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2017.04.16 Sunday

無題3

前回記事からの続きですが、少し話はそれるのですが、

 

以前、とある明治の文豪の書いた日記・紀行文を読んだことがあります。

 

(イギリスに留学し、新聞社に勤め、猫を主人公にした作品を書いたりした、日本を代表するあの大作家です)。

 

 

で、その日記や紀行文、

 

あれほど素晴らしい作家なのに、時々、差別的とも思えるような記述も少なくなかったです。

 

(外国人への差別・偏見や、女性(妻)への支配的な態度・DV)

 

 

基本的には知的で、客観的で、ユーモアもあり、他者への気遣いや思いやりにも溢れた文章なのですが、

 

時々、外国人を差別するような表現や、妻への乱暴な言動・思考も目立ちました。

 

(※アジアの旅の途中、出会った外国人労働者が、汚かったり臭かったりしたのは事実だと思います。…でも、そのことを客観的に描写しただけではなく、国籍や人種で、人間の価値や上下を決め付けてしまっているとも読み取れる部分も、いくつか見られました)。

 

 

 

時代と言えば時代なのでしょうが、

 

でもそれは、私達にも同じことが言えるのではないか?と思います。

 

 

 

今の時代は、人種・国籍・性別に対する偏見や差別は、さすがに昔より減ってきてはいるでしょうが、

 

むしろ、私が言いたいのは、それ以外のことです。

 

今我々が「これが常識」「これが良識」と思い込んでいることも、実は、差別的なことだったり、間違っていたりするかもしれません。

 

 

例えば、もう空気のように当たり前になってしまっている、お金とか学校とか政治・経済のシステムとか、

 

どういう人が良い人だとか、どういう人が優しいとか、

 

どういう人が立派だとか、どういう人が思いやりあるとか、

 

(そういう定義や常識・良識)、

 

その他、人生について、教育について、子育てについて、善悪について、道徳について、愛について、健康について、成功について、幸福について、生死について、音楽について、

 

 

我々は生きていれば、あらゆる人・出来事・価値観に対して、「これは良いな」「これは良くないな」「これが普通だな」「これは非常識だな」「これが(健康や成功の)秘訣だな」「これはこういうものだな」などと、様々な感想・判断・想いが生じますが、

 

個人的には、自分が感じたこと・思ったことには自信を持ちつつ、

 

しかし同時に、常に自分を疑っているくらいが心地良いです。

 

 

(※↑と、書いたこと自体も疑っていますが)

 

 

 

 

そう書くと、「もっと自分に自信を持て」とか言う人もいますが、

 

あえて断言しますが、人間、あまりにも盲目的に、自信など持たないほうが良いのではないか?と、

 

私は自信を持って、そう思っています。

 

 

アート創作や演奏などは、根拠の無い自信過剰さが必要な時もありましょうが、

 

道徳や価値観や人生観などは、自分の意見や感性に自信・愛着を持ちつつ、

 

(そして、現代社会の常識・良識とされる価値観も理解しつつ)、

 

でも、それら全ては、限られた視野・限られた科学・限られた状況や社会システムの中での話なので、

 

あまり盲目的に信じ込みすぎないほうが良いのではないか?

 

と思っています。

 

 

 

 

例えば大昔は、地動説を唱えるだけで悪魔的・不道徳とされ処刑されたり、

 

風邪や発熱を治すためには身体を水で冷やすことが重要だと考えられていたり。(風邪や発熱の時は、「寝ていたら死ぬ。運動したほうが良い」と考えられたり)。

 

人種差別・身分制度・奴隷制度・宗教弾圧なども、当たり前だった時期もあったし。

 

(日本でも、例えば「おじろく・おばさ」みたいな制度も、二十世紀まで存在していた地域もあったようです。※家の長男以外は人権が認められず、世間との交流も許されず、結婚も許されず、村の行事・祭りなどにも参加を許されず。長男の家で、一生奴隷のように働かされる制度)

 

 

そういう差別的な制度や虐待は、世界中、いくらでも存在したようです、

 

「これは悪いこと」という認識もなく、当然のごとく行われていた風習・因習。

 

…そもそも人類は、割と最近まで、武力・暴力で領土を奪ったり、不当に搾取したり、力づくで奴隷にしたり、(生きる)権利や命を奪ったりすることも、世界中で頻繁に行われていたし。

 

 

 

 

上記のような例は、「これは悪いこと」という認識が本人に無い場合も少なくない、(無知・無意識・無反省)

 

これは、意図的な悪意・意地悪なんかより、よほど厄介ではないかと思います。

 

 

なので、個人的には、「これが当たり前」「これが正義」「これが常識」「これが道徳」「これが自然体」などと思い込みすぎることは、狂気や盲信や洗脳に近いと思っています。

 

今現在、「これが当たり前だ」と思われているような常識・道徳に対しても、もし違うと思ったら、疑問視したり問題視したりすることも、私は悪いこととは思わないです。

 

 

 

 

