2017.08.31 Thursday

2017.8.31

少し時間が経ってしまいましたが、

 

8/16に更新した記事で、ひとまずエッセイシリーズは終了です。

 

ここ数年に体験したり、感じたりしたことを、今年はずっとエッセイ風に書いておりましたが。

 

ひとまず一区切り、です。クリボー

 

 

 

 

ところでブログやSNSでは、楽しそうなことや当たり障りのないことだけを書く、

 

という使い方も素晴らしいと思います。

 

 

しかし私の場合、ストレスを感じたこと・問題提起したいことなどは、むしろ書くべきだ、発信するべきだと思っているかも。

 

(単に自分の場合はそうしたい、というだけ。そうしない人を否定しているわけではないです)

 

 

もちろん発信する前に、しっかり自問し、

 

それがただの愚痴や不平不満なのか、それとも、建設的な問題提起として他の人ともシェアしたいものなのか、

 

前者の場合は発信しませんが、後者の場合なら、僕は発信したいと思ってます。

 

 

例えば、もしイジメや人種差別などを目撃した場合、、、

 

やはり僕は、「これはおかしい」「これはやめるべき」と発言したいと思う。

 

そういう発言をしない、穏やかで平和的な生き方も、もちろんアリだと思いますが。

 

(※ただし、そういう発言をしたら処刑されるような世の中の場合、そう簡単には発言できないと思います。あと、不用意に発言しすぎて、変な人にからまれて被害を受けないよう、気をつけるべきだとも思ってます)

 

 

 

 

ちなみに、私が「これはおかしい」「これはやめるべき」と感じることには傾向のようなものがあり(笑)、それは、

 

(1)何か一つの見方や感じ方や価値観を、全ての人に共通する真理・正義・常識(良識)だと思い込むこと

 

(2)人や音楽のほんの一面しか見ないで、(時には先入観やイメージで)、その人やその音楽を完璧に分かったつもりになってしまうこと

 

(3)たくさんの人達を、たった一つの共通項で一括りにカテゴライズし、そのカテゴリーの中の人は皆同じだと思い込むこと(※国籍、人種、年齢、職業、収入など)

 

(4)「クラシック=真面目」「ロック=騒々しい」「メール・SNS=心が込もらない」「ゲーム・アニメ=教育に悪影響」「電子楽器=非人間的」「人工・科学=地球や人体に害悪」みたいに、ジャンルやツールで決め込んでしまい、個々の中身・内容を吟味しないこと

 

(5)一つの失敗例や成功例や幸福論などを、誰にでも当てはめて普遍化・一般化してしまうこと

 

(6)誤解・偏見・思い込みに基づいて、他者を見下したり説教したり叩いたりすること(※冤罪とかも含む)

 

 

 

だいたい、そんな感じです。

 

個人的には、上記のような短絡的かつ一面的&理屈っぽい感じは、苦痛でしかない(笑)

 

僕は、「(他者のことは)完璧には分からない」「(何が良いか悪いかは)完璧には断定できない」と、素直に認めていたいと思う。。

 

 

上記(1)〜(6)のようなことは、自分一人で勝手に思い込んでいるなら問題ないのですが、

 

人にまで共感・同意を強要したり、人に押し付けたりするのは、(本人に悪気や故意がなくても)、私はストレスを感じます。

 

 

 

 

どう生きたいか・何を心地良いと感じるかなども、日々、新たに探求していくものだと思っている、

 

なので、道徳的なことや価値観的なことの「完成」や「正解」や「真理」は、いまいち断定しにくいです、(※もちろん個人の意見です)

 

暫定的な「完成」はあり得るけど、永続的かつ普遍的な「完成」「正解」「真理」は、僕は無いのでは?と感じてます。

 

それは自信が無いということではないし、自分の意見を持たない(or持つな)ということでもないですが。

 

 

 

 

こういうエッセイとか書いていると、そこそこ気難しく見られることもありますが、

 

むしろ個人的には、ユルい感じが好きです、

 

この世に完璧な人間などいないし。

 

あまりにも他者の発言や価値感を監視して、まるで鬼の首を取ったように厳しく取り締まりすぎる風潮は苦手です。

 

 

…と言うか、そのように思っているからこそ、

 

考え方・感じ方の正解を断定しすぎたり、他者の内面・性格を断定しすぎたり、人間や音楽のあるべき姿を断定しすぎたりするのが、好きではないのかも。

 

 

何の問題も無いような人を、いちいち難癖つけて非難したり、上から目線で見下したり、

 

「人間や音楽はこうあるべき・こう考えるのが常識」みたいな意見を、他者に強要しすぎる人を見ると、

 

何様のつもり?とさえ思います。

 

(※強要ではなく、推奨や提言くらいなら全く問題無し)

 

 

 

 

もちろん、「絶対に人のことを非難してはダメ・批判してはダメ」ということではなく。

 

例えば迷惑行為・暴力行為・差別思想などは非難して良いと思うし、あまりにも傲慢・独善・怠慢などの言動も、批判しても良いと思う。

 

(※あと、明らかに事実でないことを信じ込んでいる誤解・思い込みなども、非難というか、指摘して良いと思う)

 

 

他者の価値観・見方・感じ方等を、無理してまで認めたり好きになったりする必要もないと思いますし、時には、他者に意見・批判を言っても良いと思いますが、

 

でも、もう少し、人それぞれ自分らしく生きたり感じたりするのを許容してあげても良いのではないか?

 

あまりにも自分だけが正しいと思い込まないほうが良いのではないか?

 

などと感じる時も多いです。

 

 

それは、「人のことを尊重せよ」とか「人のことを思いやれ」とか、そういう感じとも少し違うです、

 

例えば僕は、「食べ物の好みは人それぞれ違う」と思っていますが、それは別に、人のことを尊重しているからでもなく、思いやりで言っているわけでもなく。

 

「人それぞれ違うのが自然だし当たり前」と思うから。

 

価値観や感性や、ものの見方・感じ方・考え方なども、私にとっては同じことです。

 

 

 

 

…しかしながら、我々動物には生来の防衛本能・生存本能があるだろうし、限られた狭量な視野&エゴイスティックなのも自然なことなので、

 

ごく普通の人間であれば、ある程度、無知で利己的で排他的なのは当然だとは思っている、(自分も含めて)

 

 

そういう、人間が生来持っている無知や傲慢や、利己心や排他性や、先入観・思い込みなどを、

 

一切気にしない(or気付かない)のが、人としては度量が大きいとも言えるかもしれませんが、

 

ただし裏を返せば、そういうことに「気付けない(気にしない)」ということは、自分では無意識のまま、誰かや自分自身を傷つけている可能性も高い。。

 

 

 

 

人権や多様性を重んじるあまり、ピリピリして気難しい感じの人間になってしまうのはもちろん嫌だけど、

 

でも何も気づかず、悪びれもなく、無意識的に、差別や強要やレッテル貼りをするような人間になるのも嫌。。

 

 

なので、個人的には…、ほどほどにストイックに人権や多様性を重んじつつ(笑)、

 

同時に、自分を含めて誰しも、無知・偏見・狭量・短絡的・不完全・利己的な部分も持っていることを認め、

 

むしろ、そういうところにも親しみや労りや連帯感を感じる…、

 

(あるいは諦観や受容を感じたり…、時には偏った偏見や誇大妄想に、大いに面白さ・頼もしさ・パワー等も感じたり…)

 

 

そんな感じの心境かもしれません。

 

少なくとも、今のところは。

 

 

(※行き過ぎた義憤や問題提起というものは、独善的になってしまいがちなことも承知しています。なので、そこらへんはバランスというか、常に自分自身をチェックしながら…。意見を言ったり書いたりする時も、「自分は今、ただ単に誰かを責めたいだけではないか?」とか、「自分は今、物事や人物のほんの一例(一面)を見て、それを普遍化・一般化していないだろうか?」とか、「自分は今、自分自身の狭量さも反省しながら意見を言っているのか?」とか、「そもそもこの義憤や問題提起自体、私の偏見ではないのか?」などと、自問しながら…。自分自身に対して、常に疑いや批判精神も持っているつもり)

 

 

 

 

上記のような自問自答を、あえて人目に晒される場で、僕は書き記したいとも思ってます。

 

文章は決して上手くないし無駄も多いしスマートでもないが、そこは、あまり気にしていない(爆)

 

というわけで2017年の1月から、ほぼそういう内容の記事ばかりでした。(あらかた書き終えた)

 

 

 

 

さて、話は変わって、

 

数ヶ月以内に、自分の新しい音楽プロジェクトをお知らせ出来ると思います。

 

たくさんの方の強力な協力を仰ぎつつ、楽曲製作中です。マリオ

 

 

宮沢賢治シリーズ以降は新作をリリースせず、自分なりに色々と探求・勉強・研究していましたが、

 

その成果的なものの第一弾を、お知らせ出来ると思います。

 

何とか今年以内にお届け出来ればと思うのだが…!?

