無題3

前回記事からの続きですが、少し話はそれるのですが、

 

以前、とある明治の文豪の書いた日記・紀行文を読んだことがあります。

 

(イギリスに留学し、新聞社に勤め、猫を主人公にした作品を書いたりした、日本を代表するあの大作家です)。

 

 

で、その日記や紀行文、

 

あれほど素晴らしい作家なのに、時々、差別的とも思えるような記述も少なくなかったです。

 

(外国人への差別・偏見や、女性(妻)への支配的な態度・DV)

 

 

基本的には知的で、客観的で、ユーモアもあり、他者への気遣いや思いやりにも溢れた文章なのですが、

 

時々、外国人を差別するような表現や、妻への乱暴な言動・思考も目立ちました。

 

(※アジアの旅の途中、出会った外国人労働者が、汚かったり臭かったりしたのは事実だと思います。…でも、そのことを客観的に描写しただけではなく、国籍や人種で、人間の価値や上下を決め付けてしまっているとも読み取れる部分も、いくつか見られました)。

 

 

 

時代と言えば時代なのでしょうが、

 

でもそれは、私達にも同じことが言えるのではないか?と思います。

 

 

 

今の時代は、人種・国籍・性別に対する偏見や差別は、さすがに昔より減ってきてはいるでしょうが、

 

むしろ、私が言いたいのは、それ以外のことです。

 

今我々が「これが常識」「これが良識」と思い込んでいることも、実は、差別的なことだったり、間違っていたりするかもしれません。

 

 

例えば、もう空気のように当たり前になってしまっている、お金とか学校とか政治・経済のシステムとか、

 

どういう人が良い人だとか、どういう人が優しいとか、

 

どういう人が立派だとか、どういう人が思いやりあるとか、

 

(そういう定義や常識・良識)、

 

その他、人生について、教育について、子育てについて、善悪について、道徳について、愛について、健康について、成功について、幸福について、生死について、音楽について、

 

 

我々は生きていれば、あらゆる人・出来事・価値観に対して、「これは良いな」「これは良くないな」「これが普通だな」「これは非常識だな」「これが(健康や成功の)秘訣だな」「これはこういうものだな」などと、様々な感想・判断・想いが生じますが、

 

個人的には、自分が感じたこと・思ったことには自信を持ちつつ、

 

しかし同時に、常に自分を疑っているくらいが心地良いです。

 

 

(※↑と、書いたこと自体も疑っていますが)

 

 

 

 

そう書くと、「もっと自分に自信を持て」とか言う人もいますが、

 

あえて断言しますが、人間、あまりにも盲目的に、自信など持たないほうが良いのではないか?と、

 

私は自信を持って、そう思っています。

 

 

アート創作や演奏などは、根拠の無い自信過剰さが必要な時もありましょうが、

 

道徳や価値観や人生観などは、自分の意見や感性に自信・愛着を持ちつつ、

 

(そして、現代社会の常識・良識とされる価値観も理解しつつ)、

 

でも、それら全ては、限られた視野・限られた科学・限られた状況や社会システムの中での話なので、

 

あまり盲目的に信じ込みすぎないほうが良いのではないか?

 

と思っています。

 

 

 

 

例えば大昔は、地動説を唱えるだけで悪魔的・不道徳とされ処刑されたり、

 

風邪や発熱を治すためには身体を水で冷やすことが重要だと考えられていたり。(風邪や発熱の時は、「寝ていたら死ぬ。運動したほうが良い」と考えられたり)。

 

人種差別・身分制度・奴隷制度・宗教弾圧なども、当たり前だった時期もあったし。

 

(日本でも、例えば「おじろく・おばさ」みたいな制度も、二十世紀まで存在していた地域もあったようです。※家の長男以外は人権が認められず、世間との交流も許されず、結婚も許されず、村の行事・祭りなどにも参加を許されず。長男の家で、一生奴隷のように働かされる制度)

 

 

そういう差別的な制度や虐待は、世界中、いくらでも存在したようです、

 

「これは悪いこと」という認識もなく、当然のごとく行われていた風習・因習。

 

…そもそも人類は、割と最近まで、武力・暴力で領土を奪ったり、不当に搾取したり、力づくで奴隷にしたり、(生きる)権利や命を奪ったりすることも、世界中で頻繁に行われていたし。

 

 

 

 

上記のような例は、「これは悪いこと」という認識が本人に無い場合も少なくない、(無知・無意識・無反省)

 

これは、意図的な悪意・意地悪なんかより、よほど厄介ではないかと思います。

 

 

なので、個人的には、「これが当たり前」「これが正義」「これが常識」「これが道徳」「これが自然体」などと思い込みすぎることは、狂気や盲信や洗脳に近いと思っています。

 

今現在、「これが当たり前だ」と思われているような常識・道徳に対しても、もし違うと思ったら、疑問視したり問題視したりすることも、私は悪いこととは思わないです。

 

 

 

 

…現代の人類は、昔よりはマシだろうが、でも、本質的には変わっていないというか、当時と五十歩百歩ではないかという気もする。(もちろん私も含めて)。

 

現代も、偏見、盲信、独善、勘違い、思い込み、いじめ、虐待、思想やセンスの強要、パワハラなどなど、、、

 

要は、危害を加える側が悪びれていないというか、「これは悪いこと」という認識が本人に無いケースも多い。(無知・無意識・無反省)

 

むしろ、「自分こそ正しい」「自分こそ自然」「これこそ良識」「相手は叩かれて当然」「相手はこういうタイプに決まってる」「自分に非があるわけない」と、

 

自分の正当性を信じて疑わないようなケースも少なくない。

 

