2017.08.16 Wednesday

2017.8.16

ちょっと前回記事の続きです。(この記事だけお読み頂いても意味は通じます)

 

よく「多様性を重んじることが大事」と言われますし、私も同感ではありますが、

 

とは言え、何でもかんでも尊重したり認めたりすることは無理だと思います。

 

例えば、明らかに他者の迷惑になる行為や、明らかに他者を見下すような発言や、事実に基づいていない誤解などは、異議を唱えても良いと思うし。

 

 

誰かの言動や作品や演奏を、時には批判したり、疑問視したり、問題視したりしても良いのではないかと思います。

 

…最低限、その言い方とかは気をつけるべきだとは思いますが。。

 

当然、私の言動や作品も、誰かにとって気に入らない場合も多々あると思ってます。

 

(あと、自分の理解(共感)の及ばない人や行為や、作品や価値観に対して。無理に理解(共感)しようとしすぎたり、無理に分かったつもりになろうとしすぎなくても良いのではないか?と、私は思う)

 

 

 

 

で、それに関連して、、、

 

例えば、誰かの仕事上のミスや怠慢、誰かの不健康な生活習慣、誰かの無責任な暴言・暴論、スポーツや楽器のミス・技術不足なども、

 

もちろん問題視したり、批判したりしても良いと思う。

 

(「多様性を尊重することが大事」とは言え、何も問題視してはいけない、何も疑問視してはいけない、一切批判してはいけない、一切意見を言ってはいけない、とはならないはずです)

 

 

 

 

…でも、そういう場合であっても、まずは、その言動や作品や仕事ぶり自体を問題視するべきだと思う。

 

(その人の)言動や演奏や仕事ぶりを見て、その人の性格・人間性までをも、あまりにも断定しすぎてしまうのは、

 

私は、あまり良くないと思っている。

 

 

例えば、楽器・演奏が下手だったり、仕事やスポーツでミスしたりすると、「お前は頑張ってない」「お前は集中力が足りない」「お前は(仕事への)愛が足りない」「気持ちが足りない」「優しさが足りない」「心を込めてない」「プロ意識が足りない」、

 

みたいな感じの言い方ね。(´・_・`)

 

 

しかし実際は、スポーツや楽器をやったことある人なら分かるだろうが…、

 

達人なら、あまり集中しなくても、目をつぶってでも、雑談しながらでも、(ふざけながらでも)、簡単なプレーならミスしないが、(呼吸するように無意識でプレー出来る)、

 

でも素人は、どんなに集中しても、どんなに頑張っても、どんなに(その楽器を)愛していても、どんなに真面目に取り組んでも、簡単なことさえ、頻繁にミスするものである。

 

 

加えて、一人一人の人間の反射神経・能力・脳力・身体なども、生まれつき差があるものである。

 

でないと、165キロのボールが投げられる大谷投手は、とても集中して頑張って野球を愛しているが、140〜150キロしか投げられない投手や、試合に負けてしまった選手は、「集中してない」「頑張っていない」「気合・根性が足りない」「気持ちが足りない」「努力が足りない」「プロ意識が足りない」という風潮にもなってしまう。

 

 

 

 

ところで、少し話は逸れるかもしれないが、

 

「病は気から」「引き寄せの法則」「自業自得」「自己責任」「因果応報」「笑う門には福来る」みたいな言葉は、ある程度は真理だと思うが…、

 

しかし、人生に降りかかる出来事の原因を、100パーセントその人の内面・性格・努力・行動に求めすぎてしまうのは、私は間違っていると思う。

 

 

では、若くして病気になった人や、何かに失敗したような人は、皆、性格がネガティブで、ストレスが多く、笑顔が少なく、努力が足りなくて、生活習慣が悪かったのだろうか?

 

逆に、何かに成功した人や健康で長生きな人は、皆、性格がポジティブで、笑顔が多く、規則正しい生活で、前向きな思考回路だったのだろうか?

