<< 無題731-3 | main | 無題731-5 >>

2020.04.18 Saturday

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • -
  • -
  • -   

2017.07.31 Monday

無題731-4

「アートや音楽というものは、他者との比較ではなく、未来・過去に縛られるのでもなく、知識・理論でもなく、今この瞬間の感覚」、

 

「アートや音楽というものは、相対的ではなく絶対的なもの」、

 

というようなことを言っている人も、たくさんいらっしゃると思う。

 

 

でも、そう言う人達も、今まで見たり聞いたりしてきた数々の作品や演奏…、

 

それらを相対的に比較することも、ちゃんと出来ると思います。

 

(作曲家ごとの個性とか、演奏家ごとの特色とか、ちゃんと認識や比較は出来ると思う)

 

 

 

 

そもそも、もし、全く比較をしないような知性・感性・生命体というものが存在するなら、

 

そいつらは、何かを良いとか何かを悪いとか感じることは無いのではないか?

 

と思う。

 

ただ「現象」だけが在る感じ。

 

 

「これが良い」とか「これが悪い」とか、「これが好き」とか「これは嫌い」とか、「これは優しい」とか「これは冷たい」とか、「これは絶対的」とか「これは相対的」とか、「これは自然体」とか「これは作為的」とか、、、

 

そういう判断や認識するということは、そもそも我々は、相対的な比較や差別をする習性があることの証明だと思うのだが?

 

 

 

 

アート作品・音楽作品を鑑賞したり演奏したりしている時の感覚は、確かに「絶対的」「瞬間的」「無心」「忘我」「無条件」と言えるかもしれないが、

 

でも、どんな音色もどんなリズムも、何でもかんでもオーケーではないはずです。

 

 

どんな駄作でも、どんな下手な演奏でも、「心や魂や愛さえ込められていればオーケー!」「無我夢中で没入していればオーケー!」とはならないはずです。

 

(心や魂や愛が大事なことは異論ないけど、それだけで良いとは私には思えません)

 

 

あまりにも下手クソな演奏では、心地良く聞くことは無理だと、私は思う。(´・_・`)

 

もちろん音楽は、必ずしも技術第一ではなく、「ヘタウマ」や「ウマヘタ」みたいな作品(演奏)も、たくさんあるとは思いますが、

 

いずれにせよ、「なんでもかんでもオーケー」「どれもこれも同じくらい素晴らしい」とは、ならないはずです。

 

 

各々、好みの違いはあるだろうけど…、

 

誰でも、とりわけ好きに感じる作品もあれば、それほど好きにならない作品も、あるはずです。

 

 

 

 

だから私は、そう簡単に「比較は良くない」とも言い切れない気がしています。

 

なぜなら、そう言ってしまうと、自分に嘘をつくことになるから。

 

だって私には、「好み」や「嗜好」や「選り好み」というものが、明らかに有りますから。。

 

(※どんな音を聞いても、どんな音楽を聞いても、全く同じように感じることは、私には出来ません。なので、「比較は良くない」とか「音楽は絶対的だ」とか「誰もがオンリーワンで素晴らしい」とか、私はそう簡単には言えません)

 

 

 

 

たぶん我々は、鑑賞や演奏や作曲をする時、心の奥のどこかで、理想の音と現状に鳴っている音とを比較し、

 

それらを天秤にかけて、相対的にバランスをとったり、

 

理想の音・タイミングに近づくよう、(自分の)音を制御したり調節したりする知性・感性も、常に働かせているはずなのです。

 

意識的せよ、無意識的にせよ。

 

動物みたいに、ただただ無心で「わーっ!」と吠えたり叫んでいるだけではないはず。

 

(「わーっ!」と吠えるような表現や、「騒音」や「叫び声」のような雰囲気を目指す作品なども、もちろん多々あると思いますが…、だからと言って、そういうタイプの作品に、まったく技術が必要ないとは思えないです。

 

…あるいは、「偶然性」や「無意図」で創作する試みなども、大いにアリだと思いますが…、非人為的な「偶然」や「無意図」を意図しているわけだから、やはり知的ではあるし、「そういう意図が有る」と言えると思います)

 

 

 

 

あと、(音楽は)「今この瞬間」「今ここ」とかも、よく言われるけど…、

 

やはり音楽というものは、数秒前の旋律・和音からの繋がりで、「今この瞬間」が有るものだとも思うので、

 

私は、あまり安易に「今ここ」「過去にも未来にも縛られるな」とは言い切れないと思っています。

 

 

 

 

とは言え、私自身、

 

演奏や作曲というものは、冷静な「比較・検討」「調節・制御」というよりも、

 

