無題

今一度、じっくり作曲を勉強したい。。。

他人の評価とか売れる売れないとかより、まずは自分自身が誇れる曲、自分自身が本当に感動できる曲…。

もう一息な気がします。

…いや、もう二息か、もう三息?四息?^^;

でも、全く届かないわけではない感覚。


闇雲に気合でチャレンジ・創作することも大事だが、世のマスターピースの研究や、自作との冷静な比較検討で見えてくることも大事。

最近、ようやく出発地点というか、ようやく分かってきた感じのことも多々あるので、今年も一人で頑張ります。。。


もちろん、モラトリアムであることに酔っているわけではなく、音楽道というのは、とてつもなく奥が深いということです。

一つ一つ、今見えてきた課題に取り組みたい。



それぞれの場所で戦っている皆様お疲れ様です、

今のままでも充分なのでしょうけどね、私も誰でも。


でも、縁があって与えられたこの人生、

やはり、今一歩の努力・練磨・研鑽、

あるいは、今一歩の自然体・幸福感・心地良さ、

それは多くを望みすぎということではなく、

無理をしすぎるということでもなく、

まさに「縁」というか、

縁があって出会わされたこの「自分」という人間や、縁があって出会わされた他者、仕事、状況、社会などなど、

そこに真摯に取り組み、真摯にぶつかる以外に、特にやりたいことも無いように思われる…。


何かが嫌だったら改善を目指す、好ましかったら感謝して味わう。。。

シンプルだけど、それが大事だと思います。

…もちろん、「何を嫌と感じるか」「何を好ましいと感じるか」、

そこも、先入観や思い込みに支配される場合も多いので、あまりにも頑固に信用しすぎてはいけないとも思うが。



人生、自力や努力ではどうにもならないことも多い、

されど、不遜ながら、自力の底力・可能性を信じたい気分でもあります。


…ん〜、まあ、そのあたりは、どうでも良いのですが、何より大事なのは作品クオリティー。

もう一息、勉強しよう。。。

最近の雑感

最近、痛ましいテロのニュースありましたね。
 
宗教・思想の違いを理由に攻撃してしまうなら、人間と人間というのは、永久に交わらない、永久に交われない、
 
人生自体が、何かの罰のような殺伐としたものになってしまう。。。



 
あ、ちなみにこの文章は、2〜3週間前に書いたものなので、最近あった出来事とかは反映していないです。



 
テロや宗教や思想だけの話でもなく、我々の日常にも同じことが言えると思う。
 
人間、人それぞれに道がある。
 
(根本的には「人間皆同じ」と感じられる部分も多いが、表面的には、それぞれに違いもあるように感じられる)。
 
ポジティブ寄りの人もいればネガティブ寄りの人もいるし、行動的な人もいれば思索的な人もいるのが当たり前。
 
のんびり屋さんもいれば、理想・目標に向かって頑張りたい人もいるだろうし、感情的な人もいれば論理的な人がいるのも当たり前。



 
なので、お互い、感じ方や生き方を尊重し合うのが、私は好ましい。
 
…いや、「尊重し合う」なんて高度でなくても良い、
 
せめて「容認し合う」「やたらに攻撃しない」くらいの世の中なら、大満足かもしれない。



 
あと、「人間とはどう生きるべきか」とか、他者の性格・心情とか、他者の置かれた事情・状況とか、、、
 
そういうことを、あまり分かったつもりにならないのも大切だと思う。
 
なぜなら、完璧に分かったつもりになってしまうのは、人間の能力の限界を超えているから。

 
他者を思いやることは大切かもしれないが、

他者の心境や事情を、我々は完璧に分かってあげられるわけではないし、

そもそも「どう生きたいか」ということは、人によって違うし。



 
…とは言え、「謙虚であること」「他者を尊重すること」が、あまりにもマスト・義務みたいな雰囲気になってしまうのも、それはそれで窮屈でもある。
 
自分の意見に自信を持ったり、誰かの意見に反対したり、誰かを批判したりするのも、誰もが持つ当然の権利だと思います。
 
自分の意見は一意見に過ぎないと自覚しつつ、その上で、相手の意見に「反対」を表明するのなら、特に問題ないと思う。
 
(※議論や批判や意見の言い合いを、「良くないこと」と解釈しすぎてしまうことも、少し過敏すぎる。そういう雰囲気だと、自由な意見交換や、切磋琢磨までも失われてしまいやすい)。



