私が好きな交響曲2

前回記事で、ベートーヴェンとチャイコフスキーの交響曲第五番について書きましたが、

私は、その他の交響曲では…、マーラーの第九番と、シベリウスの第四番・第六番・第七番などに、とてつもなく惹かれます。(シベリウスは、特に第六番がお気に入り)。

マーラー第九番は、本当に凄まじいばかりの作品だと思います。(意外とポピュラー性も高いような気がするので、誰にでもオススメしたい作品です!)



で、問題はシベリウスですが…、

シベリウスさんは、他の作曲家の交響曲とは、少々毛色が違うような気もしています。

私の場合、シベリウス作品を聴き終わった後の感覚は、たいてい、「つけ放された」ような感じ?

超、厳しいのだ。

(特に、曲の終わり方が厳しい!四番も六番も七番も、「そして誰もいなくなった…」とか呟きたくなるような終わり方。こんな厳しい終わり方、他にあるだろうか?鳥肌が圧倒される。「ええ〜っ、それで終わるのかよ!?」、みたいな)。

曲の序盤や中盤では、大自然の息吹きや優しさと共存しているような(?)、宇宙や地球や大自然が優しく語りかけてくれるような雰囲気にも満ちているのだけど…、

しかしながら、曲の最後では、人間の主観・感情・情緒などが全否定されて、ただただ圧倒的な自然の流れ・宇宙の流れのみが立ちのぼる…。無心になる…。自分の矮小さを思い知る…。

(※嫌な感覚ではない。なぜなら、「嫌」という感覚すらも無くなるから。錯覚か思い込みかもしれないけど、一切の主観的な感覚・感情・判断・道徳観・価値観などが、無くなってしまう感じなのだ)。

第七番の最後は、珍しく長調で大音量で堂々と終わるけれど…、でもこれって、人間的なポジティブな感情を現しているわけではないですね、多分。

凄まじいし、圧倒される。

(長調なのに、異常に怖い感じもします。圧倒的な太陽の光に近づいて燃されてしまうような感じもするし…、たった今、新しい宇宙が誕生・完成・完了してしまったような感じもする…。単純明解な明るいハ長調和音なのに、これ以上どこにも行けない閉塞感のようなものも(?)、私は感じます。“完全”すぎて怖いし、“完全”すぎて違和感があるのだ。…なぜなら、完全で不変なものなど、この世には有り得ないから…。)



当たり前だが、シベリウスは、ベートーヴェンともチャイコフスキーともマーラーとも、全く違う世界。

むしろ、逆方向だと感じる。

シベリウスの交響曲は、自我やロマンや、ヒューマニズムや人間讃歌の感覚が希薄だと感じますから。

(ある意味、自己否定・人間否定・感情否定・文明否定なほどの厳しい雰囲気です)。

でも、一見冷たいようだけど、最大級の自然讃歌なのかもしれません。

シベリウスの交響曲は、恋とか情熱とか苦悩とか…、人間社会における経験や感情を表現しているというよりも…、「自然」や「宇宙」や「神」。(そして、そこに含まれる、「自分」という存在の圧倒的な小ささ…。)

シベリウスさんは、大自然・大宇宙の運行するエネルギーや雰囲気のようなものを、真っ向から描いているように、(私には)感じられます。

とうてい人知には理解も到達も出来ない、神々や自然や精霊のざわめき・うねり・呼び声…、そういうものが、音になって迫ってくるように、(私には)感じられます。

(↑それらも全て、人間の主観っちゃあ主観なのかもしれないが)。

シベリウス作品、あまり人にオススメする気にはなれないですけどね…。(;´д`)

※シベリウスさんは、60歳頃に筆を折り、以後、作品を発表するのをやめてしまったそうです。(92歳で没するまで、晩年の約30年間は、作品を残していない。毎日、机に向かって作曲はしていたらしいし、時間をかけて、交響曲第8番も作るには作ったらしい。しかし、結局、燃やして破棄してしまったそうです)。そのあたりのエピソードも、彼の曲を聴けば、私は大いに納得です。特に、第七番のあの最後の音を書いてしまったら、もう、筆を折るしかないような気がする…。大自然の中に、独りポツーンと放り出されるような第四番・第六番の終わり方…。そして第七番の、あの最後のオッソロシイ和音…。あんなオッソロシイ境地に辿り着いてしまったら、もう、鳴らすべき音など存在しえないではないか…。シベリウスさんは、「もうこれ以上は作曲できない」「もうこの先には音楽も生命も存在できない」、という地点まで行き着いてしまったように思えてならない…。(その地点は、魂の最果てであり、一つの宇宙の終着点・完了形なのだ)。

P.S.