 

 

 

そんなわけで人類は、本質的にはあまり変わっていないようにも思われる。(多少マシにはなってきている気はする)

 

しかも今現在も、宇宙や生命や身体・心・脳などの仕組みについて、まだまだ分からないことばかりなので、

 

我々も、迷信や偏見を信じている可能性も無いとは言えないと思います。

 

 

 

今、我々が、「これが正しい」「これが優しい」「これが自然体」「これが当たり前」「これが健康に良い」などと感じていることが、

 

実はとても差別的なことだったり、実はとても不自然なことだったり、誤ったことだったりする可能性も無いとは言えない。

 

 

 

 

…などと書くと、「そんなこと言われたら、何も考えられないし何も出来ない」と思う人もいらっしゃるかもしれませんが、

 

そんなことないと思います。

 

なぜなら人間は、同時に複数のことを意識できると思いますので。

 

 

私たちは、基本的には、自分の意見・感性・価値観に、自信を持って良いと思いますし、

 

思ったことを、気楽に発言したり行動したりして良いと思います、

 

 

しかし同時に、心のどこか片隅で、「自分も誰でも、いつでも間違う可能性はある」、「自分も誰でも、(言葉や態度で)暴力や差別をしている可能性はある」、「自分も誰でも、他者より優位・上位に立ちたい欲求に縛られている可能性はある」、「自分も誰でも、物事を誤解・偏見・印象・先入観で思い込んでしまっている可能性はある」、「正しいと思っていることでも、もしかしたら科学的・医学的に間違っている可能性もある」、

 

心のどこか片隅で、そのように意識していたほうが良いのではないかと思います。

 

 

それは、「謙虚」とか「自信が無い」という感覚とは違います、

 

単に、人間の能力の限界を認めているだけだし、

 

人間が本質的に持つ無知・エゴ・利己性・無意識性を認めているだけだし、

 

我々は常に発展途上であるということを、素直に認めているだけです。

 

 

 

それを認めたうえで、

 

あまり悲観的・厭世的・閉鎖的・人間嫌いにならず、気楽にオープンに前向きに生き、自分の意見・価値観にも明るく自信を持ち、

 

でも、時々は自分自身のことを反省したり改善しようとする生き方は可能ではないか?

 

と思っています。

 

 

 

 

私自身、自分の言動や作品や演奏を、反省したり自己批判したりすると、

 

「もっと自信を持て」とか「もっとポジティブになれ」とか「もっと自然体で生きろ」とか言われることもあります、

 

でも個人的には、なぜ、現在の自分を反省したり、改善を目指そうとすることがネガティブで不自然と判断されてしまうのか、いまいち分からないです。

 

 

自分の価値観を過信・盲信することが、自然でポジティブだとは、僕には、あまり感じられないです。

 

むしろ、「本当にこれで良いのか?」

 

本当に今現在の生き方・在り方・考え方・感じ方で良いのか?

 

そして、今現在の自分・社会・芸術の在り方が、ほんとうに私自身が望んでいることなのか、、、

 

 

常に自分に問いかけ、常に自分を批判し、あらゆる価値基準を「当たり前」と思わない態度、

 

そういう意識状態のほうが、私は心地良いです。

 

(自分のことも人のことも、正義や道徳のことも、人間や生き方のことも、音楽やアートのことも、「分かったつもりになりすぎたら最後」とさえ思う)。

 

 

自分自身に対して、そして世の中の価値基準に対して、常に疑問や批判や反省を感じつつ、

 

とは言え、あまり厳しくはなりすぎず、基本的には気楽にオープンに友好的にで良いと思いますが、

 

今この瞬間自分はどうしたいのか、どう感じるのか、何を目指したいのか、何を選択したいのか、

 

常に自問し続けていたい、と思う。

 

 

それは「自信がない」とか「優柔不断」ということではなくて、

 

むしろ「完璧には何も分からない」というのが、人生の常態ではないかと思っています。

 

 

 

 

そんなわけで、このカテゴリーで幾つか記事を書きましたが、

 

「批判精神」というものは、私は、悪くないと思います。

 

…いや、「悪くない」どころか、今現在の自分を盲信・過信しすぎてしまうより、むしろ前向きなことではないか?と思っています。

無題2

この記事は、前回記事までの続きです。すらりん

 

評論やレビュー・批判や批評ということについて、まとめ的な内容です。

 

(この記事だけお読み頂いても意味は通じます)

 

 

 

 

さて、いきなりまとめると、

 

僕は、「(人の言動や作品や演奏について)批評や批判をしてはいけない」という感覚は、あまり持っていないです。

 

皆それぞれ、自分なりの感想や好みを自由に語って良いと思うし、

 

時には否定的な感想や批判を言っても、全然悪くないのではないか?遠慮することないのではないか?と思う。

 

最低限、音楽の多様性を認めてさえいれば。

 

そして最低限、人それぞれの好み・価値観の多様性を認めてさえいれば。

 

(私自身、否定的・批判的なことを言われることは、そんなに嫌でもないです。先入観の感想ではなく、ちゃんと作品を味わって下さったうえでの感想なら)。

 

 

 

 

 

多様性を認めながら批判する、というのは可能だと思っています、

 

そもそも「批判する」ということは、相手のことを見下したり全否定したりすることとは違うはず。

 

相手のことを心から尊重しつつ、(音楽や価値観や生き方の多様性も認めつつ)、

 

時には、言動や振る舞いを疑問視したり、

 

時には、作品(演奏)の表現内容・表現の仕方などを批判するような時も、多々あり得ると実感してます。

 

 

