無題2

この記事は、前回記事までの続きです。すらりん

 

評論やレビュー・批判や批評ということについて、まとめ的な内容です。

 

(この記事だけお読み頂いても意味は通じます)

 

 

 

 

さて、いきなりまとめると、

 

僕は、「(人の言動や作品や演奏について)批評や批判をしてはいけない」という感覚は、あまり持っていないです。

 

皆それぞれ、自分なりの感想や好みを自由に語って良いと思うし、

 

時には否定的な感想や批判を言っても、全然悪くないのではないか?遠慮することないのではないか?と思う。

 

最低限、音楽の多様性を認めてさえいれば。

 

そして最低限、人それぞれの好み・価値観の多様性を認めてさえいれば。

 

(私自身、否定的・批判的なことを言われることは、そんなに嫌でもないです。先入観の感想ではなく、ちゃんと作品を味わって下さったうえでの感想なら)。

 

 

 

 

 

多様性を認めながら批判する、というのは可能だと思っています、

 

そもそも「批判する」ということは、相手のことを見下したり全否定したりすることとは違うはず。

 

相手のことを心から尊重しつつ、(音楽や価値観や生き方の多様性も認めつつ)、

 

時には、言動や振る舞いを疑問視したり、

 

時には、作品(演奏)の表現内容・表現の仕方などを批判するような時も、多々あり得ると実感してます。

 

 

(※もっとも、「多様性を認めない」「自分と違う意見は見下す」というような頑固な生き方も、アリっちゃアリだとは思いますが…。でも、それが本当に心地良い生き方かと言えば、個人的には、あまりそうは思えないです。ある程度は、人それぞれの多様性を容認(もしくは黙認)したほうが、結局は、心地良く日々を過ごせるのではないか?と思っています)。

 

 

 

 

 

ちなみに、私にとって「多様性を容認(黙認)する」ということは、「全ての価値観を尊重する」「全てのアート作品を好きになる」「全ての立場の人に共感する・思いやる」「何に対しても寛容である」「誰とでも仲良くなる」、

 

というようなイメージではないです。

 

むしろ逆かもしれません。

 

 

私にとって、「多様性を容認(黙認)する」とは、、、

 

■「人それぞれ皆、好みは自由で良い。何でもかんでも好きならなくて良い」

 

■「人それぞれ皆、趣味・感性・好み・考え方・価値観等は一致していなくて良い。この世の全ての価値観を理解(共感)しなくても良い」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、無理してまで理解(共感)しようとしすぎる必要はない。無理してまで思いやろうとする必要はない」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、無闇に批判的・攻撃的になってしまう必要もない」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、(その人達が)良いとか悪いとか、優しいとか冷たいとか、心が有るとか心が無いとか、こういうタイプだとかどういうタイプだとか、あまりにも断定(判断)しすぎるべきではない。あまりにも分かったつもりになりすぎるべきではない」

 

そういう感覚です。

 

 

 

 

 

いずれにせよ、各々が自由に感想を述べたり、時には批判したり、あーだこーだ語り合ったりするのも、それはそれで楽しいし、

 

音楽やアートや人間について、深く考察する良い機会でもあると思っています。

 

 

人それぞれ感じ方・考え方が違うのを知るのは、とても興味深いことでもありますし、

 

誰かの感じ方・考え方などに感化され、自分の感じ方・考え方も変わってしまうようなこともありますしね。

 

 

 

 

 

そういうわけで私は、意見・感想・批判などは、割と自由に表明しても良いのではないかと思っている。

 

ただし!

