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2017.08.03 Thursday

無題803

他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、自分の意見・見方・価値観を押し付けてくるような人に対して、

 

その行為や言動に関して、「やめてほしい」とか「私は同意しない」とか、「私は悲しい」とか「私は傷ついた」とか、

 

あくまで「自分がどう感じたか」「自分がどうしたいか」「自分がどうして欲しいか」を伝えるのは、僕は、悪いことではないと思っている。

 

(伝えても改善してくれないなら、その人から離れるべきだと思う)

 

 

でも、そういう人に対して、「あなたは愛が無い」とか、「もっと思いやりを持て」とか、「もっと優しくなれ」とか、「普通の人間ならこう考えるのが常識(あんたはおかしい)」とか…、

 

そうやって、その人の性格を断定しすぎたり、道徳や常識を断定しすぎたり、その人の内面を矯正しようとしすぎるのは、ちょっと違和感がある。

 

 

 

 

迷惑行為・暴力行為・押し付け行為の「振る舞い」をやめさせることは必要だろうし、

 

私がどう感じたか・私がどうして欲しいかを伝えることも必要だろうと思うが、

 

しかしながら、その人がどういう性格なのか、その人がどう生きたいのか、その人の言動がどういう真意なのか、その人がどういう環境で育ってきたのか、そもそも愛や思いやりとは何なのか、そもそも人間とはどう生きるべきなのか、etc…、

 

我々は、100パーセント完璧には分からないし、そう簡単には断定できないことだからだ、、、

 

 

 

 

…とは言え、これは難しい問題だと思う!クリボー

 

どういう行為・どういう発言・どういう振る舞いが、愛や思いやりがあるのか、

 

そういうことを、意見したり教育したり指導したりすることは、可能だと思うし大事だとも思う。

 

 

しかし、あまりにも愛・思いやり・常識・道徳観の正解を定義しすぎてしまうと、各々の個性や、各々の愛情の自然な発露が、現れにくくなるような気もする。

 

なぜなら、愛や思いやりの感じ方・表現方法も千差万別だと思うから、方程式のような定義・正解・マニュアルは、存在し得ないと思うので。

 

 

それに、意見する側の人間(指導する側の人間)が、「愛とはこういうもの」「常識とはこういうもの」「思いやりとはこういうもの」「幸福とはこういうもの」「人とはこういうもの」と、

 

あまりにも答えや正解を決め込みすぎてしまっていると、ちょっと傲慢だと思うし、視野が狭すぎるとも思う。

 

人それぞれに、様々な個性・生き方・感じ方があるだろうし。

 

 

(※しかも、愛や思いやりを追求しない生き方も、僕は悪くないと思います!人生で何を追求したくて何を追求したくないか、個人の自由だと思う。…さらに言えば、意外と、「愛」や「思いやり」を追求しようとする人ほど、非常に限定的にそれらを定義してしまう傾向も強いようにも思え、皮肉なことに、むしろ「愛」や「思いやり」から遠ざかってしまうような印象すらある。全員がそうだとは言わないが)

 

 

 

 

そんなわけで、(愛や道徳や人生観に関しての)教育・指導も大事だと思うのだが、

 

最終的には、一人一人が自分の良心・感性・価値観・道徳観念などを見つめ、自分の発言や行動や作品を、自分自身でチェックするしかない気もする。

 

 

もちろん人と人は、お互いに意見や批判や、提案やアドバイスを言い合うのも素晴らしいことだと思います!

 

この世に完璧な人間などいないと思いますし、

 

それに、「人と人はお互い干渉してはいけない」「人の生き方に一切口を出してはいけない」というような風潮では、寂しい気もしますし。

 

…でも、だからと言って、誰かが誰かに、あまりにも(自分の)価値観・善悪観を押し付けすぎるのは、良くないとも思うのだ。。

 

 

 

 

人と人は、お互いに意見・批判・提案・アドバイスの言い合いも大事だろうし、心温まるものだけど、

 

(その前提の上で言いますが)、

 

■「愛や思いやりの定義、感じ方、考え方は、人それぞれで良い」

 

■「愛や思いやりを表現する方法・言動・振る舞いも、人それぞれで良い」

 

■「そもそも、愛や思いやりを追求しようとしない感じの生き方も、悪いことではない」(※迷惑行為・暴力行為とかはもちろんNG)

 

■「何を心地良いと感じ、何を心地悪いと感じるかは、人それぞれで良い」

 

■「人生の目標、夢への近づき方なども、個人個人でバリエーションの違いがあっても良い」

 

■「他者の性格・内面・真意などは、完璧に分かることは出来ない」

 

■「自分が正しいと思うことでも、誰にでも当てはめるべきではない」

 

 

そういう感じの雰囲気が、私は好ましいです。

 

 

 

 

「それじゃあ傍若無人な連中がのさばるだけ」、と言う方もいらっしゃるかもしれないけど、

 

さっきも言ったように、他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、明らかに他者を見下すような態度をとる人や、意見・価値観を押し付けてくるような人に対しては、「やめてほしい」とか「(私は)悲しい」とか、「(私は)賛成できない」とか、

 

「自分がどう感じたか」「自分がどうしたいか」「自分がどうして欲しいか」を伝えるのは、まったく構わないと思っている。

 

もし被害が生じる場合は、法で裁いたり罰したりすることも必要だと思う…。されるがまま無抵抗が美徳とは思ってないです。

 

 

 

 

そんなわけで、私の主張は、「のさばらせて我慢して泣き寝入りせよ」「何でもかんでも許容せよ」という主張ではないですし、

 

「人と人は一切干渉し合うべきではない」「人の言動に一切口を出してはいけない」という主張でもないです。

 

 

ただ、他者の真意・性格などを、あまりにも分かったつもりになりすぎないほうが良いのではないか、

 

物事の道理・正義・道徳・マナーなどを、あまりにも分かったつもりになりすぎないほうが良いのではないか、

 

明らかな悪事・差別・誤解・意地悪などは否定すべきだと思うが、愛とか思いやりとか礼儀というものは、あまり何が良いとか悪いとか、何が愛情深いとか、何が冷たいとか、

 

そう簡単には決められないのではないか?