 

 

 

 

【Twitterアカウント】

https://twitter.com/ymst_music

2017.08.03 Thursday

無題803

他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、自分の意見・見方・価値観を押し付けてくるような人に対して、

 

その行為や言動に関して、「やめてほしい」とか「私は同意しない」とか、「私は悲しい」とか「私は傷ついた」とか、

 

あくまで「自分がどう感じたか」「自分がどうしたいか」「自分がどうして欲しいか」を伝えるのは、僕は、悪いことではないと思っている。

 

(伝えても改善してくれないなら、その人から離れるべきだと思う)

 

 

でも、そういう人に対して、「あなたは愛が無い」とか、「もっと思いやりを持て」とか、「もっと優しくなれ」とか、「普通の人間ならこう考えるのが常識(あんたはおかしい)」とか…、

 

そうやって、その人の性格を断定しすぎたり、道徳や常識を断定しすぎたり、その人の内面を矯正しようとしすぎるのは、ちょっと違和感がある。

 

 

 

 

迷惑行為・暴力行為・押し付け行為の「振る舞い」をやめさせることは必要だろうし、

 

私がどう感じたか・私がどうして欲しいかを伝えることも必要だろうと思うが、

 

しかしながら、その人がどういう性格なのか、その人がどう生きたいのか、その人の言動がどういう真意なのか、その人がどういう環境で育ってきたのか、そもそも愛や思いやりとは何なのか、そもそも人間とはどう生きるべきなのか、etc…、

 

我々は、100パーセント完璧には分からないし、そう簡単には断定できないことだからだ、、、

 

 

 

 

…とは言え、これは難しい問題だと思う!クリボー

 

どういう行為・どういう発言・どういう振る舞いが、愛や思いやりがあるのか、

 

そういうことを、意見したり教育したり指導したりすることは、可能だと思うし大事だとも思う。

 

 

しかし、あまりにも愛・思いやり・常識・道徳観の正解を定義しすぎてしまうと、各々の個性や、各々の愛情の自然な発露が、現れにくくなるような気もする。

 

なぜなら、愛や思いやりの感じ方・表現方法も千差万別だと思うから、方程式のような定義・正解・マニュアルは、存在し得ないと思うので。

 

 

それに、意見する側の人間(指導する側の人間)が、「愛とはこういうもの」「常識とはこういうもの」「思いやりとはこういうもの」「幸福とはこういうもの」「人とはこういうもの」と、

 

あまりにも答えや正解を決め込みすぎてしまっていると、ちょっと傲慢だと思うし、視野が狭すぎるとも思う。

 

人それぞれに、様々な個性・生き方・感じ方があるだろうし。

 

 

(※しかも、愛や思いやりを追求しない生き方も、僕は悪くないと思います!人生で何を追求したくて何を追求したくないか、個人の自由だと思う。…さらに言えば、意外と、「愛」や「思いやり」を追求しようとする人ほど、非常に限定的にそれらを定義してしまう傾向も強いようにも思え、皮肉なことに、むしろ「愛」や「思いやり」から遠ざかってしまうような印象すらある。全員がそうだとは言わないが)

 

 

 

 

そんなわけで、(愛や道徳や人生観に関しての)教育・指導も大事だと思うのだが、

 

最終的には、一人一人が自分の良心・感性・価値観・道徳観念などを見つめ、自分の発言や行動や作品を、自分自身でチェックするしかない気もする。

 

 

もちろん人と人は、お互いに意見や批判や、提案やアドバイスを言い合うのも素晴らしいことだと思います!

 

この世に完璧な人間などいないと思いますし、

 

それに、「人と人はお互い干渉してはいけない」「人の生き方に一切口を出してはいけない」というような風潮では、寂しい気もしますし。

 

…でも、だからと言って、誰かが誰かに、あまりにも(自分の)価値観・善悪観を押し付けすぎるのは、良くないとも思うのだ。。

 

 

 

 

人と人は、お互いに意見・批判・提案・アドバイスの言い合いも大事だろうし、心温まるものだけど、

 

(その前提の上で言いますが)、

 

■「愛や思いやりの定義、感じ方、考え方は、人それぞれで良い」

 

■「愛や思いやりを表現する方法・言動・振る舞いも、人それぞれで良い」

 

■「そもそも、愛や思いやりを追求しようとしない感じの生き方も、悪いことではない」(※迷惑行為・暴力行為とかはもちろんNG)

 

■「何を心地良いと感じ、何を心地悪いと感じるかは、人それぞれで良い」

 

■「人生の目標、夢への近づき方なども、個人個人でバリエーションの違いがあっても良い」

 

■「他者の性格・内面・真意などは、完璧に分かることは出来ない」

 

■「自分が正しいと思うことでも、誰にでも当てはめるべきではない」

 

 

そういう感じの雰囲気が、私は好ましいです。

 

 

 

 

「それじゃあ傍若無人な連中がのさばるだけ」、と言う方もいらっしゃるかもしれないけど、

 

さっきも言ったように、他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、明らかに他者を見下すような態度をとる人や、意見・価値観を押し付けてくるような人に対しては、「やめてほしい」とか「(私は)悲しい」とか、「(私は)賛成できない」とか、

 

「自分がどう感じたか」「自分がどうしたいか」「自分がどうして欲しいか」を伝えるのは、まったく構わないと思っている。

 

もし被害が生じる場合は、法で裁いたり罰したりすることも必要だと思う…。されるがまま無抵抗が美徳とは思ってないです。

 

 

 

 

そんなわけで、私の主張は、「のさばらせて我慢して泣き寝入りせよ」「何でもかんでも許容せよ」という主張ではないですし、

 

「人と人は一切干渉し合うべきではない」「人の言動に一切口を出してはいけない」という主張でもないです。

 

 

ただ、他者の真意・性格などを、あまりにも分かったつもりになりすぎないほうが良いのではないか、

 

物事の道理・正義・道徳・マナーなどを、あまりにも分かったつもりになりすぎないほうが良いのではないか、

 

明らかな悪事・差別・誤解・意地悪などは否定すべきだと思うが、愛とか思いやりとか礼儀というものは、あまり何が良いとか悪いとか、何が愛情深いとか、何が冷たいとか、

 

そう簡単には決められないのではないか?

 

礼儀や愛情表現の仕方も、人によって違って良いのではないか?

 

よほど他者の迷惑になっていなければ、人それぞれ皆、自分なりの価値観・感性・パーソナリティーで生きれば良いのではないのか?

 

私の主張は、そんな感じです。

 

 

 

 

しかも我々は、他者の性格・真意のみならず、

 

自分自身の性格・願望・衝動・真意・快不快でさえ、ほんとうには分かっていない可能性も高いと思う。

 

自分自身の想いや感覚や価値観というものも、固定観念や思い込み、見栄や自己保身、被害妄想や排他主義などに縛られていないとは、簡単には言い切れないのではないか?

