三善作品3

前々回の記事に引き続き、もう一つ三善作品を。

「狐のうた」から「訓誡」による。(作詞:会田綱雄 作曲:三善晃)

 

この世ならぬ禍々しさ!

おののくほど不吉・災厄な雰囲気!

それでいて、どこか郷愁やユーモアも感じられるだろうか?(中間部のスローなブルース風とか)

朗読の説得力も見事だし、最後の1分くらいの鬼気迫る演奏に身震いします。

語弊があるかもしれないけど、とてもカッコイイ音楽だと思います。

(※大きめの音量推奨)



とにかく、戦慄を禁じ得ない音楽性。

曲の完成度は、至高の極み。

あががが。。。



何回か前の記事で紹介させて頂いた「生きる」とも「或る風に寄せて」とも、全く違う音世界。

どれも大傑作だと思う。

もしよろしければ、さかのぼって3曲聞き比べてみて下さい。

「或る風に寄せて」

先日の記事、三善晃作曲「生きる」(混声合唱曲)、

少し追記・書き直ししましたので、ご興味ある方は、さかのぼって見てやって下さいませ。



本日の記事は、三善晃作品の第二弾です。



さて三善先生の歌・合唱の作品では、とりわけ私は、

「三つの叙情」の1曲目「或る風に寄せて」や、「四つの秋の歌」の1曲目「駅」あたり、

本当に好きですね。




心底素晴らしいと思います。

透明感に満ちていているのに、どことなく妖しい不穏さ・官能性・夢幻性も感じられ、戦慄すら感じます。

さりげないのに、まとわりつくような(?)、

ゆったり揺蕩うようでいて、自由自在に羽ばたくような(?)、

…もはや何を言っているのか分からなくなってきましたが。^^;

まあ、うっとりですね。

(詩にぴったり寄り添いつつ、分かりやすい自然発生的な音楽を作る技術にも、惚れ惚れするばかりです)。



実は、私のピアノ作品「幼少のころ」は、少し影響受けています。(あと、キース・ジャレット「ステアケイス」あたりの影響も受けてる)。

拙作「幼少のころ」は、こちらのサイトで聞けますので、もしよろしければ。



三善晃作曲「麦藁帽子」(女声合唱)も、去年、指揮する機会がありましたが、

やはり、上品な透明感の中に独特の揺らぎがあって、素晴らしいと感じました。

小品とは言え、内包する小宇宙が無限大なのだ。

ちなみに「或る風に寄せて」は、だいぶ前に振らせて頂いたことありますが、練習のみでした。(本番とかでは振ったことないです)。

三善晃作曲「生きる」(混声合唱曲)

本日、指揮させて頂いた曲の一つをご紹介。



「生きる」三善晃作曲 

谷川俊太郎氏の詩「生きる」に作曲された合唱曲です。



名曲だと思います!

「好きな曲」とか「嫌いな曲」というような感想を超えて、

もはやこれは、三善先生の人生観や、三善先生が生きていた(感じていた)感触・空気感、


もっと言えば、「人生とは何なのか」「生きるとは何なのか」という普遍的なテーマが、

概念や観念でなく、実感・空気感として伝わってくる気がします。



全体的に、耳に心地良いだけの優しい音楽ではない。

非常に厳しいし、喜怒哀楽の全てを表現しているような凄みを、(私は)感じます。

それでいて、そういう喜怒哀楽一つ一つの感情に囚われすぎず、俯瞰している感じ??感情も人生も、ひたすら過ぎゆく感じ??

(※オスティナート的な手法と一定のテンポ感が、そう感じさせる)。

もはや個人の感情を超えて、全てを包み込む時の流れ・宇宙の流れ…、生まれては消失していく命の宿命・摂理…、

そんな雰囲気すら、私は感じます。





細かいところで言うと、

ストイックなピアノ前奏には、実に厳しい苦い音が混じっていて、

全曲を通じて、この前奏が、何度も何度も演奏されます。

(まるで時の刻みのようでもあるし、心臓の鼓動のようでもあるし、人生の宿命や歩みのようでもあります)。



色々凄いと思うところは多々あるのですが、

個人的に最も鳥肌が立つのは、2:42からのピアノだろうか?

「今が過ぎてゆく」という詩を歌った直後なので、

「じゃあ、過ぎ去って新しいメロディーが生まれるのかな?」と思いきや、執拗に、ふたたび前奏のピアノが奏でられます。


しつこい!

何も過ぎ去ってなどくれないのです。

これは、「「今」から逃げることは出来ない」「人生は「今」を生きるしかない」

というような実感がこもっているようにも感じられます。

(あるいは、「過ぎ去っていく時を止めることは出来ない」「やがて消え去りゆく命を留めておくことは出来ない」という、当たり前の真理を、厳しく厳粛に受け止めている感じもします)。


なんと厳しく、それでいて、何と実直で誠実なのだろう。

指揮をしていてここに差し掛かると、私の感性は、おののき打ち震えます。

甘さが無くて、非常に心地良いです。




あと合唱の出だしなども、何度聞いても、何度指揮しても、感動します。

さりげなくて、自然発生的な感じだろうか?