 
問題なのは、あまりにも「これが正しい意見」「これは間違った意見」という前提で話してしまうことだと思う。
 
そういう話し方というのは、「私はあなたとは話し合いません。私が正義です。私が神です。私がルールブックです」と言っているのと、同じ雰囲気を感じます。
 
個人的には、明らかな迷惑行為や犯罪行為以外は、あまり頭ごなしに否定したり禁止したりするべきではないのではないか?と思います。



 
「1+1は3です」という感じのことを言っている人には、「それは間違ってます」と伝えて良いと思う。
 
でも、「数学は好きだ」「数学は嫌いだ」という感じの意見に対しては、どんな意見であっても、「それは間違ってます」とも「それは正しいです」とも、私は言う気にならない。
 
まずはその意見を尊重して、賛同するなり反対するなりスルーするなりします。

 
ちなみに、「人は皆、数学を好き(嫌い)になるべきだ」、「人は皆、数学を専門的に学ぶべきだ」、「数学なんて、無くすべきだ」、「数学とは、こういう心構えで学ぶべきだ」、「アーチストたるもの、こうするべきだ」、「男(女)というものは、(○○人というものは)、こういうものだ」、「私は(あの人は)、こういうタイプの人間だ」、
 
というような意見は、まずは言い分を聞いてみて、納得すれば、「なるほど、そうなのかもしれない」と思うことも、たまにあります。

 
が、そういう感じの意見は、だいたい視野が狭く、独善的な意見も多いので、納得できないことのほうが多いです。

個人の意見ならともかく…、

「人は皆」「○○人は皆」「男(女)は皆」「アーチストは皆」という感じの、文章の主語が大きすぎる場合、やや独善的に感じられてしまうことも少なくない。

(※とは言え、「主語が大きい」ということ自体に過剰に反応し、その主張の内容を聞く前から、頭ごなしに否定しすぎてしまわないよう、気をつけたいと思っています)。



 
いづれにせよ、そういう独善性というものが、争いの元になってしまう理由の一つだと思う。

 
しかしながら、独善性というものは、我々は誰でも持っているものなので、それを「無くそう」としすぎるより、
 
■自分自身も独善性を持っていると自覚すること
 
■自分自身も視野が狭いと自覚すること
 
■他者の独善性や視野の狭さにムカついたとしても、心の奥のどこかで、「ああ、自分も同じだな」というような共感性・許容性を持つこと

その三つが、大事ではないかと思う。
 
でないと、「私は真理や愛や思いやりを知っている」「あなたは真理や愛や思いやりを知らない」というパターンにも陥ってしまいやすい。



 
そもそも言葉というものは不完全で、物事の一面だけを定義してしまうものである。
 
言葉は大切であるし、言葉や態度や行動や表情で、我々は自己を表明し、他者を判断するしかない。
 
しかしながら、表面上の言葉・態度・行為・表情だけで、その人の中身や本質を100パーセント分かったつもりで判断してしまうのは、人と人を分断させるだけで、あまり良いことは無いように思われる。

