無題731-4

「アートや音楽というものは、他者との比較ではなく、未来・過去に縛られるのでもなく、知識・理論でもなく、今この瞬間の感覚」、

 

「アートや音楽というものは、相対的ではなく絶対的なもの」、

 

というようなことを言っている人も、たくさんいらっしゃると思う。

 

 

でも、そう言う人達も、今まで見たり聞いたりしてきた数々の作品や演奏…、

 

それらを相対的に比較することも、ちゃんと出来ると思います。

 

(作曲家ごとの個性とか、演奏家ごとの特色とか、ちゃんと認識や比較は出来ると思う)

 

 

 

 

そもそも、もし、全く比較をしないような知性・感性・生命体というものが存在するなら、

 

そいつらは、何かを良いとか何かを悪いとか感じることは無いのではないか?

 

と思う。

 

ただ「現象」だけが在る感じ。

 

 

「これが良い」とか「これが悪い」とか、「これが好き」とか「これは嫌い」とか、「これは優しい」とか「これは冷たい」とか、「これは絶対的」とか「これは相対的」とか、「これは自然体」とか「これは作為的」とか、、、

 

そういう判断や認識するということは、そもそも我々は、相対的な比較や差別をする習性があることの証明だと思うのだが?

 

 

 

 

アート作品・音楽作品を鑑賞したり演奏したりしている時の感覚は、確かに「絶対的」「瞬間的」「無心」「忘我」「無条件」と言えるかもしれないが、

 

でも、どんな音色もどんなリズムも、何でもかんでもオーケーではないはずです。

 

 

どんな駄作でも、どんな下手な演奏でも、「心や魂や愛さえ込められていればオーケー!」「無我夢中で没入していればオーケー!」とはならないはずです。

 

(心や魂や愛が大事なことは異論ないけど、それだけで良いとは私には思えません)

 

 

あまりにも下手クソな演奏では、心地良く聞くことは無理だと、私は思う。(´・_・`)

 

もちろん音楽は、必ずしも技術第一ではなく、「ヘタウマ」や「ウマヘタ」みたいな作品(演奏)も、たくさんあるとは思いますが、

 

いずれにせよ、「なんでもかんでもオーケー」「どれもこれも同じくらい素晴らしい」とは、ならないはずです。

 

 

各々、好みの違いはあるだろうけど…、

 

誰でも、とりわけ好きに感じる作品もあれば、それほど好きにならない作品も、あるはずです。

 

 

 

 

だから私は、そう簡単に「比較は良くない」とも言い切れない気がしています。

 

なぜなら、そう言ってしまうと、自分に嘘をつくことになるから。

 

だって私には、「好み」や「嗜好」や「選り好み」というものが、明らかに有りますから。。

 

(※どんな音を聞いても、どんな音楽を聞いても、全く同じように感じることは、私には出来ません。なので、「比較は良くない」とか「音楽は絶対的だ」とか「誰もがオンリーワンで素晴らしい」とか、私はそう簡単には言えません)

 

 

 

 

たぶん我々は、鑑賞や演奏や作曲をする時、心の奥のどこかで、理想の音と現状に鳴っている音とを比較し、

 

それらを天秤にかけて、相対的にバランスをとったり、

 

理想の音・タイミングに近づくよう、(自分の)音を制御したり調節したりする知性・感性も、常に働かせているはずなのです。

 

意識的せよ、無意識的にせよ。

 

動物みたいに、ただただ無心で「わーっ!」と吠えたり叫んでいるだけではないはず。

 

(「わーっ!」と吠えるような表現や、「騒音」や「叫び声」のような雰囲気を目指す作品なども、もちろん多々あると思いますが…、だからと言って、そういうタイプの作品に、まったく技術が必要ないとは思えないです。

 

…あるいは、「偶然性」や「無意図」で創作する試みなども、大いにアリだと思いますが…、非人為的な「偶然」や「無意図」を意図しているわけだから、やはり知的ではあるし、「そういう意図が有る」と言えると思います)

 

 

 

 

あと、(音楽は)「今この瞬間」「今ここ」とかも、よく言われるけど…、

 

やはり音楽というものは、数秒前の旋律・和音からの繋がりで、「今この瞬間」が有るものだとも思うので、

 

私は、あまり安易に「今ここ」「過去にも未来にも縛られるな」とは言い切れないと思っています。

 

 

 

 

とは言え、私自身、

 

演奏や作曲というものは、冷静な「比較・検討」「調節・制御」というよりも、

 

むしろ「自然発生的」と感じられるほど、瞬間的かつ自動的な作業にまで昇華されている感覚も、実感として、よく分かります。

 

(例えば「体が勝手に動く」「メロディーが降ってくる」「考えるな感じろ」「ボールが止まって見える」みたいな状態)

 

 

 

 

しかしながら、表現・演奏・作曲をするには、長年の蓄積や修練が必要だし、

 

音と音の比較も必要だし、

 

余分な音や余分な力みの取捨選択も必要だし、(※音のコントロールや、呼吸や身体のコントロールが必要)

 

数秒前に鳴った音からの繋がりも大事だし、

 

数秒後に出す音のイメージも必要だろうし、

 

 

…要は、比較・調節・制御・知性・技術・取捨選択・論理的把握というものも、どう考えても必要!

 

 

そういう意味で私は、あまり断定的に、「音楽は絶対的なもの」「音楽は瞬間的なもの」「比較は良くない」「理論より魂が大事」「技術より心が大事」「直感と衝動のみが大事」「考えるな感じろ」とは、言いにくいと思っている。

 

 

 

 

そもそも僕は、理論や技術というものが、魂や心と相反するものだという認識が無いですね。

 

(※あと、「相対的」と「絶対的」も、相反する感覚だとは思えないです。音と音を冷静に比較したりしても、絶対的な感覚が薄れるとは思えないです)

 

 

 

 

したがって、音楽というものは、

 

絶対的ではあるが、大いに相対的でもあるし、

 

技術や理論というものにも、感情や直感が同居しているし、

 

意図的に音を選びつつ、無心&自然発生的な感じもするし、

 

「今この瞬間」の行為ではあるのだが、過去に聞いた音楽と比べたり、未来(数秒後)に出す音をイメージしていたりもするので、

 

あまり断定的に、「音楽は絶対的だ!」「音楽は今この瞬間だ!」「考えず感じろ!」「技術より心!」とは、私は言い切れないです。

 

言い切れないし、言うつもりもないですし、(たぶん)言ったこともないですし。

 

 

 

 

(音楽は)「相対的か絶対的か」、「瞬間的か永遠的か」、「技術か心か」、「意図的か無心か」、「自己の表出か自己の消失か」というのは、

 

個人個人の感じ方・とらえ方の違いに過ぎないとも言えるが、

 

 

私なりには、音楽というものは、

 

■「相対的感覚と絶対的感覚が矛盾なく両立している」

 

■「時間に則って表現しつつ時間は止まっている」

 

■「技術と心は別のものではない」

 

■「理論と直感(衝動)は別のものではない」

 

■「意図を持ちつつ意図を忘れている」

 

■「自己を表現しつつ自己を忘れている」

 

■「今この瞬間を意識しつつ、数秒前(数秒後)のフレーズとの相関関係・繋がり等も、大いに意識している」

 

■「自由で無条件な活動ではあるが、同時に、色々な制限・制約・条件に基づいた不自由な活動でもある」

 

 

そんな感じではないかと思っています。

 

 

様々な内的感覚が矛盾なく共存・混在しているので、

 

そのどれか一つの感覚だけを取り出して、「音楽はこういうもの!」とは、言い切れないのではないかと思います。

 

 

 

 

(※話は逸れますが…、知性による比較ではなく、本能や感覚で「こっちのほうが心地良い」「こっちは怖い」というような、動物的勘・野性的判断も、もちろん人間も持っていると思います。でも、そういう直感的な判断というものも、やはり、物事を比較・差別・選別している感じはします。

 

…しかも、明らかにエサをくれる人を怖がる動物とか、直感的に突進して崖から転落死する動物とかもいるので、「動物的勘」や「直感」や「本能」というものは、常に正しいわけでもないです。…個人的には、正しいものなんてこの世に存在しえない、と思っていますがね)

 

 

 

 

そして、最後に一つ。

 

アートや音楽やヨガやスポーツだけが「絶対的」で「瞬間的」で「瞑想的」で「無条件」なのではなく。

 

人間のあらゆる行為は、絶対的かつ瞑想的でありうる、とも思います。

 

 

であれば、禅問答のようなことを言いますが、

 

何かと何かを相対的に比較検討することも、絶対的な体験なのかもしれないです。

 

(過去や未来に想いをはせることも、今この瞬間のことなのかもしれないし)

 

 

すなわち、究極的には、この世には「絶対的」も「相対的」も、「能動的」も「受動的」も、存在しないとも言えるかもしれません。

 

(同じものを、個別に切り取って名付けたり、違う側面から名付けているだけ)

2017.6.10-1

前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

良く聞くのですが、いつも「本当だろうか?」と疑問を持ってしまう発言がある。

 

それは例えば、「(人と人は)一緒に酒を飲めば分かり合える」、「目を見て話せば分かりある」、「メールでは心が伝わるわけない」みたいな(?)、

 