命を授かった感謝のようなものも感じられるし、宿命的に孤独を背負わされているような雰囲気も感じます。

ところが、同じようなメロディーが1:05では強い力感を伴い、意思や決意すら感じさせるニュアンス。

同じ言葉に、内容・印象がまるで違う表現をしていて、精神や感受性の深みを感じます。




そして何と言っても終わり方でしょう。

ピアノも合唱も、短調とも長調とも言えない、不思議な音がたくさん使われています。

これは、色々な感じ方・色々な解釈の仕方があると思います。

多くの人が感じることだと思いますが、「生きる」と言いつつ、ほとんど死を連想させるような響きですね。

つまり、生に内包される死をも表現しているのではないか?と思います。



その他、この終わり方に関して、個人的に感じたことを書きますと、、、

「生きるとは何か」「人生とは何か」「生とは何か」「死とは何か」ということを、三善先生は安易に結論付けず、安易にハッピーエンドにもせず、ただ深々と味わっているだけのような印象も感じます。

「なぜ生きているか、なぜ生かされているか、究極的には分からない」ということを受け入れつつ、それでも実直に生と死に向き合っている姿勢に思えてなりません。


あるいは、こうも言えるかもしれません。

あえて疑問符の残るような旋律・和音で終わることにより、

聞き手・歌い手、それぞれ一人一人に回答を委ねているのかもしれません。

三善先生の回答を押し付けるのではなくて。


(結果的に、それが、一人一人への応援・問いかけ・同胞愛のようなニュアンスさえ、私は感じます)。


人生・命というものへの諦観・絶望感もあるのでしょうが、だからこそ、強い祈りや愛のような想いも感じます。

(レクイエムのようにすら感じられる時もあります)。




(注※全て個人の感想・主観です。もし三善先生がご存命で、この記事を読んだら、「僕はそんなつもりで作曲してない」と言う可能性も高いです。笑)




いやはや、しかし、これぞアートでしょう!

作品に、作者の個性・感性・人生観が見事に反映されつつ、

なおかつ、作者個人の視座を超えた凄みさえ感じられる。

(そして、それを実現できる、作曲技術の素晴らしさ!)




とてつもなく孤高の境地・孤高の技術でありつつ、万人が楽しめるエンターテインメントとして成立しているところが、また見事!

本当に凄いものだ。


作曲の技術的にも、感銘を受けるところは多数ですが、ここで手短かに書けることでもないので、そのあたりは割愛。

感想的なことのみ、書かせて頂きました。

合唱あるある

と、いうわけではないが。

単に「私あるある」なのですが、合唱の超有名曲の楽譜が、探していない時はよく見かけるくせに、いざ探すとなかなか見つからない、という。。。

今回は「いざたて戦人よ」(混声バージョン)の楽譜が、どうしても見つからない…。



この曲ですね。

動画は男声合唱ですが。

これの混声版を、指導させて頂いている合唱団でやろうと思い、さっきから本棚の楽譜を漁っているのですが、なぜか見つからず…。^^;

どこかにあるはずだ…。


この曲は、私も数え切れないほどの回数、歌っています。

おもに、学校巡りのスクールコンサートで歌うことが多かったです。

混声版だと私はバスですが、男性版だと、トップテノール以外は全パート歌ったことがある気がします。(わたくし高音が出ない)。

シンプルですが、雄々しい気持ちになる名曲!


上記動画、楽しげで微笑ましいし、テンポ設定が自分の好みに近い感じです。

「続けよ」という言葉の最中にカンニングブレスするのとか、他人事とは思えません(笑)。

それにしても、ハーモニーが崩れても、トップテノールという人種は、ひたすら高らかにガッツリ歌い続け、下3パートは顔をしかめたり笑っちゃったりするのは、全国共通なのだろうか?

自分が今まで歌った数々の場所でも、そんな印象が多かった気がします。。。

面白いものだ。

好きな指揮者

(※Alchemy Crystalのほうのブログ、私は毎週土曜に書いていますが、こちらに転載しても良さそうな内容は、今後、同内容をアップしようかとも思っています。)


本日の記事は、好きな指揮者の動画を幾つか紹介させて頂きますが、
そもそも、指揮者の最も大切な仕事の一つは、いわゆる「さん、はいっ!」という合図です。
曲の開始部分だけではなく、曲の流れの中で、テンポが変わる部分、新しいフレーズを奏でる部分なども、毎回、「さん、はいっ!」が必要です。

指揮の初心者の段階では、まずは、誰が見ても分かりやすい「さん、はいっ!」を目指して、練習します。(これだけでも、けっこう難しいです)。
でも、それは初歩の初歩。
レベルが少し上がれば、指揮者というものは、当然、そういうタイミングを指示するだけではなく、
そこに、「どう演奏したいのか」「これはどういう音楽なのか」というニュアンスを付加していきます。
さらには、指揮の動作に、音楽観や人生観のようなことまで滲み出てしまう、実に不思議な仕事だります。
(ダンスと似た要素もあるかもしれませんが、あくまで指揮は、「音楽を生み出すための動作」です)。

素晴らしい指揮者さんの動作は、「さん、はいっ!」という合図の上手さ・的確さはもちろん、それ以上に、今演奏している音楽を、「どう感じているか」「どう表現したいか」、そのあたりが一目瞭然です。
見ているだけで楽しいし、気持ち良いし、見事なものです。





カルロス・クライバーさん。大好きな指揮者です。

彼はインタビューで、「若い音楽家の教育はしないのですか?」と聞かれ、「私は教育には全く興味がありません。苦労して、車を部品から組み立てて作ることなんか興味なくて、性能の良い、完成された一流のスーパーカーで、猛スピードで走るのが好きなのです」、みたいに答えたらしい。
要は、下手くそな連中なんか相手してられない、ということだと思います(笑)。

この動画は、そういう彼の人間性・音楽性が、よく現れていると思います。


上の動画、見れば分かると思いますが、「いち、に、さん、しっ!いち、に、さん、しっ!」と、全くビートを刻んでいないですよね?
音楽の流れ・エネルギーの、ざっくりした方向性だけを指揮して、「さん、はいっ!」という合図すら、可能な限りサボっていますね。

んまあ〜贅沢!