誰だって、誤解されたら嫌な気持ちになるだろうから…。



 
我々は、表面に見える言葉や態度や行為で、どうしたって人のことを判断してしまうけど、
 
そういう自分の判断・直感・感情・思考を、絶対視しすぎない態度というものが、私は大切なように思われる。
 
(※自信を持ってはいけない、ということではない。「自分に自信を持つ」ということと「自分を絶対視しない」ということは、矛盾無く両立すると思う)。



 
あらゆる言葉、あらゆる行為、あらゆる表情、あらゆる思考、あらゆる直感、あらゆる感情は、一応は大切にしつつ、(なるべく言葉や行為に心も込めつつ)、
 
でも、心のどこかで、それらをあまり信用しすぎない態度も、そんなに悪くないように思えてくる。
 
信用しすぎると、自分の価値観に自惚れてしまい、自分の判断や価値観のみが正しいと信じ込んでしまう。
 
すると、自分とは違う判断をする人や、自分とは違う感じ方をする人や、自分とは違う価値観を持つ人を、「間違っている」と思い込みやすくもなってしまう。

(あるいは、「この人はこういうタイプ」「あの人はああいうタイプ」「私はこういうタイプ」と、固定的に定義してしまいやすくもなる)。


そんなスケールの小さい自信なら、むしろ、無くても良いのではないか?と思う。

むしろ、「何も分からん!」という感覚のほうが、個人的には「自信」と呼べる感覚もあります。

その理由は、まとまったら、また近々更新してみたいと思いますが。






もちろん、どう考えても批判されるべき破壊的な考え方・攻撃的な考え方・短絡的な考え方というものは、あるかもしれない。。。

そういう考え方に対して、「自分は同意しない」と表明することも、全然悪いことではない。






思うに…、どんな考え方・どんな感じ方であっても、それを他者に強要したり、他者に強引に同意を求めたり、明らかに迷惑行為をしないなら、私は、許容できるはずだと思う。

私だって、狭い視野のまま、好き勝手に考え、好き勝手に感じているのだ。

誰しも、狭い視野でしか生きられないのだ。

そういう意味では、人間皆同じだし、そこに共感性を感じれば、愛しさや労りのような感情も込み上げます。






だから、キーポイントは、私なりには、「自分の考え方・感じ方は、世界に多様に存在する感じ方の一つにすぎない」と、自覚しているかいないかだと思う。

…いや、自覚などしていなくても良いから、少なくとも多少は、他者の考え方・感じ方に、許容的なムードを持っていること。

そのムードさえ有れば、どんなにトンチンカンな価値観であろうが、どんなに破天荒な感性であろうが、むしろ興味深いものとして、私は受け入れることが出来る。

逆に、どんなに立派な価値観であろうと、妙な自負・優越感が強すぎたり、その価値観のみを「正義」「正解」「常識」と思い込んでいるムードが強いと、やはり、受け入れることは難しいのではないだろうか。

2013.12.18

どうも、「私は常識的な人間だからこう感じる」とか、「私は変わり者だからこう感じる」とか、「私は○○なタイプだからこう行動する」とか、

あるいは、「こう感じる私ってば変わり者」、「こう感じる私って感覚的なタイプ」、「こういう考え方をする人は○○なタイプ」、「こういう生き方をする人は自然体」、云々…、

そのような定義や評価やレッテル貼りが、私は、とても面倒くさい。

ぐちゃぐちゃして、気持ち悪い。

もっとシンプルに、もっと単純に、「今、私はこう感じる」、「今、私はこうしたい」、「今、私はこれが好き」、「あなたは今、どう感じますか」、「あなたは今、何が好きですか」、

それだけで良いのではないかと、感じてしまうのだ。

 
それが、どんなタイプかとか、まして、どんな生き方が良いか悪いか、どんな人が変か普通か、どんな人が自然か不自然か…、
 
いちいち分析したり評価したりするのが、私は、とても面倒くさい。
 


もちろん私も、たまには言うけど。

「あの人、変だよねー」とか、言う時もある。

そういう発言をする人のことも、当たり前だが、いちいち咎めたりなんてしない。
 
私がここに書いていることも、これに固着しすぎて気難しい雰囲気になってしまったら、意味が無いし。

でも、心の奥では、そういう発言・判断・評価というものは、かなり主観的で、かなり“自分目線”に基づいたものだと、わきまえてはいる。

2013.10.5(1)

「愛」という感情(?)は、よく、「恋」とは別物だと言われる。

その通りだと思うし、さらに言えば、私は「愛」と「好き嫌い」も、別のものだと感じている。

「愛」という感情は、特定の個人にというより、だいたい全ての存在に、だいたい沸き上がる感じもします。

(嫌いな人などに対しても、不思議と沸き起こる。嫌いな音楽作品などに対しても、だいたい不思議と沸き起こる。…むしろ、嫌いな人や嫌いな作品に対してこそ沸き起こる、妙な愛しさというか(?)、妙な共感というか(?)、妙な寂しさというか(?)…、言語化不可能なあの感覚は、何なのだろう?)。