要は、表現方法やコミュニケーションの種類・ジャンル・ツール自体で、その中身や質までも決め付けてしまうような発言。

 

 

そういうのは、「生楽器の演奏はあたたかい」、「テクノやシンセや電子音は冷たい」、「アドリブ演奏は自由で直感的なもの」、「楽譜を見て演奏するのは不自由で理屈っぽいこと」、「メトロノーム通りのリズムは機械的・非人間的・心が無い」、「ハグや握手やタメ口は心がオープン」、「お辞儀や丁寧語は心が閉鎖的で愛が無い」、「ポップスは自由」、「クラシックは真面目」、「ゲームやアイドルの曲は下らない」、「男(女)は皆こういうもの」、「子供(老人)は皆こういうもの」、「音楽家は皆こういうもの」、「成功者は皆こういう思考回路」、「CDやダウンロードには心が無い」、「ライブ演奏なら心が伝わる」、「文章や言葉では気持ちは伝わらない」、「○○人は皆こういうもの」、etc…、

 

というのと同じで、ほとんど差別か偏見か、あるいは短絡的な決め付けではないかと思われてしまう。

 

(上記の意見、どれも私の創作ではなくて、今までに、実際に誰かが言っていたこと。心の底から、上記のようなことを信じ込んでいるようでした。まったく思考停止というか、感性停止というか、差別的というか、上辺や先入観だけで判断しすぎというか…)

 

 

 

 

人それぞれ、どんな考え方やどんな価値観を持っていても自由だと思います。

 

そもそも私は、誰かが自信満々に話したりする様子は、全然嫌いじゃないですし。

 

(↑むしろ、好きですらある。愛しくも感じるし、頼もしくも感じるし、思わず応援したくなったりもします)

 

…でも、そうは言っても、自分の見方や意見や感性に「自信満々」になりすぎるあまり、あまりにも差別的・排他的・攻撃的になってしまうのは、あまり良くないのではないか?とも思うわけです。

 

 

 

 

私は個人的には、

 

作品や表現やコミュニケーションの種類・媒体・方法・ジャンル・メディア・ツール等によって、その中身や質が決定されてしまうわけではないと思っている。

 

例えば、メールやSNSで、誰かの優しさやユーモアにほっこりすることも多々あるし、

 

逆に、実際に対面して話したり、一緒に酒を飲んだりしても、いつも必ず心が通じると感じるわけでもないし。

 

生楽器や民族楽器にだって、冷たくて「無機的」「無感情」な表現は可能だし、

 

テクノやシンセや電子楽器にだって、ドラマティックな表現や、あたたかくてコミカルだったりする表現も可能だと思うし。

 

知識や理論に基づいたアドリブ演奏など、山ほど聞いたことがあるし、

 

逆に、楽譜に書かれていることが、理論では解明できない直感・インスピレーションに基づいたものも、山ほど見たことある。

 

70代・80代の作曲家の曲が激しい曲調なんて全く珍しくないし、

 

10代・20代が静かで瞑想的な曲を書くのも、全く珍しいことではない。

 

行動的で好奇心旺盛な老人も珍しくはないし、

 

消極的で好奇心の乏しい子供も全く珍しくはない。(どっちが良い悪いじゃなくて)

 

 

 

 

人間も、音楽作品も、コミュニケーションも、

 

ジャンル・表現メディア・楽器の種類・言葉遣い・表情・服・ルックス・職業・収入・人種・国籍・性別・年齢などは、

 

その人間の内面や、その作品の中身や、そのコミュニケーションの中身を、判断する材料にはなるだろう。

 

でも、それのみで、100パーセント(中身を)断定することは出来ないと思う。

 

 

 

 

…そもそも、他者のことも、音楽作品のことも、100パーセント誤解なく理解したり、100パーセント誤解なく鑑賞することは、私は不可能だと思っています、

 

私は私の狭い目線でしか見れないし、私の感性や解釈でしか受け取りようがないので。

 

 

とは言え私が言いたいのは、「どうせ人と人は分かり合えない」という主張ではないです、

 

そうではなく、「人と人は、100パーセント誤解なく分かり合うのは難しいからこそ、言葉・コミュニケーションを大切にしたいし、人の内面や性格をあまり分かったつもりになりすぎたくないし、相手の主張・気持ちを(完璧には分からないまでも)丁寧に想像したい」、

 

そういう主張です。

 

 

 

 

何百年か昔は、奴隷や人種差別も当たり前だったが、今現在は、多少は改善されてきているように、(まだまだ課題は多いだろうが)、

 

それと同じように、何百年か後には、表現方法やコミュニケーションのジャンル・媒体・ツール自体で、その中身や質を決め付けてしまうのも、「差別的なこと」「愚かしいこと」という認識が広まれば良いと、個人的には思っている。

 

 

 

 

そんなわけで、表現方法の種類やジャンルやツール自体は、信頼しすぎてもいけないし、見下しすぎてもいけないと思っている。

 

大事なのは、その都度その都度の「中身」だと思うので。

 

なので、「一緒に酒を飲まないと分かり合えない」とか、「メールやSNSでは心が通じない」とかいうのも、表現手段・コミュニケーション手段そのもので、その中身まで決め付けすぎに思われるのだ。(´・_・`)

 

 

 

 

ツール自体を全否定して良いのは、例えば武器とか兵器とか拷問用具とか(?)、明らかに人を殺す意図で作られたようなものだけではないか?

 

「ナイフ」や「爆弾」ですら、美味しい料理を作るためだったり、工事をスムーズに進行させるために役立つ、

 

まして音楽表現の方法や、コミュニケーションの方法・手段など、

 

その種類・方法・ジャンル・メディア・ツール自体を全否定して良いものなど、一つも無いと思うのだが。

 

 

全否定して良いツールも、全肯定して良いツールも、一つも無いと思っています。

 

(「このジャンル・このメディア・このツールは必ず素晴らしい」というものは無いし、「このジャンル・このメディア・このツールは必ずクズ」というのも無い)

 

大事なのは、その都度その都度の中身・内容・雰囲気・使い方・言い方・表現の仕方だと思う。

 

 

 

 

もちろんツール・ジャンルの違いにより、伝えやすい内容・雰囲気には、違いがあるとは思う、

 

だからと言って、発言(作品)の内容や雰囲気というものは、ツール・ジャンル・表現手段によって、100パーセント決定されてしまうわけではない。

 

その都度その都度、一つ一つの作品・一つ一つの表現・一つ一つの発言・一つ一つの振る舞いを、ちゃんと吟味するべきだと思う。

 

 

 

 

P.S.

 

武器や兵器や制服も、人間が作ったものである以上、美しさを感じさせることもあると思います。

 

射撃や格闘技のような世界も、スポーツや芸術と同じような精神集中が必要な場合もあるだろうと思います。

 

したがって、(私自身は興味ありませんが)、そういうものを好きな人が、必ず100パーセント暴力的な内面なわけはない、と思っています。

 

 

…ちなみに、それに似た感じで(?)、「音楽を好きな人に悪人はいない」とか「若い頃スポーツに取り組んだ人は礼儀正しくて人間性が良い」とか、たまに言われますが、

 

僕は、そんなことは無いと思う。

 

(あと、「芸術は情操教育に役立つ」とか「音楽を聞けば心が安らぐ・優しくなる」とかも、必ずしも言い切れないと思う)

 

例えばヒトラーとか、音楽が好きだったし、絵を描くのも上手でしたし。

 

 

 

ついでに言うと、誰かの演奏や作曲を聞いて、「この人は魂が綺麗」とか「この作者はこういう性格」とか、

 

まるでエスパーかスピリチュアルカウンセラーのようなことを言う人もいますが(笑)、

 

もちろん、そういうことを言って良いと思うのですが、(私も言うし)

 

でも、あまりにも、そういうことを信じすぎてしまうのは、僕は良くないと思っている。

 

でないと、

 

「演奏や作曲やスポーツが得意な人は、魂・精神性・人間性・生き方・考え方・創作姿勢・エネルギーが素晴らしい」

 

「演奏や作曲やスポーツがイマイチな人は、魂・精神性・人間性・生き方・考え方・創作姿勢・エネルギーが悪い」

 

そういう風潮にもなってしまう。(もう、結構なってるけど)

 

でも僕は、必ずしも、100パーセントそうは言い切れないと思っています。

 

作品や演奏(プレー)というものは、たしかに、その人の人格やセンスが現れますし、取り組む姿勢や努力も大事なことは言うまでもありませんが、

 

作者(演者)の内面や努力が、必ず100パーセント、作品や演奏(プレー)に直結するとは言い切れないと思います。

 

例えば、ものすごく意地悪で差別的でエゴイスティックな人の作品で、とても優しい感じがする作品とか、

 

その逆に、穏やかで温厚な人が、非常にドラマティックで激しい表現をするとか、

 

気性の激しい人が、まるで瞑想しているかのような、静かな表現をする瞬間もあるでしょうし、

 

あるいは、ポジティブに取り組んでいる人の演奏がイマイチだったり、その逆の例なども多々ありますし。

「自分探し」よりも「自分殺し」を

(※前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

以前どこかで目にした文章ですが、「自分探し」よりも「自分殺し」をせよ、みたいなのがあって、とても共感したことがあります。

 