(※もっとも、「多様性を認めない」「自分と違う意見は見下す」というような頑固な生き方も、アリっちゃアリだとは思いますが…。でも、それが本当に心地良い生き方かと言えば、個人的には、あまりそうは思えないです。ある程度は、人それぞれの多様性を容認(もしくは黙認)したほうが、結局は、心地良く日々を過ごせるのではないか?と思っています)。

 

 

 

 

 

ちなみに、私にとって「多様性を容認(黙認)する」ということは、「全ての価値観を尊重する」「全てのアート作品を好きになる」「全ての立場の人に共感する・思いやる」「何に対しても寛容である」「誰とでも仲良くなる」、

 

というようなイメージではないです。

 

むしろ逆かもしれません。

 

 

私にとって、「多様性を容認(黙認)する」とは、、、

 

■「人それぞれ皆、好みは自由で良い。何でもかんでも好きならなくて良い」

 

■「人それぞれ皆、趣味・感性・好み・考え方・価値観等は一致していなくて良い。この世の全ての価値観を理解(共感)しなくても良い」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、無理してまで理解(共感)しようとしすぎる必要はない。無理してまで思いやろうとする必要はない」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、無闇に批判的・攻撃的になってしまう必要もない」

 

■「自分の理解や共感の及ばない人・出来事に対して、(その人達が)良いとか悪いとか、優しいとか冷たいとか、心が有るとか心が無いとか、こういうタイプだとかどういうタイプだとか、あまりにも断定(判断)しすぎるべきではない。あまりにも分かったつもりになりすぎるべきではない」

 

そういう感覚です。

 

 

 

 

 

いずれにせよ、各々が自由に感想を述べたり、時には批判したり、あーだこーだ語り合ったりするのも、それはそれで楽しいし、

 

音楽やアートや人間について、深く考察する良い機会でもあると思っています。

 

 

人それぞれ感じ方・考え方が違うのを知るのは、とても興味深いことでもありますし、

 

誰かの感じ方・考え方などに感化され、自分の感じ方・考え方も変わってしまうようなこともありますしね。

 

 

 

 

 

そういうわけで私は、意見・感想・批判などは、割と自由に表明しても良いのではないかと思っている。

 

ただし!

 

どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも、存在すると思います。

 

それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想です。

 

あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想とか。

 

(自分が思ったこと・感じたこと・判断したことなどを、実際は事実ではないのに、事実だと信じ込んでしまっているような発言。私も誰でも、そういう状態に陥ることは、珍しいことではないと思いますが)。

 

 

そういう感じの感想や批判は、やはり「的外れ」「間違っている」と言わざるを得ないと思う。

 

そういう部分を、ある程度は正確に受け取ったうえで、どう感じるか・好きか嫌いか、

 

そこは、完璧に個人の自由だと思いますが。

 

 

 

 

 

あと、何か一つ作品を鑑賞しただけで、何か一つの文章を読んだだけで、何か一つのツイートを読んだだけで、

 

その作者や発言者のことを完璧に分かったつもりになってしまったり、

 

その作品やその発言を生んだ国・文化・時代・ルーツ・ジャンルのことを、全て完璧に分かったつもりになってしまうような感想も、

 

たいてい、的外れなことが多いように思われます。

 

 

多数の作品(演奏)を鑑賞したうえで、(多数を比較したうえで)、

 

あえて、「これぞジャズ!」「これぞロック!」「これぞ印象派!」「とても君らしい作品!」「若さ溢れる演奏!」「ベテランらしい円熟!」「アメリカ人らしい演奏!」「男性(女性)らしい演奏!」

 

とか言うのなら、まだ良いと思いますが。。。

 

 

 

 

 

でも個人的には、その作曲者(演奏者)の属するジャンル・国籍・人種・性別・世代(年齢)などで、その作品内容を判断しようとしすぎるより、

 

まずは、個々の作品(演奏)の内容・中身・個性・雰囲気を味わおうとする鑑賞態度のほうが、私は好ましく思います。

 

 

 

 

 

そして、ジャンル(カテゴリー)を分類しようとする鑑賞態度や、

 

作者の性格や創作意図を解明しようとする鑑賞態度よりも、

 

まずは「自分自身がどう感じたか」、

 

そこを見つめるような態度のほうが、私は好ましく思います!

 

 

 

 

 

その他にも、あまり良くないと思われるタイプの感想・批判があって、

 

それは、アーチストやバンドを「私物化」してしまうような発言です。

 

例えばですが、「今回の作品はこのアーチストらしくないからダメ」「今回の作品はこのバンドらしくないからダメ」、みたいな。

 

 

でもピカソだってベートーヴェンだって、ビートルズだって村上春樹だって、生涯、作風は変わり続けたではないか。(春樹さんは、もちろん故人ではなく、現在進行中のアーチストですが)。

 

あまりにも、「このアーチストはこうでなきゃダメ」「このバンド(アイドル)はこうでなきゃダメ」「このジャンルはこうじゃなきゃダメ」「音楽はこうじゃなきゃダメ」と決め込んでしまうのは、表現の自由の精神に反するし、

 

アーチストさんに対して、「あんたはこういうふうに生きなきゃダメ」「あんたはこういうタイプに決まってる」と言っているのに等しい。

 

(アーチストに対してだけではなく、誰に対しても、そんなことは言ってはいけないのではないか?「その人らしさ」「そのアーチストらしさ」「そのジャンルらしさ」というものは、もちろん存在するとは思いますが、あまりにも断定・限定しすぎてしまわないほうが良いのではないか?本人が「自分らしさ」を断定するなら全然自由だけど、第三者が、「あんたはこういうタイプ」「あんたはこういう作風でなきゃダメ」と断定しすぎてしまうのは、ちょっと傲慢だと思う)。