むしろ「自然発生的」と感じられるほど、瞬間的かつ自動的な作業にまで昇華されている感覚も、実感として、よく分かります。

 

(例えば「体が勝手に動く」「メロディーが降ってくる」「考えるな感じろ」「ボールが止まって見える」みたいな状態)

 

 

 

 

しかしながら、表現・演奏・作曲をするには、長年の蓄積や修練が必要だし、

 

音と音の比較も必要だし、

 

余分な音や余分な力みの取捨選択も必要だし、(※音のコントロールや、呼吸や身体のコントロールが必要)

 

数秒前に鳴った音からの繋がりも大事だし、

 

数秒後に出す音のイメージも必要だろうし、

 

 

…要は、比較・調節・制御・知性・技術・取捨選択・論理的把握というものも、どう考えても必要!

 

 

そういう意味で私は、あまり断定的に、「音楽は絶対的なもの」「音楽は瞬間的なもの」「比較は良くない」「理論より魂が大事」「技術より心が大事」「直感と衝動のみが大事」「考えるな感じろ」とは、言いにくいと思っている。

 

 

 

 

そもそも僕は、理論や技術というものが、魂や心と相反するものだという認識が無いですね。

 

(※あと、「相対的」と「絶対的」も、相反する感覚だとは思えないです。音と音を冷静に比較したりしても、絶対的な感覚が薄れるとは思えないです)

 

 

 

 

したがって、音楽というものは、

 

絶対的ではあるが、大いに相対的でもあるし、

 

技術や理論というものにも、感情や直感が同居しているし、

 

意図的に音を選びつつ、無心&自然発生的な感じもするし、

 

「今この瞬間」の行為ではあるのだが、過去に聞いた音楽と比べたり、未来(数秒後)に出す音をイメージしていたりもするので、

 

あまり断定的に、「音楽は絶対的だ!」「音楽は今この瞬間だ!」「考えず感じろ!」「技術より心!」とは、私は言い切れないです。

 

言い切れないし、言うつもりもないですし、(たぶん)言ったこともないですし。

 

 

 

 

(音楽は)「相対的か絶対的か」、「瞬間的か永遠的か」、「技術か心か」、「意図的か無心か」、「自己の表出か自己の消失か」というのは、

 

個人個人の感じ方・とらえ方の違いに過ぎないとも言えるが、

 

 

私なりには、音楽というものは、

 

■「相対的感覚と絶対的感覚が矛盾なく両立している」

 

■「時間に則って表現しつつ時間は止まっている」

 

■「技術と心は別のものではない」

 

■「理論と直感(衝動)は別のものではない」

 

■「意図を持ちつつ意図を忘れている」

 

■「自己を表現しつつ自己を忘れている」

 

■「今この瞬間を意識しつつ、数秒前(数秒後)のフレーズとの相関関係・繋がり等も、大いに意識している」

 

■「自由で無条件な活動ではあるが、同時に、色々な制限・制約・条件に基づいた不自由な活動でもある」

 

 

そんな感じではないかと思っています。

 

 

様々な内的感覚が矛盾なく共存・混在しているので、

 

そのどれか一つの感覚だけを取り出して、「音楽はこういうもの!」とは、言い切れないのではないかと思います。

 

 

 

 

(※話は逸れますが…、知性による比較ではなく、本能や感覚で「こっちのほうが心地良い」「こっちは怖い」というような、動物的勘・野性的判断も、もちろん人間も持っていると思います。でも、そういう直感的な判断というものも、やはり、物事を比較・差別・選別している感じはします。

 

…しかも、明らかにエサをくれる人を怖がる動物とか、直感的に突進して崖から転落死する動物とかもいるので、「動物的勘」や「直感」や「本能」というものは、常に正しいわけでもないです。…個人的には、正しいものなんてこの世に存在しえない、と思っていますがね)

 

 

 

 

そして、最後に一つ。

 

アートや音楽やヨガやスポーツだけが「絶対的」で「瞬間的」で「瞑想的」で「無条件」なのではなく。

 

人間のあらゆる行為は、絶対的かつ瞑想的でありうる、とも思います。

 

 

であれば、禅問答のようなことを言いますが、

 

何かと何かを相対的に比較検討することも、絶対的な体験なのかもしれないです。

 

(過去や未来に想いをはせることも、今この瞬間のことなのかもしれないし)

 

 

すなわち、究極的には、この世には「絶対的」も「相対的」も、「能動的」も「受動的」も、存在しないとも言えるかもしれません。

 

(同じものを、個別に切り取って名付けたり、違う側面から名付けているだけ)

2020.04.18 Saturday

スポンサーサイト