 

 

僕は、そんなことはないと思うですね。

 

実際私は、前向きで性格が良い感じの人でも、早死にしたり、試験や事業に失敗したり、時には災害・事故・冤罪・犯罪などに巻き込まれた人なども知っているし、

 

逆に、人の悪口ばかり言っていたり、怒りっぽかったり、集中力が欠如していたり、差別主義者だったりする人が、成功して長寿な人とかも、何人も知っている。

 

難関オーディションでグランプリとった人が、「まったく自信なかった。まさか自分が受かるとは思わなかった」と、謙遜でもなく、本当にそう思っているケースも何人も知っているし、

 

ネガティブでナイーブで自信が無いような人が、音楽家として大成功しているようなケースも何人も知っている。

 

(あるいは、心から親しみを込めて笑っているのに、「作り笑いするな」などと誤解されてしまうようなことも、誰にでも経験あるのではないか?…残念ながら、ポジティブに素直に生きていても、「笑う角」が叩かれたり誤解されてしまうことも起こりうるのだ。逆に、打算や演技だけの笑顔が賞賛されることもあるし)

 

 

 

 

そんなわけで、起こった出来事の原因や、成功・失敗や、体調不良の原因を、100パーセントその人の内面や生き方のせいにしてしまうような言い方は、少し残酷だと思う。

 

何が原因かなんて、様々な要因が絡み合っているだろうし、我々人間には、想像するくらいしか出来ない。

 

 

特に、病気になった人や、何かに失敗した人や、災害・犯罪などに巻き込まれてしまった人に対して、

 

それを本人の(性格や生き方の)責任・原因だと決めつけすぎるのは、失礼かつ残酷なことだと思う。

 

…大きな(事業の)失敗や大病のみならず、ちょっとした体調不良や失敗・ミス、風邪、体型(肥満)、肌質、身体能力、脳力、パニック障害・性同一性障害なども、よく、本人の生活習慣のせいだとか、食生活のせいだとか、ストレスのせいだとか、考え方が悪いからとか、性格が悪いからとか、ポジティブさが足りないからとか、気合・集中力が足りないからとか、覚悟が足りないからとか、気楽さが足りないからとか、頑張りすぎているからだとか、云々、、、

 

分かったふうに、理由や原因を断定されてしまっている場面を見かけます。(私自身、そのように断定されたことは多々あります)

 

 

確かに、本人の責任であるケースも多いでしょうが、

 

でも、持って生まれた資質や体質や育った境遇など、本人の努力ではどうにもならないことも、多々あるのではないか?と思います。(私の考え方は甘いかもしれないが)

 

原因や要因を推測するくらいなら素晴らしいけど、あまりにも断定しすぎてしまうのは、良くないと思うのだが?

 

 

 

 

人生は、何事も、本人の意志・心・精神・努力・生活習慣が大事なことは言うまでもないが、

 

でも、物事(出来事)の結果や成果というものは、必ずしも本人の心・精神・性格・努力とは、100パーセント一致するわけでもない。

 

本人の努力・選択では、どうにもならないことも少なくないはず、と思う。

 

 

 

 

(※どんな暴力もどんな性癖も、「持って生まれた資質だから許そう。本人の責任ではないから許そう」という主張ではないです)

 

 

 

 

音楽の世界でも、作曲や演奏が下手だったりすると、

 

「あいつはプロ意識が足りない」「あいつは一生懸命さが足りない」「音楽への愛が足りない」「心を込めていない」「精神性が低い」「心や魂がレベル低い」、

 

などと判断されてしまうことも多いが、

 

僕は、必ずしもそうとは言い切れないと思っている。

 

せいぜい、「一生懸命さが足りないように見える」とか、「愛や集中力が足りないように見える」とか、そういう言い方しか出来ないはずです。

 

(想像は出来るけど、断定は出来ないと思うのです)

 

 

 

 

誤解が無いように言っておきますと、

 

誰かの作品や演奏を聞いて「ヘタクソ」と言ったり「嫌い」と言ったりすることは、あまり問題ないと思っています、

 

感想は、個人個人、自由であるべきですし。

 

(無理してまで褒めることなんてないと思います)

 

 

ただし、誰かの演奏や作品を見て、「ヘタクソ」とか「嫌い」などと言うだけに留まらず、

 

「こいつはプロ意識が足りない」とか、「こいつは音楽(仕事)への愛が無い」とか、「こいつは人間的な心が無い」とか言って、その人の内面まで断定しすぎてしまうのは、必ずしも正しくはないと思う。

 

そういうのは、あくまでも「想像」でしかない、

 

自分の個人的な「想像」を、あまりにも真実と思い込みすぎてしまうのは、ちょっと失礼ではないか?と、私は思っています。

 

 

 

 

…私自身、音楽をやっても、音楽以外の仕事・バイトをやっても、要領は悪いほうなので、

 

心から一生懸命やっているのだが、ミスしてしまうこともあったりして、

 

