無題1

私もよく言ってしまう言葉だけど、(前回記事でも書いてしまったけど)、

「音楽やアートに、絶対的な正解は無い」、

…とは言え、演奏者(作曲者)が表現する、作品の意図・イメージ・雰囲気・世界観などの受け取り方には、ある程度、「正解」があるかもしれません。



感じ方・受け取り方は、一人一人「自由」とは言え、あまり誤解しすぎないほうが良いことも、ある。

例えば、

作者が「単純明快さ」を表現したつもりなのに、聴き手は「小難しい」と感じてしまったり、

作者が「素朴さ」を表現したつもりなのに、聴き手は「オシャレ」と感じてしまったり、

作者が伝統を模した曲を書いたつもりなのに、聴き手は「斬新」と感じてしまったり、

作者が「アンニュイ」を表現したつもりなのに、聴き手は「情熱的」と感じてしまったり、

作者が「無機的」を表現したつもりなのに、聴き手は「ハートウォーミング」と感じてしまったり、

作者が抽象的な曲を書いたつもりなのに、聴き手は「メロディーが良い」と感じてしまったり…、

そういう場合は、曲が悪いか、演奏が悪いか、聴き手がちゃんと聴けていないかの、どれかだと思います。

(※その曲を、気に入るか気に入らないか、ということは、また別問題。今ここで問題にしているのは、「(作曲者の)意図や感性や、想いやイメージが、誤解なく伝わるかどうか」ということです。そこが伝わったうえで、好きになろうが、嫌いになろうが、どう感じようが、それは、聴き手の自由だと思います)。

 
もちろん、“音楽”というものは、1曲の中で、たった1つの感情のみを表現しているわけではないし、感じ方も人それぞれ。

簡単に定義・断定・言語化を出来ないからこそ、音楽だと思うのですけどね…。



それから、当然、「演奏」にも、良し悪しはある。

あるのだけれど、

例えば、ドラマティックな表現と控え目な表現、どちらが良いか悪いかとか、テンポ速めとテンポ遅め、どちらが良いか悪いか、明るめの音色と暗めの音色、どちらが良いか悪いか、お客さんを意識したパフォーマンスをしたほうが良いのか、あるいは、お客さんの存在など意識せず、無心で没入したほうが良いのかとか、感情的に演奏したほうが良いのか、あるいは、クールに淡々と演奏したほうが良いのかとか…、

そういう部分は、あまり何が「正解」とは、言えない気がしている。

かなり好みの問題だし、曲の持つ雰囲気や世界観によっても、違ってくると思う。

(演奏家の個性によっても、違ってくる)。



そしてまた、音楽には、「あえて、強い想いや感情を表現しすぎない」「あえて、意図や感性を表現しすぎない」という感じの、奥ゆかしい曲や、奥ゆかしい演奏も、あると思います。

「ただそこに在るだけ」みたいな、空気のような、さりげない音楽。

(それは、言い換えれば、「“無意図”という意図がある」と言えるかもしれないし、「“無為”というニュアンスを、人為的に演出・創作している」とも、言えるかもしれません)。



