良いお年を!
- 2012.12.30 Sunday
- 18:20
今年も残すところ、あと僅か。
私は今日は、楽譜を清書しながら、来年の目標を立ててみたり、この一年を振り返ってみたり…。
私は今日は、楽譜を清書しながら、来年の目標を立ててみたり、この一年を振り返ってみたり…。
皆様は、どのような年末を過ごしていらっしゃいますでしょうか。
今年もお世話になりました。m(__)m
どうぞ、良いお年をお迎えください。
今年もお世話になりました。m(__)m
どうぞ、良いお年をお迎えください。
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壮大で自由
- 2012.12.30 Sunday
- 00:04
最近、“パットメセニー・グループ”を聴いている。
大学生頃にも、少しは聴いたことありましたが、その時以来。
やはり、いいねぇ〜!生命讃歌だな、これも。
聴いていたら、「よし、顔を上げて、前を向いてガンバロウ!」、などと感じましたよ。わたくしは。
パッと、魂の奥底に火が灯った感じ。
パットメセニーだけに。(つまらん…。)
作曲センスに惹かれます。
いわゆる「定型」みたいな…、ありきたりなコード進行・フレーズ感に、囚われていない。
大学生頃にも、少しは聴いたことありましたが、その時以来。
やはり、いいねぇ〜!生命讃歌だな、これも。
聴いていたら、「よし、顔を上げて、前を向いてガンバロウ!」、などと感じましたよ。わたくしは。
パッと、魂の奥底に火が灯った感じ。
パットメセニーだけに。(つまらん…。)
作曲センスに惹かれます。
いわゆる「定型」みたいな…、ありきたりなコード進行・フレーズ感に、囚われていない。
すなわち、無限に広がる自由な心!
これだ。
その感覚や心意気に、感動・共感・驚愕・爽快感などを感じるのです。
特に私は、『YOU』、『LETTER FROM HOME』、『YOLANDA,YOU LEARN』、『MINUANO』、『VIDALA』、『PRAISE』、『LAST TRAIN HOME』、『BEAT 70』、『SLIP AWAY』あたりの曲が、お気に入り。
『YOU』なんか、本当にスゴイ曲だと感じる。
フレーズが、どんどん膨張していくような曲。
息の長〜いフレーズ(メロディー)が、ようやく、音楽的なピーク・頂点に達したかと思うと…、そこから、さらに、音楽が拡大・膨張していく。
壮大すぎます。(;´д`)
あと、よく知られた『LETTER FROM HOME』という名曲は、明らかに魔法です。(゜-゜)(。_。)
不思議で神秘的で幻想的で、妖しいほど美しい。
例えば、月光浴などしながらこの曲を聴くと、別世界へ誘(いざな)われそうな雰囲気あります。
あるいは…、例えば、聖なる泉から妖精が出てくるとか、月夜にユニコーンが出てくるとか、満天の星空に虹がかかり、その虹を登っちゃうとか…、
そういうレベルの、神秘的なまでに美しい曲だと思う。
しかも、ただ単に綺麗なだけでもない。
独特な揺らぎの中に、切なさや痛みの成分があって…、それら全てを包み込むような労り・慰め・祈りの雰囲気も、ビシバシ漂っちゃってる。
曲タイトル、『LETTER FROM HOME』の「HOME」というのは…、もしかしたら、この現世での「HOME」のことではなく、天界や宇宙などをイメージしたのではないか?
…などと勘繰りたくなるくらい、この世ならぬ雰囲気デス。(・∀・)
(※壮大な『YOU』も、神秘的な『LETTER FROM HOME』も、多分、どちらもYouTubeにあると思うので、ご興味ある方は、聴いてみると良い思う!)
これだ。
その感覚や心意気に、感動・共感・驚愕・爽快感などを感じるのです。
特に私は、『YOU』、『LETTER FROM HOME』、『YOLANDA,YOU LEARN』、『MINUANO』、『VIDALA』、『PRAISE』、『LAST TRAIN HOME』、『BEAT 70』、『SLIP AWAY』あたりの曲が、お気に入り。
『YOU』なんか、本当にスゴイ曲だと感じる。
フレーズが、どんどん膨張していくような曲。
息の長〜いフレーズ(メロディー)が、ようやく、音楽的なピーク・頂点に達したかと思うと…、そこから、さらに、音楽が拡大・膨張していく。
壮大すぎます。(;´д`)
あと、よく知られた『LETTER FROM HOME』という名曲は、明らかに魔法です。(゜-゜)(。_。)
不思議で神秘的で幻想的で、妖しいほど美しい。
例えば、月光浴などしながらこの曲を聴くと、別世界へ誘(いざな)われそうな雰囲気あります。
あるいは…、例えば、聖なる泉から妖精が出てくるとか、月夜にユニコーンが出てくるとか、満天の星空に虹がかかり、その虹を登っちゃうとか…、
そういうレベルの、神秘的なまでに美しい曲だと思う。
しかも、ただ単に綺麗なだけでもない。
独特な揺らぎの中に、切なさや痛みの成分があって…、それら全てを包み込むような労り・慰め・祈りの雰囲気も、ビシバシ漂っちゃってる。
曲タイトル、『LETTER FROM HOME』の「HOME」というのは…、もしかしたら、この現世での「HOME」のことではなく、天界や宇宙などをイメージしたのではないか?