で、「ヘタクソ」とか言われたり、ミスを指摘されたり、叱られたり、怒鳴られたり、時には殴られたりしたこともあったが、

 

それは、全然構わないのだが、(むしろ、ありがたいとも思ってます)、

 

でも、「お前は一生懸命さが足りない」とか、「お前は音楽への(仕事への)愛が無い」とか、「お前は集中してないからミスをする」とか、

 

私の心の中を想像で断定されてしまうのは、間違っていると思うのです。

 

 

 

 

低レベルの演奏や、仕事上のミス・不手際を、

 

指摘したり、叱責したり、呆れたり、怒ったり、嫌ったりするのは全然オーケーだと思う。

 

(※ミスが多い者や能力が低い者は、仕事をクビになったり、依頼が減ったりして、自然淘汰されるのも当然だと思う)

 

でも、そういうヘタクソな技術・ミスなどによって、あまりにも、その人の性格や精神性までをも断定しすぎてしまうのは、僕は間違っていると思う。。

 

 

 

 

もちろん、仕事・スポーツ・楽器演奏などで、あまりにもミス連発する者は、「本人の責任」「やる気・集中力の欠如」と判断されてしまっても仕方ないかもしれないが…、

 

でも、そういう場合であっても、例えば「集中しすぎてミスする」というようなケースも、あるかもしれないし。

 

そういう人に向かって、「お前は集中力が足りないからミスするのだ!」とか言って叱責するのは、私は良くないと思っています。

 

 

 

 

ミスや失敗というものは、心がまえや内面・精神・性格以外にも、様々な要因・原因が考えられる。

 

先天的な原因もあるかもしれないし、後天的な原因もあるかもしれない。

 

(単に、向き不向き、得手不得手もある)

 

もちろん、本当に、気合いや集中力の欠如が原因の場合もあると思いますが。。。

 

 

 

 

誰かのミス・失敗を目撃した時は、その人の内面や性格や生き様を決めつけてしまうよりも、

 

具体的かつ科学的なアドバイスをしたり、上達のコツを教えたりするほうが私は好きだ。

 

ネチネチ性格診断したり、「お前は愛が無いから失敗する」、「お前は集中力が足りないから失敗する」、「お前は学生気分だから(仕事で)ミスが多い」、「気持ち・気合い・努力が足りない」、「ポジティブさが足りない」とか言って、その人の内面を断定してしまうより、

 

具体的な問題点や改善点を指摘・アドバイスするほうが、よほど建設的だと思う。

 

 

もし集中力の欠如など、本当に精神的・性格的なことが、失敗の原因になっているなら、それをネチネチ責めるのではなく、

 

では、どのように集中すれば良いのか、どのポイントに集中すれば良いのかを、具体的に提案なり助言なりすれば良いと思います。

 

(ただただ無闇に「もっと集中せよ!」ではなくて。集中するにも、優先的にどのあたりに集中したら良いかというポイントは、あるはずなのである)

 

 

 

 

…いずれにせよ、その人の内面・考え方・生き方だけが、100パーセント、その出来事を引き起こす原因になっていないのではないか?と思います。

 

本人の意思や努力では100%コントロール出来ない、DNAや潜在意識、生まれ育った環境や境遇や習慣、持って生まれた脳や反射神経、持って生まれた体質や遺伝子、

 

そういう要因も、人それぞれの能力・知力・体力・性格の違いの原因になっているだろうし、

 

その人の人生で起こる出来事の原因にもなっていると思う。

 

 

 

 

人生、何事も、本人の努力や選択、意思や集中力が大事であることは言うまでもないが、

 

100パーセント全てを本人のせいにしてしまうのは、私は良くないと思う。

 

(誰かの言動・演奏・作品・仕事ぶり等を見て、その人の性格や心理をあまりにも断定しすぎてしまうのも、良くないと思っています)

 

 

 

 

ただ、分かってはいる、

 

一般的な価値観としては、

 

■「人生は自分の努力・選択の結果なのだから、あまり先天的な資質(性質)のせいにしたりするのは、みっともない」

 

■「現状に満足いかないなら努力するべき」

 

■「演奏や作品や仕事ぶりで、人格や性格を判断されるのは当然のこと」

 

というような考え方が、一般的だとは思う。

 

その通りだとも思う。

 

 

私も、基本的には「人生は自己責任」だと思うし、自分の望むことを自分で実現できるよう、努力すべきだと思っています。

 

「人生で起こる全てのことには意味(意義)がある」というような考え方も、私はとても好きだし、

 