よく言われるような「自分らしさ」とか、「自分らしい個性」とか、「自分らしい自然体」とか、

 

少々「自分」にこだわりすぎていて、どうも苦手です。

 

 

音楽作品・アート作品・エンタメ作品を鑑賞する時も、創作する時も、

 

後天的に刷り込まれた「自分」という概念や定義、

 

(あるいは、「自分はこういうタイプだ」と思い込んでいる固定概念)

 

そういう「自分」という概念がぶっ飛ぶような(?)音楽や小説や映画を好むし、私もそういう作品を作りたいなー、と思います。

 

 

 

 

とは言え、鑑賞も創作も、人それぞれに道があると思う、

 

「自分らしさ」や「等身大」を表現したい人がいても、それはそれで良いと思うし、心から尊重します。

 

上記に書いたようなことは、あくまで、私の場合です。

 

私の場合は、「自分」「等身大」「自分らしさ」という概念をブチ壊してくれるような体験や味わいを求めている、というだけのことです。

 

 

 

 

私が好きな、例えばベートーヴェンやシューベルト、チャイコフスキーやマーラー、ナイトウィッシュやパスファインダー、ダークムーアやアングラ、キース・ジャレットやパット・メセニー、、、

 

どれも、リラックスして聞けるし、心の底から共感できる音楽ではあるのですが、

 

同時に、この狭い「自分」という枠を超えて、「人生」や「生命」や「宇宙」の本質・神秘・深遠を感じさせてくれるような音楽だと感じています。

 

(あるいは、自分でも気づいていない、心の奥底の本質や潜在意識を味わせてくれる音楽だと感じています)。

 

言い換えれば、この「自分」では到達できない、人間では到達できない、圧倒的な格好良さとか、圧倒的な慈愛とか、圧倒的な雄大さ・壮大さなどを実感させてくれる感覚なのです。

 

 

要は、「自分らしさ」「等身大」を表現しているだけではなく、

 

時には、むしろ「自分」という固定概念・思い込みから、自由にしてくれる気がするのです。

 

(私が勝手に、そういう聞き方をしているだけかもしれませんが)。

 

 

 

 

もし「自分らしさ」というものが有るとしても、作曲の時は、それを第一目的とするより、「自然と(自分らしさが)出ちゃった」という感じのほうが好きですね。

 

私にとって何より大事なのは、「感動」や「官能」や「味わい」。(要は、音楽そのもの。「作品至上主義」とも言えます)。

 

大いに感動できる作品であれば、自分らしくなんかなくても良いし、独創性が乏しいベタな作品でも全然構わないです。

 

 

作品が自分らしいかどうかとか、(他のアーチストよりも)独創性が有るか無いかとか、作品のコンセプトとか…、

 

そういうのは二の次で良いかな、と思っています。

 

 

結果として、自分らしさが出ちゃったり、独創性が出ちゃったりするなら良いけど、

 

それらを出すことが、創作や鑑賞の第一目的ではない気がするのですよね。。。

 

(前述したように、第一目的は「感動」や「味わい」だと思っています。もしくは、「感動」や「味わい」さえ消失してしまうような、「忘我」と呼べるような瞬間だと思っています)。

 

 

 

 

…でも、ホント、人それぞれで良いと思います。

 

みんなそれぞれ、自分の好きなようにやれば良いのではないか?

 

自分の目指したいように目指せば良いのではないか?

 

と思う。

 

「創作やアートはこうでなければダメ」みたいな意見や、「こういう考え方はレベル高いがああいう考え方はレベル低い」みたいな意見が、一番面倒くさいし、わずらわしい。

 

 

 

 

P.S.

 

さて、上記のように書きましたが。

 

私とて、ピアノを弾いたり指揮したり作曲したりしている時、

 

私自身の等身大の感情・個性・想いなどを表現しているような感覚も、もちろん持っています。^^;

 

とは言え、そういう感覚は、ほんの一部にしか過ぎない。

 

「自分」や「自分らしさ」を表現しつつ、同時に「忘我」「無我」のような感覚になることも多々あります。

 

 

…つまり、様々な感覚が同時に混在しているので、

 

そのどれか一つだけを指して、「音楽とはこういうこと」「創作とはこういうこと」「音楽家はこう考えることが大事」などと言ってしまうことは、私には不可能かも。

 

 

 

 

音楽や創作について語り合ったりすると、兎角、「俺はAだと思う」「いや、俺はBだと思う」というように、喧嘩腰になっている場面もよく見かけます、

 

でも、音楽を演奏・創作している時の内面というのは、実のところ、「AでもありBでもありCでもあり、しかも、そのどれでもない」、

 

という状態だと思います。

 

(※そもそも、物事を断定的・断片的に定義する「言葉」というツールで、重層的・多面的・忘我的・瞑想的な感覚を味わうことのできる音楽を説明すること自体、無理のあること)。

 

芸術論やアート観の分野で、些細な言葉尻にこだわりすぎたり、あまりにも正解・不正解、良い・悪いを決めすぎることもないと思う。

 

 

アートへの考察を深めるため、言葉(文章)で説明したり語ったりすることも、私は大いに賛成ですが、

 

同時に、気持ちをゆるく寛容に持っておいて、お互いの意見・見解の相違に、目くじら立てすぎる必要もないと思います。

 

 

■「アート・人生・生命・自然などは、結局のところ、謎であり神秘。心や創作の秘密については、表面的な技術的なことは分かるけど、その本質や真髄は、完璧には分かることは出来ない」

 

■「そもそも、なぜ人は感動するのか?そして、なぜ感動する作品とそうでない作品があるのか?その解答やメカニズムは、完璧には分からない。推察・想像するくらいしか出来ない」

 

個人的には、そんな感覚です。

 

 

私も、技術的なところは年々進歩していますし、その部分については、いくらでも断定できます。

 

(技術的に、自分の得意なところ・苦手なところは、ちゃんと断定できます。今後に習得したいこと、今後に目指したいこと、今後やりたい活動なども、いくらでも断定できます。…というか、そういう部分は、断定できなきゃダメだと思う(笑)。人の意見や助言や批判を聞くことも大事ですし、全然嫌いじゃないですが、やはり自分の活動なのですから、最終的には、自分の夢や希望や意思が大事。自分が舵を握っていないといけないと思います)。

 

 

そういう部分は、いくらでも断定できるし、むしろ断定できなきゃダメなことも多々ありますが、

 

しかし、音楽や人間や創作の、その深遠・神秘・真髄・本質・メカニズムについては、そうそう断定することは出来ない。

 

一生、謎のまま・神秘のままではないか?と思っています。

 

 

であれば、「自分」や「自分らしさ」に、自信や愛着を持つことは悪くないと思いますが、

 

あまりにも盲信しすぎてしまうこともない、あまりにも固着しすぎてしまうこともない、あまりにも分かろうとしすぎてしまうこともない、謎のままでも良い、

 

と思います。

 

 

なぜなら、この自分自身も、当然「謎」や「神秘」や「深遠」そのもの。

 

その大いなる一部。

 

「自分らしさ」や「音楽」について、規定して定めすぎてしまうと、むしろ自分自身の本質とズレてしまう、音楽の本質とズレてしまう、、、

 

要は、わざわざ自分で自分を牢獄に閉じ込めてしまうような感覚なのです。

 

(「自分らしさ」というものも、あるのかもしれないけど、意識しすぎて限定的・固定的になる必要はないと思ってます)。

 

 

日常囚われている固定概念の数々、、、

 

「これが自分だ」「これが音楽だ」「これが才能だ」「これは良いことだ」「これは悪いことだ」「これは心地良いことだ」「これは心地悪いことだ」「これは自然なことだ」「これは不自然なことだ」「創作とはこういうことだ」「独創性とはこういうことだ」「美しいとはこういうことだ」「幸福とはこういうことだ」「これはこういうことだ」「これはこうあるべきだ」、、、

 

というような、諸々の概念を破壊する、諸々の判断を破壊する…、

 

すなわち「自分殺し」をするような感覚も、個人的には心地良いことです。

個性・自己の消失4

音楽も、人生も、日々、「これが自分らしさ」「これが私らしさ」「これが美しさ」「これが人間らしさ」「これが自然体」と思い込んでいたことの破壊。(そして再創造)。

私は、大切だと思っています。



それは大袈裟なことでもなく、アート・音楽だけの話でもなく。

例えば、子供が生まれたばかりの親とか?