さて、「感想」や「批評」というものの中には、

当然、表現者(演奏者)の、感性や意図そのものを否定するような感想(批評)も、有りうると思います。

私は、滅多なことでは、そういう感想(批評)は、言いませんけど(笑)。

なぜなら私は、演奏者(作曲者)の意図や感性自体には、究極的には、何が良くて何が悪いというのは、あまり無いと思っているからです。

私が好きになれない感性や意図であっても、それを「悪い」とは、思えませんし。



だから、もし、私が批評をするとしたら、

「その意図で演奏するなら、もっとこうするべきではないか」、

「その感性なら、もっとこういう方向性や表現方法で作るべきではないか」、

「その歌声を活かすには、もっとこうしたほうが良いのではないか」、

「曲の意図(感性)と演奏者の意図(感性)が、食い違っているのではないか」、

(↑例えば、アンニュイでクールな曲なのに、演奏者が、情熱的にプレイしすぎている…、とか)、

あるいは、逆に、「曲の意図(感性)と演奏者の意図(感性)が一致しすぎていて、演奏者の個性やエゴが、無さすぎるのではないか」、とか…、

そのような観点で、個人的な意見・批評を述べさせて頂くことは、あるかもしれません。



※ちなみに、「指導」というものも、そういう感じが理想的だと、私は思っています。

特に、個人指導の場合は。

ようは、生徒の「意図」や「感性」自体は、可能な限り全肯定して、

で、それを、より魅力的に活かすための「表現の磨き方」を、指導者が「教える」というよりは、一緒に追求・探求するような指導。

(あるいは、様々な表現の方法を、指導者は「提示」や「紹介」をするだけにして、最終的に「どう表現するか」「何を表現するか」というところは、生徒自身に選ばせるような指導。
そういう感じが理想ではないかと、感じています)。



…もちろん、それとは逆に、

表現(創作)の「意図」や「感性」自体を教えたり、「意図」や「感性」自体に白黒つけたりするような指導法も、あるだろう。

「こういう意図やこういう感性は良い」「ああいう意図やああいう感性は悪い」という指導法も、あるだろう。

そういうポリシーで指導していらっしゃる先生も、たくさんいるだろう。

でも、私としては、究極的には、表現者の「意図」や「感性」というものは、その表現者が「持って生まれたもの」だと思っている。

もしくは、表現者自身のセンスや裁量で、「自分で選ぶもの」「自分で創るもの」「自分で答えを出すもの」。

あまり、他者がどうこう言えるものではない、と、私は思っています。


 
…ただし、あまりに未熟すぎる曲や演奏だと、何の意図も感性も反映されていないような場合もあります…。

そういう場合は、単に、技術的な問題であることが多いと思います。(意図や感性以前の問題)。

だから、やはり、最低限の技術や知識を詰め込むような指導や、「型」を教え込むような指導も、有効だと思います。

例えるなら、詩や小説を書くのに、感性や感情だけで書けるわけはないし、知らない言語で、書けるはずもない。

まずは、「言語」や「単語」という、表現するための「手段」や「技術(ツール)」を持っていないと、いくら感受性が豊かな人間でも、詩も小説も書けないと思います。(コックリさん的・神懸かり的な自動書記とかなら、話は別だけど)。

そしてそれは、音楽でも、似たようなものだと思っています。

 
(※当記事で、私の言う「指導」とは、あくまで、音楽やアートの分野のことです。しかも個人指導についてです。音楽以外の分野や、幼児教育や義務教育のことについては、経験も無いのでよく分かりません)。



さて、世の中で、一番まずい指導や批評(感想)は、

「これはカバー曲だからダメ」「このジャンルの音楽は全て低俗」「電子楽器は全て冷たい」「生楽器は全てダサい」「このジャンルの曲は全て退屈」
○○人らしい演奏」「男性(女性)ならではの力強い(優しい)演奏」「若者(老人)ならではの演奏」「言葉という表現ツールでは気持ちは伝わらない」、

みたいな批評(感想)だろうと思われる。

要は、単なる決め付けタイプね。

個々の曲や詩や演奏の、その中身や音楽性を、ちゃんと感じようとしていない感想。

(作品の、「表現手段」や「ジャンル」
や「楽器」や、表現者の人種や性別や年齢などなど…、いわば、外側の手段・パッケージ・額縁だけで、中身を批評してしまうタイプ)。

…確かに、「ジャンル」や「楽器」というものは、ある程度は、その音楽の中身を決定付けることも多いけれど、

しかし、ジャンルや楽器の持つステレオタイプ的なイメージと、その曲の持つ中身・内容・本質は、必ずしもイコールではなことが少なくないのではないかと、私は実感しています。