…などと勘繰りたくなるくらい、この世ならぬ雰囲気デス。(・∀・)
(※壮大な『YOU』も、神秘的な『LETTER FROM HOME』も、多分、どちらもYouTubeにあると思うので、ご興味ある方は、聴いてみると良い思う!)
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ボカロ級
- 2012.12.30 Sunday
- 00:01
先日、数ヵ月ぶりにCD店に立ち寄った。
最近は、CDの買い物は、ほとんどAmazonですからなあ。
でも、たまにはCD店も、たくさん新譜を試聴できたり、大きいモニターでPVが流れていたりするので、リサーチに良いものだ。
先日は、水樹奈々さんのPVに見入ってしまった。
やばいくらいの可愛さ・可憐さ・美しさに、胸が痛んだ。
最近は、CDの買い物は、ほとんどAmazonですからなあ。
でも、たまにはCD店も、たくさん新譜を試聴できたり、大きいモニターでPVが流れていたりするので、リサーチに良いものだ。
先日は、水樹奈々さんのPVに見入ってしまった。
やばいくらいの可愛さ・可憐さ・美しさに、胸が痛んだ。
ああ、セツナイ…。(;´д`)
泣きながら、壁にガンガン何度も頭突きしたくなるレベル。
いや、それはジョークだが…、私は、彼女の歌はとても好きなのだ。
情念がビシバシ伝わる歌声。
で、新譜アルバムを試聴していたら、水樹さん、高いG(ソ)まで出していて驚いた。
「お前はボーカロイドか!?」と突っ込み、そして笑った。
裏声で歌うクラシック声楽なら、Gは当たり前。
しかし、地声で歌うロック・ポップスの女性ボーカルがGなんて、滅多にないことなのです。
しかも、バラードで抜き気味の歌声などではなく、ロックtaste楽曲のサビで、ガッツリとG!
バケモノみたいな喉だな…。(^^;)
泣きながら、壁にガンガン何度も頭突きしたくなるレベル。
いや、それはジョークだが…、私は、彼女の歌はとても好きなのだ。
情念がビシバシ伝わる歌声。
で、新譜アルバムを試聴していたら、水樹さん、高いG(ソ)まで出していて驚いた。
「お前はボーカロイドか!?」と突っ込み、そして笑った。
裏声で歌うクラシック声楽なら、Gは当たり前。
しかし、地声で歌うロック・ポップスの女性ボーカルがGなんて、滅多にないことなのです。
しかも、バラードで抜き気味の歌声などではなく、ロックtaste楽曲のサビで、ガッツリとG!
バケモノみたいな喉だな…。(^^;)
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朝によく聴いてる
- 2012.12.30 Sunday
- 00:00
やばい!(^O^)/
今更だが、ももいろクローバーZのアルバム『バトル アンド ロマンス』!
名盤だッ!
今更だが、ももいろクローバーZのアルバム『バトル アンド ロマンス』!
名盤だッ!
ここ1ヶ月ほど、朝の目覚ましmusicにしていましたが、昨日、じっくりガッツリ聴いてみた。
全13曲のアルバムだが、アルバム後半になるにつれて、ほとんどの曲で泣けた〜。(後半は、今まで、あまり聴いていませんでした)。
非常に人間らしい…、愛を求めるキモチとか、一生懸命さとか、汗とか、涙とか、不安とか、希望とか、夢とか、友情とか、感謝とか、強さとか、弱さとか、ユーモアとか、人懐っこさとか…、
そういう感情が、どの曲からもビシバシ感じられた。
超、人間的なアルバムだと思いました。
歌詞も曲もヴォーカルも、とても素直でストレート。
癒された〜。(そして、切ない)。
『ピンキージョーンズ』と『天手力男』は、最初、ウケ狙いなだけの(?)、変な曲だと思ったのだが…、いやいや、ちゃんと聴くと素晴らしい!メロディーに、とても心を打たれました。(歌詞も見事だけど、曲やアレンジも、魅力ありすぎ。相当素晴らしい音楽性を感ずる…。変に斬新すぎないし)。
『ワニとシャンプー』は、聴きながらゲラゲラ笑った。
『行くぜっ!怪盗少女』は、世界観や内容が大好きだし、アレンジが楽しくて仕方ない。
で…、アルバムの後半6曲くらいは、とことん健気で泣ける!
(聴いていたら…、なんだか、今まで出会った人全員に、「ありがとう」と「ごめんなさい」を、心から伝えたい気分になったよ…。)
ただ、個人的には、ももクロの振り付け(ダンス)は、たまーに、好きになれない部分もあるのだよな…。
もちろん否定などしないし、あの振り付けに魅力を感じる人も沢山いると、分かってはいるのだが。
単なる好みの問題ですね。
私は心が狭いので、女子の開脚ポーズ・がに股ポーズは、たいてい、目を背けたくなるの。(カンフー風・バレエ風など、曲の世界観に、特別な意図・必然性がある場合は別として)。
全13曲のアルバムだが、アルバム後半になるにつれて、ほとんどの曲で泣けた〜。(後半は、今まで、あまり聴いていませんでした)。
非常に人間らしい…、愛を求めるキモチとか、一生懸命さとか、汗とか、涙とか、不安とか、希望とか、夢とか、友情とか、感謝とか、強さとか、弱さとか、ユーモアとか、人懐っこさとか…、
そういう感情が、どの曲からもビシバシ感じられた。
超、人間的なアルバムだと思いました。
歌詞も曲もヴォーカルも、とても素直でストレート。
癒された〜。(そして、切ない)。
『ピンキージョーンズ』と『天手力男』は、最初、ウケ狙いなだけの(?)、変な曲だと思ったのだが…、いやいや、ちゃんと聴くと素晴らしい!メロディーに、とても心を打たれました。(歌詞も見事だけど、曲やアレンジも、魅力ありすぎ。相当素晴らしい音楽性を感ずる…。変に斬新すぎないし)。
『ワニとシャンプー』は、聴きながらゲラゲラ笑った。
『行くぜっ!怪盗少女』は、世界観や内容が大好きだし、アレンジが楽しくて仕方ない。
で…、アルバムの後半6曲くらいは、とことん健気で泣ける!