「自分らしさ」の追求などより、子供の命・健康を守ることが第一になるのではないかと思います。



つまり時期や状況の変化によっても、我々は誰でも、今まで「これが私らしさ」と思い込んできた生き方を、捨てなければならないし、割と簡単に捨てられるのではないかと思います。

大袈裟に言えば、それまでの人格や人生観が破壊されるというか、激変させられるというか。。。

(音楽でも、場面・フレーズ・メロディーによっては、そういう瞬間が多々あるのではないかと感じています。いつもいつも、自分の想い・自分の感情・自分の個性ばかりを表現するのでなはなく、むしろ、「自分(の個性)が消失する」「自分(の感情)が無になる」というような感覚です)。




 
なので、私は、あまりにも固定化した「自分らしさ」「あなたらしさ」「キャラ」「自然体」というような概念が、いまいちリアルに感じられないことが多い。
 
むしろ、「これが自分らしさ」「これがあなたらしさ」「これが愛」「これが優しさ」「これが思いやり」「これが(人として)自然体」「これは良いこと」「これは悪いこと」「これは誇らしいこと」「これは恥ずかしいこと」「これは美徳」「これは悪徳」「これは本音」「これは建前」「これは誠実」「これは不誠実」「これが私のキャラ」「これがあなたのキャラ」、、、

そのような思い込みを、一つ一つ手放したり解いたりするほうが、私は心地良さを感じます。

そういう一つ一つの感性や判断や価値観というものは、大事なものでもあるけど、他者や自分自身を縛ってしまう原因だとも感じているので。



自分らしさの表現方法や愛の表現方法は無数にあるだろうし、人間の生き方・考え方・感じ方も、無数にあるだろうと思う。

その無数の可能性を、わざわざ狭く限定してしまうような物言いには、息苦しさ・面倒臭さを感じます。

個性・自己の消失3

音楽・アートというものは、

「(作品に)感情や情熱を込める」

「(作者の)想いや個性や美意識を表現する」

というのが、基本姿勢かもしれない。


しかし同時に、「感情の放下」「情熱の放下」「自己の消失」「自己の破壊」「個性の消失」「人格の崩壊」「美意識の消失」「美意識の破壊」「エゴの消失」、

という側面もあるのではないかと思う。



曲調の話ではないです。

速くて激しいような曲でも、感情を排して、無心的・無私的・無機的な曲は多々ありますし、

逆に、静かでスローな曲調でも、情熱的・感情的・主観的な曲は山ほどありますし。



音楽表現においても日常生活においても、「自分」や「個性」は大事ですし、「感情」や「想い」も大事ですが、

時にはそれらを放棄し、自己や心を「明け渡す」みたいな感覚も必要ではないか?と。

(自分の意思で音楽を「操る」ことも大事なのですが、同時に、「音楽が私を操る」という感触も、多くの人が感じていることだと思います)。

2014.5.28(1)

今だに、たまに、最近、DVD『塔の上のラプンツェル』、歌のシーン、見ています…。

とても好きな作品です。

音楽もストーリーも魅力的だし、自然の描写なども美しい。

しかし、本日の記事で書きたいのは、

「生き生きした表情の素晴らしさ」、

これだ。




『アナと雪の女王』も、『塔の上のラプンツェル』も、

キャラクター達の、笑顔、泣き顔、驚く表情、呆れる表情、ワクワクする表情、得意げな表情、ジョークを言う表情、不思議がる表情、不安げな表情、悪巧みの表情…、

そういう表情の数々を、ちょっとした目線や、眉毛・口元の微妙な動きなどで、見事に表現している。

ある意味、本物の人間よりも、「気持ち」が伝わる。

人間の1つ1つの表情を、

「誇張している」、

というのではない。

むしろ、

「本質をついてる」、

という感じ。

(髪の毛1本1本まで、まつ毛1本1本まで、魂こめて描いてる)。

凄い芸術だ、これは。

「表情」というものを、とことん追求している。

それはつまり、「気持ち」というものを、とことん追求していることに他ならない。

人間の細やかな「気持ち」というものが、

ふとした表情(仕草)に現れる瞬間…、

そういう瞬間を、アナやラプンツェルの製作チームは、とことん観察し、とことん研究したのだろう。

素晴らしい。

素人目にも、半端じゃない熱意で研究をしたことは、一目瞭然だ。




例えば、ラプンツェルを見ていると気付くのだが、

幾つかのシーンでは、あまり整ったキレイな顔には、描かれていない。

つまり、お決まりのテンプレート的な、

「こういうふうに描いておけば、カワイイ顔に見えるでしょ」、

「人間の笑顔って、こういうものでしょ」、

みたいな(?)、

そういうイージーな決め付けが、全く無い。

ゼロから、創作している。

お決まりのパターンやテンプレートに従うのではなく、

漫画やアニメの、慣習的なテクニックに従うのではなく、

(単に、表面的に「可愛いか可愛くないか」、という価値基準だけにも囚われず)、

ゼロから、

「人間の笑顔とは、どういうものだろうか?」、

「人間の呆れ顔とは、どういうものだろうか?」、

「怒りと愛情が混ざった表情は、どういうものだろうか?」、

「…要するに、そもそも、人間の“気持ち”とは何だろうか?」、

そういうレベルの、真摯な探究心を感じます。




つまり、パターン化したテクニックで描いているのでなく、パッと即興で、習慣的に描いてしまうのでもなく、まっさらな裸の心で、ゼロから探求している…。

そういうレベルの清々しさや崇高さを、私は感じました。

だからこそ、非常に人間らしい、生々しい“魂”や“気持ち”が、ビシバシ伝わってくるような気がしました。

目元、口元、鼻、眉毛、目線、唇、口角、1つ1つの表情筋…、

「適当に描かれているなー」と感じる瞬間が、1つも無い。

あらゆる表情や、あらゆる動作や、あらゆる自然現象が、

凄まじい洞察と愛情によって、真心こめて描かれていると感じた。

見ていると、本当に癒されるし、泣けるし、明るい気分になる。




しかも、必ずしも「リアルで写実的に正確な絵」を目指してはいない。

むしろ、「リアル」や「写実」を越えて、

「心」というものを、ダイレクトに描こうとしている感じがする。

(実際の役者には、出来ない表現)。

ちょっと大袈裟に言えば、

例えばゴッホやシャガールの絵のように、「写実的でないからこそ、心の奥底の想いが表現できる」、

という側面も、あると思う。

作り物やファンタジーだからこそ、写実主義では表現できない「本質」のようなものを、感じます。
  


 
例えば、ゴッホの『星月夜』など、私は大好きなのですが、

もし彼が、リアルで写実的な作品ばかり描いていたら、

彼の繊細すぎる心を、表現できたでしょうか?
 
『星月夜』は、デッサン狂ってますし、構図も色彩も実物とは違います。(空全体が渦巻いて、ねじれています)。

でも、あの作品は、荒唐無稽なファンタジーなのではなくて、

あれこそが、ゴッホの「現実」なのだと思います。
 
あれこそが、ゴッホが見ていた世界、感じていた世界そのものなのだと思います。

ゴッホのみならず、素晴らしいファンタジーというものは、そういうものなのではないかなー?と、思うのです。

ファンタジーでなければ表現できないものが、確かに存在するのです。
 
要するに、ファンタジーというものは、まるっきり荒唐無稽な「非現実」なのではなくて、

ある意味、現実以上に、「リアル」で「本質的」な場合もあるのです。
 
で、ちょっと違うかもしれないけど、ラプンツェルやアナを見て、少しだけ似たようなことを感じたのです。

それぐらい、顔や表情だけでも、じゅうぶん驚愕に値する作品だと思いました。
 
(リアルな写実じゃないからこそ表現できる、人間の「本質」のようなものを感じました)。




そう、
 
きっと、これは音楽にも通じる話で、

音楽でも、伝統や慣習のテクニックをキッチリ習得することは、大切なのだが、

創作や演奏の際は、常にゼロから、自分の気持ちを見つめないとダメな気がする。

「こういうふうに弾いておけば楽しく聞こえるでしょ」、

「このコード使っておけば悲しくなるでしょ」、

「こう弾いておけばラテンっぽいでしょ」、

「こう弾いておけばアバンギャルドでしょ」、

「バロックはこう演奏するべきで、ロマン派はこう演奏するべきでしょ」、
 
「即興演奏は、スリリングで感覚的で自由なもの。楽譜や形式美は、思考的でテクニカルで退屈なもの」、

「(ほぼ無意識的に)良い音楽って、こういうものでしょ」、

みたいな(?)、

自分の魂からの感覚や発信ではなく、
 
無意識的に固定概念を信じてしまったり、
 
イージーな即興で、ありきたりな慣習やテンプレートに従っているだけのような作業を、
 
ついつい私達はやってしまいがちだが…、

ラプンツェルを見て反省したのだが、

本当は、毎回毎回、ゼロから、

「自分の気持ちはどんなものだろう?」、

「私にとって素晴らしい音とは、どんな音なのだろう?」、

という探求をして、

そこから音を出さないと、あまり意味が無い気がしている。

そうやって、ゼロから探求して…、
 
その結果として、ありがちでベタなコード進行になってしまったとしても、

クラシックやブルースやラテンなどなど、何かのジャンルの、ありがちなスタイルになってしまったとしても、

あるいは、ありがちな無調の現代音楽風になってしまったとしても、

そういう、「魂の探求」を経て生まれてきたものは、

心を打つ作品が多いと思う。




分かりやすい形式的な作品を作るのであれ、

アバンギャルドで無形式の作品を作るのであれ、

伝統に従うのであれ、

伝統に抗うのであれ、
 
即興で演奏するのであれ、
 
形式美やメロディーをじっくり作るのであれ、

いずれにせよ、

「発信する1つ1つの音が、ちゃんと自分の魂が欲している音なのか」、

「ちゃんと喜びや哀しみや美意識を反映している音なのか」、

それとも、テンプレートに合わせただけで、イージーに選んだだけの音なのか、

…それは、究極的には、表現者本人にしか分からないことだが、
 
そこが、何より大事な気がしています。



 
まあ、音楽には、「お約束」的な、“ベタな魅力”というものもあるから、

必ずしも、テンプレートや伝統に従うのが絶対ダメ、というわけではないと思うが。

(全然違うと思う。むしろ、「慣習的なテンプレートを外れる」ことや、「誰もやってないことをやる」ことだけを第一目的にしている人は、自分の欲求や美意識を、ちゃんと見つめていない気がする。他者と比べているばかりで、“自分”が無さすぎる)。



