岡本太郎の言葉

今年もあと5日とかいう悪質なデマが流れておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

…はい、デマではない、と。。。




今年一年、共演して下さったバンドメンバー、合唱団メンバー、声楽家・指揮者・ピアニストの先生方、

ありがとうございました!

来年もよろしくお願いいたします!




さて当記事では、何となく岡本太郎氏の言葉を。

■「人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ」

■「自信は無い。でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ」

■「人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それで爽やかだ」

■「本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ」

■「持って生まれた性格は、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい。内向性は悪いことだと思っているから、ますます内向的になってしまう」

■「挑戦したうえでの不成功者と、挑戦を避けたままの不成功者とでは天地の隔たりがある」

■「人生に命を賭けていないんだ。だから、とかくただの傍観者になってしまう」

■「この瞬間、瞬間に、若さとか、年よりとか、力があるないとか、才能とか、金とか、あらゆる条件を超えて、その持てるぎりぎりいっぱいの容量で挑み、生きるということだ」

■「自分には才能がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい、今まで世の中で能力とか、才能なんて思われていたものを超えた、決意の凄みを見せてやる、というつもりでやればいいんだよ」

■「自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ」

■「自然に生き、自分の気持ちをほんとうに伸ばしてゆこうとすれば、まず、いたるところで残酷に、壁に突き当たる」

■「なぜ、友達に愉快な奴だと思われる必要があるんだろう。こういうタチの人は自動的にみんなに気を使って、サービスしてしまうんだろうけど。それは他人のためというより、つまりは自分の立場を良くしたい、自分を楽なポジションにおいておきたいからだということをもっと突き詰めて考えてみたほうがいい。もっと厳しく自分を突き放してみてはどうだろう」

■「芸術なんて、道ばたに転がっている石ころと等価値だ」

■「この世には根性を貫いたがゆえに、敗れ去った人だっていっぱいいる。純粋であればあるほど、この世では敗れざるを得ない。まったくの無名の人物でも、素晴らしい、己を貫いた尊敬に価する人物はいっぱい存在したはずだろう」

■「孤独感を持っているのはキミだけじゃない。人間全部が孤独感を持っている」


■「宇宙的ではなく宇宙なんだ」





私は、太郎氏の言葉や作品、その全てに感動を覚えるわけではないです、

しかし上記の言葉には、どれも心から共感です。

(※ちなみに太郎作品は、絵画だと「夜」「森の掟」「樹人」「エクセホモ」「千手」あたり、彫刻だと「動物」「犬の植木鉢」「午後の日」あたり、とても好きですね)。




私も、来年も挑んでいきます。

もちろん、一生作品が日の目を見ない可能性も覚悟はしているし、志半ばで朽ち果ててしまう可能性も覚悟している、

だからこそ、太郎氏の言葉には共感します。

挑まないという選択肢は、全くイメージできないし。





岡本太郎氏の言葉に共感するのは、安易なポジティブさが無いからでしょうか。(ただし、魂の底からのポジティブさは感じられる)。


…そして私の場合、子供の頃から、「そもそも自分が何をやりたいか分からない」、「そもそも自分の想い・人格・価値観などは全て幻想で嘘っぱち」、「すなわち自己の不在感・アイデンティティの虚構性」、

というような感覚も、着いて回っていました。


でも太郎氏の「内向性」の話や、「決意の凄み」の話にもあるように、

自分の中の、そういう一見ネガティブなところを見ないフリをするのは、どうも居心地が悪い。

それに、普通に誠実に生きようと思ったら、自分自身の嘘・自分自身の矮小さ・自分自身の卑小さ・自分自身の能力の低さ・視野の狭さ・自信の無さ・才能の無さなど、気付いてしまうのが当たり前なので、

ちゃんと気付きつつ、でも、そんなことは関係ないし、問題視することでもない。





自分の心の中に何が有っても、どんな経験や出来事がやって来ても、

まずは、自分に縁があるものとして、(自分自身として)、丸ごと認めたい感覚がある。私の場合は。

苦しみ・悩み・迷い・絶望感・虚無感なども、見ないフリをせず、むしろ味わい尽くしたい。



そのうえで、

■「自信はない。でもとにかくやってみようと決意する。ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また。それしかないんだ」