(聴いていたら…、なんだか、今まで出会った人全員に、「ありがとう」と「ごめんなさい」を、心から伝えたい気分になったよ…。)
ただ、個人的には、ももクロの振り付け(ダンス)は、たまーに、好きになれない部分もあるのだよな…。
もちろん否定などしないし、あの振り付けに魅力を感じる人も沢山いると、分かってはいるのだが。
単なる好みの問題ですね。
私は心が狭いので、女子の開脚ポーズ・がに股ポーズは、たいてい、目を背けたくなるの。(カンフー風・バレエ風など、曲の世界観に、特別な意図・必然性がある場合は別として)。
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報告
- 2012.12.29 Saturday
- 23:56
そうそう…、先日の記事で書いた、嶽本野ばら著『世界の終わりという名の雑貨店』という短編小説。
すごく気に入りました!
(『ミシン』(小学館文庫)に収録)。
美しくて哀しかった〜。
物語の締めくくりが、特に好き。
また、折りにふれて、何度も読みなおしたい。
すごく気に入りました!
(『ミシン』(小学館文庫)に収録)。
美しくて哀しかった〜。
物語の締めくくりが、特に好き。
また、折りにふれて、何度も読みなおしたい。
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この先に光はあるのか?
- 2012.12.29 Saturday
- 23:53
ゲフッ…、なんとか編曲の目処がついた〜。
まだ雑な下書き状態だけど、ほぼ全曲、完成した。ゴフッ…。
(宮沢賢治シリーズの計6曲を、女声合唱用・混声合唱用にアレンジしているナウ)。
ここ数日、ひたすら編曲三昧であった。グフッ…。
年内に推敲して、年始休み中には、清書を終えたいものだ。
楽譜出版の採算など、見通しは立っていないが、私にとっては、リリースするしか選択肢は無い感じの作品集。
ま、清書は、明日から取りかかろうかな…。
きっと、明日から取りかかろう。
明日から本気だす!
まだ雑な下書き状態だけど、ほぼ全曲、完成した。ゴフッ…。
(宮沢賢治シリーズの計6曲を、女声合唱用・混声合唱用にアレンジしているナウ)。
ここ数日、ひたすら編曲三昧であった。グフッ…。
年内に推敲して、年始休み中には、清書を終えたいものだ。
楽譜出版の採算など、見通しは立っていないが、私にとっては、リリースするしか選択肢は無い感じの作品集。
ま、清書は、明日から取りかかろうかな…。
きっと、明日から取りかかろう。
明日から本気だす!
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よく、「メールでは気持ちが伝わらない」とか言うけれど…。(2)
- 2012.12.29 Saturday
- 23:45
(先日の記事の続き)。
他者の発言や行動を批判したり、反論したりすることは、私は、全然オーケーだと思っています。他者の作った作品を批判したりすることも、全然オーケーだと思います。
世の中のあらゆる人・あらゆる作品・あらゆる意見・あらゆる価値観…、
その全てに、共感できるわけないですし。
私も、自分の作品や言動を、誰かから批判されたり、好きじゃないとか言われても、全然構いません。(もちろん嬉しくはないが、人それぞれの好き嫌いは、ちゃんと尊重したい)。
お互い、自由な批判・議論・意見交換は、大いに結構だと思う。
☆
ただ、違和感を感じるのは、頭ごなしの否定や、頭ごなしの断定だ。
例えば、他者の作品や、発言や、メールなどに対して、
その「内容」について、あれこれ質問したり、感じたことを述べたり、あれこれ批判したり議論したりするなら、全然オーケーだと思う。
そういう正直な意見交換や、正直な会話のキャッチボールは、清々しいと思う。
ただ、違和感を感じるのは、頭ごなしの否定や、頭ごなしの断定だ。
例えば、他者の作品や、発言や、メールなどに対して、
その「内容」について、あれこれ質問したり、感じたことを述べたり、あれこれ批判したり議論したりするなら、全然オーケーだと思う。
そういう正直な意見交換や、正直な会話のキャッチボールは、清々しいと思う。
ところが、その「内容」や「中身」や「真意」を、吟味しようともせず…、
頭ごなしに、
「メールやTwitterには気持ちが込められるわけがない」、
「このジャンルの音楽にはハートが無いに決まってる」、
「この表現手段の作品(発言)にはハートが無いに決まってる」、
「丁寧語・尊敬語を多用する人は他人行儀で冷たいに決まってる」、
「饒舌な人は軽薄に決まってる」、
「寡黙な人は冷たいに決まってる」、
「頑張り屋さんは無理していて強欲に決まってる」、
「頑張らない人は怠惰でダメ人間に決まってる」、
「若者は苦労を知らないに決まってる」、
「老人は頑固に決まってる」、
「子供は好奇心旺盛で気楽で発想が自由に決まってる」、
「先生や大人は頭が固いに決まってる」、
「現代っ子は愛や絆が足りないに決まってる」、
「成功してない人や病弱な人は、ネガティブで生き方が悪いに決まってる」、などなど…、
そうやって、全否定したり断定してしまう言い方には、納得いかない。
(逆に、何かを“全肯定”してしまう人も、盲信的だけど…。)
☆
“全否定”にせよ“全肯定”にせよ、どちらにせよ…、個々の人間や、個々の発言(作品)の、その「中身」「心根」「内容」について、ちゃんと感じようとしない態度なのだ。