例えば、真面目で大人しくて伝統的なイメージのクラシック音楽にだって…、むしろ、非常に官能的で、情熱的で、不道徳で、騒がしくて、音楽理論ぶっ壊すほど革新的な曲は、数えきれないほどあります。

逆に、騒々しくて自由なイメージのロック音楽にだって…、むしろ、非常に真面目な内容で、音楽理論のルールを壊さず、伝統的な音楽形式の枠の中だけで表現しているような作品も、これまた、数えきれないほどあります。

(どちらのタイプの音楽が「良い」とか「悪い」とか、そういうことではなくて)。

やはり、外側のジャンルやカテゴライズやパッケージや先入観で、音楽や人間の中身まで結論付けすぎず、

1曲1曲、ちゃんと心で感じたほうが、楽しいのではないか?心地良いのではないか?と、思います。



というわけで、話は少々それましたが、

アートには、絶対的な「正解」は無いけれど、

ある程度、バシッと誤解なく伝わりたい部分は、あると思います。

文学や小説で言えば、

その作品が、ファンタジー寄りなのか、リアルなのか、いつの時代の物語なのか、あるいは、特に時代は設定されていないのか、登場人物それぞれ、どういう気持ちなのか、あるいは、あえて気持ちは描写されていないのか、結末はどうなったのか、あるいは、結末はハッキリ書かれていないのか、文体や比喩はどうなのか…、などなど、

そういう部分の読み取りには、ある程度、「正解」があると思う。

で、そのうえで…、それをどう感じるか、どう解釈するか、その作品を好きか嫌いか、その文体を気に入るか気に入らないか、

というような部分は、必ずしも正解は無いことが多いのではないか、と思います。

「画一的を嫌う」という、画一的な感性。

「画一的な音楽教育」を嫌いすぎる指導者は、むしろ、とても「画一的」だと思う。

そういう指導者さんは、どんな芸術でも、どんな生徒でも、「画一的に反復練習することは悪」と、頑なに決めすぎている気がする。
 


例えば、伝統芸能みたいに、画一的に繰り返し繰り返し“型”や技術を習得していくことで…、やがて「“型”破り」を体得したり、自由な境地に達する場合なども、多々あるはずである。

それに、生徒一人一人、人間一人一人のパーソナリティ・個性・性格は、千差万別。

生徒によっては、繰り返し基礎練習・基礎知識を習得することで、やがて、その生徒らしい自由な個性・感性を発揮しやすいタイプも、少なくないはず。

もちろん、“型”など習わず、基礎的な教則本など使わず、基礎的な楽譜も習わず、先生にも習わず…、ただただ自分の出したい音を、独力で探していくタイプもいるだろう。

そうやって、独学で、偉大な音楽家になった人もたくさんいるだろう。

要は、成長や勉強のルートは一つではないだろうし、学び方・取り組み方のスタイルも、誰もが同じではないだろう、と思うのだ。

「誰もが、まずは基礎的な“型”を学ばなければなりません!」という意見は、確かに画一的。

だけど、「画一的な音楽教育はいけません!画一的な音楽教育は個性を殺します!」というような意見も、かなり画一的なのだ。
 

 
教育だって、基本的には、「人間対人間」だと思う。
 
あまり、教育の方法やメソッドを、一つに定めすぎてしまうと、なんだか「人間」と接しているのではなく、「ロボット」を教育しているような感じさえしてしまう。
 


しかも、指導者側にだって、様々なタイプの個性・感性があるだろうと思います。

生徒側も先生側も、皆、個性やパーソナリティーが千差万別である以上、
 
「こういう指導方法が正解」「こういう指導方法は間違い」みたいなルール化・マニュアル化は、私は、あまり出来ないと思う。

一般化・普遍化は、難しいのではないか。

「この生徒にとっては、今のところ、この勉強方法が合っているみたいだ」という感じで…、ケースバイケース的なことしか言えない気がします。
 
(音楽教育のみならず、あらゆる人間関係には、「接し方」の正解やメソッドなど、無いと思う)。

だから、生徒によっては、(あるいは、先生によっては)、
 
一見「画一的」と思えるような勉強方法・指導方法・練習方法が、とても性に合っているようなケースも、あるはずだと思う。
 


※ちなみに私自身は、学校も苦痛でしたし、画一的なピアノ練習も、苦痛でしたけど。(^^;)