自分の夢・希望・願望を実現化させることが出来る、自分のパワー(可能性)のようなものも信じていたいと思う。

 

(※ちなみに個人的には、もはや人の批判とかは、あまり気にしないかも。何をやるにせよ、あまり人の批判を恐れたり、人の反応を気にしすぎたり、人に気に入ってもらうために何か(創作活動とか)するのではなく。まずは、自分自身の内部から沸き起こる衝動・願望・夢を大事にしたいと思ってます。その結果として、人様に気に入って頂けたら、もちろん嬉しいですが…)

 

 

 

 

私も基本的にはそういう考え方なのですが、しかし同時に、本記事で書いたような見方・感じ方も忘れたくはない、という感じです。

 

何が起きても、全て「本人のせい」「本人が引き寄せた」「本人が選んだ結果」「本人に原因がある」「自業自得」と断定しすぎてしまうのは、私は少々受け入れがたいし、100パーセント真理・真実とも思えないです。

 

(あと、演奏・作品・仕事・健康状態・スポーツ等がイマイチな人は、必ず100パーセント「内面や性格や心構えがダメな奴」と断定しすぎてしまうのも、とうてい真実とは思えないです)

 

 

 

 

なので、もし何か望ましくない出来事に見舞われてしまったとしても、

 

あまり「自分のせい」「自業自得」「バチが当たった」などと、考えすぎないほうが良いと思います。

 

物事や状況が上手くいかない時は、しっかり自分を反省したり改善したりすることも大事だと思いますが…、

 

同時に、必要以上に「自分のせい」にして、あまりにも自分を責めすぎてしまうこともない、と思う。

 

私自身、自分を必要以上に責めてしまいがちなので、そのように思うのでアルが…。

 

 

 

 

そもそも、ポジティブな考え方を出来ること自体、とてもラッキーというか、恵まれていることだとも思う、

 

たまたまラッキーにも、脳や心身が健康に生まれつき、今、たまたま平和で豊かな国(状況)に生きているからこそ、前向きに考えることが可能な気もする。。

 

中には、生まれつき逆境(不遇)でも前向きに生きていらっしゃる方々もいて、それは本当に尊敬に値しますが、

 

私も含めて大抵の人は、もし生まれつき逆境(不遇)だったりしたら、そう簡単には、前向きに生きることさえ容易ではない気がします。

 

 

 

 

とかく成功した人は、気難しいストイックな性格でも、軽くて楽観的な性格でも、(どんな性格・パーソナリティーであっても)、

 

「その性格ゆえに成功した」と判断されがちだし、

 

「この人は魂や人格や人間性が素晴らしい」とか言われたりもする。

 

 

でも成功してない人は、ストイックだと「頑張りすぎ」とか「もっと自然体になれ」とか言われたり、楽観的だと「危機感が足りない」「一生懸命さが足りない」なんて言われたりもする。(時には、人格・人間性・精神性を低く見られることもある)

 

 

要するに、割と多くの人が、あまりにも結果重視で、

 

個人個人の人間性やパーソナリティーそのものを認めようという気は、実は、あまり持っていないようにも思われる。

 

 

個人的には、(人生や出来事の)結果・状況・能力・作品・演奏力・健康状態・成功不成功などを切り離して、

 

もっと、その人そのものを認めるというか、

 

…いや、認めなくてもいいから、せめて否定したり断定したり見下したりしない世の中になれば良いな、と思う時も多いです。

 

 

 

 

いずれにせよ、人生に起こる出来事…、

 

成功や失敗や健康や病気は、

 

こういう生き方が原因だとか、

 

こういう性格や考え方が原因だとか、

 

こういう気分で生きれば必ず人生は成功するとか、(or失敗するとか)

 

あまり軽々しく断定できないと思うのだが?