■「人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか」

■「本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ」

■「持って生まれた性格は、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい」


上記のような言葉に共感するし、その通りだと思います。


太郎氏のメッセージには、「前向きになれ」「自信を持て」「こうすれば成功できる」みたいなムードは感じない、

感情や価値観を表面的に操作・整備しようとするのでなく、本質からのポジティブさを感じます。

全ての価値観はクズ

「今ここ」「今が全て」という格言(価値観)は好きだし、真実だとも思う。

しかし一方で、フレディー・マーキュリーの発言、「Fuck today,it’s tomorrow(今日なんかクソくらえ。明日が勝負さ)」や、名曲「明日があるさ」や、嵐の歌詞「今が全てじゃないから、あんまりムキになるなよ」、

というような考え方も、とても痛快&安心な感じがする。

(アニメ「キャンディ・キャンディー」の終わりの歌は、「明日が好き」という歌詞でした。素晴らしい歌でした。ミュージカル「アニー」の「Tomorrow」も、そんな感じの素晴らしい歌だと思います。…一方で、「RENT」の「No day,but  today」も、大好きなのですが)。




「今が全てじゃない」という感性や価値観も、「今」の過ごし方の一つとして、充分アリだと思う。

ただし行き過ぎると、「俺はまだ本気出してないだけ」というふうにもなってしまうが(笑)、

懸命に誠実に生きた結果、今日、失敗したり誤解されたりしてしまったら、そんなふうに気持ちを切り替えるのも悪くないのではないか、と思う。

(例えば小さい子供とか、今は野菜が食べられなかったり、一人で電車に乗れなかったりするけど、少し大きくなれば成長することは、我々は誰でも分かる)。




というわけで、矛盾するようだけど、「今ここが全て」という考え方も、「今が全てじゃないさ」という考え方も、どちらも素晴らしいと思う。




それで、何が言いたいかと言うと、「物事の見方・考え方・感じ方は自由だし、たった一つの正解は無いのではないか」、ということです。

「これは真理に違いない」「人間とは、人生とは、仕事とは、教育とは、道徳とは、音楽とは、創作とは、生き方とは、私とは、こうでなくてはならない。こういうものに違いない」と、確信するような価値観があったとしても、

見方を変えれば、それと真逆の意見や価値観も、案外、そう悪くもない気がします。


…一例にすぎませんが、「今を受け入れて自分のことを肯定したい」というような価値観も良いと思うし、「今を受け入れずもっと理想を求めたい」というような価値観も良いと思う。

当たり前だが、人それぞれで良いように思われる。


しかも人間はデジタルではないし、終始一貫した「キャラ」でもないから、人生観・価値観も変化していくものでもある。

上記の例で言えば…、「現状を静かに受け入れるような時期」、逆に、「現状以上を求めて頑張りたくなるような時期」、

それぞれ、どちらも良いのではないかと思われる。

しかも年齢とかも関係なくて、老年になってから、猛烈に理想・変革を求めるような人もいるだろうし、子供時代や若い頃ほど、現状維持でいたい気質の人もいるかもしれない。。。




そもそも、人間の見方や価値観というものは、けっこう不平等なものでもある。




例えば我々は、ストイックなスポーツ選手を褒め称える一方で、趣味を持たない仕事人間を「頑張りすぎ」「視野が狭い」などと、批判したりもする。

そうかと思えば、多才で多趣味なアーチストを賞賛する一方で、趣味や興味が長続きせず、気持ちが移り気な人を批判したりもする。

「夢を持て・やりたいことを探せ」と駆り立てる風潮がありつつ…、そういうことを言う人にかぎって、「そのままで良い・頑張らなくて良い・誰もが特別なオンリーワン」とか言ったりもする。

高い理想を求める人を「頑張りすぎるな」「多くを求めすぎるな」などと諌めつつ、大きな理想・目標を達成した人を賞賛したりする。

昔気質の不器用な俳優・職人を絶賛しながら、新しいテクノロジーに対応できない人や、仕事の要領が悪い人や、ジョークが苦手でクソ真面目なだけの人間は、呆れられたりもする。

ポジティブな発言や性格を礼賛しながら、二流くらいのスポーツ選手が前向きな発言をしたりすると、自分に甘い、闘志がない、危機感が足りない、現状を見ろ、一流の結果を出すまで偉そうなことを言うなと叩かれたりもする。




まあ、何事も「行き過ぎは良くない」ということかもしれない。

(あるいは、結果を出した者は、どんなパーソナリティーでも賞賛されやすくて、結果を出していない者は、どんなパーソナリティーでも批判されやすい、ということかもしれない)。




いずれにせよ、たいていの意見や格言や、たいていの批評や人物評価なんて、ほとんど無責任で一面的なものだ、と思う。

ほとんど、下らないものだ。

あまりにも安易に、物事の良し悪しを決め付け過ぎる人や、あまりにも一面的にしか物事を見れない人の意見は、

忠告・批評には、ありがたく感謝の気持ちは持ちたいものだが、最終的には、耳を貸す必要は無いのではないか?