そして、極上の上品さ!

でも、このような指揮は、一流オーケストラだから可能であって、(団員メンバー全員、ソリストになれるような腕前)、
もしこの動画の指揮で、学生オーケストラなどを指揮したら、ガタガタに崩れるかもしれない(笑)。
団員メンバーの音楽能力が低ければ、分かりやすく「いち、に、さん、しっ!」と、ビートを刻んであげないと、皆、リズムを見失ってしまいますからね。

というわけで、本当に見事で贅沢な動画だと思います。
けっこうバカっぽい曲ですけどね。
クライバーさんの指揮は、基本、高田純次さんレベルで超テキトー、でも、時々インパクトのある音を振る時、その的確さやリズム感は、やはり素晴らしいです。




 


この動画は、「のだめカンタービレ」で有名な曲ですね。サビの部分は、どなたも聞いたことあると思います。
指揮は、やはりカルロス・クライバーさんです。

序章が長いですが、特に注目いただきたいのは、3:50〜4:35あたり。

この指揮は、神業です!!

(しかも、指揮が目立ちすぎて音楽を邪魔したりとか、そんなことも全く無い)。

まず3:55〜4:05!!
クライバーお得意の、「振らない指揮」!
でも単なるパフォーマンスではなく、ここは、ベートーヴェンのメロディーが、特別の雰囲気ですよね?まるで、新たな霊感やインスピレーションを授かっているような感じで…。
クライバーさんは、ワクワクしながら聞き耳を立てて、新たなインスピレーションに聞き入っている感じです。
要は、クライバーさんが自力で何かを表現しようとしていなくて、天から聞こえてくる天使の声に、幸せな気分で聞き入っている雰囲気が生まれるのです、
その結果、オーケストラからも、そういうサウンドが生まれています。(それにしてもクライバーの動き、上品です!)

4:15〜4:25も、凄い!!
ここは、思いっきり「振って」います。
爆発的エネルギーの音楽なので、ほとんどの指揮者は表現しきれないと思うのですが、クライバーさんは完璧です。
(「さん、はいっ!」の合図としても、タイミング、スピード、これ以上ないくらい的確です)。

で、4:25からは爆発的に盛り上がりますが、「のだめカンタービレ」に使われた部分ですね。
クライバーさん、サビ直前の「さん、はいっ!」が、凄まじいですね。
何が凄まじいかって、とにかく凄まじい。
ジジイのくせに、はええ!


ちなみにクライバーさん、指揮台ではこんなに優雅で自由で、オーケストラも観客も魅了し、堂々としていますが、
普段はシャイで内向的で、でも女好きで、ファザコンで、自分に自信が無くて、仕事をドタキャンすることも多く、難しい曲や難しい状況にはチャレンジしようとせず、大成功を確信できない仕事にはチャレンジしようとせず、周到すぎるほど入念にリハするのに、本番前は緊張しやすく…、

周囲の人から見ると、理解しがたいほどナイーブすぎる性格だったようです。(多分、完璧主義者でもあったのでしょう)。

でも私は、それで良いのではないかと思う。

もし彼が普通に前向きで明るくて、自信がある人だったら…、多分、これほど神懸かった繊細な指揮は出来なかっただろうと思うのだ。
人並み外れてナイーブだったからこそ、同じ楽譜を見ても他の人には気づけない、音楽の繊細さや大胆さを引き出せたのだと思う。

だから、クライバーのみならず、
人間、誰しも、一見短所と思えるような性質があったとしても、それもまた、素晴らしい仕事をするために役立つ可能性もあるかもしれない、それもまた、その人の長所であり美点なのかもしれないと、私は思っていたい。




 


こちらは、作曲家でもあるレナード・バーンスタインさんの指揮。
曲は、マーラーの交響曲9番です。
長い動画ですが、オススメは第4楽章です。

第4楽章は、56:30からです。
この第4楽章は、音楽としても大傑作だと思います。お暇な折に、ぜひ聞いてみて下さい。

短い序章の後、コードがD♭で開始し、次がA♭で、その次のAで、はやくも私は悶絶死します(笑)。

何という変態的で美しいコード!

低弦が重厚で泣けます。
その後も、この曲は、美しくも醜く、哀しくも宇宙的に広がる、独特のコードとメロディーが延々と続きます。

最高です!

