批判しているのではなくて、彼の「強要」や「命令」を、批判している。

      (※私は、他者の「感性」や「生き方」や「価値観」自体を批判したくなることは、滅多に無いです。なぜなら、どんな「感性」や「価値観」を持っていたとしても、人それぞれの個性だし、自由だもの。私が批判したくなるのは、「強要」や「命令」や、「独善性」や「押し付け」です。「価値観」そのものではなく)。

      私は、新しい視野や可能性を探るような対話は大好きだし、そういう観点の批判やダメ出しなら、聞くのも大好きだ。(ダメ出しされつつ、ワクワクする)。

      だが、視野や可能性や価値観を、あまりにも狭く限定してしまうような「正解」なら、要らない。

      …むしろ、出来ることなら、そういう限定的で固定観念的な価値観・思い込みは、解体して、壊してしまいたいくらいだ。



      シューベルトやトスティやフォスターの歌曲…、

      日本の童謡や唱歌…、

      ビートルズのような洋楽やミュージカルナンバー…、

      世界各国の民謡や伝承歌…、

      松田聖子やユーミンや、ディズニーやジブリの主題歌…、

      それらの曲は、確かに、もともと合唱のために作曲された曲ではない。

      でも、上記のような曲は、合唱のみならず、ポップス歌手や、ジャズ歌手や、クラシック声楽家や、ジャズピアニストなどによってカバーされることも、少なくない。

      音楽って、そういう自由さがあっても構わないと、私は思っています。

      これに関しても…、「いやいや、音楽とは、そんなに自由ではイカン。音楽は、こうでなくてはイカン」という価値観の人がいても、もちろん構わないし、心から尊重します。

      自分なりの“こだわり”や美意識を持っている人は、素敵だと思うし、尊敬もしますしね。

      (誰でも、どんな価値観を持っていても構わないし、どんな好き嫌いを持っていても構わない、と思います)。

      ただ、「それを、こちらにまで押し付けないでくれ」と、思うわけです。

      ただでさえ、アートや音楽という分野は、絶対的な正解やルールは、断定しにくいものなのだから。



      余談だけど、合唱祭に講評に来た、その大先生…、

      一曲だけ、日本人なら誰もが知るような曲を作曲されているのですが、

      だいぶ昔、その有名曲を、とあるジャズピアニストが「カバーしたい」と申し出たところ、許可しなかったそうである。(結構、有名な話)。

      でも、それは、全然構わないと思う。

      自分の曲だもの。

      悪びれなく、「ワシの曲は、一切カバーは認めん!」と言って、全く構わないと思う。

      でも、その大先生の場合、自分の作った曲だけでなく、「音楽において、一切のカバーや編曲を認めない」、

      (あるいは、「お前ら、カバーや編曲などやめなさい」、「お前らも、カバーなどダメだという価値観を持ちなさい」、「カバー作品などを歌う奴らは、感性や音楽性がレベル低いに決まってる」)、

      みたいな言い方をするので…、頑固というか、傲慢というか、支配的というか…。

      他者の“表現の自由”や、他者の“考え方(感じ方)の自由”まで奪おうとするので、始末に終えない。



      ママさんコーラスとかが、うっとりと憧れのクラシック曲や、憧れのミュージカル曲や、憧れの歌謡曲なんかを歌っているのに、

      その楽しみを禁止する権利が、誰にあるだろうか?

      音楽というものは、「オリジナル」以外は、本当に、絶対に、許されてはいけないことなのだろうか?

      音楽とは、そんなに懐のセコイものなのだろうか?

      人間とは、お互いに、そんなに目くじらを立てたり、人のやることを禁止したりする権利など、あるのだろうか?



      下手な演奏には、厳しい指導や、厳しいダメ出しコメントをしても良いかもしれない。

      (もちろん、何が「下手」で、何が「上手」なのか?何が「ダメな演奏」で、何が「感動的な演奏」なのか?誰もが、「感動的な演奏」を目指すべきなのか?それとも、「他者を感動させる」ことよりも、「自分の感動」を最優先させるべきか?などなど…、そういう問いにも、絶対的な正解など無いだろうし、人によって考え方も感じ方も違うだろうし、一概に断定やルール化など、出来ないと思いますが)。

      いずれにせよ、そういう、音楽の内容や、中身や、本質や、味わいや、(演奏の)クオリティーを論ずる以前の、

      “表現の自由”自体を制限したり、禁止したりするような発言…、

      しょーもない奴だ、と思ったものだ。

      ま、その大先生からしたら、私のような考え方・感じ方こそ、「しょーもない」かもしれないが。
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        Nai