乱暴な言い方をすれば、「全ての発言はクズ」「全ての価値観はクズ」と思っても良いと思います。

もちろん、自分自身の発言や価値観も含めて。


良い意味で、言葉・発言・思考・感情・直感・価値観などを、あまり深刻に受け止めすぎない態度は、そう悪くもないように思えてくる。

自分の思ったこと・感じたことは、盲信しすぎず、ただ観察するだけで良いように感じる時もある。

(すると、固定的な「自己」など、どこにも存在しないようにも思えてもくる)。




もちろん、言葉や感情や思考や価値観は大切だと思う、

特に発言というものは、ちゃんと受け止めようとしますし、ちゃんと心を込めて、今現在の自分の想いを表現しようと努めます。

しかし同時に、100パーセント絶対視しすぎない感覚も持っていたいです。

完璧に100パーセント、他者の性格・人間性・言いたいこと等を、「私は理解している」と決め込みすぎないほうが良いし、

完璧に100パーセント、自分の性格・人間性・言いたいこと等が、「必ず相手に伝わっている」と決め込みすぎないほうが良い。


だからこそ、言葉や表情や伝達は大切にしたいものですが。

(しかし、そもそも言葉や表情というものは、自分の内面や考えを、必ず100パーセント、誤解なく相手に伝えられるツールではない)。




「人間がクズ」とは感じませんし、人間自体には愛着や慈しみを感じるとしても…、

あらゆる発言・意見・見解・思想・直感・価値観等は、不完全なもの。自分本位なもの。「絶対に誤解や思い違いなど無い」とは、どんな場合でも、言い切れないものだと思う。

(もちろん私も、無意識のうちに、誰かへの偏見や差別や無理解・誤解・思い込みや決め付けをしている可能性も、常にある)。


個人的には、自分が何かを思った瞬間、何かを感じた瞬間、何かを考えた瞬間…、「あ、これは間違いかも」「これは思い込みかも」「これは先入観かも」、

と思うくらいが、私は心地良いですね。

(「自信が無い」という感覚ではない)。




宮沢賢治:「何がしあわせかわからないです。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら、峠の上りも下りもみんな本当の幸せに近づく一足づつですから」。(「銀河鉄道の夜」より)




同感です。

何につけても、究極的には「分からない」ということに尽きる。




意見や価値観を持たないわけではないです。

発言の責任を負いたくないわけでもない。

(自信を持たないわけでもない)。

今現在の自分なりの意見に自信を持ちつつ、

今現在の自分なりの感性・好み・見解・道徳観・価値観等に自信を持ちつつ、

(そして、他者の意見や見解や価値観も尊重しつつ)、

…でも、何か一つの感じ方や考え方を、あまりにも過信・盲信・絶対視しすぎてしまうのは、私は抵抗感が強い。




人生のことも、人間のことも、アートのことも、道徳のことも、他者の心の中も、他者の性格も、(自分自身のことさえも)、究極的には「分からない」としか言えません。

(むしろ、「分かったつもりになったらダメ」とすら感じます。…そう感じることもまた、私の狭い視野での思い込みなのかもしれませんが)。




ただ、「自分の意見は一意見に過ぎない」と自覚しつつ、自分の意見に自信を持ったり、誰かを批判したり、誰かを人物評価したりするなら、全く問題ないと思う。

「絶対に自分に自信を持ってはいけない」、「絶対に自分や誰かのことを分かったつもりになってはいけない」、「絶対に正解を分かったつもりになってはいけない」、

そういう空気は、かえって窮屈ですし、むしろ非人道的ですし。

(↑そのあたりは、コチラの記事に書きました)