 

出来事を引き起こす原因・要因を、あまりにも断定しすぎてしまうのは、自分の心の中だけでやってるなら自由だけど、他者に言い過ぎてしまうと、ちょっと失礼で意地悪かな?と思います。

 

 

 

 

もちろん、他人のことに「いっさい口を出すな」ということではなく。

 

(他者のことを)応援したり、心配したり、自分なりの意見・提案・批判・苦言・アドバイス等を伝えることは、素晴らしいことだと思うけど、

 

でも、その人の性格や、その人の能力や、その人の心理や、

 

その人が成功するための方法・秘訣や、

 

その人の目指すべき道や、

 

その人が今までどれだけ頑張ってきたかとか…、

 

そういうことを、あまりにも分かったつもりになってしまうような言い方は、少々傲慢だと思う。

 

人生の決定権・選択権は、その人本人にあるべきだと思いますし。

 

 

 

 

人生や健康や成功・不成功の方程式など、神様でもない我々には、誰にも完璧には分かることは出来ないのではないか?と思っています。

 

考察や推察くらいは出来るが、断定までは出来ない。

 

…しかも、全ての人に共通する成功哲学・人生ルール・望ましい考え方なども、無いように思われますし。

 

 

 

 

他者の性格や、他者の想いや、他者の(今までの)頑張りなどは、エスパーでもない我々には、100パーセント完璧に分かるわけはない。

 

誰かの演奏や作品や仕事ぶりを見て、気に入らなければ、厳しく批判しても良いと思うけど、

 

その人の内面や、性格や、これまでの努力や、集中力や、愛の深さや、プロ意識の有無などは、そう簡単には断定することは出来ない…。

 

 

 

 

…そうは言っても、もちろん我々は、誰かの演奏・作品・振る舞い・仕事ぶり等を見て、

 

その人の内面を想像してしまうし、その人の人格を判断してしまうのも当然だけど、、、

 

でも、自分の単なる想像を、あまりにも100%「真実」と思い込みすぎてはいけない、と思う。

 

我々は誰しも、物事や人物の、せいぜい「氷山の一角」くらいを見る視野(能力)しか持っていないので。

 

 

 

 

表面的な演奏・作品・成功不成功・仕事ぶり等は、お互い遠慮なく批判や意見を交換しつつ…、

 

で、その奥底の内面・性格・人間性・パーソナリティー等に関しても、もちろん批判や意見を言い合って良いと思うけど、

 

ただ、その部分に関しては、そう簡単には断定することは出来ないし、そう簡単には何が良いとか悪いとかも言い切れないので、

 

もし意見交換する場合、真摯に「考察」「推察」「提案」するくらいしか出来ない気がします。

 

 

(※演奏・作品・仕事ぶり等の…、それら一つ一つの「意図」なら、割と断定することは可能だと思いますし、比較的、見つめ直したり改善したりしやすい部分だとは思います)

2013.04.28 Sunday

無題1

私もよく言ってしまう言葉だけど、(前回記事でも書いてしまったけど)、

「音楽やアートに、絶対的な正解は無い」、

…とは言え、演奏者(作曲者)が表現する、作品の意図・イメージ・雰囲気・世界観などの受け取り方には、ある程度、「正解」があるかもしれません。



感じ方・受け取り方は、一人一人「自由」とは言え、あまり誤解しすぎないほうが良いことも、ある。

例えば、

作者が「単純明快さ」を表現したつもりなのに、聴き手は「小難しい」と感じてしまったり、

作者が「素朴さ」を表現したつもりなのに、聴き手は「オシャレ」と感じてしまったり、

作者が伝統を模した曲を書いたつもりなのに、聴き手は「斬新」と感じてしまったり、

作者が「アンニュイ」を表現したつもりなのに、聴き手は「情熱的」と感じてしまったり、

作者が「無機的」を表現したつもりなのに、聴き手は「ハートウォーミング」と感じてしまったり、

作者が抽象的な曲を書いたつもりなのに、聴き手は「メロディーが良い」と感じてしまったり…、

そういう場合は、曲が悪いか、演奏が悪いか、聴き手がちゃんと聴けていないかの、どれかだと思います。

(※その曲を、気に入るか気に入らないか、ということは、また別問題。今ここで問題にしているのは、「(作曲者の)意図や感性や、想いやイメージが、誤解なく伝わるかどうか」ということです。そこが伝わったうえで、好きになろうが、嫌いになろうが、どう感じようが、それは、聴き手の自由だと思います)。

 
もちろん、“音楽”というものは、1曲の中で、たった1つの感情のみを表現しているわけではないし、感じ方も人それぞれ。

簡単に定義・断定・言語化を出来ないからこそ、音楽だと思うのですけどね…。



それから、当然、「演奏」にも、良し悪しはある。

あるのだけれど、

例えば、ドラマティックな表現と控え目な表現、どちらが良いか悪いかとか、テンポ速めとテンポ遅め、どちらが良いか悪いか、明るめの音色と暗めの音色、どちらが良いか悪いか、お客さんを意識したパフォーマンスをしたほうが良いのか、あるいは、お客さんの存在など意識せず、無心で没入したほうが良いのかとか、感情的に演奏したほうが良いのか、あるいは、クールに淡々と演奏したほうが良いのかとか…、