でも、それは、もしかしたら私だけではなく、同じように感じている方も少なくないのでは?とも思うのだが。



私には、嫌いな人や付き合いにくいと感じる人は、もちろんいるけど、(人と口論になることも、もちろんたまに有る)、

でも、表面的に「嫌い」であっても、その人の存在自体は応援したいし、人それぞれ、その人らしい花を咲かせて欲しい、と思う。

仲が悪い人などには、お互い頑固で気難しい部分があることに、不思議な可笑しみ・親しみ・共感・連帯感さえ、感じる。

(私の人生の中で悪者を演じさせてごめんなさい、とも思う。…あるいは、そういう感情や思考や判断の全てが、みみっちくてアホらしいギャグのように感じる時もある)。



そもそも私自身、好き嫌いの激しい人間。

どんな人のことも、どんな音楽作品のことも、無条件に「好き」になるなんて、私にはハードル高すぎて不可能。

だからこそ、私は、人それぞれの“好き嫌い”を、尊重したくなるのかもしれません。

心が狭いのは、私も同じだから。



そんなわけで、他者や自分の、表面的な“発言”や“行動”や“作品”を嫌うことはあっても、

その人自身…、

その存在自体…、

この不思議な「人生」というものを授かった者どうし、

皆それぞれ、良くも悪くも、偏った目線や価値観を持つ者どうし、

(皆それぞれ、良くも悪くも、自分に誇りを持ったり、自分を嫌ったり、他者との摩擦に悩んだり、他者との触れ合いに癒されたり、他者を責めたり、自分を責めたり、調子に乗ったり、反省したり、ピュアだったり、腹黒かったり、優しかったり、自己中心的だったり、見栄をはったり、謙遜したり、謙虚なことを自負にしたり、自己アピールしたり、自己アピールしないことをアピールしたり、努力したり、さぼったり、自惚れたり、人や自分を騙したり…、)