 
「音楽にも価値観にも、絶対的な正解なんか有り得ない」という前提で言いますが、
 
私なりには、

第一に求めるべきは、「オリジナリティー」や「他者との差別化」ではなく、

表現者の、嘘偽りの無い「感動」や「正直さ」だと思っています。

(※もちろん、あまり感情表現をせず、クールで即物的な表現を目指すのもアリです。そういう美意識も、素敵だと思います。「あえて表現しすぎない」という表現も、立派な表現なのです)。



 
どういう表現をするにせよ、

アーチストが、自分の正直な欲求や美意識を追求した結果、

オリジナリティーがあっても無くても、それは、どちらでも良いように思う。
 
伝統や形式や慣習に従っても従わなくても、それも、どちらでも良いように思う。
 
即興で作ろうが、じっくり時間をかけて作ろうが、それも、どちらでも良いように思う。

オリジナリティーが有るからと言って、聴いた人が絶対に感動するわけではないし、
 
オリジナリティーが無いからと言って、絶対に感動しないわけでもない。
 
即興で演奏したからと言って、必ず直感的な表現が出来るわけではないし、
 
じっくり時間をかけて作曲したからと言って、必ず思考的な表現になるわけでもない。
 
(しかも、直感が良くて、思考がダメなわけでもない)。
 
伝統や形式に従ったからと言って、必ず格調高い演奏が出来るわけではないし、
 
伝統・形式を無視したからと言って、必ず自由で気ままなニュアンスの演奏が出来るわけでもない。
 
要は、「表現手段」や「創作スタイル」というものは、
 
表現される「内容」や「中身」や「雰囲気」とは、あまり関係が無いと思う。



 
…逆に言えば、
 
「表現手段」や「ジャンル」だけで判断して、その作品の内容・雰囲気まで決め付けたりするのは、良くないと思う。
 
あるいは、「表現手段」自体に感動しすぎたり、そこをメインに誉めたり、そこをメインに批判したり、そこをメインに自負を持ったりしている人は、「音楽」や「中身」や「心」を、あまり大事にしていない気がする。
表面的な作り方とか、表現手段とか、創作コンセプトとか、ジャンルとかより、
 
それよりも何よりも大切なのは、表現されている本質、内容、雰囲気、ムードのはず。
 
そこを味わい、感じようとしなければ、私にとっては、意味が無い。
 
(何が素晴しい表現手段かとか、何が素晴らしいジャンルかとか、そういう差別・偏見もナンセンスです)。



 
…ちなみに、私の曲の場合、
 
世の中のほとんど全ての音楽と同じように、
 
音楽的に目新しい要素やオリジナリティーは、ゼロです。

むしろ、どちらか言えば、かなりダサくて古くさい音楽ですが、

でも、少なくとも発表している曲は、1音1音、全ての音が、ちゃんと私の魂が感動している音だという自信はあります。(なぜなら、自分があまり感動しない音を思い付いてしまった時は、必ずボツにしているから)。




…しかしながら、

そういう「ダサくて古い音楽性」というものを、私は、自分のカラーや個性だとは全く思っていなくて、

それどころか、自分のカラーや個性なんて、分かっていなくて良いし、決めなくて良い。

私の辞書には、「自分らしさ」とか「自然体」などという言葉は、無いのだ。

「らしさ」や「自分らしい個性」なんか決めずに、その都度、毎回ゼロから心を見つめたい。

なぜなら、今現在の「自分らしさ」や、今現在の「自然体」は、

明日の私には、不自然で違和感を感じる可能性だって、あるではないか。
 



「ああ、俺はこういう性格の人間だったなあ」とか、「ああ、俺はこういうタイプだったなあ」などと決めるのは、死んだ後で良い。

生きている以上、変化や移り変わりの可能性に身を委ねているのが、「生命」への礼儀ってもんだ。「人生」への礼儀ってもんだ。
(※個人の意見です)。

だから、私は「自分らしさ」なんて要らないし、「自然体」なども全く求めてない。

自分の個性や、性格や、「らしさ」や、「オリジナリティー」なんて、

もし有るとしても、

せいぜい、「俺は今のところ、これが好きだなあ」みたいに、暫定的でしかありえない。

「今のところ」でしかありえない。
 
…よって、他者のことも、「あの人らしさ」とか、定めたいとは感じない。
 
人様のことを縛りたくないからだ。
 
それより、そういう枠や定義を取っ払った、
 
丸裸の状態での感覚・感情が、大切だと思っています。




…さて、そもそもディズニー作品は、

過去には、『アラジン』や『美女と野獣』など、世界中で大ヒットしたのに、

その時の絵柄や描き方など、全て捨てている。

これは、凄いことだ。

大ヒットしたら、普通、それを続けると思うのだが、

ディズニーアニメの場合、過去の栄光や過去の方法論などは、全てリセット。

毎回毎回、「ゼロから新しく最高傑作を作ろう!」、という気概が感じられる。

「今までより、もっともっと本質を描こう!」

みたいな。

当然、創作の苦悩もあるだろうが、それも含めて、喜びなのだと思う。




…そういう「創作の苦悩」や、
 
高い理想を求めすぎで、「頑張りすぎ」な態度というのは、

ややもすると嫌われたり、

なぜか分からないが、「もっと自然体で生きなさい」とか、「もっとポジティブになりなさい」とか、「もっと現状に感謝しなさい」とか、「誰もがオンリーワンだから、あなたはそのままで良い」とか、

よく批判されたりもするけれど、(日本だけかな?)

しかし私は、そういう苦悩や向上心というものも、全然、自然なものだと思っている。(そういう人が、感謝やポジティブさが足りないとも思えない)。

当たり前のことだが、

何を「自然体」と感じるか、

何を「追求したい」と感じるか、

(あるいは、何を「追求したくない」と感じるか)、

何を「好き」と感じるか、

何を「素晴らしい」と感じるか、

それらは全て、人によって異なるはずだ。(同じ人でも、時期や状況や健康状態などによっても、変化すると思う)。




そんなわけで、ディズニーアニメ、

ストーリーとか音楽とかは、昔から最高水準だと思うけど、

しかし、絵柄や表情は、年々進化し続けていると感じます。

もちろんCGなどのテクノロジー進歩も、一役買っているのだろうが、

むしろ私としては、人間の「表情」や「気持ち」というものを、とことん追求しようとする心意気…、

つまり、CGやテクノロジー以上に、ヒューマンな部分に、感動しています。

CGやテクノロジーは確かに凄いけど、

それ以上に、「絵心」や「心意気」、

もっと言えば、「人間への愛」、「作品への愛」、「表現することへの真摯さ・探究心」、

そのあたりに感動している。



 
さて、高度なテクノロジーや現代社会の技術の進歩というものは、

ややもすると、「心」とかけ離れたものだと誤解されやすいけれど、

私は、そうは思えないです。

実際、私は、エレキギターの演奏に泣けたりするし、人から頂いたメールに泣けたりもするし。

どんなツールやテクノロジーを使っても、常に大事なのは、その「内容」や「使い方」や「心意気」ではないか?と思う。

そして、それを「どう感じるか」だと思う。

よく、「生楽器じゃないと気持ちは伝わらない」とか、

「メールでは気持ちは伝わらない」とか、

「言葉では気持ちは伝わらない」とか、

そういう意見も、聞くことが多いけど。
 
そんなのは、ほとんど、差別や偏見ではないのか。

そりゃ、どんなツールでも、どんな表現手段でも、人間の“気持ち”というものは、100パーセント正確には表現できないかもしれない。

それは、当然のことだ。

しかしながら、そういうカテゴライズ的な決め付けこそ、むしろ、ちゃんと心で感じようとしていない、冷たい態度だと思う。

特定のツールやジャンルや表現手段を全否定してしまうのでなく、1つ1つ感じてみなければ、何も分からないと思うのだがなあ。

私は、個人的には、
 
エレキ楽器であれ、CGであれ、メールやSNSであれ、テクノ音楽であれ、現代音楽であれ、即興であれ、即興じゃない作曲であれ、ライトノベルのラブコメであれ、萌え系アニメであれ、
 