今、私はシベリウス交響曲第六番を聴きながら、この記事を書いていたけど…、ほんと、変わってる音楽だな…。心底感動しますが、「何じゃコレ?」とも思う。「寂しい」ような気もするが、「いや、これが人生の真実であり、生命の真実である」、とも感じます。

ちなみに私自身は、交響曲の作曲に挑みたい気持ちは全く無いが(^^;)、でも、ベートーヴェン以降の作曲家達の、交響曲にかける執念や情熱、本当に素晴らしいと思う。

私の場合、交響曲より全然短い「歌」というものに、願わくば、交響曲くらいの内容・エネルギー・執念などを込めてみたいと思う…。不遜ながら…。



さて、最後に一言。

音楽は、どう感じても、人それぞれ自由です。

私が当ブログに書いていることは、全て、単に、私が個人的に感じていること。一応、念のため。

当たり前だけど、「これが正しい感じ方」とかは、思ってないです。

私が好きな交響曲1

私は普段、オーケストラ作品よりは、歌曲やピアノ曲、ロックやポップス、アニソンやアイドルやミュージカル曲ばかり聴いているけど…、

でも、“交響曲”という、まるでモンスターのような存在への思い入れ・リスペクトが、無いわけではないです。(むしろアルッ!)

例えば、ベタだけど、ベートーヴェン『交響曲第五番(運命)』やチャイコフスキー『交響曲第五番』などは、本当に素晴らしい作品だと思います。(協奏曲を含んで良いなら、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第五番(皇帝)』と、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』も、セットで(?)大好きです)。

上記4作品…、何と言っても、とにかく音楽が素晴らしい!

もし聴いたことない方がいたら、ぜひオススメしたいです。

小難しい解釈・分析など、無くても良い。

(本当は、「運命」とか「皇帝」とかいう副題も要らない。作曲者自身が、そんなタイトルを付けたわけではない)。

小難しい解釈や堅苦しい真面目さでなく、魂や心や体で、素直に感じれば良いのではないか、と思う。

とにかく、娯楽性・エンターテインメント性が抜群ですから。

(だからと言って、軽々しいわけではない。構造的にも見事だし。切なる感もあり、ソウルフルだし、深みや重厚さも素晴らしいです)。



ベートーヴェンやチャイコフスキーの音楽って…、切ないメロディーとか、スリリングなリズム感とか、厳かな祈りとか、雄大なロマンとか、苦悩を乗り越える意志とか、人間讃歌的な勇壮さとか…、

そういう雰囲気に満ち溢れていて、、、

それはつまり、変に人生や人間を皮肉ったりしない姿勢のようにも思え、「実直でストレートで良いなあ」と、私は思う。



ベートーヴェンやチャイコフスキーの作品は、作品の中に、作曲者の想い・人生観・物語性などを読み取りたければ、そういう聴き方も可能だし…、逆に、「考えすぎず、単に音楽だけを味わいたい・楽しみたい」みたいな聴き方も、どちらも可能だと思う。

これがマーラーあたりになると、どうしても、作曲者の人格・人生観・歌詞の意味などを、深く考えざるを得ないパーセンテージが増す気がしている(笑)。

もちろんマーラーも、素晴らしいの一言ですけどね。

しかも、「分析」や「考察」が、悪いわけでもないし。

(※むしろ、本当に深く感覚的に味わうためには、分析や考察が必要だと感じます。音楽は、せせらぎの音や風や波の音などとは違うから…。我々は、音楽を聴く時、意識的にせよ無意識的にせよ、形式・構造・旋律・和音・響きなどを「認識」して「把握」しているからこそ、感動や共感や驚きが生まれるわけで…。)

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