意外と、ほとんど皆、「似た者同士」とも感じる。



人それぞれ、性格・役割・立場・状況・健康状態・生き方・好き嫌い・価値観などは、誰一人、同じではない。

(同じでたまるか、とも思う。「皆同じでなきゃいけない」みたいな空気ほど、息苦しいことは無い)。

でも、大雑把に「人生」というものを俯瞰すると、「人間皆、良くも悪くも似たようなものかもしれない」とも、私は感じる。



人間の、あらゆる思考・感情・感覚・価値観・ポリシーなどは、全て、単なる誤解や盲信や思い込みのようにさえ、私は感じる。

そして、そのこと自体にも、私は、不思議な労りや、愛着や諦観のようなものも感じます。

(※「人は皆違う」という感覚と、「人は皆似ている」という感覚が、私の中には、矛盾なく共存しています)。

…かと言って、繰り返しになるが、誰のことも、どんな音楽作品のことも、全て平等に「好き」になれるわけではないけど。

だが、好きな人も嫌いな人も、好きな音楽作品も嫌いな音楽作品も、その全てが愛しいような感覚は、確かにあるのだ。



我々の「好き嫌い」も、「思考」も、「感覚」も、「性格」も、「価値観」も、「生き方」も、「ポリシー」も…、

全て、表面的と言えば表面的なもの。

どれも、大切だとは思います。

けど、どれも、「自分」という限られた狭い目線・経験に条件付けられた、いわば“条件反射”みたいな側面も有る。(単なる思い込みや決め付け)。

どれも大切だけれど、どれも絶対的なものでは無いし、どれも本質的なものでも無い気がします。

(どれも、服やファッションみたいに脱ぎかえ可能。どれも、立場や状況が変われば、自然に変化していくもの)。
 


「では、絶対的で本質的なものは何か?」、「“自分らしさ”や“自然体”とは何か?」などと、自分に問うなら、

明確な答えなどは出ないが、

あえて言えば、私なりには、「そんなものは無いし、そんなものは要らない」。

もしくは、「分からないし、分かろうとしない。決めないし、決めようとしない」。

という回答になります。

(まあ…、「決めない」というふうに、決めているだけかもしれないが…)。

無題5

私の性格・能力・感性・生き方・考え方などの全ては、私が、独力で獲得したものではない。

私が、今現在の性格・能力・感性・生き方・考え方でいられるのは、

私が豊かな国に生まれ、健康体だからこそ、可能だったこと。(多分)。

(例えば、戦争地域や貧困地域やスラム街などに生まれたら、私は、今の自分のような感性・能力・価値観・パーソナリティーの人間には、ならなかったと思う。まずは、逃げるのや食べるのに必死で)。

だから、もし私が、自分の生き方・考え方・感性・作品などを、気に入っていたとしても、

それを「自分だけの手柄」として語るつもりは無いです。

私の生き方や考え方や、私の能力や性格なんて、「豊かさ」や「健康」という、バックボーンがあってこそ。

境遇や状況に、依存しているのだ。

もし明日、重病になったりしたら、私なんぞ、即刻ネガティブになるかもしれないですしね。(分からないですけど…。)



で、以下、本題ですが、

人間というものは、それぞれ一人一人の、自分の意思やセンスで選ぶ「生き方」「言動」「振る舞い」…、

それらが、もちろん大事だと思います。

そこが、一般的に言う「その人らしさ」だと思います。

そういう「生き方」や「言動」や「振る舞い」を、我々は、お互いに評価し合い、

(人を)好きになったり、嫌いになったり、尊敬したり、軽蔑したり、恋したり、褒めたり、責めたり、応援したり、非難したり、いじめたりするのは…、まあ、当然だと思うし、仕方ないと思う。

でも、この記事の最初に書いたように、

人間というものは、長所も短所も、良さも悪さも、100パーセント、その本人だけの手柄や責任ではないはずです。



元来、僕は非常に個人主義で、いわゆる“国民性”とか“県民性”とか“若者らしさ”とか…、
 
安易にカテゴライズしてしまうことが、あまり好きではないです。

しかしながら、他者や自分の「生き方」「言動」「振る舞い」というものを、完璧に100パーセント、その本人の手柄や責任と見なしてしまうのも、苦手だ…。



人それぞれ、生まれ育った境遇・時代、現在の状況・立場・体調、持って生まれた容姿・家庭環境・経済状況…、

それらは、人間の本質ではないけれど、

でも、そこから完璧に自由に生きることは、人間には、不可能に近いと思われる。

(境遇や社会と、無関係に生きることは出来ない)。

だから、人格や振る舞いの100パーセントを、私はあまり、「人のせい」だけには、したくないです。(100パーセント、パーソナルに受け取りすぎたくない)。

誰しも、本人の意思や努力では、どうにもならないことの一つや二つ、あるはずだから。



例えば、とてつもなくネガティブな人に出会ったとしても…、

それをあまり、「その人の弱さ」とは、受け取りすぎたくない感覚があります。

きっと、他者には分からない、何かトラウマや事情もあったのかもしれないから。

責めすぎるより、ある程度“そのまま”を認められれば、と思う。



ただし、だからと言って、、、

良い大人が、いつまでもトラウマや境遇のせいばかりにしたり、いつまでも不平・不満・悪口ばかり言って、自分の現状の生き方や振る舞いを改善しようとしないのは、残念に思う。