 

 

…もっとも、レコード会社や出版社の担当・プロデューサー・マネージャー等が、売り出す戦略を決めたうえで、そういう「個性」や「らしさ」を、作家やタレントやアーチストに指示するケースは、多々あると思います、

 

それは当然の生存戦略だと思いますし、必要なことだろうとも思います。

 

でも、それはそれとして、

 

本来的には、アートとか生き方とか人生というものは、誰かが誰かに命令したり強要したりは出来ないはずです。

 

 

誰かが誰かに感銘を受け、影響を受け、「自発的に」沸き起こる変化なら素晴らしいと思いますが、

 

外側から無理矢理に命令・強制するようなものではないと感じます。

 

 

 

 

 

私の主張は、「アーチストの作風が変化した時、ファンは絶対に気に入らなければいけない。絶対に批判してはいけない」ということではないです、

 

(作風の変化を)好きになるか嫌いになるか、作品を気に入るか気に入らないかは、常に、受け取り側の自由だと思います。

 

気に入らなかったら、遠慮なく否定的な感想・批判を言っても良いと思いますし。

 

 

私の主張は、気に入る・気に入らない以前の話で、

 

■「変化すること自体を禁止したり問題視したりする態度は、良くないのではないか?」

 

■「その人らしさ・そのアーチストらしさ・そのジャンルらしさというようなものを、あまりにも固定化・限定化しすぎるのは、良くないのではないか?」

 

■「表現の自由を禁止しすぎたり制限しすぎたりしてしまう態度は、良くないのではないか?」

 

という主張です。

 

 

 

人は、様々な経験を通して変化・成長する存在だと思うので、

 

当然アーチストや作家も、その作風・芸風・価値観・身体能力など、徐々に変化するものだと思う。

 

…もちろん、「(人は)絶対に変化しなきゃダメ」ということも無いけど。

 

 

 

 

 

とは言え、もちろん人というものには「その人らしさ」があり、

 

人種や民族というものには「お国柄」があり、

 

アートのジャンルには「そのジャンルらしさ」というものがあり、、、

 

そういう「○○らしさ」「○○の特徴」というものを、ちゃんと分かったうえで、

 

でも、あえて、そういうカテゴリー的なところには囚われすぎず、

 

個々の作品に宿る、その作品固有の個性・空気・雰囲気をこそ、まずは味わおうとするべきではないか?

 

と思います。

 

 

 

これは個人的な考えですが、

 

アートや文学というものは、究極的には、そういう「その人らしさ」「そのジャンルらしさ」「お国柄」「ナショナリズム」「性格」「人格」「感情」「思想」「人間性」というような概念や感覚を破壊し、

 

(後天的に身についたアイデンティティーやナショナリズムや人格などを破壊し)、

 

もっと生命(本能)の根源的な衝動だったり、感情・思考・理性・直感などが「無」になるような感覚だったり、心の奥底の深層心理なども暴く可能性が有るのではないかと、個人的には思っています。

 

 

 

 

 

さて、何回かのシリーズ記事でしたが。

 

私なりの意見を、最後に強引にまとめると、

 

■「オープンな意見交換は好きだし、お互いオープンに意見・批評・批判し合うのも好きだけど、最終的には、各々の生き方・感じ方を決めるのは、その人本人」

 

■「それぞれ皆、感じ方・価値観は自由。意見・感想・批判を言うのも自由。ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在する。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想。(あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想)」

 

■「手厳しい批評や批判やレビューというのも、大いにアリだと思う。皆それぞれ、自分なりの感想や好みを自由に語って良いと思うし、時には否定的な感想や批判を言っても、全然悪くないと思う」

 

■「ただし、誰かの言動・作品・演奏などを見て、その人の内面や性格や、心理状態や創作意図を、あまりにも断定しすぎてしまわないほうが良いのではないか?その前に、まずは「私自身がどう感じたか・どう感じるか」にフォーカスするほうが大事ではないか?」

 

■「自分の意見・感想・判断・快不快・価値観などを、まるで「人間全体に共通する一般論」のように、絶対的な正義(正論)だと思いすぎてしまわないほうが良いのではないか?」

 

■「批判」や「反対意見」というものを、即、相手のことを見下したり全否定しているのだと、勘違いしてしまわないほうが良いのではないか?(相手のことを尊重しつつ、アートや価値観の多様性も認めつつ…、時には、個々の言動や個々の作品を批判(疑問視)するような時も、多々あり得るはず)

 

■「アート作品・エンタメ作品・アーチスト・タレント・映画・テレビ番組等に対して、よく否定的な感想を言っているような人が、他の誰かが批判的な感想を言うと、「お前は気難しい」とか、「批判をする人は心が狭い」とか、「評論家ぶるな」とか、「ディスるな」とか、「もっと素直に何でも楽しめ」とか、「競争や比較や良い悪いじゃないですよ」とか言ってしまう人、けっこう出会ったのだが…、そういうのは、喝!「自分はやって良いけど他の人はやってはダメ」という態度は、素朴と言えば素朴だが、やはり、良くないと思う。(人生は自己中心的で良いとは思うが、あまりにも公平性に欠ける言動は、許容すべきではないと思う)」

 

 

そんなところです。マリオ

 

おしまい。

無題

少し前の記事の続きですが、この記事だけお読み頂いても意味は通じます)

 

…さて、私も何度も経験あるのですが、

 

誰かが、自分なりの好みや感想を語ると、「格付けするな」とか「偉そうに批判するな」とか、「(他人を)ディスるな」とか「お前は気難しい」とか、「評論家ぶらず、もっと何でも楽しめ」とか「音楽は競争や勝ち負けではないのですよ。上手い下手ではないのですよ。全て美しいのですよ。コンクールのように比べるのは心が無い」とか、

 

そういうことを言う人もいますが、僕は少し苦手です。

 

そういう発想のほうが、各々の自由な発言や、各々の自由な感じ方を、禁止してしまうのではないでしょうか?