        • 2013.04.26 Friday
        • 16:05
        本日は、午前の仕事の後、夜まで時間が空くので、いったん帰宅してみた。

        只今、自室にて、パソコン&チャヲノム。

        本日のチャは、ネスカフェ・ゴールドブレンド。

        ちなみに、「ネスカフェ」のNGワードは、本来であれば、「ダバダ」。もしくは、「違いが分かる男」。

        だが…、もはや「ダバダ」には、瞑想的な風格と雰囲気があるし、「違いが分かる男」も、ダンディーでカッコいい。

        どちらのワードも素晴らしく、何年経っても、手垢にまみれていない。色褪せていない。

        (※個人の感想です)。

        したがって、「ネスカフェ」に、NGワードは無い。

        無、無、無!

        無だァ!
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          2013.4.25(4)

          • 2013.04.26 Friday
          • 00:41
          をををを〜!録画しておいて見たけど、本日のNHK「ストレッチマン」、森圭一郎氏が大活躍だったな〜!彼の素晴らしい歌声もバッチリ流れたし!良かった良かった。しかも、シューベルト歌うとは!(笑)
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            2013.4.25(3)

            • 2013.04.26 Friday
            • 00:40
            例えば、誰かから、「あんたの作曲した曲、俺、嫌いだよ」とか言われたとしても、

            実は私は、あまり気分は悪くはない。

            もちろん、嬉しくなどないがな!(^O^)/

            でも、好き嫌いや意見や感想というものは、「人それぞれ自由であるべき」と、私は思っている。

            だから、もし否定的な感想を言われたとしても、それはそれで、その人の正直な感想として、尊重したいです。

            (…だいたい、私自身にだって、好きになれない曲、沢山ありますしね。私自身、好き嫌いの塊なのだ。ゆえに、他者の趣味や好き嫌いに関しても、あまり難癖や文句をつけようなんて、おこがましいことはしたくないものだ)。

            実際に私は、面と向かって、「あんたのこの曲、嫌い」とか言われたこと、もちろん何度かあります。

            でも、あまり嫌な感じはしなかったし、むしろ、清々しい感じさえした。



            ただ、私は言われたことはないけど、

            例えば、「この曲は、誰も気に入るわけない」とか、「この曲は、誰からも需要なんか無いに決まってる」とか言っている人を見ると、それは、腹立たしく感じる。

            なぜなら私は、感想や好き嫌いというものは、まさに、「人それぞれの自由」だと思っているからこそ、

            「誰も」とか「誰からも」というような言い方に、違和感・抵抗感を感じるのだ。

            自分一人の、個人的な意見や感想や批評を述べるなら、何を述べても自由。

            でも、自分以外の人の感じ方や、自分以外の人の好き嫌いについては、あまり、断定してはいけないのではないか?と、思うのだな。

            (自分以外の人の、「感じ方の自由」や「好き嫌いの自由」を、奪ってはいけないのではないか?と思う)。
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              2013.4.25(2)

              • 2013.04.26 Friday
              • 00:37
              巷で噂の「激辛ペヤング」、食びた。

              ギャース!(>_<)

              えぐい辛さ!

              いや、「辛い」というか…、食べていると、痛む!口の中が痛む!

              薬師丸ひろ子さんなら、セーラー服姿で機関銃を乱射し、「イ・タ・ム!」とか、言うだろうか?

              まあ、言わないと思いますけど。(全然違う!)

              チャン、リン、シャン…。

              いや〜、私は辛さに弱くもないが、そんなに強くもないな。

              そこそこ美味しくは食べられたけど、これ以上辛いと、私は、棄権したくなるレベルでした。

              弱…。(^^;)

              (ちなみに、「棄権」のNGワードは、言うもまでなくも、「危険」ですョ)。

              いや〜、インドカレーが大好物だけど…、私は、決して「辛さ」が好きなのではなく、スパイスの「香り」や野菜の「うま味」が好きなのだなァと、「再認識」。

              だいたい、「インドカレー」って、(店にもよるけど)、あまり辛いものでもないしな。

              現地(インド)のカレーは、どうだか分かりませんけどね…。
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                2013.4.25(1)

                • 2013.04.26 Friday
                • 00:35
                「多弁はカッコ悪い」とか、「(真面目に)語ることはカッコ悪い」とか、「語りすぎる人は心が無い」とか、