現状が嫌なら、変えるための一歩を、自分の意思でスタートさせないと。

(自分や現状を、「変えられるか」「変えられないか」が重要なのではなく、一歩を踏み出すこと自体が、何より大事だと思われる)。



不平・不満・悪口というものは、ある程度なら良いガス抜きにもなるし、悪いものではないと思う。

そういう不平・不満・怒り・自己嫌悪などの中にこそ、自己発見や、新しい一歩を踏み出すキッカケが潜んでいたりすることも、多々ありますし。

だから、ある程度は構わないと思う。

しかし、あまりにもトラウマや、アンラッキーな境遇・現状や、不平・不満・怒り・恨み・妬み・悪口などに、ずーっと「居続けよう」とする人は、

やはり付き合いにくいし、何より、「勿体無い」。

今日の自分の新しい可能性を、自ら抹殺してしまっているように、思われる。

昨日の自分を、ただただコピー&ペーストしているだけのように、思えてしまう。

(無論、私も常に、陥りやすいことだけれど)。



さて、少々話はそれたけど、

私が大事だと思っていることは、概ね、次の二つだ。

(1)「生き方」や「言動」や「振る舞い」というものは、本人の意思や努力やセンスで、自由に選べる。全て、本人の責任である。

(2)「生き方」や「言動」や「振る舞い」というものは、本人の意思や努力やセンスだけでは、必ずしも、100パーセント自由には選べない。全てが、本人の責任ではない。

矛盾しているではないか?という批判や、ツッコミあるかもしれない。いただくかもしれない。

しかし、私の心の中では、(1)と(2)は、矛盾せず、共存・同居・両立しています。

(むしろ、どちらか片方の考え方に傾きすぎると、私は、居心地の悪ささえ感じます)。
 


私は、基本的には、(1)の個人主義かもしれないが、

しかし同時に、個人の意思や努力ではどうにもならない宿命、境遇、時代、運命、使命、巡り合わせ、遺伝的傾向、経済的環境…、
そういうものも、あると思っている。

何でもかんでも、本人の手柄や責任にする気はないのだ。



※さらに別の視点では…、そういう残酷な“宿命”や“境遇”というものさえ、「深いレベルでは本人が選んでいる」「魂のレベルでは本人が引き寄せている」、みたいな考え方があることも、承知しています。

そういう考え方も、私は割と信じているし、割と好きです。
 
…とは言え、世の中には、生まれつき病気・障害を背負った方や、想像を絶する貧困・戦争状態に生まれてくる子もいるので…、そういう子達を見てしまうと、私は、「全ては本人の責任だ」なんて、口にする気は失せます。
 
私のような、五体満足で、今健康で、ある程度豊かな国に生まれた者が、そういう意見を言っても、「ちょっと冷たすぎるし、思いやりが無さすぎる」と、私は感じてしまう。



この世の中には、私などには理解できないことが多々あり、私などには受け入れられないことも多々ある…、
 
ということを、私は、受け入れてるつもり。
 
そして、ただ「受け入れる」だけではなく、
 
「もっと改善したい」、「ただ現状を“受け入れる”だけでなく、改善・改良したい」、
 
というような気持ちが沸き起こることがあれば…、そういう自分の気持ちや衝動は、なるべく受け入れて、なるべく実行に移したいと思う。

無題4

(前回記事の続き)

「人間には自由意思は無い」みたいな考え方も、意外と私は、嫌いではないです。

すなわち、「人間の生命や言動の全ては、神や魂やDNAのプログラミング。私達は、銀河系や自然現象や動物達と同じように、“大いなる何か”によって創られ、運営されて(生かされて)いる。心臓のスイッチ押すのも止めるのも、自分の意思では出来ない。人生に起きること全ても、宇宙意思・宇宙法則に則ったことしか起きない」、みたいな。

そう考えると、なんだか、余計な力みとかを手放せる感じもする。



ただし、だからと言って、

他人に失礼なことを言っておいて、「これも神様の意思」とか、「これも天から授かった私の性格」とか言って正当化したり、

病気の人・悩んでいる人・苦しんでいる人などに対して、「それもあなたの運命」「それも宇宙や自然の意思」「それもあなたが引き寄せています」、などと言ったり…。

そういう態度は、やはりカチンとくるし、違和感あるけど!(^O^)/

無題3

いわゆる『成功哲学』や『引き寄せの法則』の話を聞いていると、

たまーに、免罪符や霊感商法みたいなインスタントさを感じてしまう。
 
私だけかな…。

(そういう話の全部じゃなくて、あくまで「たまに」です。私、『成功哲学』や『引き寄せ』の愛読書も、ありますし)。

要は、「これを買えば救われますよ〜」という言葉と、「こういう言動をすれば成功できますよ〜」「前向きになれば金持ちになれますよ〜」みたいな言葉が、たまーに、似ているように感じられるのだな…。(^^;)