そういう部分は、あまり何が「正解」とは、言えない気がしている。

かなり好みの問題だし、曲の持つ雰囲気や世界観によっても、違ってくると思う。

(演奏家の個性によっても、違ってくる)。



そしてまた、音楽には、「あえて、強い想いや感情を表現しすぎない」「あえて、意図や感性を表現しすぎない」という感じの、奥ゆかしい曲や、奥ゆかしい演奏も、あると思います。

「ただそこに在るだけ」みたいな、空気のような、さりげない音楽。

(それは、言い換えれば、「“無意図”という意図がある」と言えるかもしれないし、「“無為”というニュアンスを、人為的に演出・創作している」とも、言えるかもしれません)。



さて、「感想」や「批評」というものの中には、

当然、表現者(演奏者)の、感性や意図そのものを否定するような感想(批評)も、有りうると思います。

私は、滅多なことでは、そういう感想(批評)は、言いませんけど(笑)。

なぜなら私は、演奏者(作曲者)の意図や感性自体には、究極的には、何が良くて何が悪いというのは、あまり無いと思っているからです。

私が好きになれない感性や意図であっても、それを「悪い」とは、思えませんし。



だから、もし、私が批評をするとしたら、

「その意図で演奏するなら、もっとこうするべきではないか」、

「その感性なら、もっとこういう方向性や表現方法で作るべきではないか」、

「その歌声を活かすには、もっとこうしたほうが良いのではないか」、

「曲の意図(感性)と演奏者の意図(感性)が、食い違っているのではないか」、

(↑例えば、アンニュイでクールな曲なのに、演奏者が、情熱的にプレイしすぎている…、とか)、

あるいは、逆に、「曲の意図(感性)と演奏者の意図(感性)が一致しすぎていて、演奏者の個性やエゴが、無さすぎるのではないか」、とか…、

そのような観点で、個人的な意見・批評を述べさせて頂くことは、あるかもしれません。



※ちなみに、「指導」というものも、そういう感じが理想的だと、私は思っています。

特に、個人指導の場合は。

ようは、生徒の「意図」や「感性」自体は、可能な限り全肯定して、

で、それを、より魅力的に活かすための「表現の磨き方」を、指導者が「教える」というよりは、一緒に追求・探求するような指導。

(あるいは、様々な表現の方法を、指導者は「提示」や「紹介」をするだけにして、最終的に「どう表現するか」「何を表現するか」というところは、生徒自身に選ばせるような指導。
そういう感じが理想ではないかと、感じています)。



…もちろん、それとは逆に、

表現(創作)の「意図」や「感性」自体を教えたり、「意図」や「感性」自体に白黒つけたりするような指導法も、あるだろう。

「こういう意図やこういう感性は良い」「ああいう意図やああいう感性は悪い」という指導法も、あるだろう。

そういうポリシーで指導していらっしゃる先生も、たくさんいるだろう。

でも、私としては、究極的には、表現者の「意図」や「感性」というものは、その表現者が「持って生まれたもの」だと思っている。

もしくは、表現者自身のセンスや裁量で、「自分で選ぶもの」「自分で創るもの」「自分で答えを出すもの」。

あまり、他者がどうこう言えるものではない、と、私は思っています。


 
…ただし、あまりに未熟すぎる曲や演奏だと、何の意図も感性も反映されていないような場合もあります…。

そういう場合は、単に、技術的な問題であることが多いと思います。(意図や感性以前の問題)。

だから、やはり、最低限の技術や知識を詰め込むような指導や、「型」を教え込むような指導も、有効だと思います。

例えるなら、詩や小説を書くのに、感性や感情だけで書けるわけはないし、知らない言語で、書けるはずもない。

まずは、「言語」や「単語」という、表現するための「手段」や「技術(ツール)」を持っていないと、いくら感受性が豊かな人間でも、詩も小説も書けないと思います。(コックリさん的・神懸かり的な自動書記とかなら、話は別だけど)。

そしてそれは、音楽でも、似たようなものだと思っています。

 
(※当記事で、私の言う「指導」とは、あくまで、音楽やアートの分野のことです。しかも個人指導についてです。音楽以外の分野や、幼児教育や義務教育のことについては、経験も無いのでよく分かりません)。