 

 

例えばですが…、私自身のことを言えば、

 

例えば、噂話・陰口に花を咲かせることや、お笑い芸人のように誰かを「イジる」ことや、上から目線で誰かを指導(助言)することなどに、つい、心地良さを感じてしまう瞬間もあったけど…、

 

でも、ふと気がつくと、「これは、ほんとうに私にとって快楽なのだろうか?ほんとうに私が目指したい心地良さなのだろうか?むしろ、不快ではないか?」とも感じ、

 

虚しくなったことも多々あります。

 

ただ単に、「優越感」と「心地良さ」を混同しているだけではないか?と。kyu

 

 

 

 

なので、(今現在の)自分の心地良さ・幸福感・満足感の基準を、100パーセント信用しすぎず、「これは本当に自分が望むことだろうか?」と、常に自分を疑うというか、自問し続けることも大事だと思っている。

 

基本的には、自分の今現在の感性・価値観に自信を持って良いと思うのですが、

 

同時に、心の奥底のどこかで、「本当にそうだろうか?」と、常に自分自身にツッコミを入れているほうが、私は心地良い感じがします。

 

 

(自分自身に対して、常に批判的・否定的な態度でいるほうが、むしろポジティブな生き方ではないか?とすら思っています。僕は、自分が思ったこと全て・感じたこと全て、もちろん大事にしたいですが…、しかし同時に、常に容赦なく疑ってもいたいです)

 

 

 

 

音楽表現やエンターテインメントの表現も、何が良くて何が悪いか、何が素晴らしくて何が陳腐か、、、

 

教育したり指導したり批評したりすることは大事だと思うが、

 

やはり、目指す道は人類全員が同じでなくても良いはず。

 

 

私自身、今まで、様々なタイプの素晴らしさに感動してきたので、

 

音楽やアートやエンタメの価値基準を、あまりにも限定・定義・断定しまうことは、不可能だと感じています。

 

 

それでも僕は、今後も意見や批評やレビューを表明したりするだろうけど…、

 

自分が好きになれないものにも、長所や存在意義は感じているし、

 

逆に、自分が好きなものにも、とても偏った美意識・価値観・人生観を、だいたい常に感じている。

 

(というか、「個性」や「長所」というものは、ほとんど「偏り」と同義語だと感じている)

 

 

 

 

では最後に、強引にまとめると、

 

■「愛や思いやりの定義、感じ方、考え方は、人それぞれで良い。生き方、振る舞い方、人生の目標、夢への近づき方なども、個人個人でバリエーションの違いがあっても良い」

 

■「だからと言って、誰のことも必ず尊重せよ、必ず許容せよ、必ず理解せよ、必ず好きになれ、というわけではなく。自分の理解・共感の及ばない人のことを、無理してまで好きになろうとしたり、分かったつもりになりすぎることもない」

 

■「他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、明らかに他者を見下す態度をする人や、自分の意見・見方・価値観を押し付けてくるような人に対しては、異議・反論を表明しても構わない」

 

■「そういう人のことを、もちろん嫌ったり怒ったり軽蔑したりしても良いと思う。ただし、自分自身も、その人のことを一面的にしか認識できるはずがないので、誤解・思違い・決め付けをしている可能性は常にある。そのことは、常に頭の片隅に常に置いておくべきではないか」

 

■「人と人は、お互いに意見・批判・提案・苦言・アドバイス等を言い合うことも大事だと思うけど、あまりにも、何か一つの見方や価値観を「正解」と決め付けるぎるのは、あまり良くないのではないか?」

 

 

そんなところです。

 

おしまい。

 

 

 

 

…言うまでもなく、ここに私が書いていることも、

 

世の中にたくさんあるうちの、あくまで一つの意見・一つの見方にすぎないと思っていますが。

 

私自身、明日には考え方が真逆になっている可能性だって無いとは言えない。。すらりん

 

(追記※この記事には続きあります。コチラです。もしよろしければ)

2017.07.31 Monday

無題731-3

「夢」とか「願望」とかいうものは、考えて計画的に意図するというより、ブワーッと衝動的・直感的に湧き上がるものかもしれないが、

 

しかし同時に、皆、生まれた時代の状況・環境・科学・文化・知識・社会システムなどを、しっかり認識しながら、

 

その前提条件の範囲内の夢・願望しか、生まれにくいものだと思う。

 

(後天的に身についた固定概念からも、そう簡単には自由になれない)

 

 

 

 

例えば、ピアノという楽器が無い時代に、私と全く同じ魂・同じ感性の人間が生まれたとしても、「ピアノを弾きたい」という夢・欲求・願望など、持たなかったはずです。

 

なぜならピアノが存在しないので、そんな欲求・願望・衝動を持てるはずがありません。。すらりん

 

 

 

 

宇宙や地球という概念・知識が無い時代に生まれたら、「宇宙飛行士になりたい」なんて夢は存在し得ないだろうし。

 

独裁国家に生まれなければ、「革命を起こしたい」「人民を解放したい」「圧政をやめさせたい」なんて夢も、存在し得ないだろうし。

 

お金という概念・システムが存在しない社会に生まれたら、「金持ちになりたい」なんて夢も存在しえないだろうし、

 

人種差別が横行していなければ、それをやめさせたいという夢・願望も存在しえない。

 

野球というスポーツが存在していなければ、「野球をやりたい」「野球選手になりたい」という夢も存在しえない。

 

 

 

 

要するに、「I have a dream!」と言うためには、直感や衝動だけではなく、

 

ある程度は知的に、現在の状況・環境・常識・科学水準・音楽ルール・社会システム等を認識している必要があると思う。

 

 

要は、たいていの人は皆、知的で打算的な存在だと思う。(悪い意味ではなくて)

 

自分では、その事実に気づいていなくても。

 

意識的にせよ、無意識的にせよ、皆、状況・環境を頭で把握して、その範囲内で、夢や願望を心に描いているはず。

 

(※作曲や演奏も同じこと。我々は、思うがまま・思いつくままに演奏(作曲)しているつもりでも、そもそも「リズム」「メロディー」「ハーモニー」というような概念自体・ルール自体、生まれた時代の常識に従っているだけ。模倣しているだけ。…「音楽」というものは、無心で衝動的な活動でもありつつ、後天的に与えられた前提条件の範囲内での、知的な活動でもあるのだ)

 

 

 

 

それに気づかず、「俺は誰の影響も受けず、誰の真似もせず、時代や流行にも左右されず、自由に思うがまま生きてるぜィ!過去にも未来にも縛られず、頭で考えず、今この瞬間、魂と直感だけで生きてるぜィ!俺の音楽は唯一無二よ!」

 

などと言いながら、ギターなど弾いて、曲や詩などを歌っている人がいたとして、

 

でも、そもそも「ギター」という楽器自体、

 

「コード」「リズム」「ハーモニー」という概念自体、

 

「言葉」や「音楽」というツール自体、

 

後天的に身についたものであり、生まれた時代・環境・状況・文化・知識・他者が築いた仕組みに縛られている証拠。

 

過去に身に付けたことに、大いに縛られている証拠。

 

(要は、他者や社会から影響を受けているわけです。頭も使っているし、ちゃんと知的に色々と把握・認識しているわけです)

 

 

 

 

で、私は、それで良いと思っています、

 

時代や環境や他者の影響を受けず、「無」から何かを創造するつもりなんてありません。

 

個人的には、他者・時代・社会・環境からの影響のもとでしか生きれないと思うし、創作できないと思っています。

 

ただ、そのことを自覚していたいとは思いますが。

 

(「俺は誰にも影響受けてない」とか「俺は頭で考えず直感だけで生きてる」とか、あまり勘違いしたくない)

 

 

 

 

他者・時代・状況・環境・文化・社会から独立した「夢」や「願望」や「直感」や「自分らしさ」なんて、どこにも存在しないと思っています。

 

 

 

 

では、「自分とは何か?」と自問するなら、、、

 

大袈裟に言えば、「あらゆる全てが自分自身」であり、「独立した「自分」なんてどこにも存在しないのではないか?」

 

そんな感覚です。

 

 

 

 

なので、日々、自分の心に湧き上がる、

 

「これは心地良いこと」「これは心地悪いこと」「こうしたい」「こう生きたい」というような判断・直感・衝動・願望も、

 

無意識的に、後天的に身についた固定概念や、生まれた時代の常識・環境・科学水準の範囲内だけに囚われている可能性も高いので、私は、100パーセント信用しすぎたくないです。

 

もちろん全否定すべきものでもないけど、無条件に全肯定しすぎるものでもないかな、と。

 

 

今現在、心に湧き上がる判断・直感・衝動・願望・快不快・夢などは、ちゃんと大切にしつつ、

 

同時に、そういう判断や直感や夢が生まれる前提となっている、後天的に身についた概念自体・常識自体を、常に疑っているくらいが、私は心地良いです。

 

 

 

 

↑などと書いていること自体、私は常に疑ってもいます。

 

要は、自分の判断や直感や価値観に自信が強すぎて、心が狭い感じになってしまうのは、それもまた心地悪いのだ。

 