確かに、「前向き」な人は付き合いやすいし、一緒にいて心地良い。

しかし、どういう生き方を「前向き」と感じるかは、意外と人によっても違う。

ゆえに、「こういう生き方こそが前向き!」「こういう性格こそが前向き!」というふうに、

正解を一つに定めすぎてしまうこと自体に、私は、それこそ「前向き」になれないのだ。



あと、「前向きに生きる」ということと、「前向きっぽい言動を演じる」ということは、全く違うとも思っている。

例えば、トップタレントや、トップミュージシャンや、大成功されている俳優・女優さんなどでも、

「まさか自分がオーディション受かるなんて思わなかった」「自分に自信があるところは一つも無い」というような人が、オーディションに受かってしまう例も、多々ある。

逆に、「自分こそ受かる」「自分には才能ある」と、心から前向きに信じていても、落ちてしまうケースも、多々あります。



つまり、いくらポジティブっぽい思考や言動を演じていても、いわゆる「成功者」にはなれないケースも、多々あるのだ。残念ながら…。

と、言うよりも、

「(オーディションに)受かりたい!受かりたい!」みたいな人の中には、もしかすると、心の奥底はネガティブな人もいるのかもしれないし…、

逆に、「受かるかどうか分からないわー」「どうせ私は落ちるだろー?」とか言っている人の中にも、もしかしたら、心の奥底はポジティブな人も、いるのかもしれない…。

なぜなら、ネガティブかポジティブかと言うのは、表層の言葉や表情やポーズではなく、その人の深層のムード・雰囲気・存在感みたいなところに宿ると思うから…。



スポーツ選手や作家や映画監督などでも、大成功された人でも、意外とネガティブ発言を連発するような人も、いないでもない。(例:野村監督のボヤキ節とか)。

音楽家でも、シューベルトやラフマニノフやチャイコフスキーなど、非常にナイーブでネガティブな性格だったらしいが、

言うまでもなく、音楽の分野においては、地球を代表する成功者だ。
 
(彼らの生涯が幸せだったかどうかは分からないが、少なくとも「素晴らしい音楽を作曲する」ということに関しては、大成功していると思う)。



そもそも、一般的に「ネガティブ」と呼ばれてしまうような性格も、ちょっと見方を変えれば、その人の魅力的な個性であり、長所である場合が多い。

もし、ラフマニノフやチャイコフスキーが、めちゃめちゃ明るくて、全く悩まないポジティブな性格だったら、

あのように繊細でロマンティックで、多くの人を癒すような曲や、多くの人をウットリ酔わすような曲は、多分、作れなかっただろうと思う。(音楽すら、やらなかったかもしれない)。
 
ベートーヴェンなども、もし彼の人生に苦難がゼロだったなら、あのように勇壮で、情熱的で、多くの人を勇気づけるような曲は、作れなかっただろうと思う。(加えて、もし、耳の障害が無ければ、彼の晩年の作風…、ひたすら瞑想的に、内的な静寂に浸るような曲も、多分、作れなかっただろうと思う)。

そしてそれは、アーチストのみならず、誰であっても、同じこと。

一見「神経質」「ネガティブ」と思えるような性質も、
 
一見「困難」「苦難」と思えるような状況も、
 
それこそが、その人の個性・使命・魅力・長所と表裏一体であるような場合は、少なくないと思う。

だから、私は、苦難を感じないフリをしたり、無理矢理「ポジティブ」っぽい言動を演じようとすることのほうが、よほどネガティブな場合も多いと感じてしまう。

「わざわざ個性や長所を潰してしまうことないじゃん?」と、思うのだな。

(むしろ、自分や誰かを「ネガティブ」と定義してしまう心こそが、ネガティブなのではないのか?とも思う)。
 

 
人生、深刻になりすぎる必要は無いし、余計な苦難・苦労をする必要は無いと思うけど、
 
しかし一方で、苦労・努力・真剣さなどを忌み嫌い、いつもいつも明るいキャラのフリをしようとするのも…、自分の成長の芽を、自分自身で摘んでしまっているようにも感じてしまう。