深い音楽だー、
何が深いって、とにかく深い。
これは、人類の宝と言える曲の一つだと思います。

バーンスタインさんの指揮で見て欲しいのは、全部良いけど、特に58:35〜59:10や、59:30〜1:00:52や、1:03:55以降あたり。
というか、本当に素晴らしい曲なので、4楽章の最初の10分だけでも聞いてみて下さい、
これがイマイチだと感じるなら、一生、マーラーは聞かないほうが良いです(笑)。


さてバーンスタインさんの指揮は、まさに、「さん、はいっ!」の合図のみならず、この曲の内容、雰囲気、音楽性、自分がどういう音楽をやりたいか、自分はどういう人間でありたいか、
そういうものが、一目瞭然ですね。ほぼ素っ裸状態で、全てをさらけ出していると思います。
「この曲は、喜びも哀しみも含めて、自分の全てを込めて、全身全霊で演奏するんですよー。いや、喜びや哀しみや「自分」なんか超越して、人生や生命や宇宙そのものなんですよー、この音楽は」、
ということを、一目瞭然で示している。
言葉で示すのでなく、動作や表情、体から放射するオーラやエネルギーで、その場にいる全員を一体化させている感じですね。


…とは言え、この指揮、個人的にはギリギリだと思う、
ちょっと自己アピール的なパフォーマンスにもなりそうな危険性もはらんでいるからだ。
バーンスタインさんは、愛や情熱やユーモアに溢れた方だと思うが、普段の言動から、やや尊大で、やや自信過剰で、俗っぽい自己顕示欲なども感じられるのだが、(ファンの人、すみません)、
でも、そういう人間らしい醜さ・小ささ・我欲を自覚しているからこそ、彼は、本当に愛や救いに溢れた音楽を実現できた気もする。

少なくとも、この動画の指揮をしている時の彼は、音楽や人類への愛・共感に満ちていると思いますし、実際に、そういうサウンドが鳴っています。
世紀の名演だと思います。(私はDVDも持っています)。


というわけで、指揮に関してでした。


分かりやすい指揮が大事ではあるけど、あまりにも分かりやすい的確な指揮をしすぎると…、芸術やエンターテインメントではなく、まるでテキパキと交通整理をしているような印象にもなったり(笑)、あと、合唱団やオーケストラが、「命令に従っているだけ」という雰囲気すら生まれることもあります、

かと言って、アーティスティックに、感情まる出しで指揮をすると、音楽が主役でなく、指揮者が主役になってしまう危険性もあります。指揮者が自慰的に、「僕はこんなに辛いんだよ〜!」、「僕はこんなに楽しいんだよ〜!」、「僕を見て〜!僕のこの華麗な指揮と、素晴らしい音楽性と人間性を、みんな、見て見て見て〜!」みたいな(?)、単なる自己顕示欲のアピール風にもなってしまいます。

あるいは、華麗でカッコ良すぎる指揮だと、いくら上手くても、実直で無骨なベートーヴェンみたいな音楽は表現できない…、
だから、ただ上手ければ良いというものでもない、音楽に則していなければならないもので、奥の深いものだな、と思います。


今回ご紹介したクライバーさんとバーンスタインさんは、割と感情のままに表現するというか、人間味あふれるタイプだと思います。
お二人とも、素晴らしいと思います。

でも、彼らとは真逆のタイプで、帝王や暴君のように、オーケストラを「支配する」「命令する」みたいな感じの人も、それはそれで素晴らしい人もいます、
(例えばベートーヴェンやブラームスの重厚なシンフォニーとかだと、意外とそういう指揮者のほうが、格調高い演奏が可能だったりすることもあります)。

あるいは、感情や情感を排し、過剰に表現しすぎないような指揮者さんでも、素晴らしい方はたくさんいます、
(職人気質の指揮者さんだと、「そもそも、表現をするのは作曲家と音楽。指揮者やオーケストラは、自分の想いを乗せることはあっても、脇役にすぎない。何よりも大事なのは、作曲家が表現したかったことと、音楽が表現したがっていること」というポリシーの方も、多い気がします)。


要は、色々なタイプの指揮者さんがいますし、どのタイプが一番素晴らしいとかも無いと思います。

それぞれのパーソナリティーでやれば良いのだ、と思う。
指揮者も、作曲家も、歌手も、それぞれ自分の好みやポリシーやパーソナリティーでやれば良い。みんな同じでなくて良い。

よく、「指揮者たるもの、演奏家たるもの、こういう精神性で、こういう人格でなければいけない」とか、「音楽を楽しまない音楽家はダメ」とか、「指揮者には自信と統率力がなければいけない」とか、「アーチストたるもの、こうでなくてはならん」とか、「前向きに自然体に生きなきゃダメ」みたいなこと言う人いますが、
僕は、そんなことは無いと思う。

どう生きるのが自然体で、どう考えるのが自然体で、どう感じるのが自然体かなんて、人によって違うのだから。


例えば、仕事をご一緒した指揮者さんで、(日本でも割と有名な指揮者さんですが)、とてもシャイで口下手で内気な指揮者もいましたが、逆に、ものすごく人を惹きつける人でした。(前述したように、クライバーさんも、内気でシャイで自信が無かったらしい。そういう人だからこそ表現できるものも、絶対、あると思うのです)。

逆に、いつも軽口で下ネタばかり、不真面目なことばかり言って、酒飲みで遊び人みたいな指揮者もいましたが…、そういう先生が、ふと真摯な表情で指揮されている様子などは、やはり、深いものを感じました。(例えるなら、サザンの桑田さんが、軽口っぽい歌詞の曲ばかり歌った後に、愛や人生に関する歌を歌うと、より深く感動的に聞こえる感じかもしれません)。