自分の意見に自信を持ったり、それを自由に発言・表現したりすることは、誰もが持つ権利だと思う。

もちろん最低限の礼儀は必要だと思いますし、発言する以上、誰かから反論・反対される可能性も有ることは、受け入れなければなりませんが。




心の底から、何か一つの意見・見方・感情・判断・価値観を盲信しすぎてしまうと、ややもすると、排他的で独善的なムードになってしまうことが多いように思う。

もちろん、そういう独善性や偏りこそが人間らしさであるし、「個性」とも呼べるものではあるので、それらを無くしたいわけではないです、

各々、自分なりの見方・偏見・偏りを大切にしつつ、

同時に、見方や価値観の自由さや、様々な多様性を許容する雰囲気も、(むしろ自分自身のためにも)、意識的に育むべきではないかと思っている。




…人間、とことん偏ることが大事だし、同時に、その偏りを絶対視しすぎないことも大事、(どちらも大事)、

という感覚です。




そしておそらく大事なことは、「意見が違う」ということと「仲が悪い」ということは、イコールではない、ということ。

意見や価値観が違っても、好きな人や尊敬する人なんか、私はたくさんいます。

アインシュタインなど

どんな仕事のプロでも専門家でも、その人が、自分の仕事に誇りを感じたり、やりがいを感じたり、更なる成長を求めて精進している姿などを見るのは、心地良いものだ。

しかし、同時に…、今現在の自分の力量・見解・感性・価値観などに、過度に固着しすぎない謙虚な態度というものも、とても心地良いものだ。(自分の意見や仕事を、過信・盲信・絶対視しすぎない態度)。

例えば、

●『私達は何も知らない。私達の科学や知識など、小学生のようなものだ』(アインシュタインの言葉)、

●『人は、宗教や瞑想など無くても生きていける』(ダライラマの言葉)、

●『私には分かりません(笑)』(「人間の生きる目的・理想的な生き方は?」という質問への、ダライラマの回答)

●『哲学など持つな。(こり固まった見解・信念・価値観で、自分や人や世の中の在り方を画一化するな。毎瞬、そのつどの人生を生きよ)』(哲学者ニーチェの言葉)、

…などなど。

特に、アインシュタインやダライラマのような人がこういう発言をすること自体カッコイイし、とても意義深く感じられる。

多分、彼らのこういう発言の根底にあるのは、「自分は永遠に探求者」、「自分は一面的な視野しか持つことは出来ない」…、あるいは、「人それぞれの多様性を認める」というスタンスなのではないかな、と思う。

(卑屈な自己不信ではないだろうし、決して、意見・見解・人生観等を「一切持たない」「一切述べない」「一切議論しない」ということでもないだろう、と思われる)。

私も、今現在の自分自身に、自信・やりがい・肯定感・責任感などを持てるよう努めつつ。

同時に、上記の方々のように、謙虚で未来志向な態度、見習っていたい思う。

Goethe

(前回記事の続き)。そんなわけで、例えばゲーテの言葉、『寛大になるためには、年をとりさえすれば良い。どんな過ちを見ても、自分も犯しかねなかったものばかりだ』なども、本当にその通りだなと実感させられるのだ…。「過去」の効用の一つかな。別に私は年寄りではないが(笑)、とても共感・実感。

最近知ったアフォリズム

最近知った好きな言葉。

『神は汝の敵を愛せとは言ったが、好きになれとは言わなかった』。(ラインホールド・ニーバーという神学者の言葉)。

確かに、あまりに無神経で傍若無人な人の言動など、何でもかんでも好きにはなれないが…、でも、心のどこかで、その人のことを応援したり、その人の幸福や成長を願ったりすることなら、まあまあ出来る気もする。その人のことを上から目線で見るわけではなく、自分自身も、同じように弱さ・傲慢さ・身勝手さを抱えた者同士として。

(「嫌い」な人も、私自身の心の狭さや頑迷さを映す鏡として大切かもしれないし…、そもそも、出会う人達を、いちいち敵・味方に分ける必要も無いだろうし)。

多分、「愛」と「好き嫌い」は、あまり関係ない。

人間には「好き嫌い」があるのは当然のことで、それが人生を導いていくとも思う。

私は、「好き嫌い」を捨てるつもりは無いし、「好き」を追い求めざるをえないし、無理に誰にでも好かれようとも思わないし、無理に全ての人を好きになろうとも思わないが…、

でも、私が「嫌い」と感じる人や、私が「嫌い」と感じる音楽や生き方なども…、別の人にとっては「好き」な場合もあるのだから、「何も頭ごなしに否定したりは出来ないな」、という想いが、私の根底には在る。

容姿や性格や生き方が「好き」な人を愛することは、たやすい。

しかしながら、心底ムカついて、もう二度と会いたくないような「嫌い」な人であっても…、その人の幸せや成長を願う気持ちは、多分、私の中にもあります。(私好みに成長させたいわけではない。私も誰でも、それぞれの人生やパーソナリティに即した方向性・ペースで輝いて欲しい…、という願いがあります)。

以上のようなことから…、「愛」と「好き嫌い」は別のものだと思うのだります…。

アフォリズム15

人の気持ちを思いやったり、人の立場・事情・境遇などを理解しようと努めることは、大切なことだとは思う。

しかし、逆説的な言い方になるが…、

『「人の気持ちや事情は完全には分からない」と認めることが…、それがむしろ、人を思いやるための第一歩…、いや、前提条件ですらあるような気がしています』。

加えて、変な言い方になるけど、『「分かり合えないこと」自体を分かり合う』…、『誰もが、視野や理解力が不完全で、お互い完璧には分かり合えないこと自体に、共感・労り・赦し・一体感なども見いだす』、みたいな?