表面的な、表現手段・伝達手段・ジャンル・口調・文体・人種・年齢層・先入観・イメージ・固定観念などだけで判断して、「これは良い」とか、「これは悪い」とか、「この人(作品)はこういうタイプ」とか、短絡的に決め付けてしまう。
そういう決め付けをしてしまう人は、悪い意味で自信満々すぎて、心や視野が鎖国状態。
すぐ、安易に、カテゴライズや定義を作ってしまう。
“全否定”にせよ“全肯定”にせよ、どちらにせよ…、個々の人間や、個々の発言(作品)の、その「中身」「心根」「内容」について、ちゃんと感じようとしない態度なのだ。
表面的な、表現手段・伝達手段・ジャンル・口調・文体・人種・年齢層・先入観・イメージ・固定観念などだけで判断して、「これは良い」とか、「これは悪い」とか、「この人(作品)はこういうタイプ」とか、短絡的に決め付けてしまう。
そういう決め付けをしてしまう人は、悪い意味で自信満々すぎて、心や視野が鎖国状態。
すぐ、安易に、カテゴライズや定義を作ってしまう。
「メールというものは冷たいものだ」、「こういう生き方のタイプの人は良い」、「ああいう生き方のタイプの人はダメ」、「こいつはキモイ」、みたいに。
つまり、「生き方」や「表現(伝達)方法」について、様々な可能性・多様性を認めようとしない。
人それぞれ違う魅力や良いところを、探そうとしない。
(人それぞれ違う事情・立場・状況や、生まれつきの体質・個性などの違いも、想像しようとしない)。
個々の作品や発言を、ちゃんと感じて、味わって…、その上で、批判したり嫌ったりするのなら、納得なのですけど。
☆
で、そういう人は…、
割とすぐ、他者に対して、「人間、愛や絆や思いやりが大事ですよ?」とか、「もっとポジティブに自然体で生きましょうよ?」とか言っちゃう。
つまり、そういう言い方をする人は、他者のことを、「あなたには愛や思いやりが足りない」「あなたは自然体で生きていない」という前提で見てしまっているのではないだろうか?
(自分自身のことは、「私は愛や思いやりをたくさん持ってる」「私の生き方こそポジティブで自然体」、みたいな前提で見ている)。
少々、傲慢で意地悪なのだ。見方が。
もちろん、そういう言い方をする人の中にも、心から他者のことを心配して声をかけているような人も、沢山いると思います。
でも、ただ単に、「上から目線で他者に言いたいだけ」みたいな人も、少なくないように思われる。
言ってみれば、“他者に説教したい病”。
他者よりも自分のほうが、“人生の真理”を知っていると思いたい病”。
自分のことを、とりわけ愛や苦労やマナーを知っていると思いたい病。
自分が好きになれないアート作品・表現ジャンル・音楽グループなどを、見下さないと気がすまない病。
他者の内面や人格を、完璧に理解していると思い込んでる病。
(もちろん私も、似たような者かもしれないが…。)
☆
好きになれない表現手段や、好きになれない人・作品などを、無理してまで好きになることはない。
でも、ちゃんと「中身」を知ろうとしないまま、他者を自分好みに矯正させようとしたり、他者を全否定したりしてしまうのは、いじめ・差別と変わらない。
…それと同じように、「ゲーム・アニメ・流行歌などは低級に決まってる」、「クラシック音楽は真面目で退屈に決まってる」、「リズミカルな音楽は若者向き」、「静かな音楽は大人向き」、「アーチストたるものかくあるべし」…、
そういう感じの言い方も、似たようなものかもしれない。
「若者はこういうもの」、「大人世代の好みはこういうもの」、「このジャンルの音楽は、全て、こういう“中身”に決まっている」、「この伝達手段(表現手段)は、気持ちが伝わらないに決まってる」、「アーチストは、こういう生き方じゃなきゃいけない」などと…、ひとまとめにして、色々、決めちゃってる。
そういう発言は、例えるなら、人権・人種の差別発言をするのと、似たようなものだ。
(作品それぞれ・人それぞれの、その中身・個性・感性を、ちゃんと見ようとしない態度)。
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2012.12.21
- 2012.12.22 Saturday
- 01:13
今日は、都内某所にて忘年会でした。
合唱関係・クラシック関係ではない集まりだったので、会話も新鮮で楽しかった。(^^)
今年もお世話になりました。m(__)m
何となく、寝たくない夜だな…。
長く創作活動を続けていても、なかなか現状を打破できず、現実という壁に風穴あけられない日々…、
とは言え、今、あまり落ち込んでもいないし、気分も悪くはないのだが…、「逆に、それって、この現状に慣れてしまっただけかも?」と…、今日は、ある人の何気ない一言で、ハッとさせられた。
私のことを話していたのではなく、全く別の話をしていたのだけど…、曰く、「打たれ弱いのは話にならないが、傷付くことに慣れすぎても、あまり良くないかもね」、みたいな。
かもね、かもね、そうかもね〜!(^O^)/
さて…、これから少し、読みかけの小説、嶽本野ばら著『世界の終わりという名の雑貨店』でも読むかな…。(『ミシン』(小学館文庫)に収録)。
嶽本野ばらさんを読むのは、ほとんど始めて。
先日、嶽本野ばら著『それいぬ』というエッセイを少し読んだのだが、感性や考え方が偏っていて、実に素晴らしかった。
『世界の終わりという名の雑貨店』も、まだ途中だけど、文章が実に繊細で美しい!
