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2017.07.31 Monday

無題731-3

「夢」とか「願望」とかいうものは、考えて計画的に意図するというより、ブワーッと衝動的・直感的に湧き上がるものかもしれないが、

 

しかし同時に、皆、生まれた時代の状況・環境・科学・文化・知識・社会システムなどを、しっかり認識しながら、

 

その前提条件の範囲内の夢・願望しか、生まれにくいものだと思う。

 

(後天的に身についた固定概念からも、そう簡単には自由になれない)

 

 

 

 

例えば、ピアノという楽器が無い時代に、私と全く同じ魂・同じ感性の人間が生まれたとしても、「ピアノを弾きたい」という夢・欲求・願望など、持たなかったはずです。

 

なぜならピアノが存在しないので、そんな欲求・願望・衝動を持てるはずがありません。。すらりん

 

 

 

 

宇宙や地球という概念・知識が無い時代に生まれたら、「宇宙飛行士になりたい」なんて夢は存在し得ないだろうし。

 

独裁国家に生まれなければ、「革命を起こしたい」「人民を解放したい」「圧政をやめさせたい」なんて夢も、存在し得ないだろうし。

 

お金という概念・システムが存在しない社会に生まれたら、「金持ちになりたい」なんて夢も存在しえないだろうし、

 

人種差別が横行していなければ、それをやめさせたいという夢・願望も存在しえない。

 

野球というスポーツが存在していなければ、「野球をやりたい」「野球選手になりたい」という夢も存在しえない。

 

 

 

 

要するに、「I have a dream!」と言うためには、直感や衝動だけではなく、

 

ある程度は知的に、現在の状況・環境・常識・科学水準・音楽ルール・社会システム等を認識している必要があると思う。

 

 

要は、たいていの人は皆、知的で打算的な存在だと思う。(悪い意味ではなくて)

 

自分では、その事実に気づいていなくても。

 

意識的にせよ、無意識的にせよ、皆、状況・環境を頭で把握して、その範囲内で、夢や願望を心に描いているはず。

 

(※作曲や演奏も同じこと。我々は、思うがまま・思いつくままに演奏(作曲)しているつもりでも、そもそも「リズム」「メロディー」「ハーモニー」というような概念自体・ルール自体、生まれた時代の常識に従っているだけ。模倣しているだけ。…「音楽」というものは、無心で衝動的な活動でもありつつ、後天的に与えられた前提条件の範囲内での、知的な活動でもあるのだ)

 

 

 

 

それに気づかず、「俺は誰の影響も受けず、誰の真似もせず、時代や流行にも左右されず、自由に思うがまま生きてるぜィ!過去にも未来にも縛られず、頭で考えず、今この瞬間、魂と直感だけで生きてるぜィ!俺の音楽は唯一無二よ!」

 

などと言いながら、ギターなど弾いて、曲や詩などを歌っている人がいたとして、

 

でも、そもそも「ギター」という楽器自体、

 

「コード」「リズム」「ハーモニー」という概念自体、

 

「言葉」や「音楽」というツール自体、

 

後天的に身についたものであり、生まれた時代・環境・状況・文化・知識・他者が築いた仕組みに縛られている証拠。

 

過去に身に付けたことに、大いに縛られている証拠。

 

(要は、他者や社会から影響を受けているわけです。頭も使っているし、ちゃんと知的に色々と把握・認識しているわけです)

 

 

 

 

で、私は、それで良いと思っています、

 

時代や環境や他者の影響を受けず、「無」から何かを創造するつもりなんてありません。

 

個人的には、他者・時代・社会・環境からの影響のもとでしか生きれないと思うし、創作できないと思っています。

 

ただ、そのことを自覚していたいとは思いますが。

 

(「俺は誰にも影響受けてない」とか「俺は頭で考えず直感だけで生きてる」とか、あまり勘違いしたくない)

 

 

 

 

他者・時代・状況・環境・文化・社会から独立した「夢」や「願望」や「直感」や「自分らしさ」なんて、どこにも存在しないと思っています。

 

 

 

 

では、「自分とは何か?」と自問するなら、、、

 

大袈裟に言えば、「あらゆる全てが自分自身」であり、「独立した「自分」なんてどこにも存在しないのではないか?」

 