その他のどんなツールであれ、どんなメディアであれ、どんなジャンルであれ、どんな表現手段であれ…、

特定の「ツール」や「ジャンル」や「表現手段」を全否定する感覚は、私には無いですね。
 
(もちろん、全肯定したいツールやジャンルや表現手段も、私には無い)。
 
どんなツールやジャンルにも、自分にとって、深く感銘を受けたり、心を打たれる作品もあれば、そうでもない作品もあるからだ。

「このツール(ジャンル)は、こういうもの」、

「このツール(ジャンル)は、気持ちが伝わるし素晴らしい」、

「このツール(ジャンル)は、気持ちが伝わらないし冷たい」、

「ライブは気持ちが伝わるが、CDは伝わらない」、

「暗譜で演奏すれば必ず気持ちが伝わるが、楽譜を見ながらでは絶対に伝わらない」、
 
「即興で演奏した音楽は必ず感覚的だが、予め作っておいた音楽は必ず思考的」、

「若者は、情や礼儀が無い。老人は、頭が固くて頑固」、

「ノンビリしている人は自然体で、頑張り屋は不自然」、
 
「直接話せば気持ちは必ず伝わるが、メールやSNSでは何も伝わるはずはない」、
 
「このジャンルの音楽は難解で不自由で、このジャンルの音楽は簡単で自由」、
 
「こういう生き方はポジティブで自然だが、ああいう生き方はネガティブで不自然」、

などなど…、

総括して定義を述べること自体に、非常に無理がある。
 
というか、そんな定義は、絶対に間違いである。

もし仮に、そういう傾向はあったとしても、

そういう“傾向”を、「絶対的な真理」だと思い込みすぎると、

まっさらでオープンで素直な心を、無くしやすいのではないか?と思う。
 
(人や、自分や、アート作品や、様々な伝達手段を、見た目やイメージで決め付けるばかりになってしまう)。
 
実際には、
 
アバンギャルドな現代音楽の作品に、ノスタルジーな感覚を感じることとか、多々ありますし、
 
逆に、古いバッハの曲に、非常に革新的で先進的な感性を感じたり…、
 
ジャズの即興演奏に、非常に高度な知性・論理性を感じたり、
 
逆に、古典形式を極めたはずのモーツァルトやベートーヴェンに、恐ろしいほど直感的な即興性を感じたり…、
 
そういうこと、あるじゃないですか?
 
これは、音楽のことだけではなく。
 
「表現手段」や「伝達手段」や「ジャンル」の持つイメージというものは、
 
その内容・中身・雰囲気とは、必ずしも一致しないことが少なくない、と思う。




私は、その都度、毎回毎回、1つ1つの事例や、1つ1つの演奏(作品)や、1人1人との触れ合いを、ちゃんと感じたいと思う。
 
ジャンルや表現手段の枠で判断してしまうのではなく、その内容や本質を、自分なりに、ちゃんと感じてみたい。
 
(※とは言え、自分の感じ方なんて、常に、勘違いや思い違いをしている可能性もある。他者の気持ちや思惑や性格を、私は、常に誤解している可能性もある。…卑屈なんじゃなくて、人間の能力の限界を、素直に認めているだけです)。




…人間というものは、過去の自分の経験や、あるいは、自分の好みや思い込みだけで、
 
短絡的にカテゴライズや定義をしてしまうのは仕方ないことだが…、

だからこそ、そういう自分を自覚して、

あらゆる事象に心をオープンに、

まるで初めて経験するかのような無心さも、大事なような気がしている。

…てか、そうしないと、私の場合、息がつまりそうになる。

人のことをカテゴライズしすぎるのも苦手ですね。

「左脳タイプ」、「右脳タイプ」、「若者らしさ」、「個性的」、「平凡」、「ゆとり世代」、「ポジティブ人間」、「ネガティブ人間」、「自分らしさ」、「あの人らしさ」、「愛がある人」、「冷たい人」、「草食系」、「肉食系」、「国民の総意」…、

上記のようなのは、「人のことをザックリ定義しすぎだろ?」と思う。

人の、一部分にしか過ぎない側面を、その人の全てだと思い込みすぎだ。

面倒でも、1人1人と、その都度、触れ合わないと。

短絡的に、レッテルや烙印を貼ってしまいすぎずに。
 
毎日毎日、新しく生まれ変わるチャンスを、自分にも他者にも、与えていたいと私は思う。
頭でする「判断」や「分類」や「定義」も、大事かもしれないが、

それと同時に、「心が感じること」も、もっと大事にすべきだと思う。




話がそれたが、

ラプンツェルで描かれる表情や動作は、

「笑顔」や「表情」を描くための、レシピとかテクニックとか、パターンとか法則とか、

そういう、即興的な慣習・思い込みで描いてしまわず、

毎回毎回、その都度、ゼロから「笑顔」を描いている感じがしました。
 
しかも、
 
時には、ありきたりな慣習やテクニックやテンプレートを、大いに使っているとも思いました。
 
(要するに、アバンギャルドすぎず、ベタな魅力も多々あります)。
 
おそらく、制作者達の心の中に、
 
「ありきたりな慣習やテンプレートは、レベルが低いに決まってる」、
 
「誰も思い付かないようなアバンギャルドな絵柄・ストーリーこそ、レベルが高い」、
 
そのような変な偏見やプライドなど、無いだろう。
(大事なのは、ハートや内容や本質。テクニックや表現手段で、優劣をつけることではなく)。
 
とにかく、1時間半の映画で、同じ表情が1つも無い印象でした。




さて、もちろんラプンツェル、

絵柄のみならず、ストーリーや音楽も、非常に好きです。

ラプンツェルの、快活で健気な自己紹介songも、
 
酒場での賑やかな歌も、
 
愛の二重唱も、
 
どれも素晴らしくて、泣ける!

単純で形式的で分かりやすいメロディーだが、とても深い情感を感じます。

作曲のアラン・メンケン氏は、有名な『アラジン』や『リトルマーメイド』なども好きですが、

私は、ディズニー以前の、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』というミュージカル映画も、非常に好きですね。

(1986年版の映画です。イカれた歯科医が歌う『dentist song』という曲は、振り付けや演技が破天荒すぎて、爆笑しました。『suddenly seymour』というラブソングも、ストーリーの流れで聞くと、涙無しには聞けぬ。どちらも、私にとっては最高の曲です!)

2013.12.17(2)

音楽でも、生き方でも、あまりに「無心」や「直感」や「自然体」だけを褒め称えて、「作為」「演出」「思考」「努力」を否定しすぎるような人生論・芸術論は、少々違和感あります。

気持ちは分からなくもないけど、現実的には、人間のあらゆる活動というものは、何らかの「意図」や「目的」や「欲求」を持って、作為的に創作(行動)されることが、ほとんどだと思う。

だからと言って、行為自体を無心で楽しむ感覚や、純粋な「衝動」や「インスピレーション」というものが、ゼロではないはずだし。

 


もし、「作為」「意図」「思考」「打算」「努力」などを全否定してしまうと…、おそらく我々は、何も始めることすら出来なくなってしまうのではないか?

天の啓示のようなインスピレーションを授かって、何もかもが、直感的・自動的・無意識的・自然発生的に起きる…、

そんなふうに生きれたら、確かに、最高かもしれない。

 
そんなふうに生きれたら、確かに、天才かもしれない。

でも、啓示レベルの衝動や直感や閃きばかりを待っていたら、我々人間から、「行為」が無くなってしまうと思います。



自分の作品や発言やパフォーマンスを、練習したり、推敲したり、反省したり、改善したり、努力したり、磨いたり、考え直したり、ブラッシュアップしたりする、

 
そういう「努力」や「作為性」も、私は、全く悪いことだとは思わない。(打算的・策略的なことだとも感じません。むしろ、いじらしくて私は好き)。

…むしろ、そうやって、とことん磨いたり、反省してブラッシュアップしたりするからこそ、作品や演奏というものは、その表現者独自のセンス(個性)や気持ちが、滲み溢れてしまう可能性が、あるのだと思う。



さらに言えば、それは、音楽やアートに限ったことではなく。

 
多分、日常の会話・所作・態度・表情などにおいても、同じことなのだと思う。

我々の話し方・声・所作・行為・態度・表情というものには、その人の人格や、その人の価値観や、その人の精神状態が反映されてしまう可能性は、常に、あるはずだと思う。

(※ただし、話し方・歌声・表情・動作・演奏などだけで判断して…、その人の性格や心の奥底まで、全てを分かった気になってしまうのは、間違っていると思います)。

 

 
何も考えず、何も作為せず、何も悩まず、何も自己アピールせず、他者からどう思われても気にしない…、
 
そういう、純粋な直感・衝動のみで生きているような人だけを、褒め称えたくなる気持ちも分かる。(少年マンガの主人公みたいな人)。

例えば、孫悟空やナウシカみたいな人は、魅力的だ。

何の迷いも無く、夢や愛や直感のみで動く人。

でも、そうじゃない魅力も、人間には、たくさんあるはず。

悩みながら、迷いながら、傷つきながら、考えながら…、自分の弱さ・醜さ・利己心・演技性・作為性にも気付きながら…、理想の自己像を演じてみたり、他者の気持ちを慎重に思いやったり、他者の立場を想像してみたり、自分の発言を反省して改善してみたり…。

 
そういう凡人でも、その人の作品や発言や行動に、優しさや、愛や、衝動的なインスピレーションが宿るようなことは、あると思う。

むしろ、そういう凡人であればこそ…、

他者の弱さ・醜さ・作為性・演技性・利己心などを見ても、少しは寛容になれる可能性も、あるかもしれない。(自分自身も同じだから)。

 