 

個人的な意見や好みぐらい誰でも持っているだろうし、それを自由に発言するくらい、良いと思うのだが?

 

もちろん言い方とか、最低限の礼儀は必要だと思いますが。

 

 

 

 

つまり、何かの作品を「好きではない」と言うと、イコール「それを攻撃している」、「それを嫌っている」、「それをディスっている」、「こいつ気難しい」などと、すぐ勘違いしてしまう人が多い印象です。

 

でも実際には、「個人的には好きではないけど尊重する」という状態や、「個人的には好きではないけど応援する」というような状態も、誰にでもあると思うのだが。

 

(…最悪、何かを「好き」と言っただけで、イコール「好きじゃないものを認めない奴」「好き嫌いが激しくて気難しい奴」などと判断されてしまうことさえあります)。

 

 

 

 

自分の好みを語るために、何かを軽蔑したり攻撃したりするような言い方は、もちろん私も嫌いですし、

 

自分の好きではない作品・ジャンルを全否定したり、「音楽は絶対こうあるべき」「音楽家は絶対こうあるべき」みたいな言い方も嫌いです。

 

でも、自分の個人的な好み・感想を一切表明してはいけないとは、私には思えないのだがなあ。

 

世の中、人それぞれ、色々な好み・考え方・感じ方があって良いはずだから。

 

 

 

 

例えば、「(野菜の)ニンジンが苦手」と言ったとしても、ニンジンを好きな人を否定しているわけではないだろうし、ニンジンの存在を否定しているわけでもないはず。

 

なのに、音楽やエンターテインメントの趣味において、「ニンジンが苦手」というような発言をすると、「否定するな」とか「評論家ぶるな」とか「ディスるな」とか言う人が、とても多い印象です。

 

 

食べ物も、音楽やエンタメ作品も、過度な食わず嫌いは良くないかもしれませんが、

 

でも、ちゃんと食べてみたうえでなら、多少、好き嫌いや得手・不得手があるのは、当然だと思うのだが。。。

 

(まあ、中には、「何でも好き」「どんな食べ物もどんな音楽も同じくらい好き」という方も、いらっしゃるかもしれないが)。

 

 

 

 

個人的には、「ニンジンはこの世から消えろ」「ニンジンを好きな奴はクズ」「ニンジンはこの調理法しかしてはいけない」「ニンジンを好きな奴は頭おかしい」、

 

そういう感じのことを言ってしまうのは、NGだと思っています。

 

 

でも、単なる個人的な好みとして「ニンジンが苦手」と言ったり、調理方法や料理の出来栄えを疑問視したりするのなら、全然オーケーだと思います。

 

(もちろん、あまり失礼な言い方にならないよう、気を付けるべきだとは思いますが)。

 

 

…で、それを音楽やエンタメに置き換えると、「このバンド(歌手・アイドル)はこの世から消えろ」、「このアーチストを好きな奴は皆センス悪い・頭おかしい」、「このアーチストを好きな奴は皆善人・皆素晴らしい」、「このジャンルは全作品ダメに決まってる」、「このジャンルは全作品素晴らしいに決まってる」、「このアーチストはこういうタイプに決まってる・こういう性格に決まってる」、「(音楽を)演奏する時の意識・心理・心構えは、こうでなきゃイカン」、「音楽家は皆こうでなきゃイカン」、「音楽はこうでなきゃイカン」、

 

というような発言してしまうのは、私なりにはNGです。

 

 

でも、単なる個人的な好き嫌いを表明したり、自分なりの(音楽に対する)心構えを発言したり、個々の作品の内容・クオリティー・表現方法などを批判したり疑問視したりするなら、全く問題無しだと思っています。

 

あまりにも失礼な言い方さえしなければ。

 

 

 

 

…むしろ、「絶対に批判してはいけない」「絶対に疑問視してはいけない」「絶対に肯定しなければいけない」「なぜなら絶対にこの意見は正しいから」「なぜなら絶対にこの作品(演奏)は素晴らしいから」「異論・反論・批判は認めない」「好き嫌いを持ってはいけない」「何でも好きにならなければいけない」「人間誰しもこういう価値観でなければいけない」、

 

そういうのは、ちょっと新興宗教や独裁国家のようで、気持ち悪いです。

 

 

何でもかんでも無闇に否定したり批判したりするのは、もちろん良くないと思いますが、

 

しかしながら、「批判は絶対にダメ」「批判イコール、ディスってる」「批判・異論は一切認めない」「何でも好きにならなければいけない」という態度も、あまり良くないと思われる。。。

 

(※どんなものにでも長所・美点を探そうとする姿勢は、もちろん素晴らしいと思います。私も、そうありたいと思っています。しかし、あまりにも盲目的に、「これは誰にとっても素晴らしいに決まってる」、「これは誰にとっても悪いに決まってる」、「これが全ての人間にとって正論(良識)に決まってる」などと、信じ込みすぎてしまうのは、あまり良くないのではないか?と思う)

 

 

 

 

「これが当たり前」と思われているような道徳観念でも、

 

あるいは、「これぞ名作」とされているような芸術作品でも、

 

時には疑問視したり、拒否したり、自分には合わないと判断しても良いのではないかと思う。

 

 