あまり自分自身を絶対視しすぎない態度・雰囲気が、私は心地良いと感じます。

 

(自分に自信が無い、ということとは違いますし、優柔不断とも違います)

 

 

 

 

上記のようなことを言ったり書いたりすると、「もっと自信を持て」とか言われたり、誤解されてしまうことも多いです。。。

 

でも、そういうことではないです。

 

しっかり自信は持っていても、

 

同時に、時には自分を反省したり見直したり改善したりする、柔和な態度・雰囲気が好ましく思います。

 

 

そもそも「自分」という存在自体、曖昧かつ多面的で、環境や状況とも絡み合っているので、

 

「これが本心」とか「これが自分らしさ」とか、あまり特定・断定できないとも感じています。

 

(「自分」という存在は、けっこう「暫定的」というか(?)、「今現時点では自分はこうしたい」「今現時点では自分はこう思う」とか、その程度のものでしかない気がしてます。「固定的に定まった自分」というのは、そもそも存在しないのではないか?という感覚です)

 

 

 

 

そんなわけで、冒頭にも書いたように。

 

あらゆる夢や願望や、あらゆる直感や発想や、あらゆる創作や表現というものは、

 

魂から直感的に湧き出たものかもしれないが、

 

同時に、生まれた時代の状況・環境・科学・文化・知識・社会システムなどを、しっかり認識しながら、

 

その前提条件の範囲内のものしか、生まれにくいものだと思う。

 

 

 

 

すると、究極的には、、、

 

■「自分」という個別な人格は存在していない

 

■「私」という存在は、環境や時代や状況や他者と結びついた、いわば「総体的な存在」としか言えない

 

上記のような認識にもなります。

 

そういう認識や感覚は、ちょっと寂しい気もする反面、不思議に安らぎや心地良さも感じます。

 

 

 

 

そして上記に書いてきたようなことは、私のことだけではなく、他者についても同じこと。

 

他者も、誰しも、「独立した個別の存在」というより、(後天的な)環境・境遇・時代・文化・状況と結びついた、総体的な存在、、、

 

どんな長所も短所も、どんな性格も能力も、100パーセントその人だけの功績ではないし、100パーセントその人だけの責任でもない気がします。

 

(※だからと言って、犯罪行為・迷惑行為・暴力行為などを、「後天的な教育・境遇が悪かっただけだから許そう」「本人だけの責任ではないからお咎め無し」、という主張ではないですが)

 

 

長所と思えるような人格や能力も、短所と思えるような人格や能力も、時代や状況が変われば、長所は短所になるかもしれないし、短所が実は優れた長所・才能でもあるかもしれない、

 

なので、あまり短絡的に、何が短所だとか決めすぎず、責めたり見下したりせず、

 

どんな資質・能力・パーソナリティーであれ、生きる道・活かす道はあるのではないか?

 

 

…いや、そもそも活かす道や、誰かや何かに役立つ能力なんかでなくても、

 

どんな人も、まずは見下されないですむ世の中を目指すべきではないか?

 

そんなふうにも思う。

2017.06.10 Saturday

2017.6.10-2

(今日、二つ目の記事です。先ほどの記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

どんな表現手段であれ、どんな表現ジャンルであれ、どんな言動であれ、どんな音楽作品であれ、

 

その表現者の心情や真意を、いつも100パーセント正確に表現できているわけではないはずだ、と思う。

 

我々人間は、不完全な存在だし。

 

言葉も音楽も行動も、不完全なツールだし。

 

(しかも、受け取る側も、誤解・偏見・思い込み・先入観などを一切捨てて、完璧に誤解なく受け取るなんてことは、人間には不可能だと思われる。それで良いと思うし、それで当然だと思われる)

 

 

 

 

だから、誰かの発言・作品・表情・演奏などを見て、

 

で、その人の内面や性格や真意を分かったつもりになりすぎて、

 

あまりにも(その人を)敵視しすぎたり、あまりにも神聖視しすぎたりしないほうが良いと思っています。

 

アートの表現であっても、何気ない日常の会話であっても。

 

 

 

 

どんな意見であれ、どんな言動であれ、どんな表現であれ、どんな表情であれ、どんな演奏であれ、

 

発言者(表現者)の意図・真意を完璧には現せていない可能性も高い。

 

なので、私は、あまりにも誰かを敵視してしまうのは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

他者の気持ち・真意は、一生懸命想像したいとは思いますが、あまりにも分かったつもりになってしまうことは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

(「神聖視」はともかくとして、短絡的に「敵視」してしまうのは、特に良くないと思う。…「神聖視」の場合も、ナチスやカルト宗教みたいなのは良くないと思いますが、好きなアイドルやアーチストの「信者」みたいなファン心理なら、まあ可愛いものだし、私も経験あるので、そういう気持ちはよく分かります)

 

 

 

 

さて、我々は、あらゆる表現メディア・あらゆる表現ジャンル・あらゆる表現ツールを、全て好きになる必要は無いと思われる。

 

人それぞれ、自分の好みの表現手段・コミュニケーション手段を使えば良いと思う。

 

わざわざ苦手な表現手段・コミュニケーション手段を使わなくても良いと思うし、

 

わざわざ苦手な音楽ジャンルを、無理してまで聞くことはないと(私は)思う、

 

 

しかしながら、「このツールでは心が伝わらないに決まってる」、「このコミュニケーション手段では気持ちが伝わらないに決まってる」、「このジャンルやこのツールはあたたかいが、あのジャンルやあのツールは冷たいに決まっている」、「このジャンルやこのツールは心がこもっているに決まってる」、「このジャンルはダメに決まってる」、「打ち込みやメトロノーム通りやテクノ音楽は機械的に決まってる」、「生楽器や民族楽器の演奏は人間的に決まってる」、etc…、

 

という感じの先入観が強すぎると、自分好みの表現手段やツール以外のものを、一切聞く耳を持たない態度にもなってしまい、ちと厄介である。

 

(※しかも、例えば…、生楽器の演奏で、冷たくて無機的(機械的)な雰囲気を目指すことなども多々あるので、上記のような先入観・思い込みが強すぎると、表現者(発言者)の意図や真意を誤解する可能性も高くなってしまう)

 

 

 

 

特定のツール・メディア・表現方法の問題点を、ちゃんと具体的に指摘している場合は良い。(問題点だけでなく、改善点も同時に提案していれば、なお良い)

 

しかし、あまりにも妄信的に、特定のツール・特定のジャンル・特定の表現手段・特定のメディアを、全否定しているような人や、全肯定しているような人は、思考回路的に、カルト宗教や人種差別者などと変わらないのではないか?

 

個々の中身・内容・人間性・音楽性を吟味しようとせず、外側のカテゴリーで中身を分かったつもりになってしまう、という。

 

(例:「人と人は一緒に酒を飲まないと分かり合えない」「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」「若者(老人)は皆こういうもの」「○○人は皆こういうもの」「このジャンルはこういう音楽性」「この楽器はこういう雰囲気」…、

そういう感じの見解も、同じこと。ジャンルやカテゴリーや表現メディアの種類によって、一括りにして、その中身・内容まで決めつけすぎだと思う。もっと個々の発言ごとに、個々の作品ごとに、個々の表現ごとに、その都度その都度、その内容や言い方や雰囲気を吟味しなければいけないと思う)

 

 

 

 

…などと書いている私自身、そういう発言をする人の真意を分かったつもりになりすぎて、それこそ「敵視」しすぎているかもしれないので、

 

私自身も、常に気をつけていたいことではあるが。

 

 

自分が感じたこと・考えたこと・判断したこと等は、全て、自信や愛着を持って良いと思うが、

 

同時に、あまりにも真実・正解だと信じ込みすぎないほうが良いのではないかと、私は思っています。

 

(「自分に自信が無い」「自分に自信を持たない」ということではない)

 

 

…というか、物事や出来事に「真実」「正解」というものが存在するとはイマイチ感じられず、

 

この世には、単に、無数の「主観」や「解釈」や「偏見」や「思い込み」が存在するだけだと思っている。

 

 

 

 

ちなみに私は、お互い自由に意見や批判を言い合える人間関係は好きだし、

 

音楽やアートでも、誰でも、自由な意見・感想・批評・レビューを言えるような空気が好きだ。

 

でも、生き方や感じ方を決めるのは、最終的には、その人本人だと思っている。

 

 

どんなに親しい間柄でも、価値観的なところや、生き方的なところや、音楽の好き嫌いなどは、

 

最終的には、「その人本人に任せる」という雰囲気が大事なのではないだろうか?