                そんなふうに思う人も少なくないようだけど、私は、必ずしもそうは思っていなくて…、

                私は、語る人の中にも、カッコイイ人もいれば、カッコ悪い人もいるだろうし、

                語らない人の中にも、カッコイイ人もいれば、カッコ悪い人もいるだろう、と思っています。

                (語るのも良いし、語らないのも良い)。



                …そしてそれは、「語るタイプ」「語らないタイプ」だけに限らず。

                その他、どのようなタイプであれ、

                特定のタイプや、特定のパーソナリティー全体を、ひとまとめに「良い」とか「悪い」とか、心が「ある」とか「無い」とか…、

                私は、あまり断定的には言えないのではないか、と思っている。

                (そもそも、人のことを「タイプ」とかに分類しすぎたり、ひとまとめにすること自体、ちょっとナンセンスな感じもする)。



                人間の、生き方やパーソナリティーというものは、何か特定のタイプが「良い」とか「悪い」ではなく…、何か特定のタイプが「自然体」とか「不自然」でもなく…、

                どのようなタイプであっても、必ず、それぞれ「良さ」を追求できるのではないか?と、思う。

                (例:語るタイプにも良さがあり、語らないタイプにも良さがある。思索的タイプにも良さがあり、直感的タイプにも良さがある。肉食系には肉食系の魅力があり、草食系には草食系の魅力がある。努力家には努力家の良さがあり、のんびりスローペースにはのんびりスローペースの良さがある。…しかも、多分…、「タイプ」や「キャラ」がハッキリしている人のほうが稀で、実際には、色々な要素が混在している人が、大多数だと思う)。



                音楽も、特定のジャンル全体を、ひとまとめに「良い」とか「悪い」とか断定しすぎるのは、非常にナンセンスなことだが、

                それと同じように、生き方や性格やパーソナリティーというものも、特定のスタイルや特定のタイプを、全てひっくるめて「良い」とか「悪い」とか断定しすぎてしまうのは、ナンセンスだと思われる。



                しかも、たいていの人間の心は、多面的で流動的だと感じられるので、

                「タイプ」とか「キャラ」とか、「私らしさ」とか「この人らしさ」とか「あのアーチストらしさ」とか、

                あまりにキッチリ定義しすぎること自体、私には、時に、不自然にも感じられる。

                (首尾一貫した「自然体」を定めすぎるのは、むしろ、「不自然」に感じられてしまうことも多い。生きていれば、いつもいつも感情や言動や、考え方や感じ方が、一定なはずないから)。

                人間、一生のうちに、様々な状況・境遇があるし、人それぞれ、様々な内面・事情・境遇・個性・パーソナリティがある。

                だから、万人に共通するような「カッコイイ」や「自然体」や「こう生きるべし」というものは、私には、あまり想像することが出来ない。

                (今現在の、自分なりの、自分だけの「カッコイイ」や「自然体」や「こう生きるべし」を追求することなら、もちろん、出来るけれど)。



                我々は、テレビのタレントや、小説やアニメのキャラクターではないのだから、首尾一貫した「タイプ」とか「らしさ」なんて、設定しすぎる必要は無いように思われる。

                そんなふうに、いち個人の在り方や生き方などを、あまりにも永続させてしまうような定義は、私は、あまり要らなくて…、

                他者の言動や、自分の内面や、出来事や状況を、瞬間瞬間「感じよう」とするだけで、私は充分だ。

                この世のあらゆるものは、変化したり、流れたり、移ろったりするものなのだから。

                極端に言えば、理性や感性で「定義する」ことが出来るものなんて、人生には何一つ、無いようにも感じます。



                極論を言えば…、この世界のことや、人間心理のことや、人生や音楽のことは、

                「誤解」や「幻想」や、「思い込み」や「決め付け」や、個人的な「偏見」や「好き嫌い」でしか、何も把握できないし、何も定義できない感覚が、私にはあります。

                私が出会う全ての出来事は、神聖で、深刻で、とても大切なノンフィクションであり…、

                同時に、私が出会う全ての出来事は、単なる、意識や偏見や思い込みが作り出すフィクションである…、

                そういう感覚も、私には、あります。

                (そういう感覚を、良いとも悪いとも思いません。ただ単に、「そういう感覚がある」、ということ)。



                とは言え、「私は、欲求のままに気分屋でありたい」「私は、瞬間瞬間、勝手気ままに生きたい」、ということではないです。

                「(人様との)約束には、最低限の責任を持ちたい」「自分の言動には、最低限の責任やマナーを持ちたい」というような欲求も、もちろん私にも、強くありますから。
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                  2013.4.21

                  • 2013.04.22 Monday
                  • 00:27
                  えぐい寒さ。

                  そんな本日。

                  薬師丸ひろ子さんなら、セーラー服姿で機関銃を乱射して、「カ・ジ・カ・ム!」とか言うだろうか?