今にも壊れそうな脆さ・儚さ・危うさ・哀しさが充満していて、非常に私好み。
数年前まで、私は「小説」といえば…、村上春樹・山田詠美・小川洋子あたりを、好きな作品ばかり、ヘビロテで繰り返し読んでいた。
しかし、1〜2年前くらいからは、今まで私が想像したこともないような感性・見方・感じ方に触れてみたくなり、色々な作家の作品を読むようになりました。
合唱関係・クラシック関係ではない集まりだったので、会話も新鮮で楽しかった。(^^)
今年もお世話になりました。m(__)m
何となく、寝たくない夜だな…。
長く創作活動を続けていても、なかなか現状を打破できず、現実という壁に風穴あけられない日々…、
とは言え、今、あまり落ち込んでもいないし、気分も悪くはないのだが…、「逆に、それって、この現状に慣れてしまっただけかも?」と…、今日は、ある人の何気ない一言で、ハッとさせられた。
私のことを話していたのではなく、全く別の話をしていたのだけど…、曰く、「打たれ弱いのは話にならないが、傷付くことに慣れすぎても、あまり良くないかもね」、みたいな。
かもね、かもね、そうかもね〜!(^O^)/
さて…、これから少し、読みかけの小説、嶽本野ばら著『世界の終わりという名の雑貨店』でも読むかな…。(『ミシン』(小学館文庫)に収録)。
嶽本野ばらさんを読むのは、ほとんど始めて。
先日、嶽本野ばら著『それいぬ』というエッセイを少し読んだのだが、感性や考え方が偏っていて、実に素晴らしかった。
『世界の終わりという名の雑貨店』も、まだ途中だけど、文章が実に繊細で美しい!
今にも壊れそうな脆さ・儚さ・危うさ・哀しさが充満していて、非常に私好み。
数年前まで、私は「小説」といえば…、村上春樹・山田詠美・小川洋子あたりを、好きな作品ばかり、ヘビロテで繰り返し読んでいた。
しかし、1〜2年前くらいからは、今まで私が想像したこともないような感性・見方・感じ方に触れてみたくなり、色々な作家の作品を読むようになりました。
(もちろん、自分の創作のヒント・テーマ・題材を探すことも兼ねて。…というか、それがメインの目的かも。笑)
特に、短編小説は好きですね。
私の場合、大袈裟なストーリーなど無くても良くて…、その作家ならではの見方・感じ方・世界観・空気感が、色濃く充満しているような作品を読みたいデス。
特に、短編小説は好きですね。
私の場合、大袈裟なストーリーなど無くても良くて…、その作家ならではの見方・感じ方・世界観・空気感が、色濃く充満しているような作品を読みたいデス。
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よく、「メールでは気持ちが伝わらない」とか言うけれど…。
- 2012.12.20 Thursday
- 01:49
昨日、とあるコラムで読んだのだが、
「メールでは気持ちが伝わらない」、「Twitterなんかにハートは無い」、「メールでは何も伝わらない」、「メールなんかが発達したから、人間は冷たくなった。絆や思いやりが無くなった」、「現代っ子には愛や思いやりが足りない」、etc…、
言いたいことは分からないでもないが、そういう見方のほうが、よほどハートや思いやりが無いのではないか?と、思ってしまった。
私は、コミュニケーションの基本は、対面や対話だと思っていますし、大切なことは、直接会って言う派です。(Twitterも、やってないです)。
でも、メールやTwitterを全否定してしまうような意見は、極端すぎる気がしてならぬ。
「メールでは気持ちが伝わらない」、「Twitterなんかにハートは無い」、「メールでは何も伝わらない」、「メールなんかが発達したから、人間は冷たくなった。絆や思いやりが無くなった」、「現代っ子には愛や思いやりが足りない」、etc…、
言いたいことは分からないでもないが、そういう見方のほうが、よほどハートや思いやりが無いのではないか?と、思ってしまった。
私は、コミュニケーションの基本は、対面や対話だと思っていますし、大切なことは、直接会って言う派です。(Twitterも、やってないです)。
でも、メールやTwitterを全否定してしまうような意見は、極端すぎる気がしてならぬ。
(※むしろ、Twitterというものは、「他人の本音や気持ちが伝わり過ぎて困る」、と感じている人さえ、いるようです。まあ、使い方にもよるでしょうけど…。)
☆
私は、人のメールやブログに癒されたり、励まされたり、クスッと笑ったり、勇気づけられた経験、多々あります。
だから、個人的には、メールでもTwitterでも、手紙でもブログでも、(その他、どんな表現手段でも)、真心・礼儀・ユーモア等を表現できる可能性はあるはずだ、と思っています。
逆に言えば、対面や会話だからと言って、必ず愛や真心や思いやりが込もっているわけでもないはず。
大事なのが「心」や「中身」なのだとしたら、コミュニケーション方法そのものや、表現方法のジャンル・手段・媒体そのものを、全否定するのはナンセンスだと思う。(全肯定するのも、ナンセンスだと思いますが)。