 

どんなに親しい間柄でも、結局は「別の人間」なのだから。

 

 

どういう音楽が好きか嫌いか、何を幸せと感じるか、何を楽しいと感じるか、何を自然体と感じるか、何を心地良いと感じるか、どう生きたいか、どう生きたくないか、何を頑張りたいか、何を頑張りたくないか、何に興味を持つか、何に興味を持たないか、、、

 

それらは全て、人によって異なることだ。

 

 

 

 

だからと言って、あまりにも「人に意見してはいけない」「人に配慮しなければいけない」「自分の好み・考えを言ってはいけない」という風潮では、息苦しいし寂しい。

 

お互いに、自由に意見や助言を言い合っても良いと思うし、批判や批評も自由に言って良いと思うのだけど、(私も言うし)、

 

しかし、その意見・助言・批評に同意しなかったとしても、そのことで誰かを責めたり、強引に同意させようとするのは、良くないのではないか?

 

 

 

 

誰かのことを責めても良いのは、明らかに他者の危害・迷惑になるような言動や、明らかな虚言や、明らかに他者を見下すような態度だけだと思う。

 

(あるいは、例えばワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想・意見を言っているような人も、明らかに間違いであり勘違いなので、指摘したり否定したりしても良いと思う。※事実に基づいていない意見・感想・勘違い・思い込み等)

 

 

 

 

さて、数回にわたって書いたシリーズも今回で最後です。

 

当初のテーマからは、かなり話もそれましたし、長くもなりましたが。

 

 

強引にまとめると、今のところの私の意見としては、

 

■「オープンな意見交換は好きだし、お互いオープンに意見・批評・批判し合うのも嫌いじゃないけど、最終的には、各々の生き方・感じ方を決めるのは、その人本人」

 

■「自分の好き嫌い・感じ方・価値観に、いくらでも自信を持っても良いけど、それを他者にまで当てはめすぎることは良くないのではないか。自分の好き嫌い・感じ方・価値観・道徳観念を、絶対的な正義(正論)だと思い過ぎないほうが良いのではないか」

 

■「感じ方・価値観は自由。ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在する。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想。(あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想)」

 

■「外見・表情・ファッション・話し方・話す内容・行動・仕事ぶり・演奏・作曲などには、その人の内面や人間性が、確かに現れるとは思う。とは言え、どんな表現ツールも表現メディアも、不完全なものである。(そして誰しも、他者の内面(人間性)を100パーセント完璧に分かることも不可能だと思う)。というわけで、他者の内面・性格・境遇・事情・心情・人間性などを、あまりにも完璧に分かったつもりになりすぎてしまうのは、人間の能力と権限を超えているのではないか?」

 

そんなところです。

 

 

 

 

そしてさらに言えば、

 

言葉や音楽や価値観について、考えたり、追求したり、学んだり、(自分を)反省したりすることは、私にとっては、とても大切なことだけど、

 

実は、そこは「入口」にしか過ぎなくて、

 

そういう表面的な言葉・音楽・価値観の領域を超越してしまうような感覚に、日々、アートを鑑賞したり、創作したり、人と触れ合ったりすると、出逢うこともあります。

 

 

 

 

(自分の)感性・価値観・好き嫌いは大事だと思うのですが、それらを盲信しすぎていると、その側面・尺度・角度でしか感じることが出来ない。

 

だから、自分の感じる全てのことを大事にしつつ…、

 

同時に、自分の感じること全て、(自分の判断、自分の意見、自分の感性、自分の快不快、自分の価値観、自分の道徳観、自分の善悪感、自分の人生観)、

 

それら全てを、いっさい信用しないような感覚のほうが、私は心地良く感じます。

 

 

ほとんど説明不能なのですが、

 

自分自身をバカにして、自分自身を全否定しているような時こそ、実は、自分自身をとても大切にしているような感覚さえあります。

 

 

 

 

今まで生きてきた流れの中で、「自分はこういう人間」と、定まってしまっているようにも思えるが、(性格的にも、能力的にも、運命的にも、趣味も、感性も、価値観も、好き嫌いも)、

 

確かに、人生のほとんどは、人知や自力ではコントロールできないことばかりではあるし、

 

先天的な資質・体質・身体能力や、生まれ育った環境・境遇にも左右されてしまうのは事実だが、

 

しかしながら、今日の決意とか、今日の覚悟とか、あるいは根性や努力や意思によって、性格も能力も運命も創ることが出来るのではないか?今後、大いに変化する可能性も生まれてくるのではないか?

 

そういう気概や側面も、見逃したくはないのだ。

2017.05.31 Wednesday

2017.5.31-2

昨日の記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

「言葉はレベル低い」「言葉は陳腐」「このメディアはダメ」「このジャンルはダメ」「メールでは気持ちは伝わらない」などと言っているような人が、

 

自分自身が寡黙になるだけなら自由だし、饒舌な人を嫌うのも自由だし、特定のジャンル・メディア・メール・SNS等に手を出さないのも自由だと思います。

 

無理してまで、自分の美学や好みや価値観を変える必要はないと思う。

 

 

 

で、そういう自分の美学(価値観)に自信や愛着を持ち、それを他者に「推奨」するくらいなら素晴らしいと思うのですが…、

 

あまりにも自分の美学(価値観)だけを盲信・絶対視してしまうのは、少々狂信的すぎると思う。

 

自分の美学(価値観)に自信や愛着を持ちつつ、同時に、「これはあくまで自分個人の見方でしかない」と、わきまえようと努めることも大事なのではないかと思ってしまいます。

 

 

 

そう言うと、「もっと自信を持て」「そんなに人に気を使ってられない」「細かいこと言うな」と思われる方もいるかもしれませんが、でも、私は気を使っているわけではないのです。

 

例えば、暴力や殺人や人種差別をしてしまうことは、たいていの人は心地良くないと思います、

 

それは、「他人に気を使っている」からではないし、「細かいこと言っている」わけでもないはず。

 

他者の肉体を痛めつけたり、他者が生きる権利を剥奪してしまうような行為は、やはり、単純に不快なものだと思います。

 

 

私にとっては、価値観的なことも同じ。

 

あまりにも何か一つの見解・意見・感覚・価値観のみを盲信し、それ以外を否定するような態度は、差別や暴力やイジメとほとんど変わらない、という感覚です。

 

(とても、心地良くない。決して、人に気を使っているわけではなく。決して、自分に自信が無いわけではなく。決して、細くて気難しいこと言っているわけでもなく)

 

 

 

 

…とは言え私は、自分自身の感じていることを、常に疑ってもいます。

 

上記のように感じること自体、「気にしすぎではないか?」、「神経過敏すぎるのではないか?」、「偏見・負けん気・攻撃本能・防衛本能・利己主義・自己正当化なども、誰もが持つものだし、(もちろん私も持っているし)、ある程度は容認すべきではないか?」、

 

そのように、常に自分自身を疑っているくらいで丁度良いです。

 

 

 

要は、自分のこだわり・正義感が強すぎて、心が狭い感じになってしまっては、それもまた心地悪いのだ。

 

人間、誰もが無知で独善的で利己的な部分を持っているので、

 

そういう苦しさ・愚かさ・哀しさもまた、人類全体の宿命のように感じることもある。(妙な連帯感や同胞愛)

 

 

なので、お互い指摘し合ったり、問題視し合ったりすることも大事だと思うし、

 

同時に、あまり責めすぎない感じの柔和な雰囲気が、何より大事だとも思っている。

 

 

 

いずれにせよ、犬や猫にだって、性格や行動パターンに個体差がある。

 

(例えば、引っ込み思案な子もいれば、好奇心旺盛な子もいる。無口な子もいれば、よく鳴く子もいる。大人しくて無欲な感じの子もいれば、多動的で強欲な感じの子もいる)

 

人間だって動物。

 

たいていのことは「人それぞれ」のはずだ。

 

 

もちろん人間は、努力次第・意識次第で、性格や個性を変えようとすることも出来るし、そうすることも大事かもしれない。

 