…現代の人類は、昔よりはマシだろうが、でも、本質的には変わっていないというか、当時と五十歩百歩ではないかという気もする。(もちろん私も含めて)。

 

現代も、偏見、盲信、独善、勘違い、思い込み、いじめ、虐待、思想やセンスの強要、パワハラなどなど、、、

 

要は、危害を加える側が悪びれていないというか、「これは悪いこと」という認識が本人に無いケースも多い。(無知・無意識・無反省)

 

むしろ、「自分こそ正しい」「自分こそ自然」「これこそ良識」「相手は叩かれて当然」「相手はこういうタイプに決まってる」「自分に非があるわけない」と、

 

自分の正当性を信じて疑わないようなケースも少なくない。

 

 

 

 

そんなわけで人類は、本質的にはあまり変わっていないようにも思われる。(多少マシにはなってきている気はする)

 

しかも今現在も、宇宙や生命や身体・心・脳などの仕組みについて、まだまだ分からないことばかりなので、

 

我々も、迷信や偏見を信じている可能性も無いとは言えないと思います。

 

 

 

今、我々が、「これが正しい」「これが優しい」「これが自然体」「これが当たり前」「これが健康に良い」などと感じていることが、

 

実はとても差別的なことだったり、実はとても不自然なことだったり、誤ったことだったりする可能性も無いとは言えない。

 

 

 

 

…などと書くと、「そんなこと言われたら、何も考えられないし何も出来ない」と思う人もいらっしゃるかもしれませんが、

 

そんなことないと思います。

 

なぜなら人間は、同時に複数のことを意識できると思いますので。

 

 

私たちは、基本的には、自分の意見・感性・価値観に、自信を持って良いと思いますし、

 

思ったことを、気楽に発言したり行動したりして良いと思います、

 

 

しかし同時に、心のどこか片隅で、「自分も誰でも、いつでも間違う可能性はある」、「自分も誰でも、(言葉や態度で)暴力や差別をしている可能性はある」、「自分も誰でも、他者より優位・上位に立ちたい欲求に縛られている可能性はある」、「自分も誰でも、物事を誤解・偏見・印象・先入観で思い込んでしまっている可能性はある」、「正しいと思っていることでも、もしかしたら科学的・医学的に間違っている可能性もある」、

 

心のどこか片隅で、そのように意識していたほうが良いのではないかと思います。

 

 

それは、「謙虚」とか「自信が無い」という感覚とは違います、

 

単に、人間の能力の限界を認めているだけだし、

 

人間が本質的に持つ無知・エゴ・利己性・無意識性を認めているだけだし、

 

我々は常に発展途上であるということを、素直に認めているだけです。

 

 

 

それを認めたうえで、

 

あまり悲観的・厭世的・閉鎖的・人間嫌いにならず、気楽にオープンに前向きに生き、自分の意見・価値観にも明るく自信を持ち、

 

でも、時々は自分自身のことを反省したり改善しようとする生き方は可能ではないか?

 

と思っています。

 

 

 

 

私自身、自分の言動や作品や演奏を、反省したり自己批判したりすると、

 

「もっと自信を持て」とか「もっとポジティブになれ」とか「もっと自然体で生きろ」とか言われることもあります、

 

でも個人的には、なぜ、現在の自分を反省したり、改善を目指そうとすることがネガティブで不自然と判断されてしまうのか、いまいち分からないです。

 

 

自分の価値観を過信・盲信することが、自然でポジティブだとは、僕には、あまり感じられないです。

 

むしろ、「本当にこれで良いのか?」

 

本当に今現在の生き方・在り方・考え方・感じ方で良いのか?

 

そして、今現在の自分・社会・芸術の在り方が、ほんとうに私自身が望んでいることなのか、、、

 

 

常に自分に問いかけ、常に自分を批判し、あらゆる価値基準を「当たり前」と思わない態度、

 

そういう意識状態のほうが、私は心地良いです。

 

(自分のことも人のことも、正義や道徳のことも、人間や生き方のことも、音楽やアートのことも、「分かったつもりになりすぎたら最後」とさえ思う)。

 

 

自分自身に対して、そして世の中の価値基準に対して、常に疑問や批判や反省を感じつつ、

 

とは言え、あまり厳しくはなりすぎず、基本的には気楽にオープンに友好的にで良いと思いますが、

 

今この瞬間自分はどうしたいのか、どう感じるのか、何を目指したいのか、何を選択したいのか、

 

常に自問し続けていたい、と思う。

 

 

それは「自信がない」とか「優柔不断」ということではなくて、

 

むしろ「完璧には何も分からない」というのが、人生の常態ではないかと思っています。

 

 

 

 

そんなわけで、このカテゴリーで幾つか記事を書きましたが、

 

「批判精神」というものは、私は、悪くないと思います。

 

…いや、「悪くない」どころか、今現在の自分を盲信・過信しすぎてしまうより、むしろ前向きなことではないか?と思っています。

2017.09.20 Wednesday

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