さて、世の中で、一番まずい指導や批評(感想)は、

「これはカバー曲だからダメ」「このジャンルの音楽は全て低俗」「電子楽器は全て冷たい」「生楽器は全てダサい」「このジャンルの曲は全て退屈」
○○人らしい演奏」「男性(女性)ならではの力強い(優しい)演奏」「若者(老人)ならではの演奏」「言葉という表現ツールでは気持ちは伝わらない」、

みたいな批評(感想)だろうと思われる。

要は、単なる決め付けタイプね。

個々の曲や詩や演奏の、その中身や音楽性を、ちゃんと感じようとしていない感想。

(作品の、「表現手段」や「ジャンル」
や「楽器」や、表現者の人種や性別や年齢などなど…、いわば、外側の手段・パッケージ・額縁だけで、中身を批評してしまうタイプ)。

…確かに、「ジャンル」や「楽器」というものは、ある程度は、その音楽の中身を決定付けることも多いけれど、

しかし、ジャンルや楽器の持つステレオタイプ的なイメージと、その曲の持つ中身・内容・本質は、必ずしもイコールではなことが少なくないのではないかと、私は実感しています。

例えば、真面目で大人しくて伝統的なイメージのクラシック音楽にだって…、むしろ、非常に官能的で、情熱的で、不道徳で、騒がしくて、音楽理論ぶっ壊すほど革新的な曲は、数えきれないほどあります。

逆に、騒々しくて自由なイメージのロック音楽にだって…、むしろ、非常に真面目な内容で、音楽理論のルールを壊さず、伝統的な音楽形式の枠の中だけで表現しているような作品も、これまた、数えきれないほどあります。

(どちらのタイプの音楽が「良い」とか「悪い」とか、そういうことではなくて)。

やはり、外側のジャンルやカテゴライズやパッケージや先入観で、音楽や人間の中身まで結論付けすぎず、

1曲1曲、ちゃんと心で感じたほうが、楽しいのではないか?心地良いのではないか?と、思います。



というわけで、話は少々それましたが、

アートには、絶対的な「正解」は無いけれど、

ある程度、バシッと誤解なく伝わりたい部分は、あると思います。

文学や小説で言えば、

その作品が、ファンタジー寄りなのか、リアルなのか、いつの時代の物語なのか、あるいは、特に時代は設定されていないのか、登場人物それぞれ、どういう気持ちなのか、あるいは、あえて気持ちは描写されていないのか、結末はどうなったのか、あるいは、結末はハッキリ書かれていないのか、文体や比喩はどうなのか…、などなど、

そういう部分の読み取りには、ある程度、「正解」があると思う。

で、そのうえで…、それをどう感じるか、どう解釈するか、その作品を好きか嫌いか、その文体を気に入るか気に入らないか、

というような部分は、必ずしも正解は無いことが多いのではないか、と思います。

2011.11.25 Friday

「画一的を嫌う」という、画一的な感性。

「画一的な音楽教育」を嫌いすぎる指導者は、むしろ、とても「画一的」だと思う。

そういう指導者さんは、どんな芸術でも、どんな生徒でも、「画一的に反復練習することは悪」と、頑なに決めすぎている気がする。
 


例えば、伝統芸能みたいに、画一的に繰り返し繰り返し“型”や技術を習得していくことで…、やがて「“型”破り」を体得したり、自由な境地に達する場合なども、多々あるはずである。