「持って生まれた性質のまま」ではなく、自分の意識次第で変えようとしたり、性格や生き方を成長させようとすることも、とても大事だと思う。

 

 

でも、そうであったとしても、

 

どういう生き方をしたいと感じるか、どういう生き方を心地良いと感じるか、どういう生き方を自然体と感じるか、

 

何を楽しいと感じるか、何を幸せと感じるか、何に興味を感じるか、

 

何を頑張りたいと感じるか、何を頑張りたくないと感じるか、、、

 

 

決めるのは自分だし、人類、全員一致なんてしてなくて良いと思う。

 

誰もが同じパーソナリティーを目指さなくても良いし、誰もが同じアートを気に入らなくても良いし、誰もが同じ考え方・感じ方・振る舞い方を目指さなくて良いはず。

 

 

そんなわけで、「これが誰にとっても共通する幸福」、「これが誰にとっても共通する良識(常識)」、「これが誰にとっても共通する自然体」、「このジャンル・メディアは(誰がどう使っても)こういうもの・ダメなもの・陳腐なもの・心が伝わらないもの」、

 

そういう感じの考え方や言い方は、私は抵抗ありますし、大いに疑問視しています。。。

 

 

…で、さっき言ったように、そういう感じの考え方(言い方)を、責めすぎる気持ちはないのだが、

 

日々、何かに疑問・抵抗感を感じ、それを表明することは、私は、悪いことではないし攻撃的なことでもないと思っている。

 

(例えば、誰かや自分の言動が、「これは差別・偏見・いじめではないか?」と思ったら、素直に疑問や怒りを表明することが、むしろ必要ではないか?と思ってます)

 

 

一人一人の人間も、我々の社会や文化も、「今ここ」が全てではない、

 

誰でも、今後も変化・成長していく可能性のある存在だと確信しているからこそ、時には、現状に対して批判・疑問視・問題提起することも、私は必要だと思っているわけです。(※自分自身が批判されたりすることも、そんなに嫌ではない)

 

…もちろん、人間、無理して変わる必要はないと思いますし、変わらないことの魅力もあるとも思います。

 

加えて、もし何かを批判・疑問視・問題提起するにしても、その言い方(伝え方)には、最低限の礼儀は大切だと思っていますが。

2017.05.30 Tuesday

2017.5.30

ところで、「言葉はレベル低い」「大切なのは言葉じゃない」というような意見を、割とよく聞きます。

 

(※誰かの発言・意見の、その内容を吟味する前から、「多言は陳腐」「文字や言葉では気持ちは伝わらない」「メールやSNSでは気持ちは伝わらない」というふうに、決め込んでしまうような価値観)

 

 

そういう意見も、もちろん個人の自由だから良いのだけど、いまいち釈然としない感じもする。

 

そのあたり、思うところを書いてみたいと思う。

 

 

 

 

もちろん「言葉」というツールは不完全なものである。

 

言葉では、人生や音楽の真髄を現すことは不可能に近いと思う。

 

 

しかしながら、我々人間の多くは、「他者と気持ちを分かち合いたい」「自分の気持ちを表現したい」というような欲求があり、

 

それを100パーセント正確に実現するツールは、今のところ、世の中に一つも存在しないと思いますが、

 

 

我々はそれを承知で、気持ちの「分かち合い」を目指して、

 

(あるいは、自分の想い・魂・気持ちの「表現」や「発信」を目指して)、

 

止むに止まれず、我々は言葉を発したり、音楽を発したり、何か行動や表情やアクションを起こすのだと思う。

 

そのこと自体を否定的に見てしまうのは、個人的には、あまり好きになれないです。

 

 

 

 

我々の言葉も、音楽も、表情も、行動も、礼儀作法も、ジョークも、全て不完全なもの。

 

思っていることを、誰かに完璧に誤解なく伝えるなんて、そう簡単には出来やしない。

 

誰かの心や性格を、完璧に誤解なく理解するなんてことも、そう簡単に出来やしない。

 

(自分の心・信念・感性・価値観・美的センスなどを、100パーセント完璧に(作品として)表現することも、そう簡単なことではない)

 

 

でも、発言することや表現することに、尻込みしすぎることもないと思う。(慎重になる必要はあるとしても、必要以上にブレーキをかけることはないと私は思う)

 

誰でも、自分なりに思い付いた発言・行動・表現をすれば良いと思う!

 

 

 

 

そもそも、我々の発言や行動や作品や価値観というものは、何が正解か、何が良いか悪いか、何が愛があるかないか、何が思いやりがあるか無いか、、、

 

そう簡単には決められない。

 

 

だから、何が良いとか悪いとか、何が思いやりが有るとか無いとか、完璧には分からないまま、

 

今現時点での自分の感性や信念や良心に従って発言・行動・表現するしかないと思う。

 

 

…やがて自分の内面や価値観も、経験によって変化するだろうし、(他者からの影響や批判やアドバイスで変化することもあるし)、

 

そうしたら、発言・行動・表現も、自然と変化するだろうと思う。

 

 

 

 

人というものは、一生涯、信念や性格や価値観が変わらないことは稀だと思うので、

 

毎日毎日、その都度その都度、あらためて行動や表現を選択するしかないと思います。

 

(自分の)信念・感性・性格・快不快・価値観・善悪観などを、あまり固定化・正当化・マニュアル化してしまわず。

 

 

だからこそ、我々はお互いに、発言や行動や作品の内容(中身)を、時には批判し合ったり、問題視し合ったりすることも、僕は大事だと思っています、

 

誰しも完璧な人間ではないし、誰しも自分本位の尺度・立場でしか物事を見れないので、

 

誤解してしまったり、ひどいことを言ってしまったりする可能性も、誰にでもあると思うので。

 

 

 

 

そんなわけで、音楽作品についても、お互いの言動についても、オープンに意見や批判を言い合ったりするのは、私は全然嫌いじゃない。

 

 

 

 

でも、発言や作品の内容(中身)を、よく吟味しないうちから、

 

「(言葉は)どうせレベル低い」、「(文字や文章では)どうせ心が伝わらない」、「そのジャンルはどうせダメ」、「そのメディアはどうせ心が伝わらない」、「SNSはどうせ心が伝わらない」、「音楽はこうでなければならん」、「アーチストはこうでなければならん」、「言葉(文字)で語る奴は本質を分かってない」、「言葉(文字)で語る奴は理論・理屈でしか考えてない」、「こういうタイプの発言は冷たいに決まってる」、「こういう意見こそ良識・常識に決まってる」、

 

というような感じの意見(批判)は、その発言やその作品の内容を、いっさい聞く耳を持たない態度に思えてしまう。

 

(内容を吟味しようとする前に、外側のジャンル・パッケージの印象で決めてしまっているだけ。表現スタイルの印象で決めてしまっているだけ)

 

 

 

 

例えば「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」みたいな意見も、たまに聞くことありますが、

 

そういう意見は、コミュニケーション方法や表現ツール・表現ジャンルという、「外側のパッケージ」で、その中身・内容まで決め付けすぎに思われてしまう。。。

 

もっと、個々の作品ごとに、個々の発言ごとに、その内容を判断しなければいけないと思うのだが?