人間、メールよりも、対面の会話のほうが必ず分かりあえるかと言えば、意外と、そうでもない。
対面の会話だって、誤解や行き違いをしてしまう危険性は、常にある。
どんな仕事でも、どんな表現手段でも、どんな伝達方法でも、、、
私は、人のメールやブログに癒されたり、励まされたり、クスッと笑ったり、勇気づけられた経験、多々あります。
だから、個人的には、メールでもTwitterでも、手紙でもブログでも、(その他、どんな表現手段でも)、真心・礼儀・ユーモア等を表現できる可能性はあるはずだ、と思っています。
逆に言えば、対面や会話だからと言って、必ず愛や真心や思いやりが込もっているわけでもないはず。
大事なのが「心」や「中身」なのだとしたら、コミュニケーション方法そのものや、表現方法のジャンル・手段・媒体そのものを、全否定するのはナンセンスだと思う。(全肯定するのも、ナンセンスだと思いますが)。
☆
人間、メールよりも、対面の会話のほうが必ず分かりあえるかと言えば、意外と、そうでもない。
対面の会話だって、誤解や行き違いをしてしまう危険性は、常にある。
神様でもない我々は、いつもいつも、相手の気持ちや事情を完璧に分かってあげるなんて、不可能ではないだろうか?
だからこそ、メールだろうが会話だろうが、丁寧に言葉を選びたいと思いますし、相手の気持ちを察する努力もしたいですし。
☆
私は、Twitterやメールや、日常会話や手紙といった、言語メインの表現手段はもちろん、
接客業でも絵画でも、音楽でもダンスでも、
その他、どんな仕事でも、どんな表現手段でも、人と人は、気持ちを伝え合ったり、お互い共感できる可能性は、常にあると思っていたいです。
(「メールでは気持ちは伝わらない」「会話なら気持ちは伝わる」「クラシック音楽にはハートがある」「流行歌にはハートが無い」というふうには、私は、感じません。表現手段やジャンルなどで、あまり差別はしたくないの)。
私は、Twitterやメールや、日常会話や手紙といった、言語メインの表現手段はもちろん、
接客業でも絵画でも、音楽でもダンスでも、
その他、どんな仕事でも、どんな表現手段でも、人と人は、気持ちを伝え合ったり、お互い共感できる可能性は、常にあると思っていたいです。
(「メールでは気持ちは伝わらない」「会話なら気持ちは伝わる」「クラシック音楽にはハートがある」「流行歌にはハートが無い」というふうには、私は、感じません。表現手段やジャンルなどで、あまり差別はしたくないの)。
☆
どんな仕事でも、どんな表現手段でも、どんな伝達方法でも、、、
愛やハートや思いやりが込もっている場合もあれば、込もっていない場合もあるはず…、と思います。
しかも、そもそも、どのような言動や生き方を「ハートが込もっている」と感じるかも、当然、人によって違うものだ。
自分が好きなタイプの言動や生き方や表現手段だけを、「ハートが込もっていて優しい」、自分が嫌いなタイプの言動や生き方や表現手段は、「ハートが込もっていなくて冷たい」、などと言い切ってしまうことは、あまりに排他的、あまりに短絡的、あまりに喧嘩腰ではないか。
それに、他者の言動やメールやTwitter等を見て、「この人の言うことには心が込もっていないし、絆や繋がりが足りない」などと、パッと早急に判断してしまうこと自体、かなり失礼だと思う。
なぜなら、我々人間は、他者の内面や人柄を、テレパシーみたいに完璧に把握できる生物ではないから。
だからこそ我々は、表面的な言動や表情や身なり等で、人のことを判断するしかないのだろうけど…、
しかしながら、我々の感覚・視野・理解力では、他者の内面や事情の、ごく浅い一面的なことしか、分からないし見えない。
しかも、そもそも、どのような言動や生き方を「ハートが込もっている」と感じるかも、当然、人によって違うものだ。
自分が好きなタイプの言動や生き方や表現手段だけを、「ハートが込もっていて優しい」、自分が嫌いなタイプの言動や生き方や表現手段は、「ハートが込もっていなくて冷たい」、などと言い切ってしまうことは、あまりに排他的、あまりに短絡的、あまりに喧嘩腰ではないか。
それに、他者の言動やメールやTwitter等を見て、「この人の言うことには心が込もっていないし、絆や繋がりが足りない」などと、パッと早急に判断してしまうこと自体、かなり失礼だと思う。
なぜなら、我々人間は、他者の内面や人柄を、テレパシーみたいに完璧に把握できる生物ではないから。
だからこそ我々は、表面的な言動や表情や身なり等で、人のことを判断するしかないのだろうけど…、
しかしながら、我々の感覚・視野・理解力では、他者の内面や事情の、ごく浅い一面的なことしか、分からないし見えない。
(それぞれの人が、見、聞き、理解し、感じていることは…、あくまで、その人なりの勝手な感じ方。「解釈」や「想像」にしか過ぎない。必ずしも「真実」とは限らない)。
人それぞれが、自分なりの見方・感じ方を大切にすれば良いと思うのだが、
しかし、自分の見方・感じ方だけを正解だと思い込んでしまうと、人は、独善的・排他的になってしまいがちではないだろうか?
