「自分探し」よりも「自分殺し」を

(※前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

以前どこかで目にした文章ですが、「自分探し」よりも「自分殺し」をせよ、みたいなのがあって、とても共感したことがあります。

 

よく言われるような「自分らしさ」とか、「自分らしい個性」とか、「自分らしい自然体」とか、

 

少々「自分」にこだわりすぎていて、どうも苦手です。

 

 

音楽作品・アート作品・エンタメ作品を鑑賞する時も、創作する時も、

 

後天的に刷り込まれた「自分」という概念や定義、

 

(あるいは、「自分はこういうタイプだ」と思い込んでいる固定概念)

 

そういう「自分」という概念がぶっ飛ぶような(?)音楽や小説や映画を好むし、私もそういう作品を作りたいなー、と思います。

 

 

 

 

とは言え、鑑賞も創作も、人それぞれに道があると思う、

 

「自分らしさ」や「等身大」を表現したい人がいても、それはそれで良いと思うし、心から尊重します。

 

上記に書いたようなことは、あくまで、私の場合です。

 

私の場合は、「自分」「等身大」「自分らしさ」という概念をブチ壊してくれるような体験や味わいを求めている、というだけのことです。

 

 

 

 

私が好きな、例えばベートーヴェンやシューベルト、チャイコフスキーやマーラー、ナイトウィッシュやパスファインダー、ダークムーアやアングラ、キース・ジャレットやパット・メセニー、、、

 

どれも、リラックスして聞けるし、心の底から共感できる音楽ではあるのですが、

 

同時に、この狭い「自分」という枠を超えて、「人生」や「生命」や「宇宙」の本質・神秘・深遠を感じさせてくれるような音楽だと感じています。

 

(あるいは、自分でも気づいていない、心の奥底の本質や潜在意識を味わせてくれる音楽だと感じています)。

 

言い換えれば、この「自分」では到達できない、人間では到達できない、圧倒的な格好良さとか、圧倒的な慈愛とか、圧倒的な雄大さ・壮大さなどを実感させてくれる感覚なのです。

 

 

要は、「自分らしさ」「等身大」を表現しているだけではなく、

 

時には、むしろ「自分」という固定概念・思い込みから、自由にしてくれる気がするのです。

 

(私が勝手に、そういう聞き方をしているだけかもしれませんが)。

 

 

 

 

もし「自分らしさ」というものが有るとしても、作曲の時は、それを第一目的とするより、「自然と(自分らしさが)出ちゃった」という感じのほうが好きですね。

 

私にとって何より大事なのは、「感動」や「官能」や「味わい」。(要は、音楽そのもの。「作品至上主義」とも言えます)。

 

大いに感動できる作品であれば、自分らしくなんかなくても良いし、独創性が乏しいベタな作品でも全然構わないです。

 

 

作品が自分らしいかどうかとか、(他のアーチストよりも)独創性が有るか無いかとか、作品のコンセプトとか…、

 

そういうのは二の次で良いかな、と思っています。

 

 

結果として、自分らしさが出ちゃったり、独創性が出ちゃったりするなら良いけど、

 

それらを出すことが、創作や鑑賞の第一目的ではない気がするのですよね。。。

 

(前述したように、第一目的は「感動」や「味わい」だと思っています。もしくは、「感動」や「味わい」さえ消失してしまうような、「忘我」と呼べるような瞬間だと思っています)。

 

 

 

 

…でも、ホント、人それぞれで良いと思います。

 

みんなそれぞれ、自分の好きなようにやれば良いのではないか?

 

自分の目指したいように目指せば良いのではないか?

 

と思う。

 

「創作やアートはこうでなければダメ」みたいな意見や、「こういう考え方はレベル高いがああいう考え方はレベル低い」みたいな意見が、一番面倒くさいし、わずらわしい。

 

 

 

 

P.S.