私の場合は、伝統的でアカデミックな価値観・様式美などの中に、自分の感性を全て同化させてしまうことは、苦痛でした。
 
(それが苦痛だったからこそ、私は今も、自分勝手に創作したりしているのかもしれません。もしそれが苦痛でなかったならば、私は今、クラシック音楽の現場や音楽教育の現場とかで、バリバリ仕事しているはず)。

私の場合は、アカデミックな常識や価値観だけに、従順に従うことが出来ず…、
むしろ、あらゆるジャンル・あらゆる出来事の中に、自分なりに美や喜びや輝きを発見しながら、やってきました。

…でも、ほとんどのクラシック作曲家なども、そうだと思いますけど。(自画自賛したいために、そう言いたいわけではありません)。

前時代の伝統や価値観を、そのままコピー&ペイストしていただけの音楽家なんて…、演奏家や評論家や教育家にはいたかもしれないけど、作曲家には、あまり、いなかったのではないか?と思う。

少なくとも、音楽の教科書に載っているようなクラシック作曲家達は、だいたい皆さん、その時代の伝統・常識・慣習を、ぶち壊しまくってますね。

(むしろ逆に、ロックやポップス業界のほうが、前時代に確立されたメソッド・音楽理論・形式・伝統・テンプレートに、従順な気がします。「音響」や「サウンド」面は、日進月歩で進歩するけど…、コードやメロディーなど、音楽的な内容に関しては、あまり、革新的な試みにチャレンジするバンドやアーチストは、少ないように感じます。…売れるためには、ある程度、リスナー誰もが受け入れやすくなければならない、という事情も、あるのでしょうけど…。)
 


ともあれ、話が逸れましたが、
 
「画一的な音楽教育は絶対ダメ」みたいな考え方は、逆に、画一的すぎる気がするのです。

そういう人は、伝統芸能とか伝統工芸とか、一切認めないんですかね?
 


例えば、クラシック音楽で言えば…、

少なくとも、ショパン・リスト以降のピアノ曲の難曲などは、幼い頃から、アカデミックで画一的なピアノ教育を受けていないと、なかなか弾くことは出来るようにはならないはずです。

いや、画一的であるかどうかはともかくとして…、
 
とにかく膨大な時間を、ひたすら反復練習・基礎鍛練に費やさなければ、弾けるようにはなりません。
 


大好きなショパンの曲を、ノーミスの素晴らしい演奏で聴けるだけでも、
 
私は、一見画一的な“型”や、一見同じことの繰り返しに見える反復練習・基礎鍛練なども、充分、意義があるのではないかと思っています。(´ω`)
 
(私自身は、画一的な反復練習に馴染めなかった。でも、その効果や必要性は認めているし、その恩恵に、感謝もしているのです)。
 

 
音楽にとって一番大事なのは、間違いなく、ハートや、感性や、個性や、インスピレーションだとは思う。

でも、そういうハートや感性を表現するために、、、
 
目指す分野や目標によっては、日々、ひたすら反復練習・反復鍛練・基礎体力作りを繰り返すことが、必要な場合もあるはずです。
 
それは、アスリートなども同じかもしれません。

野球でもサッカーでも格闘技でも、一番大事なのは、多分、気合いや集中力やセンスだと思います。

でも、本当に質の高いプレーを可能にするためには、そういう精神論・根性論だけでは無理。

基礎的な技術や体力がなければ、何も実現できないと思うのです。

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