 

なぜ一括りにして、そのジャンル(ツール)の発言・表現・コミュニケーションは、「全てがダメ」と思い込んでしまうのかが謎です。

 

 

批判や問題視をするなら、少なくとも、その発言について、その作品について、その文章や言い方について、(その表現内容について)、

 

よくよく内容を確かめた上でないと失礼だと思う。

 

 

…もちろん、例えば夜中に路上で大声で演説・演奏などしている場合、その「内容」や「クオリティー」以前に、行為そのものが迷惑なので、

 

そういう場合は、内容・中身を吟味する以前に、行為そのものを問題視して良いと思いますが。

 

 

 

 

我々はお互いに、発言・行動・作品・表現の、その中身や内容や言い方(伝え方)に対して、批判を言ったりしても良いと思うけど、

 

ちゃんと内容・中身・真意を確かめる前から、

 

表面的なジャンルや、表現手段や、表現ツールや、言葉数(文字数)や、しゃべり方や、ルックスや、年齢や、性別や、人種や、表現メディアの種類等で、過度に見下したり否定しすぎたりしてしまうのは、

 

イメージや先入観で、発言(表現)の内容までをも決めつけてしまっているだけだと思う。

2016.01.09 Saturday

無題

今一度、じっくり作曲を勉強したい。。。

他人の評価とか売れる売れないとかより、まずは自分自身が誇れる曲、自分自身が本当に感動できる曲…。

もう一息な気がします。

…いや、もう二息か、もう三息?四息?^^;

でも、全く届かないわけではない感覚。


闇雲に気合でチャレンジ・創作することも大事だが、世のマスターピースの研究や、自作との冷静な比較検討で見えてくることも大事。

最近、ようやく出発地点というか、ようやく分かってきた感じのことも多々あるので、今年も一人で頑張ります。。。


もちろん、モラトリアムであることに酔っているわけではなく、音楽道というのは、とてつもなく奥が深いということです。

一つ一つ、今見えてきた課題に取り組みたい。



それぞれの場所で戦っている皆様お疲れ様です、

今のままでも充分なのでしょうけどね、私も誰でも。


でも、縁があって与えられたこの人生、

やはり、今一歩の努力・練磨・研鑽、

あるいは、今一歩の自然体・幸福感・心地良さ、

それは多くを望みすぎということではなく、

無理をしすぎるということでもなく、

まさに「縁」というか、

縁があって出会わされたこの「自分」という人間や、縁があって出会わされた他者、仕事、状況、社会などなど、

そこに真摯に取り組み、真摯にぶつかる以外に、特にやりたいことも無いように思われる…。


何かが嫌だったら改善を目指す、好ましかったら感謝して味わう。。。

シンプルだけど、それが大事だと思います。

…もちろん、「何を嫌と感じるか」「何を好ましいと感じるか」、

そこも、先入観や思い込みに支配される場合も多いので、あまりにも頑固に信用しすぎてはいけないとも思うが。



人生、自力や努力ではどうにもならないことも多い、

されど、不遜ながら、自力の底力・可能性を信じたい気分でもあります。


…ん〜、まあ、そのあたりは、どうでも良いのですが、何より大事なのは作品クオリティー。

もう一息、勉強しよう。。。

2015.11.18 Wednesday

最近の雑感

最近、痛ましいテロのニュースありましたね。
 
宗教・思想の違いを理由に攻撃してしまうなら、人間と人間というのは、永久に交わらない、永久に交われない、
 
人生自体が、何かの罰のような殺伐としたものになってしまう。。。



 
あ、ちなみにこの文章は、2〜3週間前に書いたものなので、最近あった出来事とかは反映していないです。



 
テロや宗教や思想だけの話でもなく、我々の日常にも同じことが言えると思う。
 
人間、人それぞれに道がある。
 
(根本的には「人間皆同じ」と感じられる部分も多いが、表面的には、それぞれに違いもあるように感じられる)。
 
ポジティブ寄りの人もいればネガティブ寄りの人もいるし、行動的な人もいれば思索的な人もいるのが当たり前。
 
のんびり屋さんもいれば、理想・目標に向かって頑張りたい人もいるだろうし、感情的な人もいれば論理的な人がいるのも当たり前。



 
なので、お互い、感じ方や生き方を尊重し合うのが、私は好ましい。
 
…いや、「尊重し合う」なんて高度でなくても良い、
 
せめて「容認し合う」「やたらに攻撃しない」くらいの世の中なら、大満足かもしれない。



 
あと、「人間とはどう生きるべきか」とか、他者の性格・心情とか、他者の置かれた事情・状況とか、、、
 
そういうことを、あまり分かったつもりにならないのも大切だと思う。
 
なぜなら、完璧に分かったつもりになってしまうのは、人間の能力の限界を超えているから。

 
他者を思いやることは大切かもしれないが、

他者の心境や事情を、我々は完璧に分かってあげられるわけではないし、

そもそも「どう生きたいか」ということは、人によって違うし。



 
…とは言え、「謙虚であること」「他者を尊重すること」が、あまりにもマスト・義務みたいな雰囲気になってしまうのも、それはそれで窮屈でもある。
 
自分の意見に自信を持ったり、誰かの意見に反対したり、誰かを批判したりするのも、誰もが持つ当然の権利だと思います。
 
自分の意見は一意見に過ぎないと自覚しつつ、その上で、相手の意見に「反対」を表明するのなら、特に問題ないと思う。
 
(※議論や批判や意見の言い合いを、「良くないこと」と解釈しすぎてしまうことも、少し過敏すぎる。そういう雰囲気だと、自由な意見交換や、切磋琢磨までも失われてしまいやすい)。



 
問題なのは、あまりにも「これが正しい意見」「これは間違った意見」という前提で話してしまうことだと思う。
 
そういう話し方というのは、「私はあなたとは話し合いません。私が正義です。私が神です。私がルールブックです」と言っているのと、同じ雰囲気を感じます。
 
個人的には、明らかな迷惑行為や犯罪行為以外は、あまり頭ごなしに否定したり禁止したりするべきではないのではないか?と思います。



 
「1+1は3です」という感じのことを言っている人には、「それは間違ってます」と伝えて良いと思う。
 
でも、「数学は好きだ」「数学は嫌いだ」という感じの意見に対しては、どんな意見であっても、「それは間違ってます」とも「それは正しいです」とも、私は言う気にならない。
 
まずはその意見を尊重して、賛同するなり反対するなりスルーするなりします。

 
ちなみに、「人は皆、数学を好き(嫌い)になるべきだ」、「人は皆、数学を専門的に学ぶべきだ」、「数学なんて、無くすべきだ」、「数学とは、こういう心構えで学ぶべきだ」、「アーチストたるもの、こうするべきだ」、「男(女)というものは、(○○人というものは)、こういうものだ」、「私は(あの人は)、こういうタイプの人間だ」、
 
というような意見は、まずは言い分を聞いてみて、納得すれば、「なるほど、そうなのかもしれない」と思うことも、たまにあります。

 
が、そういう感じの意見は、だいたい視野が狭く、独善的な意見も多いので、納得できないことのほうが多いです。

個人の意見ならともかく…、

「人は皆」「○○人は皆」「男(女)は皆」「アーチストは皆」という感じの、文章の主語が大きすぎる場合、やや独善的に感じられてしまうことも少なくない。

(※とは言え、「主語が大きい」ということ自体に過剰に反応し、その主張の内容を聞く前から、頭ごなしに否定しすぎてしまわないよう、気をつけたいと思っています)。



 
いづれにせよ、そういう独善性というものが、争いの元になってしまう理由の一つだと思う。

 
しかしながら、独善性というものは、我々は誰でも持っているものなので、それを「無くそう」としすぎるより、
 
■自分自身も独善性を持っていると自覚すること
 
■自分自身も視野が狭いと自覚すること
 
■他者の独善性や視野の狭さにムカついたとしても、心の奥のどこかで、「ああ、自分も同じだな」というような共感性・許容性を持つこと

その三つが、大事ではないかと思う。
 
でないと、「私は真理や愛や思いやりを知っている」「あなたは真理や愛や思いやりを知らない」というパターンにも陥ってしまいやすい。



 
そもそも言葉というものは不完全で、物事の一面だけを定義してしまうものである。
 
言葉は大切であるし、言葉や態度や行動や表情で、我々は自己を表明し、他者を判断するしかない。
 
しかしながら、表面上の言葉・態度・行為・表情だけで、その人の中身や本質を100パーセント分かったつもりで判断してしまうのは、人と人を分断させるだけで、あまり良いことは無いように思われる。