人それぞれが、自分なりの見方・感じ方を大切にすれば良いと思うのだが、
しかし、自分の見方・感じ方だけを正解だと思い込んでしまうと、人は、独善的・排他的になってしまいがちではないだろうか?
☆
加えて…、根本的な問題として、
例えば、とてもナィーブでシャイで、「私は会話よりも、手紙やメールやTwitterのほうが心を開きやすいです」、みたいな人がいたとしても、私は、別に悪くないと思っています。
寡黙な人や、人付き合いが苦手な人や、シャイな人や、軽妙な会話が苦手な人は、非難されるべきなのだろうか?
そんなことはないはず。
そういう人が、愛情や真心が足りないなんて、私は思えませんしね。(それはそれで、その人の魅力や個性としか思えない)。
もちろん、よほど無愛想すぎたり、よほど無口だったり、よほどコミュニケーション恐怖症の人などは、場合によっては、少しずつ心を開いてみたほうが良い場合もあるかもしれないけど、
でも、多少の「内気」「寡黙」「シャイ」「出不精」「口下手」くらいのレベルなら、「それもその人の個性であり魅力」と考えるほうが、私としては、楽しいし自然。
皆が皆、何でもかんでもオープンに語り合ったり、とにかく他者と議論したがったり、社交的なパーティ・コンパ・おしゃべり・宴会などを好きである必要は、私は、無いと思うのだ。
(ちなみに私自身は、初対面の人とでも、割と図々しく話せますけど。私は、“おしゃべり”ではないですが、“人見知り”でもないです)。
でも、人それぞれ。
世の中には、「私はおしゃべりは苦手です。私は人見知りです。私はメールや手紙のほうが、緊張せず正直に話せます。Twitterのおかげで、少し、他者とフランクに接することが出来るようになりました」、
みたいな人がいたとしても、私は別に、悪くはないと思う。
むしろ、そういう内気な人を過剰に問題視して、「冷たい」とか「ノリが悪い」とか、「メールでは気持ちは伝わらない」とか「現代っ子は愛や絆や繋がりが足りない」とか…、
頭ごなしに全否定してしまうほうが、よほど冷たいのではないか?
(※シャイで、口下手で、人と接するのが苦手な人って、別に現代っ子に限らず、どの時代にも、どの世代にも、必ずいると思います。でも、そういう人が「ダメ人間」のように扱われて良いとは、私は、思えないのです)。
ざっくばらんでオープンな人は、もちろん素敵だと思う。
でも、人との距離感・誠実なマナーを大切にする人や、あまり露骨に感情表現しない人だって、奥ゆかしくて素敵ではないか。
過度に人に迷惑をかけたり、露骨な差別思想・選民思想などでなければ…、
加えて…、根本的な問題として、
例えば、とてもナィーブでシャイで、「私は会話よりも、手紙やメールやTwitterのほうが心を開きやすいです」、みたいな人がいたとしても、私は、別に悪くないと思っています。
寡黙な人や、人付き合いが苦手な人や、シャイな人や、軽妙な会話が苦手な人は、非難されるべきなのだろうか?
そんなことはないはず。
そういう人が、愛情や真心が足りないなんて、私は思えませんしね。(それはそれで、その人の魅力や個性としか思えない)。
もちろん、よほど無愛想すぎたり、よほど無口だったり、よほどコミュニケーション恐怖症の人などは、場合によっては、少しずつ心を開いてみたほうが良い場合もあるかもしれないけど、
でも、多少の「内気」「寡黙」「シャイ」「出不精」「口下手」くらいのレベルなら、「それもその人の個性であり魅力」と考えるほうが、私としては、楽しいし自然。
皆が皆、何でもかんでもオープンに語り合ったり、とにかく他者と議論したがったり、社交的なパーティ・コンパ・おしゃべり・宴会などを好きである必要は、私は、無いと思うのだ。
(ちなみに私自身は、初対面の人とでも、割と図々しく話せますけど。私は、“おしゃべり”ではないですが、“人見知り”でもないです)。
でも、人それぞれ。
世の中には、「私はおしゃべりは苦手です。私は人見知りです。私はメールや手紙のほうが、緊張せず正直に話せます。Twitterのおかげで、少し、他者とフランクに接することが出来るようになりました」、
みたいな人がいたとしても、私は別に、悪くはないと思う。
むしろ、そういう内気な人を過剰に問題視して、「冷たい」とか「ノリが悪い」とか、「メールでは気持ちは伝わらない」とか「現代っ子は愛や絆や繋がりが足りない」とか…、
頭ごなしに全否定してしまうほうが、よほど冷たいのではないか?