チャイコフスキーやラフマニノフなんて、ものすごくネガティブで、ほぼ鬱病で、いつも自分に自信が無く…、(彼らの他にも、自分の曲の反省ばかりしているような作曲家もたくさんいたようですが)、
でも、だからこそ彼らは、繊細で切ない素晴らしい作品を作れたのだと思う。


だから、アーチストや音楽家に限ったことではないが、人格や感性の良し悪しなど、一概には決められない。
音楽や仕事への取り組み方も、正解なんて無い。
人それぞれで構わないと思う。

あまりにも本人や他者を傷つけるような言動は、矯正するよう努力すべきかもしれないが…、そうでないなら、多少ネガティブだろうが、多少尊大だろうが、多少理屈っぽかろうが、多少考え無しだろうが、多少明るすぎようが、多少クソ真面目だろうが、多少遊び人だろうが、別に、どんな人格でも構わないのではないかと私は思う。
どんなに短所と思われるような部分も、それがその人の長所でもあるはずだと、実感しているからだ。

2014.12.5

こんにちは。

毎年10月〜11月は、合唱カンケイの本番・演奏会が多し。

で、12月になると、それらの演奏の記録(音源)をいただいたり、

練習前に、本番の音源・映像を皆で鑑賞したりすることも多いです。



関わらせて頂いているどの合唱団も、テクニック的な課題とかはあるかもしれないが、

ちゃんと誠実な演奏が出来ているな、と思いました。



どの合唱団も、

■ 一つ一つの細かいフレーズの、流れや呼吸を丁寧に合わせようとする心、

■ 曲全体の、大きな流れ・雰囲気・テーマを共有しようとする心、

それが、どちらも両立できているのではないかな、と思う。

部分部分に拘りすぎて、「木を見て森を見ず」状態にはなっていないし、

かと言って、大きな世界観や雰囲気ばかり大切にしすぎて、細かい技術やアンサンブルが疎かになってもいない。

どの合唱団も、「超絶に上手い!」とか、「凄い迫力ある声量!」というような演奏とは言えないかもしれないが、

誠実で心地良い演奏だなあ、と思った。



一つ本番が終われば、また新曲を練習していくことになるが、

その練習過程は、決して音を覚えるだけの機械的な作業ではなく、

詩と音楽に取り組むことで、メンバー一人一人が、自身の心や体を見つめたり、他者と心や呼吸を合わせようと感性を研ぎすませる…、

本番のみならず、練習の毎瞬毎瞬が発見であり、創造のような気がします。



そんなわけで練習は、気楽な遊び・楽しみであり、シンプルに「声を出す」ことを楽しむ場でありつつ…、

しかも同時に、取り組む「歌」を通して、深く人生を振り返ったり、新たな価値観に気付くようなチャンスさえあるのだ。(と、私は思う)。

それだけに、指導も選曲も責任重大ですが、それぞれの合唱団にフィットする曲を選ばんと、足しげくヤマハに通い、合唱楽譜コーナーで立ち読みする師走の日々…。

まあYoutubeなども使用しますがね。

新曲の選曲、もうしばらくお待ち下さい。(←業務連絡?)

2014.11.26

本日は、みなとみらいホールに行ってまいりました。

(桜木町に降り立つと、つい、山崎まさよしさんの「One more time,One more chance」を、口ずさんでしまいますね。「こんなとこにいるはずもないのにーっ!」、つって。一人で、無駄にモノマネしつつ。あれは、とてつもない名曲ですね)。



…いきなり話がそれて申し訳ありません。

本日は、横浜YMCA混声合唱団の定期演奏会を聞いてきました。

拙作、「雨ニモマケズ」、「そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう」、「風がおもてで呼んでいる」、

以上3曲を、取り上げて頂きました。

ありがたや〜。

指揮の望月裕央先生、ピアノの寺尾菜穂子先生、そしてYMCA混声合唱団の皆様、

ハートのこもった熱演を、ありがとうございました!

いやぁ〜、特に「雨ニモマケズ」の冒頭は、さりげないようで、それでいて万感の想いを込めるようなニュアンスも感じ、客席で、かなり鳥肌たちました。

もちろん私の曲のみならず、全ステージ、楽しませて頂きました。

ちなみに、私が作曲した宮沢賢治の合唱曲は、全部で6曲ありますが、

次回演奏会では、本日は演奏されなかった残りの3曲、「氷砂糖をほしいくらいもたないでも」、「松の針」、「生徒諸君に寄せる」も取り上げて下さるとのことで、たいへん楽しみです!



さて、本日はシアワセなお客さん気分でしたが、

最近の自分の活動としては、日々の合唱指導させて頂きつつ、

私がキーボードを担当しているメタルバンド、Alchemy Crystalのアルバム制作、

これだ。

気合い入れて、作曲・編曲・レコーディングと、頑張っております。

無料で聞けるPVなども、いずれ公開予定ですので、公開されましたら、お知らせさせて頂きます。

(アルバムリリース情報も、決まり次第、お知らせ致します。私の作曲した曲も、何曲か収録される予定です)。

ちなみに、Alchemy Crystalのブログは、バンドメンバーが日替わりで書いております、

わたくし山下は、土曜日に担当して書かせて頂いてます。

よろしければ、Check it out!