「作為」や「努力」や、「思考」や「利己心」というものを、あまりに否定しすぎてしまうより、

「それもまた、人間らしい自然さかもしれない」、「それもまた、魂からのピュアな衝動なのかもしれない」と捉え、

その中に、少しずつ、衝動的な慈愛とか、無私的な優しさとか、直感的なインスピレーションとかが宿るのを、私は、見出だしたいですね。

 
ピュアすぎる芸術論・人生論は、時に、心が狭いだけにも感じられてしまう。

ストイックに理想を求めることは大事だとは思うのだが、人間って、そんな完璧ではありえないと思う。

 

 
全く私欲も打算も無い、純度100パーセントのピュアなものなんて、多分、滅多に存在しない。
 
それゆえ、純度100パーセントのものだけを「良し」としようとすると、世の中のほとんど全てを、「邪悪」「下等」「思考的」「打算的」「不自然」「考えすぎ」「欲張りすぎ」「アピールしすぎ」と、感じてしまいやすくもなる。
 
それはそれで悪くないけれども、少々、心が閉鎖的とも思える…。
 
母性愛や肉親愛でさえ、「自分の子だけでも救われて欲しい」みたいな、差別的な側面もある。
 
でも、それで良いのではないか?人間、そんなものなのではないか?と思います。
 


一見、無心で自然体で、愛に満ちたような人生哲学・アート・スピリチュアルなどに、あまりにも自負や誇りが強すぎると、
途端に傲慢になり、排他性・攻撃性を孕んでしまうようなことも、よくあることだ。
 
だから、人間の心や性格や、行動やアートというものは、「何が良いか悪いか」「何がレベル高いか低いか」、ではなく。
 
もっとファジーで、ほとんどの人の心の中には、弱さも強さも同時に内在しているだろうし、打算も無心もどちらも内在しているだろうし、清らかさも汚さも同時に混在している気がしています。
 
それら両面は分かち難く、同じものを違う角度から見ているだけのような感覚もある。

2013.4.25(3)

例えば、誰かから、「あんたの作曲した曲、俺、嫌いだよ」とか言われたとしても、

実は私は、あまり気分は悪くはない。

もちろん、嬉しくなどないがな!(^O^)/

でも、好き嫌いや意見や感想というものは、「人それぞれ自由であるべき」と、私は思っている。

だから、もし否定的な感想を言われたとしても、それはそれで、その人の正直な感想として、尊重したいです。

(…だいたい、私自身にだって、好きになれない曲、沢山ありますしね。私自身、好き嫌いの塊なのだ。ゆえに、他者の趣味や好き嫌いに関しても、あまり難癖や文句をつけようなんて、おこがましいことはしたくないものだ)。

実際に私は、面と向かって、「あんたのこの曲、嫌い」とか言われたこと、もちろん何度かあります。

でも、あまり嫌な感じはしなかったし、むしろ、清々しい感じさえした。



ただ、私は言われたことはないけど、

例えば、「この曲は、誰も気に入るわけない」とか、「この曲は、誰からも需要なんか無いに決まってる」とか言っている人を見ると、それは、腹立たしく感じる。

なぜなら私は、感想や好き嫌いというものは、まさに、「人それぞれの自由」だと思っているからこそ、

「誰も」とか「誰からも」というような言い方に、違和感・抵抗感を感じるのだ。

自分一人の、個人的な意見や感想や批評を述べるなら、何を述べても自由。

でも、自分以外の人の感じ方や、自分以外の人の好き嫌いについては、あまり、断定してはいけないのではないか?と、思うのだな。

(自分以外の人の、「感じ方の自由」や「好き嫌いの自由」を、奪ってはいけないのではないか?と思う)。

よく「左脳」「右脳」と言うけれど…。

「右脳(直感)は良い」、「左脳(理知)は悪い」みたいな風潮ありますが…、

個人的には、あまり左脳や理知を見下したりするべきではない、と思う。

ネイチャーから授かった、人間の全ての資質を尊ぶべきではないかな、と…。

それに、自分で自分のことを、「私は直感的な右脳タイプです」とか言う人は、むしろ、思考的で左脳的な感じの人も多い、とも感じている。

なぜなら、そういう言い方する人の中には…、「あの人は左脳タイプ」、「私は右脳タイプ」、「左脳タイプの人間より、直感的な右脳タイプの人間のほうがレベル高い」、みたいに、

他人や自分を、すぐ、アレコレ分類・定義したがるから。

(私は、そうやってアレコレ分類・定義する人からは、左脳的で思考的な印象を受けてしまう)。
 


…そもそも、虫や動物のように、瞬間瞬間の直感・本能・感覚だけで生きている人間なんて、いるだろうか?

人間である以上、誰でも多少は、人に気を使ったり、人のことを思いやったり、社会ルールを守ったり、自分を良く見せようとしたり、取り繕ったり、周りの空気を読んだり、失敗から学んだり、未来に目標を持って計画をたてたり、夢のために努力したり…、

そういう、思考・理知・計算・計画・打算が、多少は、在るのではないか?

(逆に、どんなにガチガチな理屈人間でも、絶対、家族愛とか、快楽とか、趣味とか、好き嫌いとか、ふとした思い付きとか…、そういう感情的&人間的な部分が、ゼロとは思えない)。
 


よって、私は、
 
たいていの人間は誰でも、(私も含めて)、直感的でもあり、同時に理知的でもあり、右脳的でもあり、同時に左脳的でもあると、思っています。

(しかも、直感タイプと理性タイプ、そのどちらのタイプが良いとも悪いとも思わないし、明確に分類できるものでもない)。


音楽やアートなども、同じです。

例えば、俳句や短歌を思い浮かべれば分かりやすいけど、

俳句や短歌にも、当然、作者の感性・美意識などが、表現されていると思う。

でも、作品というものは、感性・感情・フィーリングだけで生み出されたわけではなく…、“五七五七七”という、形式・雛型・方程式・テンプレートに、則ってもいる。
 


たいていのアート作品は、俳句・短歌と同じように、右脳や直感や感情だけでは、生み出されてはいない。(思い付くまま、無制限には作られていない。作品としての、“型”や“枠組み”がある)。

どんなアートにも、多少は、形式・約束事・ルール・テンプレートがあるものです。

要するに、作品を作るには、右脳も左脳も、感性も理性も、感情もテクニックも、全て、必要なのだ。
 


もし、感情や直感だけを褒め称えるなら…、

形式やルールなんか設けず、ただただ感情のままに、「ワーーーッ!!」とか泣き叫ぶのが、最も素晴らしいアート作品のはずです。

(そういう、可能な限り“形式”を取り払ったアートも、沢山ありますけどね。例えば、現代アートとかに)。

ロック・ポップス・演歌・クラシック音楽なども、俳句・短歌ほどではないにしろ、形式やルール、約束事やテンプレートがあります。

狼の遠吠えや、鳥の鳴き声のように、直感・本能のままではないのだ。
 


多分、人間の作った音楽作品の、99.9パーセント以上は、右脳だけでは作られていないし、左脳だけでも作られていない。

どちらか片方だけでは、作れないと思います。

いや…、作り手側だけではない。

聴き手側・リスナー側だって、無意識的に、「ここからサビ」「ここから2番」みたいに…、形式に則って、聴いているはず。

100パーセント、感覚や感情だけで聴いているわけではないのだ。
 


私は、形式が悪いと言っているわけではないです。(むしろ私は、形式的な音楽が大好きです)。

ただ、世の中の多くの人は、ロック・ポップス・演歌・クラシックなど、形式的な音楽を好みながら…、

そのくせ、なぜか口では、感性・感情・フィーリングばかりを褒め称え、左脳や形式や理屈を見下す発言をするのが、私には謎。

そんなに形式・理屈・左脳が嫌いなら、形式やルールを持たないタイプの音楽を聴けば良いのに、と思ってしまう。

で、試しに…、そういう発言をする人に、形式を持たない現代音楽作品を聴かせてみたこともあるのだが、

たいてい、「分からない」とか、「難しい」とか言われます。

そういうリアクションを見ると、私は、「ほら、やはり、あなたこそ、頭だけで音楽を聴いてるじゃん?」と、思ってしまう。

音楽は、「分かる」「分からない」以前に、それこそ「感じるまま」に、心身ともに、音楽の流れに浸れば良いのに…。

「分からない」とか「難しい」とか言ってる時点で、普段、自分こそ、左脳メインで音楽を鑑賞している証拠なのだ。

(頭で「把握」できない音楽や、頭で「理解」できない音楽を聴くと、すぐ、「分からない」「難しい」というような感想が出てくる。感じるままに、感じようとしない。そのくせ、「私は右脳タイプです」とか、「音楽は直感とハートで聴いています」とか言っている…。)
 


とにかく、ポップスにしろ、クラシックにしろ…、形式や約束事やテンプレートのある音楽を好んで聴いているなら、いい加減、左脳を見下しすぎるのを止めるべき。

(そもそも、「左脳(理性)」と「右脳(感性)」を、キッチリ分けて分類すること自体、左脳的な作業に思えてならない)。
 


だいたい、人間の生み出す、あらゆる作品(商品)というものは…、
 
それが思考から生まれたのか、それとも直感から生まれたのか、ハッキリとは区別・断定できない。

なぜなら、一見、思考的に生み出されたように見える作品(商品)であっても、開発・製作の途中で、必ず、直感や閃きやインスピレーションも、伴っているはずです。

逆に、直感的に生み出されたように見える作品(商品)であっても…、たいてい、何らかの形式やルールに縛られて作っているし…、

開発・製作の途中で、多少は、出来上がりを計画したり、技術的に微調整したり、修整したり、推敲したり、客観視したりもしているはずです。
 


例えば、宮沢賢治さんみたいな、スピリチュアルな印象の強いアーチストでも、作品を、何度も推敲して書き直したり、削ったり、構想・プロットを練ったりもしていたようです。