(※シャイで、口下手で、人と接するのが苦手な人って、別に現代っ子に限らず、どの時代にも、どの世代にも、必ずいると思います。でも、そういう人が「ダメ人間」のように扱われて良いとは、私は、思えないのです)。
ざっくばらんでオープンな人は、もちろん素敵だと思う。
でも、人との距離感・誠実なマナーを大切にする人や、あまり露骨に感情表現しない人だって、奥ゆかしくて素敵ではないか。
過度に人に迷惑をかけたり、露骨な差別思想・選民思想などでなければ…、
個性・感性・価値観・生き方は、人それぞれ違って良いはずである。
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と、まあ、色々書きましたが、、、
「メールやTwitterなどではなく、フェイス・トゥ・フェイスで会話してみないと、相手がどういう人か分からない」、というような意見は、もっともではある。
特に、実際に会ったことない人の場合、メール・Twitterだけでは、その人の声、表情、会話のやり取りのテンポ感、その人の雰囲気、ムード…、
そういうような部分は、当たり前だが、分からない。
なぜなら、メール・手紙・Twitterというものは、声や表情を伝えられるツールではないからだ。(伝達のツールや手段によって、何が伝えやすくて、何が伝えにくいか…、違いがあって当然だ)。
だがしかし、そうは言っても、
もし、誰かとフェイス・トゥ・フェイスで会話したとしても…、
そう簡単に、その相手の性格や気持ちを、完璧に分かったつもりになったり、相手の人格を断定してしまったりすることなど、出来ないのではないか?
フェイス・トゥ・フェイスで会話したからと言って、「絶対に、誤解や決め付けや行き違いなどが生じない」ということは、人間には、無理なのではないか?
そう感じるわけです。
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様々な人との関わり・様々な人間関係の中では、「メールやTwitterのやり取りがあったからこそ意気投合した」という例もある。
あるいは、「励ましのメールで、自殺を思いとどまった」というような事例さえ、多々ある。
もし、「メール・Twitterなんかでは、心の交流・交歓など起きるわけがない」と、決め込みすぎてしまうと、そういう事例や可能性を見逃してしまうだろうし、
逆に、「フェイス・トゥ・フェイスの会話なら、必ず心が通じる。必ず分かり合える」みたいに決め込みすぎるてしまうと…、むしろ、人の気持ちを想像したり思いやる感性が停止してしまう気がする。
とりわけ、「フェイス・トゥ・フェイスで伝えたのだから、絶対、(私の言うことを)分かってくれたはず。絶対、共感してくれたはず」などと思い込みすぎている人は、傲慢だし、短絡的だと思う。
そんなふうに思い込んでしまったら…、逆に、相手の気持ちを想像しようとしなくなり、相手のリアクションの細部や機微に、気付けなくなってしまうのではないか。
自分の気持ちを、真摯に伝えようとする努力・工夫を、怠ってしまうのではないか。そんなのは、単なる、「理解や共感の押し付け」ではないのか。
自分の気持ちを、真摯に伝えようとする努力・工夫を、怠ってしまうのではないか。そんなのは、単なる、「理解や共感の押し付け」ではないのか。
そういうわけで…、私は、コミュニケーションの手段・方法だけで判断して、そのコミュニケーションの質や内容まで、決め付けすぎてはいけない、と思っているのだ。
面倒でも、メールだろうが、対面の会話だろうが、電話だろうが…、毎回毎回、自分と相手、双方の気持ちを丁寧に伝え合ったり、ちゃんと想像しようとする努力の姿勢が、大事だと思う。
コミュニケーションの手段やツールや上辺だけで判断して、短絡的に相手の人格・性格・タイプなどを決め付けてしまうほうが、私は苦痛だし、何の楽しさも遊びも感じられない。
コミュニケーションの手段やツールや上辺だけで判断して、短絡的に相手の人格・性格・タイプなどを決め付けてしまうほうが、私は苦痛だし、何の楽しさも遊びも感じられない。
私が言いたいのは、「コミュニケーションは丁寧語や敬語やマナーを大切にしなさい」、というようなことではないです。
(むしろ、その逆です。そうやって、「上辺の口調や、上辺の表現手段や、上辺の伝達ツールだけで、人のことを判断しすぎてしまうのはナンセンスだ」、という話です。この記事は)。
(むしろ、その逆です。そうやって、「上辺の口調や、上辺の表現手段や、上辺の伝達ツールだけで、人のことを判断しすぎてしまうのはナンセンスだ」、という話です。この記事は)。
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あまり簡単に、他者の内面を決め付けすぎず、自分の内面も決め付けすぎず、
新鮮に心を開いて、他者のことも自分のことも、「いつも未知の存在」と思っていたほうが、私はワクワクする。
今までの過去の生き方・思考回路のパターンだけで、惰性で付き合うのでなく、
今この瞬間、(あるいは次の瞬間)、私も含めて誰もが、「どう感じるか」「どう思うか」「どうしたいか」、
それは常に未知だし、白紙だし、自由。
他者や自分や、人生や人間のことを、「分かった」なんて瞬間は、永遠に来ないのだ。
私は、そんなふうに感じているのが、今のところ、心地良いです。
(一応、この記事には、続きがあります。もし読みたい方は、コチラをクリック。ただし、相変わらず偏ってますし、毒スパイス満載DEATH!)
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