2013.6.2

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(魚のフィッシュバーガー)

本日は、仕事前に、久々にフレッシュネスバーガーに立ち寄り、大好きな豆ビーンズのバーガーをorderしようとしたら、

メニューから消失していて、無念!(>_<)

しかし、代わりにいただいたフィッシュバーガーが、とても美味しくて感動しました。(ぱじめて食べました)。

一口ごとに、川越スマイルが込み上げた。

(途中から、チリソースやマスタードを加え、味の変化を楽しんだ。マスタードたっぷりは、めちゃくちゃ美味いですね!)

立ち寄った店舗が、良かったのかも。(浦和店)。

接客も気持ち良かったし、レタスも屑のような部分ではなく、新鮮で青々した葉を、惜しげもなくサンドして下さり(写真)、シャキシャキ感が素晴らしかったです。

またフレッシュネスバーガー、行きたいと思いました。

(ま、モスのフィッシュバーガーも好きですけどね)。



さて今日は、合唱関係で、とある本番でしたが…、

合唱は、本番も良いものだが、むしろ私は、濃密な練習やレッスン自体が、楽しいものだ。



合唱の練習は、たいていの合唱団は、1曲1曲を、数ヵ月かけて、じっくり練習していくわけだが、

曲の、全ての音や全てのフレーズが持つ、それぞれの意図・役割・感触・方向性・ニュアンス等を、深く感じようとしながら、深く洞察しようと努めながら、(その美しさや素晴らしさに感動しながら)、練習していきます。

とは言え、あまり堅苦しくはならず、まずは気軽にガンガン歌い、感触を探っていく。(息や身体で、覚えていく)。

すると、そのうち…、団員達が「楽譜を読んでいる」という状態から、少しずつ、「(自発的に)自分自身の心を歌っている」、という感じの響きに変化する瞬間が訪れることもあり…、

そういう瞬間は、お互いの心や魂が共鳴しあっているような感触なのだ。

(「声」や「心」や「感情」などよりも、もっと奥深い「生命感」のようなものを、共有・共鳴しているような感触になる。ある意味、歌っている一人一人の「心」や「感情」は、「もぬけの殻」みたいな感じになります。これが何より美しい。もちろん、私の能力などではなく、合唱団員達の人柄・意識・音楽性によるところが大きいでしょうけど)。

私は、「音楽」というものは、究極的には、表現者の「心」や「感情」や「感性」など、滅してしまうような素晴らしさがあると思っている。

「自己表現」でありつつ、同時に、「自己消失」みたいな感触でもあるのだ。



しかし、だからこそ…、プロアマ問わず、歌や合唱というものは、実に難しいものだ。

本当に名演と感じる演奏には、実は、滅多に出会わないかもしれない。

誰でも、深く音楽を感じる心・深く音楽を愛する心があるとは思うのだが…、

でも、それを「表現する」となると、話は別だ。



まずもって、声質や声のコントロールというものは、意識や訓練で、100パーセント思い通りになるわけではない。

(意識を高く持って、訓練しなければいけないことは、大前提です。…しかしながら、上手く歌えていない人を、意識が低いとか、心が無いとか、訓練が足りないとは、必ずしも言い切れないほど、難しい)。

また、一人一人のリズム感・音楽把握能力・ソルフェージュ能力の限界も、あります。



作曲家・編曲家という人達は、たいてい、人並外れた発想や音感や、人並外れたリズム感やソルフェージュ能力を持っているので、

歌や合唱だけやってきた人の場合、作曲家の書いた曲を、「把握できない」「わけわからない」「感覚的についていけない」…、という場合も、少なくない。

でも、私は、そのあたりの指導は得意です!

一見、複雑怪奇で不自然と思えるようなフレーズ・転調・曲調などを…、スッキリ皆さんに把握させたり、そこに美しさや面白さや必然性を見いだしたりする指導が、私は、割と得意だと思っています。

ただ、私自身は、あまり「歌える人間」ではないので、盛大に声を出させたり、発声を向上させるような指導は、少々苦手だが…。



私自身、昔は、毎日数時間、声楽をトレーニングしていた時期もありました。

でも、どう練習しても、「high C」(高いド)や「low C」(低いド)は出せなかったし、ちょっと高めの「ファ」や「ソ」の音でさえ、ピアニシモで歌えるようには、ならなかった。(ディースカウみたいな、柔らかい高音の歌い方ね)。

ところが、人によっては、あまり練習しなくても、声楽はじめた瞬間から、それが難なく出来る人もいるし、

逆に、私以上に練習しているのに、声量も響きも、私より全然向上しない友人にも、音大時代に、たくさん出会いました。

(先天的に上手い人もいるし、先天的にハスキーで声域が狭いような人もいる。どちらにも、私は、たくさん出会った)。



つまり、努力や練習が大事なのは言うまでもないけど、「声」という楽器は、それだけが全てでもないと思う。

「先天性」という、ある意味残酷なヒエラルキーも、どうしても生じてしまうものである。

多分、スポーツ選手なども同じだと思います。

スポーツ選手も、意識や決意や、努力や練習が、何より大事だろうけど…、同じくらい努力している選手達でも、全員が、同じ成績・同じタイム・同じ球速を出せるわけではないと思う。