そんな感覚です。

 

 

 

 

なので、日々、自分の心に湧き上がる、

 

「これは心地良いこと」「これは心地悪いこと」「こうしたい」「こう生きたい」というような判断・直感・衝動・願望も、

 

無意識的に、後天的に身についた固定概念や、生まれた時代の常識・環境・科学水準の範囲内だけに囚われている可能性も高いので、私は、100パーセント信用しすぎたくないです。

 

もちろん全否定すべきものでもないけど、無条件に全肯定しすぎるものでもないかな、と。

 

 

今現在、心に湧き上がる判断・直感・衝動・願望・快不快・夢などは、ちゃんと大切にしつつ、

 

同時に、そういう判断や直感や夢が生まれる前提となっている、後天的に身についた概念自体・常識自体を、常に疑っているくらいが、私は心地良いです。

 

 

 

 

↑などと書いていること自体、私は常に疑ってもいます。

 

要は、自分の判断や直感や価値観に自信が強すぎて、心が狭い感じになってしまうのは、それもまた心地悪いのだ。

 

あまり自分自身を絶対視しすぎない態度・雰囲気が、私は心地良いと感じます。

 

(自分に自信が無い、ということとは違いますし、優柔不断とも違います)

 

 

 

 

上記のようなことを言ったり書いたりすると、「もっと自信を持て」とか言われたり、誤解されてしまうことも多いです。。。

 

でも、そういうことではないです。

 

しっかり自信は持っていても、

 

同時に、時には自分を反省したり見直したり改善したりする、柔和な態度・雰囲気が好ましく思います。

 

 

そもそも「自分」という存在自体、曖昧かつ多面的で、環境や状況とも絡み合っているので、

 

「これが本心」とか「これが自分らしさ」とか、あまり特定・断定できないとも感じています。

 

(「自分」という存在は、けっこう「暫定的」というか(?)、「今現時点では自分はこうしたい」「今現時点では自分はこう思う」とか、その程度のものでしかない気がしてます。「固定的に定まった自分」というのは、そもそも存在しないのではないか?という感覚です)

 

 

 

 

そんなわけで、冒頭にも書いたように。

 

あらゆる夢や願望や、あらゆる直感や発想や、あらゆる創作や表現というものは、

 

魂から直感的に湧き出たものかもしれないが、

 

同時に、生まれた時代の状況・環境・科学・文化・知識・社会システムなどを、しっかり認識しながら、

 

その前提条件の範囲内のものしか、生まれにくいものだと思う。

 

 

 

 

すると、究極的には、、、

 

■「自分」という個別な人格は存在していない

 

■「私」という存在は、環境や時代や状況や他者と結びついた、いわば「総体的な存在」としか言えない

 

上記のような認識にもなります。

 

そういう認識や感覚は、ちょっと寂しい気もする反面、不思議に安らぎや心地良さも感じます。

 

 

 

 

そして上記に書いてきたようなことは、私のことだけではなく、他者についても同じこと。

 

他者も、誰しも、「独立した個別の存在」というより、(後天的な)環境・境遇・時代・文化・状況と結びついた、総体的な存在、、、

 

どんな長所も短所も、どんな性格も能力も、100パーセントその人だけの功績ではないし、100パーセントその人だけの責任でもない気がします。

 

(※だからと言って、犯罪行為・迷惑行為・暴力行為などを、「後天的な教育・境遇が悪かっただけだから許そう」「本人だけの責任ではないからお咎め無し」、という主張ではないですが)

 

 

長所と思えるような人格や能力も、短所と思えるような人格や能力も、時代や状況が変われば、長所は短所になるかもしれないし、短所が実は優れた長所・才能でもあるかもしれない、

 

なので、あまり短絡的に、何が短所だとか決めすぎず、責めたり見下したりせず、

 

どんな資質・能力・パーソナリティーであれ、生きる道・活かす道はあるのではないか?

 

 

…いや、そもそも活かす道や、誰かや何かに役立つ能力なんかでなくても、

 

どんな人も、まずは見下されないですむ世の中を目指すべきではないか?

 

そんなふうにも思う。

2020.04.18 Saturday

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