直感や霊感のままに、全てを即興的に書いていたわけではないのだ。

だからと言って、彼のことを、ガチガチの理屈人間・左脳人間だと思う人は、少ないと思います。

というよりも…、
 
構想を練ったり、推敲をしたりすることにも、直感や霊感が必要だと、私は思うのだ。

「“推敲”や“熟慮”という作業は、直感(感性)とは相反するものだ」、みたいな考え方をする人にも、私は今まで、何人も会いましたが…、

個人的には、それも誤解だと思っています。
 


「推敲」や「熟慮」や、「計画」や「勉強」や、「練習」や「客観視」などは、必ずしも、頭やテクニックだけの作業ではなく…、
 
むしろ、ハートや魂からの作業だとしか、私は、思えないのです。

ただただ感情を「ワーッ!!」と泣き叫ぶだけではなくて…、(←それも素晴らしいけど)、

感情や感性を「昇華」させようとする、繊細で情熱的な作業なのだ。
 


少々意地悪な見方をすれば、感性や感情だけを重要視する人は、むしろ、「感性が鈍い」とも言える。

とことんまで、魂の奥底を感じようとする感性が欠如しているから、「推敲」や「計画」や「客観視」を、見下してしまっているのだと思う。
 


世の中には、左脳や習慣から生み出された「即興」も、多々ある。

逆に、右脳的で直感的な「推敲」や「熟慮」も、多々ある。

パッと思い付いた「即興」というものが、必ず100パーセント、直感・霊感から生まれているわけではないのだ。
 
(「即興」というものは、習慣や慣習や、テクニックやテンプレートから生まれている場合も、とても多い)。

逆に、一見「考えすぎ」に見えるような人が、実は心の中では、「直感」や「霊感」の声を、人一倍、聞いているかもしれない。
 


というわけで、私は、人間のあらゆる作品(商品)、あらゆる発想、あらゆる言動は、

そのほとんどは、左脳的でもあり、同時に、右脳的でもあると思う。

我々は、いい加減、理性・思考・左脳を見下したり、無いフリをするのでなく…、ネイチャーから授かった人間の全ての資質を認め、尊ぶべきだと思う。

右脳的な発想に心地良さを感じ…、

左脳的な発想にも心地良さを感じる…、

それで良いと思うのだが?
 


私は、一人の人間の中に、「理性」と「感性」が共存できないとは思えないです。

「理性」と「感性」、そのどちらか片方だけで生きているような人間も、私は、想像できないです。

さらに言えば、「理性」と「感性」を、別々に区別しすぎることにも違和感あります。

「理性」と「感性」は、絡み合っていて分かちがたいと、感じていますから。
 


考え方や生き方が、とても論理的で、理屈・左脳・思考メインで生きているような人であっても、

意外と、そういう人は、「私は、理知的に生きることが心地良いから、理知的に生きている」という場合も、あると思う。

つまり、そういう人は、“理知的でフェアで冷静な自分”であることが、「心地良い」のだと思う。

要するに、そういう人は、「とても快楽的・直感的に生きている」とも、言えるのだ。
 


逆に、直感や右脳や感情に従って生きているような人であっても、

そういう自分に自負が強すぎたり、そこに優越感やプライドを持っていたり…、

まして、「幸せや成功を引き寄せるために直感に従いたい」、みたいな理由があるのだとしたら、

それは充分、打算的・左脳的・意識的・計画的・思考的な生き方なのではないかと、私は思う。

(※それが悪いとは思わない。ある程度、打算的&思考的に生きてしまうのが、我々人間だと思うから)。
 


つまり、上記の例のように…、
 
どういうタイプの人間を「理性的」「打算的」と呼び、どういうタイプの人間を「直感的」「自然体」と呼ぶかなんて、ハッキリ定義は出来ないのだ。

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音楽でも文学でも映画でも何でも…、作品の、どういうところに注目するか・どういうところに心を打たれるか・どういう見方をするかは、当然、人によって異なる。(注目するところ・見えるもの・感じることが、人によって違う)。

例えばだけど、バッハやベートーヴェンやブラームスの曲を聴くとして、

曲の中に、ドイツらしさとか、ドイツ気質とか、クラシック音楽の伝統とか、整った音楽理論とか、形式美とか様式美とか、知性とか論理性とか…、そういうところに注目して聴けば、そういう要素がたくさん見つかるだろうし、

逆に、鋭い直感とか、民族や国籍を越えた博愛精神とか、クラシック音楽の伝統の破壊とか、音楽理論の破壊とか、迸るような感情とか、動物的な本能とか、野性的な生命感とか…、そういうところに注目していれば、そういう要素がたくさん見つけられる。

これはベートーヴェンだけに限らず、あらゆる作品・あらゆる人・あらゆる出来事は、たいてい様々な側面を持っていて、

で、観察者や鑑賞者が、「どういうところに注目するか」「どういう見方をするか」「どういう思い込みを持っているか」によって、見出だされるものは違ってくるはず。(それぞれ皆、“感じ方”が違う。心を打たれる“ツボ”も違う)。

ちなみに、わたくし個人的には、

音楽でも映画でも何でも、その作品の生まれた文化圏の特色などには、あえて、あまり注目しすぎたくないです。

作品・演奏・人柄・生き方などに滲み出る、民族的・文化的な特色に、私は気付かないわけではないし、リスペクトしないわけでもないです。

しかし私は、あまりに民族ごと・国籍ごと・性別ごと・宗教ごと・年齢層ごとの、ことさら“違い”や“壁”を強調してしまうよりも…、「人間」全般、(いや、「生命」全般)、「誰にでも共通するような普遍的な感性」を、むしろ私は、探したいのかもしれない。

そんなものは無いかもしれないけど、でも、それを探してみたいのだ。

(もし“違い”や“壁”を意識するなら…、国籍ごと・性別ごと・年齢層ごと・ジャンルごとなどのカテゴライズに基づくよりも、単に、「人間は皆、一人一人違う」という感じのほうが、シンプルで私は好きです)。

ベートーヴェンのみならず。

演歌とか聴いても、たいてい私は、「日本らしい」とは、あまり感じませんしね。

むしろ私は、演歌を聴くと、「“西洋音楽”というものは、必ずしも西洋人の感性だけを表現するわけではなく、人種問わず、日本人の感性や感情も表現できるのだなあ〜」とも、感じます。

(※なぜなら、演歌やJポップというものは、完璧に、西洋音楽の技法やルールに基づいて作られていますから。つまり、演歌も、西洋音楽の一派とも言えます。…そもそも、琴・尺八・三味線などだって、もともとは、エジプトや中東や中国から伝来した楽器らしいし。にも関わらず、日本人の感性や美意識を表現できるのだから、道具やツールや技術というものは、必ずしも、それを生み出した人種・民族にしか使えないわけではない、と思っています。

加えて…、私は、「耐え忍ぶ女」とか「寡黙な男」とか、「勤勉さ」とか「無常観」とかが、必ずしも、日本人だけの専売特許的な感性・価値観とも思えないのだ。西洋の音楽や文学や詩にも、似たような感性・テーマの作品は山ほどあるし、そういう感じの感性を持った西洋人指揮者さんなどにも、私はたくさん出会いましたから。(逆に、日本を代表するような指揮者さんで、超遊び人とか、超おしゃべりとか、超多趣味な人などにも、私はたくさん出会いました)。

少々話がそれましたが、私は、どの国の音楽を聴いても、どの国の映画や絵画などを見ても、あまり、その民族やその人種の「特有の感性」を探そうとするよりも…、そこに垣間見える、「人間全般に共通する感性」を探したいし、「その表現者(その作者)の独自の個性」を、探してみたい・感じてみたい、と思っています。

(そういうものを探したい私のような人間がいても、別に、悪くはないはず)。

P.S.

毎度ながら、今回の記事に書いたことが、正しいとか正解だとかは思ってないです。

単に、今現在の、私なりの感じ方・鑑賞方法だというだけのこと。

しかも、我々人間という存在は、やはり、人種ごと・国籍ごと・性別ごと・年齢層ごとの“違い”、あるのかもしれないですしね。

(多分、あるのだろう。生まれた時代・環境が違えば、後天的に刷り込まれる教育や習慣や価値観は、当然異なるだろうから…。)

でも、あえて私は、そのあたりにはあまり注目しすぎず、もっと広い視野や視点を発見してみたい。

後天的に刷り込まれた習慣・性格・価値観などよりも、根源的に授かった魂や感性や生命感を、探してみたい。(そんなものは無いかもしれないけど)。

同じ人種・同じ国籍・同じ年代・同じ性別・同じジャンルだからと言って、その枠の中の全員が、完璧に同じ個性や性格を持つはずないですしね。