…例えば、160キロの豪速球や、鋭く落ちる変化球などを投げられる投手は、当然、血の滲むような努力もしたのだろうけど…、だからと言って、そういう球を投げられない投手は、努力してこなかったわけでもない。(意識や向上心が低いわけでもない)。

持って生まれた体格・筋力・才能・骨格・柔軟性・反射神経・手の大きさ・指の長さ…、そういう先天的な要素も、かなり大きいはずだ。

実は、「歌」というものも似ていて…、

声量や表現力がある人は、努力してきたのは当然だし、感性や歌心が豊かなのも、当然だが、

でも、どう頑張って練習しても、一定レベルの声量しか出せない人も多いし、繊細なニュアンス・節回しを、器用に表現できないタイプの声帯や舌も、あると思う。



私は、合唱団を指導させて頂く時は、

上手い・下手は置いておいて、まずは、一つ一つの音やフレーズの意味・役割・機能・感触・ニュアンスなどを、合唱団全員で共有できるよう目指します。

(同時に、歌全体がどういう流れや世界観や雰囲気を持つのか…、そういう「大きな視点」も、大切にします)。

そういうふうに、音楽を「味わうこと」や「感じること」や「共有すること」が、まず、何より大事だと思っている。

で、それらの味わい・感触・世界観・ニュアンス等を、「歌」として表現できるよう、反復練習するのだが…、

何度練習しても出来ない場合…、

もし、出来ない原因が、歌い手側の意識不足・記憶不全に問題がある場合は、(例:既に練習した音やリズムを覚えていない等)、妥協せず、何度も説明したり、覚えるまで反復練習したりします。

下らないジョークや喩え話も多用しつつ、なるべく、曲への親近感が湧くように、努めます。

それでも、何度練習しても出来ない場合…、

その「出来ない原因」が、歌い手の先天的な(喉や声の)能力や…、加齢による声の衰えや…、あるいは、今現在の声の技術レベルでは表現不可能な場合…、

私の場合、取り合えず妥協して、現状でベストを尽くすようにします。

(「妥協した」からと言って、「諦めた」というわけではなく。「今後の課題」ということです)。

あるいは、選曲を考え直し、あまり無理の無い難易度・音域の曲に、変更したりすることも有り得ます。



ストイックに、厳しく音楽を追求することは、もちろん大事だし、それが楽しいのだが、

同時に、ある程度は「妥協」もしないと、

ややもすると、「上手い人以外は歌ってはいけない」という雰囲気になってしまう。

(あるいは、「歌が上手い人だけが感性やハートが豊か」、「声が美しい人だけが精神性が豊か」、というような雰囲気にもなってしまう)。

それは、やはり、間違っているように思われるのだよなあ…。

歌というものは、誰でも気楽に歌って良いはずだと思うし。


「声」というものは、それぞれの身体に則した楽器。

だから、それぞれが、自分の持って生まれた声を、否定しすぎても仕方ない気がします。

自分が授かった声を、向上を目指して磨きつつ、、、

でも、取り敢えずは、今現状の自分の声で、ハーモニーや音楽の流れに一体化しようと努めるしか、出来ないのではないだろうか。

(自分の声を、あまりに「否定」しすぎてしまうと…、喜びを持って声を出すことが難しくなり、モチベーションや成長が止まってしまう可能性も、あります)。



とは言え、そうやって、自分(の声)を「肯定」しすぎていると…、それが「妥協」と受けとられることもあり、

演奏を聴いた人に、「この合唱団の演奏には心やハートが無い」、「この合唱団は音楽を深く追求していない」などと、言われてしまうこともあります…。(^^;)