 

どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも、存在すると思います。

 

それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想です。

 

あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想とか。

 

(自分が思ったこと・感じたこと・判断したことなどを、実際は事実ではないのに、事実だと信じ込んでしまっているような発言。私も誰でも、そういう状態に陥ることは、珍しいことではないと思いますが)。

 

 

そういう感じの感想や批判は、やはり「的外れ」「間違っている」と言わざるを得ないと思う。

 

そういう部分を、ある程度は正確に受け取ったうえで、どう感じるか・好きか嫌いか、

 

そこは、完璧に個人の自由だと思いますが。

 

 

 

 

 

あと、何か一つ作品を鑑賞しただけで、何か一つの文章を読んだだけで、何か一つのツイートを読んだだけで、

 

その作者や発言者のことを完璧に分かったつもりになってしまったり、

 

その作品やその発言を生んだ国・文化・時代・ルーツ・ジャンルのことを、全て完璧に分かったつもりになってしまうような感想も、

 

たいてい、的外れなことが多いように思われます。

 

 

多数の作品(演奏)を鑑賞したうえで、(多数を比較したうえで)、

 

あえて、「これぞジャズ!」「これぞロック!」「これぞ印象派!」「とても君らしい作品!」「若さ溢れる演奏!」「ベテランらしい円熟!」「アメリカ人らしい演奏!」「男性(女性)らしい演奏!」

 

とか言うのなら、まだ良いと思いますが。。。

 

 

 

 

 

でも個人的には、その作曲者(演奏者)の属するジャンル・国籍・人種・性別・世代(年齢)などで、その作品内容を判断しようとしすぎるより、

 

まずは、個々の作品(演奏)の内容・中身・個性・雰囲気を味わおうとする鑑賞態度のほうが、私は好ましく思います。

 

 

 

 

 

そして、ジャンル(カテゴリー)を分類しようとする鑑賞態度や、

 

作者の性格や創作意図を解明しようとする鑑賞態度よりも、

 

まずは「自分自身がどう感じたか」、

 

そこを見つめるような態度のほうが、私は好ましく思います!

 

 

 

 

 

その他にも、あまり良くないと思われるタイプの感想・批判があって、

 

それは、アーチストやバンドを「私物化」してしまうような発言です。

 

例えばですが、「今回の作品はこのアーチストらしくないからダメ」「今回の作品はこのバンドらしくないからダメ」、みたいな。

 

 

でもピカソだってベートーヴェンだって、ビートルズだって村上春樹だって、生涯、作風は変わり続けたではないか。(春樹さんは、もちろん故人ではなく、現在進行中のアーチストですが)。

 

あまりにも、「このアーチストはこうでなきゃダメ」「このバンド(アイドル)はこうでなきゃダメ」「このジャンルはこうじゃなきゃダメ」「音楽はこうじゃなきゃダメ」と決め込んでしまうのは、表現の自由の精神に反するし、

 

アーチストさんに対して、「あんたはこういうふうに生きなきゃダメ」「あんたはこういうタイプに決まってる」と言っているのに等しい。

 

(アーチストに対してだけではなく、誰に対しても、そんなことは言ってはいけないのではないか?「その人らしさ」「そのアーチストらしさ」「そのジャンルらしさ」というものは、もちろん存在するとは思いますが、あまりにも断定・限定しすぎてしまわないほうが良いのではないか?本人が「自分らしさ」を断定するなら全然自由だけど、第三者が、「あんたはこういうタイプ」「あんたはこういう作風でなきゃダメ」と断定しすぎてしまうのは、ちょっと傲慢だと思う)。

 

 

…もっとも、レコード会社や出版社の担当・プロデューサー・マネージャー等が、売り出す戦略を決めたうえで、そういう「個性」や「らしさ」を、作家やタレントやアーチストに指示するケースは、多々あると思います、

 

それは当然の生存戦略だと思いますし、必要なことだろうとも思います。

 

でも、それはそれとして、

 

本来的には、アートとか生き方とか人生というものは、誰かが誰かに命令したり強要したりは出来ないはずです。

 

 

誰かが誰かに感銘を受け、影響を受け、「自発的に」沸き起こる変化なら素晴らしいと思いますが、

 

外側から無理矢理に命令・強制するようなものではないと感じます。

 

 

 

 

 

私の主張は、「アーチストの作風が変化した時、ファンは絶対に気に入らなければいけない。絶対に批判してはいけない」ということではないです、

 

(作風の変化を)好きになるか嫌いになるか、作品を気に入るか気に入らないかは、常に、受け取り側の自由だと思います。

 

気に入らなかったら、遠慮なく否定的な感想・批判を言っても良いと思いますし。

 

 