 

礼儀や愛情表現の仕方も、人によって違って良いのではないか?

 

よほど他者の迷惑になっていなければ、人それぞれ皆、自分なりの価値観・感性・パーソナリティーで生きれば良いのではないのか?

 

私の主張は、そんな感じです。

 

 

 

 

しかも我々は、他者の性格・真意のみならず、

 

自分自身の性格・願望・衝動・真意・快不快でさえ、ほんとうには分かっていない可能性も高いと思う。

 

自分自身の想いや感覚や価値観というものも、固定観念や思い込み、見栄や自己保身、被害妄想や排他主義などに縛られていないとは、簡単には言い切れないのではないか?

 

 

例えばですが…、私自身のことを言えば、

 

例えば、噂話・陰口に花を咲かせることや、お笑い芸人のように誰かを「イジる」ことや、上から目線で誰かを指導(助言)することなどに、つい、心地良さを感じてしまう瞬間もあったけど…、

 

でも、ふと気がつくと、「これは、ほんとうに私にとって快楽なのだろうか?ほんとうに私が目指したい心地良さなのだろうか?むしろ、不快ではないか?」とも感じ、

 

虚しくなったことも多々あります。

 

ただ単に、「優越感」と「心地良さ」を混同しているだけではないか?と。kyu

 

 

 

 

なので、(今現在の)自分の心地良さ・幸福感・満足感の基準を、100パーセント信用しすぎず、「これは本当に自分が望むことだろうか?」と、常に自分を疑うというか、自問し続けることも大事だと思っている。

 

基本的には、自分の今現在の感性・価値観に自信を持って良いと思うのですが、

 

同時に、心の奥底のどこかで、「本当にそうだろうか?」と、常に自分自身にツッコミを入れているほうが、私は心地良い感じがします。

 

 

(自分自身に対して、常に批判的・否定的な態度でいるほうが、むしろポジティブな生き方ではないか?とすら思っています。僕は、自分が思ったこと全て・感じたこと全て、もちろん大事にしたいですが…、しかし同時に、常に容赦なく疑ってもいたいです)

 

 

 

 

音楽表現やエンターテインメントの表現も、何が良くて何が悪いか、何が素晴らしくて何が陳腐か、、、

 

教育したり指導したり批評したりすることは大事だと思うが、

 

やはり、目指す道は人類全員が同じでなくても良いはず。

 

 

私自身、今まで、様々なタイプの素晴らしさに感動してきたので、

 

音楽やアートやエンタメの価値基準を、あまりにも限定・定義・断定しまうことは、不可能だと感じています。

 

 

それでも僕は、今後も意見や批評やレビューを表明したりするだろうけど…、

 

自分が好きになれないものにも、長所や存在意義は感じているし、

 

逆に、自分が好きなものにも、とても偏った美意識・価値観・人生観を、だいたい常に感じている。

 

(というか、「個性」や「長所」というものは、ほとんど「偏り」と同義語だと感じている)

 

 

 

 

では最後に、強引にまとめると、

 

■「愛や思いやりの定義、感じ方、考え方は、人それぞれで良い。生き方、振る舞い方、人生の目標、夢への近づき方なども、個人個人でバリエーションの違いがあっても良い」

 

■「だからと言って、誰のことも必ず尊重せよ、必ず許容せよ、必ず理解せよ、必ず好きになれ、というわけではなく。自分の理解・共感の及ばない人のことを、無理してまで好きになろうとしたり、分かったつもりになりすぎることもない」

 

■「他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、明らかに他者を見下す態度をする人や、自分の意見・見方・価値観を押し付けてくるような人に対しては、異議・反論を表明しても構わない」

 

■「そういう人のことを、もちろん嫌ったり怒ったり軽蔑したりしても良いと思う。ただし、自分自身も、その人のことを一面的にしか認識できるはずがないので、誤解・思違い・決め付けをしている可能性は常にある。そのことは、常に頭の片隅に常に置いておくべきではないか」

 

■「人と人は、お互いに意見・批判・提案・苦言・アドバイス等を言い合うことも大事だと思うけど、あまりにも、何か一つの見方や価値観を「正解」と決め付けるぎるのは、あまり良くないのではないか?」

 

 

そんなところです。

 

おしまい。

 

 

 

 

…言うまでもなく、ここに私が書いていることも、

 

世の中にたくさんあるうちの、あくまで一つの意見・一つの見方にすぎないと思っていますが。

 

私自身、明日には考え方が真逆になっている可能性だって無いとは言えない。。すらりん

 

(追記※この記事には続きあります。コチラです。もしよろしければ)

2019.05.19 Sunday

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