そして、自分が嫌いな作品・演奏・価値観・ライフスタイル等を好きな人がいても、

 

あまりにも盲目的に、そいつはセンス悪いとか頭おかしいとか心が無いとか、全否定すべきでもないと思う。

批評・批判・レビューについて(2)

前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも、意味は通じると思います)

 

さて、当ブログでも、様々な楽曲・作曲家について、よくレビューや感想を書かせて頂いています。

 

例えば、この記事。シューベルト作品のレビューです。

http://shimpei2.jugem.jp/?eid=1128​

 

そしてコチラの記事はパスファインダー。

http://shimpei2.jugem.jp/?eid=1126

 

 

どの記事も、無責任きわまりない私見なので真に受けないで下さい?( ;´Д`)

 

…というのは冗談ですが、実のところ、音楽や人間というものは、あまり安易にレビュー・格付けなど出来ないとも思っている。

 

(私は単に、個人的な感想や意見を自分勝手に述べているだけ)

 

 

 

また、作品を聞いただけで、あまり安易に、作者の内面や人間性を理解したつもりになれるものでもないと思う。

 

(作品や演奏パフォーマンスを鑑賞することにより、その表現者の内面・人間性などを、想像は出来る。でも、断定は出来ないと思うの)。

 

 

いや、作品やパフォーマンスのみならず。

 

話し方や表情や仕事ぶりを見ることなどによっても、その人の気持ち・人間性などを、ある程度は想像できる。

 

が、100パーセント断定は出来ないと思う。

 

 

 

我々は、お互いに、(表面的な)表情・動作・発言・文章・作品・演奏・仕事ぶり・振る舞い等で判断し合い、「この人はこういう性格」、「あの人はああいうキャラ」、「この人はこういう主張」、「この人は今こう思ってるに違いない」、「この人は今怒っているに違いない」、「この人は今幸せ(不幸)に違いない」、

 

などと判断するのは当然なのだが、そういう判断は、いつも必ず100パーセント正しいものではないと思う。

 

人は皆、表面には現れない深い部分を持っていると思いますし。

 

誤解や誤読も、誰でもしてしまう可能性もありますし。

 

 

だからと言って、「他者のことを判断するな」と言いたいわけではないが。

 

他者の言動や作品や振る舞いを見て、どう感じるかは自分の自由だし、自分勝手に判断・解釈するより他ないと思いますので。

 

(そして、「自分がどう感じたか」を正直に表明するのも、(最低限の礼儀を守っていれば)、私は良いと思っています)。

 

 

 

 

では、私は何を気持ち悪いと感じるかと言うと、

 

■「誰かの言動・文章・作品・演奏などを見て、その人の内面や性格や心理状態を、あまりにも断定しすぎてしまうこと」

 

■「そういう自分の判断・感想・意見・価値観などを、絶対的な正論(正解)だと思いすぎてしまうこと」

 

■「批判」や「反対意見」というものを、即、相手のことを見下したり全否定しているのだと、勘違いしてしまうこと。(相手のことを尊重しつつ、個々の作品の表現内容・表現の仕方を批判(疑問視)するような時も、多々あり得るはず)。

 

そんなところです。

 

 

 

 

我々は、自分自身の感想や意見や快不快は、いくらでも断定して良いと思うし、いくらでも自信を持っても良いと思う、

 

しかし、他者の性格や心理や精神状態などは、あくまで「推測」しか出来ない。

 

いや、性格のみならず…、

 

例えば、その人がどれほど努力・練習してきたかとか、どのような意欲・心構えで取り組んでいるかとか、どのくらい集中しているかとか、どのくらい真心や愛情を込めているかとか、

 

そういうことも、その人の作品・演奏を聞いたり、その人の言動・表情・服装・振る舞いを見たりすれば、ある程度は想像できるけど、100パーセント断定までは出来ない。

 

 

 

だから、他者の言動・作品・外見・演奏を見て、そう簡単には、「こいつ頑張ってない」とか、「こいつ冷たい」とか、「こいつ愛が無い」とか、「こいつプロ意識が足りない」とか、「この人は魂が素直」とか(?)、

 

そんなふうに、あまり断定は出来ないと思います、

 

せめて、「こいつは頑張ってないように見える」とか、「こいつは冷たいと感じる」とか、そういう言い方しか出来ないはずです。

 

 

 

私自身、本当に心から笑ったり、本当に心から共感したりしているのに、そう思われず、「嘘くさい」とか「本心から笑ってない」とか断定されたこともあるし、(誰にでもあると思うが)、

 

その他、全く事実と異なるのに、私の心の中を勝手に断定されたり、

 

断定されるだけならともかく、勘違いに基づいたまま、説教されたり呆れられたりしたことも少なくない。

 

 

冤罪のようなことも何度か体験しましたし、

 

先入観・勘違い・思い込みで決めつけられて、説教されたり怒鳴られたり、時に暴力さえ振るわれたりするのは、耐え難く嫌なことであった。

 

で、その人に反論すると、もっと素直になれとか、お前は気難しいとか、お前は怒りっぽいとか言われるし。(ご自分の勘違いが、正しいに決まっているという前提)。

 

 

もちろんそういう体験は、私自身にも問題があるのかもしれず、

 

なるべく誤解を与えないような表情・振る舞いを心掛けなければいけないのかもしれませんが、

 

でも、あまりにも誤解・誤読するほうにも、やはり問題はあるのである。

 