                  まあ、言わないと思いますけど。

                  チャン、リン、シャン…。

                  さて、皆様におかれましては、寒さの折、風邪などひいておられませんでしょうか。お元気でしょうか。どうでしょうか。

                  私は、本日は午後、はじめて行く街で仕事でした。

                  「港南中央」という駅が、最寄りでした。

                  その駅は、「上大岡」からも、歩いて15分ほどで行けるらしい…、

                  ならば、歩くしかあるまい?

                  なぜなら私は、知らない街を歩くのが好きだからだ。

                  知らない街の風景を眺めるのが好きだからだ。

                  (電車からの車窓風景は、さらに好きです。…しかも、京急線の弘明寺〜上大岡付近は、丘の街というか、坂の街というか…。急斜面に街が張り付いていて、非常に私好みの車窓風景です!)

                  というわけで、えぐい寒さの中、歩いてみました。

                  幸い、昼過ぎには、雨が小降りになってきましたし。

                  で、街中をブラブラしていたら、薄手の半袖シャツ一枚の男性を見かけ…、私は、「なんという薄着!」と思いました。

                  いや〜、思い出すなあ、ブラックジャック、

                  手塚先生、今なら、舌で、ケータイやスマホを操作する話を書くかもしれませんね。

                  昼は、ドトールでコロッケサンドを食べました。

                  店内は、おそらく有線放送であろう、サイモン&ガーファンクルが流れていました。

                  いや〜、お懐かしい。(^^)

                  (サイモン&ガーファンクルのNGワードは、「コンドル」と「ハモってる」です)。

                  ところで、洋楽を聴くと、歌詞が簡単な「of silence〜♪」とかだけ、無駄に感情込めて歌う奴…、いますよね。

                  (私のことだ。歌詞が分からない大部分は、ゴニョゴニョお茶を濁して、超適当な鼻歌やハミングで歌う)。

                  …そう言えば、『ミスタービーン』でも…、教会に行って、本当は知らないくせに、知ったかぶって讃美歌をゴニョゴニョ〜と適当に歌い…、

                  で、歌詞が簡単な「ハレルヤ♪」の部分だけ、大声で歌う、というシーンがあったな…。

                  あれは、ゲラゲラ笑いました。

                  『ミスタービーン』は、人間なら誰もが持つであろう、「見栄」や「虚栄」や、「自己防衛」や「自己正当化」という心理を、誇張して表現し、揶揄していて…、

                  そこが可笑しいし、哀しいし、愛しい感じさえする。

                  見事な作品だと思う。

                  ただ、たまーに…、本当にミスタービーンが可哀想なシーンもあって…、そういうシーンは、見ちゃいられなかったがな。

                  例えば…、確か、ビーンの愛車が破壊されるとか、盗まれるとか。(←どっちか忘れた。思い出したくもない)。

                  そういう不憫で悲しいシーンは、あまりに可哀想すぎて、私は、見ちゃおれんのだ。(;´д`)

                  思えば、子供の頃も、『キャンディキャンディ』や『少公女セーラ』など…、主人公が、意地悪されたり、悪口を言われたりするのが嫌で、見れなかったね。

                  ちなみに『キャンディキャンディ』は、大人になってから、漫画で全巻買いましたけどね。(めちゃくちゃ名作だと思う!)

                  ではでは、ごきげんよう。

                  YMST.
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                    2013.4.16

                    • 2013.04.17 Wednesday
                    • 00:31
                    さて、どうでしょうか、どうでしょうか。

                    私は、毎年、この時期…、

                    【桜が散ってからゴールデンウィーク頃まで】、淡い新緑の色が心地良いなあ〜、と思います。

                    (ゴールデンウィーク頃に、濃い緑に変わる)。

                    淡い緑の、柔らかそうな新芽の樹々。

                    風や光に、透けそうな感じ。

                    実に、清々しいものだ。(^^)

                    (NGワードは、「初鰹(はつがつお)」です)。

                    さて、指導させて頂いている、幾つかの合唱団。

                    毎年、この時期は、県や地域の合唱祭が近付いてきて、「選曲」に悩みます。

                    合唱祭は、演奏に制限時間もあるし…、その中で、「なるべく時間いっぱい歌えて、なるべく気持ち良く歌える曲を選びたいなあ」などと、色々欲張ってしまうね。(^^;)

                    うーん、どうでしょうか、どうでしょうか。

                    どうしましょうか、どうしましょうか…。どうしてどうして、どうでしょうか。

                    そんなわけで、そんな思案の挙げ句に、今年の合唱祭は…、

                    うちの合唱団は、思い切って、制限時間いっぱい、ひたすら「かえるの歌」輪唱をすることにしましたよ。(嘘です)。

                    では、ごきげんよう。

                    YMST
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