それに、生徒一人一人、人間一人一人のパーソナリティ・個性・性格は、千差万別。

生徒によっては、繰り返し基礎練習・基礎知識を習得することで、やがて、その生徒らしい自由な個性・感性を発揮しやすいタイプも、少なくないはず。

もちろん、“型”など習わず、基礎的な教則本など使わず、基礎的な楽譜も習わず、先生にも習わず…、ただただ自分の出したい音を、独力で探していくタイプもいるだろう。

そうやって、独学で、偉大な音楽家になった人もたくさんいるだろう。

要は、成長や勉強のルートは一つではないだろうし、学び方・取り組み方のスタイルも、誰もが同じではないだろう、と思うのだ。

「誰もが、まずは基礎的な“型”を学ばなければなりません!」という意見は、確かに画一的。

だけど、「画一的な音楽教育はいけません!画一的な音楽教育は個性を殺します!」というような意見も、かなり画一的なのだ。
 

 
教育だって、基本的には、「人間対人間」だと思う。
 
あまり、教育の方法やメソッドを、一つに定めすぎてしまうと、なんだか「人間」と接しているのではなく、「ロボット」を教育しているような感じさえしてしまう。
 


しかも、指導者側にだって、様々なタイプの個性・感性があるだろうと思います。

生徒側も先生側も、皆、個性やパーソナリティーが千差万別である以上、
 
「こういう指導方法が正解」「こういう指導方法は間違い」みたいなルール化・マニュアル化は、私は、あまり出来ないと思う。

一般化・普遍化は、難しいのではないか。

「この生徒にとっては、今のところ、この勉強方法が合っているみたいだ」という感じで…、ケースバイケース的なことしか言えない気がします。
 
(音楽教育のみならず、あらゆる人間関係には、「接し方」の正解やメソッドなど、無いと思う)。

だから、生徒によっては、(あるいは、先生によっては)、
 
一見「画一的」と思えるような勉強方法・指導方法・練習方法が、とても性に合っているようなケースも、あるはずだと思う。
 


※ちなみに私自身は、学校も苦痛でしたし、画一的なピアノ練習も、苦痛でしたけど。(^^;)

私の場合は、伝統的でアカデミックな価値観・様式美などの中に、自分の感性を全て同化させてしまうことは、苦痛でした。
 
(それが苦痛だったからこそ、私は今も、自分勝手に創作したりしているのかもしれません。もしそれが苦痛でなかったならば、私は今、クラシック音楽の現場や音楽教育の現場とかで、バリバリ仕事しているはず)。

私の場合は、アカデミックな常識や価値観だけに、従順に従うことが出来ず…、
むしろ、あらゆるジャンル・あらゆる出来事の中に、自分なりに美や喜びや輝きを発見しながら、やってきました。

…でも、ほとんどのクラシック作曲家なども、そうだと思いますけど。(自画自賛したいために、そう言いたいわけではありません)。

前時代の伝統や価値観を、そのままコピー&ペイストしていただけの音楽家なんて…、演奏家や評論家や教育家にはいたかもしれないけど、作曲家には、あまり、いなかったのではないか?と思う。

少なくとも、音楽の教科書に載っているようなクラシック作曲家達は、だいたい皆さん、その時代の伝統・常識・慣習を、ぶち壊しまくってますね。

(むしろ逆に、ロックやポップス業界のほうが、前時代に確立されたメソッド・音楽理論・形式・伝統・テンプレートに、従順な気がします。「音響」や「サウンド」面は、日進月歩で進歩するけど…、コードやメロディーなど、音楽的な内容に関しては、あまり、革新的な試みにチャレンジするバンドやアーチストは、少ないように感じます。…売れるためには、ある程度、リスナー誰もが受け入れやすくなければならない、という事情も、あるのでしょうけど…。)
 


ともあれ、話が逸れましたが、
 
「画一的な音楽教育は絶対ダメ」みたいな考え方は、逆に、画一的すぎる気がするのです。

そういう人は、伝統芸能とか伝統工芸とか、一切認めないんですかね?
 


例えば、クラシック音楽で言えば…、

少なくとも、ショパン・リスト以降のピアノ曲の難曲などは、幼い頃から、アカデミックで画一的なピアノ教育を受けていないと、なかなか弾くことは出来るようにはならないはずです。

いや、画一的であるかどうかはともかくとして…、
 
とにかく膨大な時間を、ひたすら反復練習・基礎鍛練に費やさなければ、弾けるようにはなりません。
 


大好きなショパンの曲を、ノーミスの素晴らしい演奏で聴けるだけでも、
 
私は、一見画一的な“型”や、一見同じことの繰り返しに見える反復練習・基礎鍛練なども、充分、意義があるのではないかと思っています。(´ω`)
 
(私自身は、画一的な反復練習に馴染めなかった。でも、その効果や必要性は認めているし、その恩恵に、感謝もしているのです)。
 

 
音楽にとって一番大事なのは、間違いなく、ハートや、感性や、個性や、インスピレーションだとは思う。

でも、そういうハートや感性を表現するために、、、
 
目指す分野や目標によっては、日々、ひたすら反復練習・反復鍛練・基礎体力作りを繰り返すことが、必要な場合もあるはずです。
 
それは、アスリートなども同じかもしれません。

野球でもサッカーでも格闘技でも、一番大事なのは、多分、気合いや集中力やセンスだと思います。

でも、本当に質の高いプレーを可能にするためには、そういう精神論・根性論だけでは無理。

基礎的な技術や体力がなければ、何も実現できないと思うのです。