(※誤解・誤読が多い方というのは、「この人はこういう性格に決まってる」とか、「これは正しいことに決まってる」とか、「これは間違ったことに決まってるとか」、その他、「こういう生き方が自然体に決まってる」、「この年代はこういう性格に決まってる」、「この音楽ジャンルはこういう内容に決まってる」、「こういう言動やこういう演奏は、正直で心が込もっているに決まってる。そうじゃないものは、嘘くさくて心が込もっていないに違いない」などなど、色々と断定しすぎてしまっている印象が強いです。他人の性格や、物事の正邪や、音楽作品の内容などを、ちゃんと吟味する前に、決め付けすぎてしまう印象。で、自分が思い込んだことを、正しいに決まってると信じ込んでしまう…。もちろん信じ込むだけなら自由だし、人生、基本的には、自分に自信を持っていて良いと思うのですが…、あまりにも誤解や思い込みに基づいて、他者を非難したりするのは、私は良くないと思っています。私も誰でも、多少は誤解・誤読をしてしまうのが人間というものだが、だからこそ、「自分は常に正しいわけではない」「自分は全てを完璧には理解できない」「自分はエスパーや神様ではない」という事実を、心のどこか奥底に、常に自覚していたほうが良いように思われる)

 

そのあたりをわきまえていれば、どんな意見も感想も批判も言って良いと思っていますし、

 

私の言動・作品に対しても、どんな感想や批判を言ってもらっても、(否定的な批判であっても)、嫌な気はしないものです。

 

 

 

ただ、誰かの先入観(誤解)によって、いじめや冤罪のようなことを体験させられるのは、もはやそういうレベルではないかも。

 

全く身に覚えのないことで毎日叩かれ、実際、身の危険すら感じましたし、

 

誤解をとくための説明や努力をしても、一切受け入れられない…。

 

そういう体験は、生きていくのが嫌になってしまうほど悲しく辛いものである。。

批評・批判・レビューについて(1)

(※本日、三つ目の記事更新です)

 

 

最近の風潮なのか、あるいは昔からそうだったのかは分からないが、

 

例えば誰かが、何か意見や個人的好みを発言するだけで、「そう考えない人もいる」「そう思わない人もいる」「(その人達に)配慮せよ」「自粛せよ」、

 

みたいな空気には、少々息苦しさも感じます。

 

だいたい、「そう思わない人もいるから配慮せよ」とか言ってる人も、(大抵は)、本当に全ての立場の人間に配慮しているとも思えないのだ。。。

 

 

 

 

音楽界・エンタメ界でも、そのようなことは、よくあることです。

 

例えば、映画や音楽や小説など、何かの作品に否定的な感想を言った人がいたとして、(ちゃんと丁寧な言葉遣いで言ったとして)、

 

で、そういう感想に対して、「そう思わない人もいるから配慮せよ」とか、「ディスったり批判したりする人は心が狭い」とか、「もっと素直に楽しめばいいじゃん?」とか、「批判せず何でも楽しみなさい」とか言う人がいるものですが、

 

そういう方達は、ご自分はどうなのだろう?とも思ってしまう。

 

世の中の全ての音楽作品・全てのエンタメ作品を、平等に愛して楽しんでいるのだろうか?

 

(あるいは、そういう方達は、人それぞれの意見の違い・好き嫌いの違い自体は認めているけど、「否定的な感想を言うこと」を問題視しているのか?…つまり、「好き嫌いは持っても良いが、それを口外するな」という主張なのだろうか?それなら、分からなくもないが)

 

 

でも、そういう方達だって、たいてい、「この小説家は苦手」とか、「このテレビ番組は下らない」とか、「この歌手の声は好きになれない」とか、「このゲームはつまらない」とか、

 

ひどい場合は、「このアーチスト(タレント・アイドル)消えろ」などと言っていることも多いものである。

 

 

 

 

私の実体験でも、そのようなことは多々ありまして。

 

以前、口では「批判はやめて何でも幅広く楽しみなさい」とか、「みんなそれぞれ自分らしく歌えば(演奏すれば)それでオーケー。コンクールみたいに、良い悪いや上手い下手にこだわるな。飾らず作らず、ありのままで良い。誰もがもともと特別なオンリーワン。人と比べるな」とか言っている人が、

 

露骨に「彼の演奏は誰よりも素晴らしい」とか、「あのピアニストの演奏には心が無い(魂が無い)」とか、「Aさんの演奏には愛があるが、Bさんの演奏には愛が無い」とか、「ゲーム音楽やアニメソングなんか音楽じゃない」、

 

などと言っているのも、私は何度も聞いたこともある。

 

 

 

 

僕は、辛口な意見・感想・批判・レビュー自体は、構わないと思うのです、

 

私自身は、そこまで露骨に何かを全否定することはしないけど、そういう辛口・毒舌な人がいても良いとは思っています、

 

人それぞれで良いと思ってますので。

 

 

ただ、そういう方達は…、自分自身が辛口・毒舌で、明確な意見や好き嫌いを持っているくせに、

 

なぜ、他者の意見や好き嫌いを聞くと、「お前は気難しい」とか「ディスるな」とか、「もっと心を広く持て」とか「もっと何でも楽しめ」とか、「比較するな」とか「評論家ぶるな」とか、

 

どうして言えるのだろうか?

 

自分は意見・感想・好き嫌いを持っても良いが、他者は意見・感想・好き嫌いを持ってはいけない、ということだろうか?

 

 

例えば音楽大学の友人・講師・教授、プロ音楽家の知り合いなどでも、そういう矛盾に満ちたことを言う人はたくさんいましたが、

 

他者が意見を持つこと自体を禁止しているように見えてしまい、とても嫌な感じがしたものだ。

 

そういう方達は、ご自分の意見・感性・判断・価値観だけが正しいと、思い込みすぎてしまっているのではないか?