誰だって、誤解されたら嫌な気持ちになるだろうから…。



 
我々は、表面に見える言葉や態度や行為で、どうしたって人のことを判断してしまうけど、
 
そういう自分の判断・直感・感情・思考を、絶対視しすぎない態度というものが、私は大切なように思われる。
 
(※自信を持ってはいけない、ということではない。「自分に自信を持つ」ということと「自分を絶対視しない」ということは、矛盾無く両立すると思う)。



 
あらゆる言葉、あらゆる行為、あらゆる表情、あらゆる思考、あらゆる直感、あらゆる感情は、一応は大切にしつつ、(なるべく言葉や行為に心も込めつつ)、
 
でも、心のどこかで、それらをあまり信用しすぎない態度も、そんなに悪くないように思えてくる。
 
信用しすぎると、自分の価値観に自惚れてしまい、自分の判断や価値観のみが正しいと信じ込んでしまう。
 
すると、自分とは違う判断をする人や、自分とは違う感じ方をする人や、自分とは違う価値観を持つ人を、「間違っている」と思い込みやすくもなってしまう。

(あるいは、「この人はこういうタイプ」「あの人はああいうタイプ」「私はこういうタイプ」と、固定的に定義してしまいやすくもなる)。


そんなスケールの小さい自信なら、むしろ、無くても良いのではないか?と思う。

むしろ、「何も分からん!」という感覚のほうが、個人的には「自信」と呼べる感覚もあります。

その理由は、まとまったら、また近々更新してみたいと思いますが。






もちろん、どう考えても批判されるべき破壊的な考え方・攻撃的な考え方・短絡的な考え方というものは、あるかもしれない。。。

そういう考え方に対して、「自分は同意しない」と表明することも、全然悪いことではない。






思うに…、どんな考え方・どんな感じ方であっても、それを他者に強要したり、他者に強引に同意を求めたり、明らかに迷惑行為をしないなら、私は、許容できるはずだと思う。

私だって、狭い視野のまま、好き勝手に考え、好き勝手に感じているのだ。

誰しも、狭い視野でしか生きられないのだ。

そういう意味では、人間皆同じだし、そこに共感性を感じれば、愛しさや労りのような感情も込み上げます。






だから、キーポイントは、私なりには、「自分の考え方・感じ方は、世界に多様に存在する感じ方の一つにすぎない」と、自覚しているかいないかだと思う。

…いや、自覚などしていなくても良いから、少なくとも多少は、他者の考え方・感じ方に、許容的なムードを持っていること。

そのムードさえ有れば、どんなにトンチンカンな価値観であろうが、どんなに破天荒な感性であろうが、むしろ興味深いものとして、私は受け入れることが出来る。

逆に、どんなに立派な価値観であろうと、妙な自負・優越感が強すぎたり、その価値観のみを「正義」「正解」「常識」と思い込んでいるムードが強いと、やはり、受け入れることは難しいのではないだろうか。

2013.12.18 Wednesday

2013.12.18

どうも、「私は常識的な人間だからこう感じる」とか、「私は変わり者だからこう感じる」とか、「私は○○なタイプだからこう行動する」とか、

あるいは、「こう感じる私ってば変わり者」、「こう感じる私って感覚的なタイプ」、「こういう考え方をする人は○○なタイプ」、「こういう生き方をする人は自然体」、云々…、

そのような定義や評価やレッテル貼りが、私は、とても面倒くさい。

ぐちゃぐちゃして、気持ち悪い。

もっとシンプルに、もっと単純に、「今、私はこう感じる」、「今、私はこうしたい」、「今、私はこれが好き」、「あなたは今、どう感じますか」、「あなたは今、何が好きですか」、

それだけで良いのではないかと、感じてしまうのだ。

 
それが、どんなタイプかとか、まして、どんな生き方が良いか悪いか、どんな人が変か普通か、どんな人が自然か不自然か…、
 
いちいち分析したり評価したりするのが、私は、とても面倒くさい。
 


もちろん私も、たまには言うけど。

「あの人、変だよねー」とか、言う時もある。

そういう発言をする人のことも、当たり前だが、いちいち咎めたりなんてしない。
 
私がここに書いていることも、これに固着しすぎて気難しい雰囲気になってしまったら、意味が無いし。

でも、心の奥では、そういう発言・判断・評価というものは、かなり主観的で、かなり“自分目線”に基づいたものだと、わきまえてはいる。

2013.10.06 Sunday

2013.10.5(1)

「愛」という感情(?)は、よく、「恋」とは別物だと言われる。

その通りだと思うし、さらに言えば、私は「愛」と「好き嫌い」も、別のものだと感じている。

「愛」という感情は、特定の個人にというより、だいたい全ての存在に、だいたい沸き上がる感じもします。

(嫌いな人などに対しても、不思議と沸き起こる。嫌いな音楽作品などに対しても、だいたい不思議と沸き起こる。…むしろ、嫌いな人や嫌いな作品に対してこそ沸き起こる、妙な愛しさというか(?)、妙な共感というか(?)、妙な寂しさというか(?)…、言語化不可能なあの感覚は、何なのだろう?)。

でも、それは、もしかしたら私だけではなく、同じように感じている方も少なくないのでは?とも思うのだが。



私には、嫌いな人や付き合いにくいと感じる人は、もちろんいるけど、(人と口論になることも、もちろんたまに有る)、

でも、表面的に「嫌い」であっても、その人の存在自体は応援したいし、人それぞれ、その人らしい花を咲かせて欲しい、と思う。

仲が悪い人などには、お互い頑固で気難しい部分があることに、不思議な可笑しみ・親しみ・共感・連帯感さえ、感じる。

(私の人生の中で悪者を演じさせてごめんなさい、とも思う。…あるいは、そういう感情や思考や判断の全てが、みみっちくてアホらしいギャグのように感じる時もある)。



そもそも私自身、好き嫌いの激しい人間。

どんな人のことも、どんな音楽作品のことも、無条件に「好き」になるなんて、私にはハードル高すぎて不可能。

だからこそ、私は、人それぞれの“好き嫌い”を、尊重したくなるのかもしれません。

心が狭いのは、私も同じだから。



そんなわけで、他者や自分の、表面的な“発言”や“行動”や“作品”を嫌うことはあっても、

その人自身…、

その存在自体…、

この不思議な「人生」というものを授かった者どうし、

皆それぞれ、良くも悪くも、偏った目線や価値観を持つ者どうし、

(皆それぞれ、良くも悪くも、自分に誇りを持ったり、自分を嫌ったり、他者との摩擦に悩んだり、他者との触れ合いに癒されたり、他者を責めたり、自分を責めたり、調子に乗ったり、反省したり、ピュアだったり、腹黒かったり、優しかったり、自己中心的だったり、見栄をはったり、謙遜したり、謙虚なことを自負にしたり、自己アピールしたり、自己アピールしないことをアピールしたり、努力したり、さぼったり、自惚れたり、人や自分を騙したり…、)

意外と、ほとんど皆、「似た者同士」とも感じる。



人それぞれ、性格・役割・立場・状況・健康状態・生き方・好き嫌い・価値観などは、誰一人、同じではない。

(同じでたまるか、とも思う。「皆同じでなきゃいけない」みたいな空気ほど、息苦しいことは無い)。

でも、大雑把に「人生」というものを俯瞰すると、「人間皆、良くも悪くも似たようなものかもしれない」とも、私は感じる。



人間の、あらゆる思考・感情・感覚・価値観・ポリシーなどは、全て、単なる誤解や盲信や思い込みのようにさえ、私は感じる。

そして、そのこと自体にも、私は、不思議な労りや、愛着や諦観のようなものも感じます。

(※「人は皆違う」という感覚と、「人は皆似ている」という感覚が、私の中には、矛盾なく共存しています)。

…かと言って、繰り返しになるが、誰のことも、どんな音楽作品のことも、全て平等に「好き」になれるわけではないけど。

だが、好きな人も嫌いな人も、好きな音楽作品も嫌いな音楽作品も、その全てが愛しいような感覚は、確かにあるのだ。



我々の「好き嫌い」も、「思考」も、「感覚」も、「性格」も、「価値観」も、「生き方」も、「ポリシー」も…、

全て、表面的と言えば表面的なもの。

どれも、大切だとは思います。

けど、どれも、「自分」という限られた狭い目線・経験に条件付けられた、いわば“条件反射”みたいな側面も有る。(単なる思い込みや決め付け)。

どれも大切だけれど、どれも絶対的なものでは無いし、どれも本質的なものでも無い気がします。

(どれも、服やファッションみたいに脱ぎかえ可能。どれも、立場や状況が変われば、自然に変化していくもの)。
 


「では、絶対的で本質的なものは何か?」、「“自分らしさ”や“自然体”とは何か?」などと、自分に問うなら、

明確な答えなどは出ないが、

あえて言えば、私なりには、「そんなものは無いし、そんなものは要らない」。

もしくは、「分からないし、分かろうとしない。決めないし、決めようとしない」。

という回答になります。

(まあ…、「決めない」というふうに、決めているだけかもしれないが…)。