 

さて、上記のように書きましたが。

 

私とて、ピアノを弾いたり指揮したり作曲したりしている時、

 

私自身の等身大の感情・個性・想いなどを表現しているような感覚も、もちろん持っています。^^;

 

とは言え、そういう感覚は、ほんの一部にしか過ぎない。

 

「自分」や「自分らしさ」を表現しつつ、同時に「忘我」「無我」のような感覚になることも多々あります。

 

 

…つまり、様々な感覚が同時に混在しているので、

 

そのどれか一つだけを指して、「音楽とはこういうこと」「創作とはこういうこと」「音楽家はこう考えることが大事」などと言ってしまうことは、私には不可能かも。

 

 

 

 

音楽や創作について語り合ったりすると、兎角、「俺はAだと思う」「いや、俺はBだと思う」というように、喧嘩腰になっている場面もよく見かけます、

 

でも、音楽を演奏・創作している時の内面というのは、実のところ、「AでもありBでもありCでもあり、しかも、そのどれでもない」、

 

という状態だと思います。

 

(※そもそも、物事を断定的・断片的に定義する「言葉」というツールで、重層的・多面的・忘我的・瞑想的な感覚を味わうことのできる音楽を説明すること自体、無理のあること)。

 

芸術論やアート観の分野で、些細な言葉尻にこだわりすぎたり、あまりにも正解・不正解、良い・悪いを決めすぎることもないと思う。

 

 

アートへの考察を深めるため、言葉(文章)で説明したり語ったりすることも、私は大いに賛成ですが、

 

同時に、気持ちをゆるく寛容に持っておいて、お互いの意見・見解の相違に、目くじら立てすぎる必要もないと思います。

 

 

■「アート・人生・生命・自然などは、結局のところ、謎であり神秘。心や創作の秘密については、表面的な技術的なことは分かるけど、その本質や真髄は、完璧には分かることは出来ない」

 

■「そもそも、なぜ人は感動するのか?そして、なぜ感動する作品とそうでない作品があるのか?その解答やメカニズムは、完璧には分からない。推察・想像するくらいしか出来ない」

 

個人的には、そんな感覚です。

 

 

私も、技術的なところは年々進歩していますし、その部分については、いくらでも断定できます。

 

(技術的に、自分の得意なところ・苦手なところは、ちゃんと断定できます。今後に習得したいこと、今後に目指したいこと、今後やりたい活動なども、いくらでも断定できます。…というか、そういう部分は、断定できなきゃダメだと思う(笑)。人の意見や助言や批判を聞くことも大事ですし、全然嫌いじゃないですが、やはり自分の活動なのですから、最終的には、自分の夢や希望や意思が大事。自分が舵を握っていないといけないと思います)。

 

 

そういう部分は、いくらでも断定できるし、むしろ断定できなきゃダメなことも多々ありますが、

 

しかし、音楽や人間や創作の、その深遠・神秘・真髄・本質・メカニズムについては、そうそう断定することは出来ない。

 

一生、謎のまま・神秘のままではないか?と思っています。

 

 

であれば、「自分」や「自分らしさ」に、自信や愛着を持つことは悪くないと思いますが、

 

あまりにも盲信しすぎてしまうこともない、あまりにも固着しすぎてしまうこともない、あまりにも分かろうとしすぎてしまうこともない、謎のままでも良い、

 

と思います。

 

 

なぜなら、この自分自身も、当然「謎」や「神秘」や「深遠」そのもの。

 

その大いなる一部。

 

「自分らしさ」や「音楽」について、規定して定めすぎてしまうと、むしろ自分自身の本質とズレてしまう、音楽の本質とズレてしまう、、、

 

要は、わざわざ自分で自分を牢獄に閉じ込めてしまうような感覚なのです。

 

(「自分らしさ」というものも、あるのかもしれないけど、意識しすぎて限定的・固定的になる必要はないと思ってます)。

 

 

日常囚われている固定概念の数々、、、

 

「これが自分だ」「これが音楽だ」「これが才能だ」「これは良いことだ」「これは悪いことだ」「これは心地良いことだ」「これは心地悪いことだ」「これは自然なことだ」「これは不自然なことだ」「創作とはこういうことだ」「独創性とはこういうことだ」「美しいとはこういうことだ」「幸福とはこういうことだ」「これはこういうことだ」「これはこうあるべきだ」、、、

 

というような、諸々の概念を破壊する、諸々の判断を破壊する…、

 

すなわち「自分殺し」をするような感覚も、個人的には心地良いことです。

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