だから、あとは、“選択の問題”だと思っています。

イマイチな歌や演奏を、「心が無い」「価値が無い」「努力が足りない」と切り捨てるのか…、

あるいは、「イマイチだけど、ここは良かった」、「イマイチだけど、今現在のベストを尽くしたのだから、それで良い」と、妥協するか…。

私は、割と後者寄りです。

でも、どちらが良いとも悪いとも、言えないな…。

(どちらも良いとも言えるし、どちらも悪いとも言える)。



まあそんなわけで、何にせよ、難しいですね、歌や合唱や教育というものは。

本来、「心」や「感情」というものに、あまり良し悪しなど無いだろうと思います。

まして、「身体能力」など、優れていようが劣っていようが、病弱だろうが障害があろうが、その人間の価値に、優劣など無いはず。

ところが、歌や合唱というものは、割と簡単に、優劣を決め付けられてしまう…。

その言い方によっては、まるで、心や感情や身体能力に、優劣があるようにも聞こえてしまうのだ。

そこが、大変難しい。

(歌や声のレベルと、その人の精神性・内面性を、どこまで結びつけて考えて良いのか、というところ)。


歌が上手い人や、声が美しい人を、「魂こもった歌」「感性や心が豊か」「素晴らしい努力」などと、褒めることは良いと思う。

しかし、歌が下手な人や、声が出にくい人を、「感性やハートが足りない」と決め付けすぎてしまうことは、ちょっと残酷ではないか?と思う。

…事実、例えば、素晴らしい歌やメロディーを作る作曲家さんなどは、「歌心や音楽性が豊か」な人ばかりだと思いますけど、

自分自身では、人の心を打つようには歌えない人のほうが、多い。

ゆえに、歌が上手い人や、良い演奏をした人や、美声の人だけが、「魂がある」「歌心がある」「感性やハートがある」、というわけではないと思う。

繊細で熱い「魂」や「ハート」を持っていたとしても、それを、実際に自分の声で「表現する」となると、また別のテクニック・身体能力が必要なのだ。


ゆえに、私としては、

「心」と「表現(歌声)」は、確かにリンクしているけれど…、でも、100パーセント同一視してしまう風潮には、少し違和感があるのです。

スポーツやビジネスや勉強なども、同じだと思います。

「心(意識)」や「行動(努力)」が、良い「結果(成績)」を実現させるのは、言うまでもないが…、

しかし、「結果(成績)」のみで判断して、その人の内面・人格・努力・頭脳・精神性などを、100パーセント断定しすぎてしまうことには、違和感あります。



「ストイックに音楽を追求すること」と、

「趣味的な気軽さ・楽しさを追求すること」、

そのどちらも、混在&同居させることは、私は、可能だと信じて取り組んでいます。

でも、どちらか片方の見方しか出来ない人も、少なくないのも事実。

例えば、ストイックに音楽を追求していると…、「あまり考えすぎず、音楽は楽しみましょうよ」とか、「心を込めれば、自動的に良い演奏になるんですよ」とか言う人は、必ず、一定数いるし…、

逆に、“楽しさ”や“気持ち”を大事にしたり…、下手な合唱団に、取り合えず今現在の自分(達)の声に自信を持って歌わせたりしていると…、「この合唱団は、音楽の素晴らしさを追求するハートが足りない」とか、「心を込めて楽しむだけじゃ、良い音楽にはなりませんよ」とか言う人も、必ず、一定数いる。

どちらのタイプの批評も、真実だとは思う。

でも、どちらのタイプの批評も、一面的な見方にしか過ぎないようにも思われる。

音楽というものは、子供が泥んこ遊びをするような気楽さ・即興性・本能・遊び心も大切だし、

同時に、本当に心地良くて、本当に楽しい音楽を実現するためには、ある程度、ストイックさ・努力・集中力なども、必要ではないだろうか。

どちらか片方だけでは、片手落ちではないだろうか。

どちらも、必要ではないだろうか。



そもそも、「本当に素晴らしい演奏」しか認めてはいけないなら、

プロアマ問わず、世界中の、ほとんどの歌手・合唱団・演奏家は、今すぐ、活動を止めなければならなくなってしまう。

そういう雰囲気は、やはり、閉塞感があると思う。(私も含めて、ほとんどの人は、音楽に取り組んではいけないことになってしまう)。

上手い・下手にこだわらず、「ただ楽しみたい」という人はいて良いと思うし、

「今はイマイチだけど、自分なりに追求していきたい」という人も、いて良いと思います。

とは言え、気楽でイージーすぎると、音楽の、本当に深い喜びや感動を、体験・体感できなくなってしまう可能性もあるのだが…。

(「気楽に大声で楽しく歌う」ことは、とても大事だと思うけど、でも、それは、歌・合唱・音楽の楽しさの、ほんの一つの側面でしかない。その楽しさしか知らないと、勿体ない…。)



そういうわけで…、長くなりましたが、私が大事にしていることは、多分、次の二つだ。

(1)私が関わる合唱団の人達には、「今現状の自分の声のままでも、充分に音楽を楽しめる」ということを伝えたい。それを、実感させるよう努めたい。(例:アフリカ民族音楽のように、プロじゃない人達…、楽譜も読めないような人達が、遊びの延長で、奇跡的に素晴らしいパーカッション・アンサンブルを実現しているような例も、世の中には、多々ある。だから、音楽というものは、まずは気軽に楽しく、本能・直感だけで取り組む感覚や、こだわりすぎない感覚も、大切だと思っています)。

(2)しかし同時に、本当に感動的な音楽をするためには、ストイックに細かく音楽にこだわることも、必要だと思う。(そういうストイックさに、奥深い喜びや感動が宿ると実感してもいます)。私自身、そう簡単には満足などしないし、「ただ声を出しているだけなんてツマラナイ」、「ただ表面的に楽しいだけなんて勿体ない」、「どうせやるなら、本当に心地良くて感動的なものを目指したい」と、いつも思っています。そういうストイックさや、私の偏屈さ・心の狭さも、なるべく見せていきたい。

上記の(1)と(2)は、矛盾しているのではないかと、ツッコミあるかもしれない。いただくかもしれない。

でも、私の中では、矛盾なく同居しています。

(1)も(2)も、どちらも必要だし、どちらも素晴らしいことではないだろうか。



そして、もちろん、私自身、まだまだ気付けない音楽の奥深さがあり、出来ないことが多々あることを、謙虚に自覚していたいです。

まあ、本日の結論としては、フレッシュネスバーガーは素晴らしい、ということですね。

豆ビーンズのバーガー復活、切に願うなぁ〜…。

チェリオー!(・∀・)ノ

合唱指導の風景

Image064.jpg
(今日も合唱指導でした…。)

左が、指揮をする私です。

春のバキ折れ

120407_154447.jpg
長年愛用した指揮棒がバキ折れた。先ほどのリハーサル中に。当方、指揮棒は振るだけでなく、アンサンブルが揃わない時には、これで机などをカチカチとリズム叩いたりしていましたからなぁ。(´ω`)

お疲れ様…。そして、ありがとう…。

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