 

(あるいは、「人は皆、私と同じ意見や好みでなければダメ」と、思い込んでしまっているのではないか?)

 

幸い最近は、そういう方と実際に接する機会はほとんど無いが。

 

 

 

 

他者の意見や作品の「内容」「言い方」「表現の仕方」について、批判したり反論したりするなら、私は全然構わないと思ってます、

 

なぜなら、何かに反対したり反論したりすることは、誰もが持つ正当な権利だと思うから。

 

でも、他者が「(自分の)意見や好みを持つこと」自体を禁止するような言い方は、してはいけないのではないか?と思う。

 

 

よほど選民思想とか、よほど被害妄想とか、よほど自分の意見だけを正しいと思い込んでるとか、よほど偏見・差別・勘違いに基づいた意見や感想などは、諌めたり禁止したりする必要もあるでしょうが、

 

そうでないなら、人それぞれ、自分なりの意見や好みを持っていても良いと思うのだが?

 

 

 

 

私は、誰しも意見や好みや価値観を自由に持って良いと思うし、自分の好きなものを表明したりすることも、誰しも、やって良いと思っている。

 

この森羅万象・千変万化の世の中、各々、とりわけ惹かれるものや、とりわけ感動するものがあるのは、当たり前のことだと思うからだ。

 

そしてまた、各々、苦手なものや嫌いなものがあるのも、仕方ないと思うからだ。

 

 

そういう、「差別に満ちた自分」というものを自覚しつつ…、

 

「私の好みや意見や価値観は偏っている」ということを自覚しつつ…、

 

 

せいぜい、「あまりにも食わず嫌いにならないよう注意しよう」、「自分の好み(価値観)を他者に押し付けすぎないよう注意しよう」、「よく知りもしない人や音楽作品を、先入観や知ったかぶりで嫌わないよう注意しよう」、

 

そう気をつけようとするくらいしか、私には出来ないですね。

 

「全てを平等に好きになれ」という価値観や、「批判・比較・選り好みは絶対ダメ」という価値観は、私には、ちょっと難しい。

 

(あと、「この音楽作品は誰にとっても素晴らしい」「この音楽作品は誰にとってもクズ」「誰もがこういう考え方をすべき」というような意見・価値観も、私には馴染めるものではない。自由度が狭すぎて、息苦しくなってしまう)。

 

 

「何でもかんでも好きになりましょう」「誰とでも必ず仲良くしましょう」という雰囲気よりも、

 

気を使いすぎず、意見も批判も、お互い自由に言い合える雰囲気のほうが、私は好きですね。

 

(※ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在します。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想です。あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想です。いくら、意見や感想は各々の自由とは言え、最低限、そういう部分は「正解」が有ると思います)。

 

 

 

 

そんな私とて、嫌いな作品・嫌いな人に対しても、もちろん愛や尊重や応援の気持ちは感じています。

 

心の奥底では、全てを平等に愛しているような感触も持っています。

 

…しかしながら、多少の選り好み・好き嫌いを持ってしまうことも、仕方ない気がします。

 

 

 

 

そもそも、「愛」と「好き嫌い」は違うものだとも思います。

 

嫌いなものを応援したり愛したりすることは、充分可能だと思っていますし、

 

愛している者を叱ったり批判したりすることも、そう珍しいことではないと思います。

 

(愛していたりリスペクトしたりしている人に対しても…、その人の個々の行動、個々の発言、個々の作品、個々の演奏・パフォーマンスを、批判したり問題視したりすることは、ありうると思います。どんなに好きな人のことでも、「教祖」みたいに、その人の全ての行動・発言は正しいものだと、盲信しすぎてはいけないとも思いますし)。

 

 

 

 

「意見が違う」ということと「仲が悪い」ということは、イコールではないはずだとも思うし、

 

…逆に言えば、「仲が良い」ということは、必ずしも「(お互いの)意見が同じ」、というわけではないとも思います。

 

 

 

 

ついでに言うと、「多様性を重んじる」ということは、、、

 

必ずしも、この世の全ての価値観に同意・共感するということではなく、全てを完璧に思いやるということでもなく、

 

むしろ、この世の中には、自分には同意・理解・共感できない人や立場や価値観がたくさん有るということを、当然のこととして認めることだと思っています。(※自分の視野や理解力には限界があることを認める)

 

で、無理してまで理解しようとしたり、無理してまで仲良くしようとするのでなく、

 

せめて、お互いに争ったり、自分の価値観だけを正しいと信じすぎないようにする…、

 

そんな感じのイメージです。個人的には。

 

 

 

 

「好みや価値観は、一人一人違うものである。一人一人違って良い」、

 

そんな感覚が、私は好ましいです。

 

「一人一人違って良い」と思うからこそ、自分とは違う意見・感性・価値観の人のことも、リスペクトを感じられますし。

 

 

私は、よほど独善的で傲慢な人でなければ、どんな意見や感性や価値観の持ち主であっても、(私とは違う意見・価値観であっても)、たいてい、リスペクトや親しみを感じられます、

 

反面、「一人一人違ってはいけない」「こういう考え方こそが正しい」「こういう作品だけが素晴らしい」「全てを好きにならなければいけない」「選り好み・好き嫌い・比較・批判は悪」「私の意見だけが正論・正義」という感じの言い方は、息苦しく感じられてしまいます。

 

一人一人自由なはずの嗜好・意見・価値観が、禁止されてしまっている気がするので。

 

 

 

 

最低限、価値観や生き方の多様性さえ認めていれば、

 

誰でも、自分なりの意見・好き嫌いを表明して良いと、私は思っています。

 

もちろん、無理して表明することもないけど。

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