私は、過度に無理してまで、他者と「分かり合う」ことを目指しすぎることもないと感じます。

むしろ、他者の心の中は「分からない」からこそ…、私は、ごく普通に思いやりを持つ人でありたいし、ごく普通にオープンでいたいし、ごく普通に礼儀正しく仲良く人と接したい、と思う…。

(それが出来ていないから、私はそう思うのかもしれませんが)。

おそらくは

私が、例えば“幸福感”など感じる時があったとしても…、それは多分、言い換えれば、「世界や他人の苦しみに無関心」、ということかもしれない。

アフォリズム14

以前、意味不明ながら、なかなかにインパクトのある格言を見たことがある。

『男は黙って野茂英雄!!』

すごい。一体誰が作ったキャッチコピーだろう?何だかよく分からんが、思わず「そうだ、その通りだ!」と、強く賛同してしまった。

アフォリズム13

人の上辺の言動だけを見て、「あの人は愛が無い」とか、「あの人は頑張りが足りない」とか、あるいは、「この人は頑張りすぎ」とか…、

いちいち人を裁いて、矯正させようとしたり、自分好みに導こうとしたり、白黒つけすぎたり、

そういう、「人を低く見なすゲーム」には、もう多くの人が飽き飽きしているはず。

しかしながら…、『「愛」だけを肯定しようとするならば、自分から見て「愛」と感じられない者を否定することであり、多分、それは「愛」とは呼べない』。

『「優しさ」だけを肯定しようとするならば、一見冷たく見える誰かのことを「優しくない」と言い切ることであり…、多分、それは「優しさ」とは呼べない』。

だから、私にとっての「愛」や「優しさ」は、今のところ…、「優しいとはどんなものなのか」とか、決めすぎないこと。自分なりの感性・流儀・価値観は持ちつつも、人それぞれであることを認めること。

私は心・視野が狭いからこそ、こうして、広々とした見方・感じ方に憧れているのだろうと思うのだが。

もはや、アフォリズム記事を逸脱しているけど…

おそらく誰でも、(少なくとも私は)、誰かと「愛し合いたい」、誰かを「可愛がりたい」、みたいな気持ち(欲望?)が、強くある。

なぜそのような欲望が、私の心の中にあるのかは分からない。本能なのかもしれないし、後天的に身についたものかもしれない。

私は基本、孤独が好きだけど、一方で、誰かと愛し合うような体験を望んでもいるし、心地良い人間関係を結ぶことへの執着も強いのだ。

(何をもって「心地良い人間関係」と呼ぶのか、謎ではありますけど)。

ところで…、少し前のアフォリズム記事に書いたような、『“他人”と“自分”とは、絶対的に別々であり、それぞれ個別の心・魂・個性を持つのだ』、という感覚と、

『いや、本当は人と人は、それほど違いも無く、実は、“他人”とか“自分”とかいう垣根も無いのではないか。基本的には、誰もが似ているのではないか。しかも、独立した“自己”なんて、明確には存在していなくて、我々は、他者や状況・環境と絡み合った“総体”ではないか?(人間や動物は皆、単に、本能や魂のプログラムであり、生まれついた環境や境遇や、時代や他者への、単なるリアクション・反応・順応・反抗・抵抗・追従・模倣・感応にすぎないのではないか?)』、みたいな感覚…、

上記の両方の感覚が、私の中には同居しています。

むろん、「誰もが似ている」みたいな感覚は、感情レベル・内面レベルでの話。

実際的・現実的には、誰と付き合う時でも…、お互い、別々の意思や個性を持つ者として、コミュニケーションの努力・適当な距離感・最低限の礼儀・押し付けがましくない態度・尊重・思いやりなどは、やはり、大切だとは思うのだが。

“沈黙”や“静けさ”も美しいとは言え…、人に「以心伝心」ばかり期待するような態度は、かえって失礼な場合もあるかも、などと思います。

calendar

<< May 2017 >>
SunMonTueWedThuFriSat
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   

Recent comment

Profile

Total entry:1104
Last update:2017/05/09

Mobile

qrcode

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM

PR