私の主張は、気に入る・気に入らない以前の話で、

 

■「変化すること自体を禁止したり問題視したりする態度は、良くないのではないか?」

 

■「その人らしさ・そのアーチストらしさ・そのジャンルらしさというようなものを、あまりにも固定化・限定化しすぎるのは、良くないのではないか?」

 

■「表現の自由を禁止しすぎたり制限しすぎたりしてしまう態度は、良くないのではないか?」

 

という主張です。

 

 

 

人は、様々な経験を通して変化・成長する存在だと思うので、

 

当然アーチストや作家も、その作風・芸風・価値観・身体能力など、徐々に変化するものだと思う。

 

…もちろん、「(人は)絶対に変化しなきゃダメ」ということも無いけど。

 

 

 

 

 

とは言え、もちろん人というものには「その人らしさ」があり、

 

人種や民族というものには「お国柄」があり、

 

アートのジャンルには「そのジャンルらしさ」というものがあり、、、

 

そういう「○○らしさ」「○○の特徴」というものを、ちゃんと分かったうえで、

 

でも、あえて、そういうカテゴリー的なところには囚われすぎず、

 

個々の作品に宿る、その作品固有の個性・空気・雰囲気をこそ、まずは味わおうとするべきではないか?

 

と思います。

 

 

 

これは個人的な考えですが、

 

アートや文学というものは、究極的には、そういう「その人らしさ」「そのジャンルらしさ」「お国柄」「ナショナリズム」「性格」「人格」「感情」「思想」「人間性」というような概念や感覚を破壊し、

 

(後天的に身についたアイデンティティーやナショナリズムや人格などを破壊し)、

 

もっと生命(本能)の根源的な衝動だったり、感情・思考・理性・直感などが「無」になるような感覚だったり、心の奥底の深層心理なども暴く可能性が有るのではないかと、個人的には思っています。

 

 

 

 

 

さて、何回かのシリーズ記事でしたが。

 

私なりの意見を、最後に強引にまとめると、

 

■「オープンな意見交換は好きだし、お互いオープンに意見・批評・批判し合うのも好きだけど、最終的には、各々の生き方・感じ方を決めるのは、その人本人」

 

■「それぞれ皆、感じ方・価値観は自由。意見・感想・批判を言うのも自由。ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在する。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想。(あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想)」

 

■「手厳しい批評や批判やレビューというのも、大いにアリだと思う。皆それぞれ、自分なりの感想や好みを自由に語って良いと思うし、時には否定的な感想や批判を言っても、全然悪くないと思う」

 

■「ただし、誰かの言動・作品・演奏などを見て、その人の内面や性格や、心理状態や創作意図を、あまりにも断定しすぎてしまわないほうが良いのではないか?その前に、まずは「私自身がどう感じたか・どう感じるか」にフォーカスするほうが大事ではないか?」

 

■「自分の意見・感想・判断・快不快・価値観などを、まるで「人間全体に共通する一般論」のように、絶対的な正義(正論)だと思いすぎてしまわないほうが良いのではないか?」

 

■「批判」や「反対意見」というものを、即、相手のことを見下したり全否定しているのだと、勘違いしてしまわないほうが良いのではないか?(相手のことを尊重しつつ、アートや価値観の多様性も認めつつ…、時には、個々の言動や個々の作品を批判(疑問視)するような時も、多々あり得るはず)

 

■「アート作品・エンタメ作品・アーチスト・タレント・映画・テレビ番組等に対して、よく否定的な感想を言っているような人が、他の誰かが批判的な感想を言うと、「お前は気難しい」とか、「批判をする人は心が狭い」とか、「評論家ぶるな」とか、「ディスるな」とか、「もっと素直に何でも楽しめ」とか、「競争や比較や良い悪いじゃないですよ」とか言ってしまう人、けっこう出会ったのだが…、そういうのは、喝!「自分はやって良いけど他の人はやってはダメ」という態度は、素朴と言えば素朴だが、やはり、良くないと思う。(人生は自己中心的で良いとは思うが、あまりにも公平性に欠ける言動は、許容すべきではないと思う)」

 

 

そんなところです。マリオ

 

おしまい。

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