※ただし、“型”や“演技”から入って…、
 
つまり、ポジティブなフリをしているうちに、その人らしい個性や長所が花開く場合も多々あるから…、

「演技やポーズは全てダメ」とも、言い切れない。
 
要は、何も、言い切れないと思う。
 
様々なケースや事例があるから。
 
何でもかんでも、一切合切、言い切れない。

未来永劫、十中八九、言い切れないと思います。



私は、個人的には、『成功哲学』や『引き寄せの法則』というのは、有ると思っている。

でもそれは、我々の表層の言葉や表情や、表層の性格や生き方や、表層の感情や考え方など、(ポジティブかネガティブかとか)、

そういう「表層」ではなくて、もっと奥深い深層の意識とか、無意識レベルの思い込みとか…、そういう深いレベルのことだと思う。

(我々には、感知や認知や自覚することすら、難しい部分)。



例えば、冬…、水面がカッチコチに凍っていても、深い水面下では、とうとうと流れている大河もあるかもしれないし、

逆に、水面は凍っていなくても、全体的な流れとしては、沼のように淀んだ川もあるかもしれない。

どちらの川が良い悪いではなく。
 
要は、表層の水面を見ただけでは、我々には、物事の本質や流れは、完璧には分からないのではないか?と思うのだ。

それと同じく、人生に起きることの全ての理由や理屈を、人間の理性・感性で、全て完璧に把握できるとは思えない。



だから、この宇宙に、「成功哲学」的な法則があるとしても、

人間の視野で、完璧に理解できるような法則化・ルール化は、私は、無理だと思っている。(※個人の意見です)。

もし仮に、法則化したとしても、例外ばかりになってしまうと、私は思う。



…例えば、分かりやすい例で言うと…、

「病は気から」みたいか格言は、『引き寄せの法則』や『思考は現実化する』の考え方に近い気がするけど、

とてもじゃないが、“絶対的な法則”とは言えない。

もちろん、「病は気から」という格言は、ある程度は真理だと思います。

でも、その格言(法則)に当てはまらないケースの人も、絶対、いるはずです。

…でないと、「病気の人は皆、心や精神が健全じゃないから病気になった」、みたいな図式になってしまうではないか。

“健康”に関することのみならず…、何に関することでも、そんなふうに断定してしまうのは、あまりに無知で失礼なことだと思う。

なぜなら、どう考えても、明るくて前向きで性格良い人が…、若くして大病になったり、生まれつき病弱だったり、事業に失敗したりするケースも、ありますから。

つまり、表層の「ポジティブ」「ネガティブ」「生き方」「言動」「性格」「感性」「価値観」という要素だけでは、人間の良し悪しや、将来の行く末などは、完璧に占うことは、出来ない気がします。

(さらに言えば…、“病気”や“失敗”や“失恋”というような現象を、他者が、あまりネガティブに解釈しすぎるのも、良くないと思います。病気や失敗を、労ったり、心配したりすることは当然だとしても…、誰かのことを、「敗者」「弱者」「不幸」「(病気や失敗を引き寄せた)本人の精神性が悪い」というふうに、短絡的にネガティブなレッテルを貼ってしまうのは、あまりに失礼というものです)。



だいたい、「成功するために前向きになろう」という意識って、私には、真の成功者の風格ではない気もする。
 
自分にとっての「前向きに生きる」ということを、真摯に追求するなら、素晴らしいことだと思う。

でも、自分が今、本当に前向きなのかどうか、心の奥底を内観しようとせず、
 
表層の言葉や表情ばかり飾ったり、上辺の前向きっぽいポーズばかり演じたり…、

そんなことをしていたら、それこそ「類は友を呼ぶ」で、表面的なポーズばかりを演じる友達や恋人を、たくさん引き寄せてしまうのではないか?

「成功」や「失敗」という要素だけで、人のことを判断してしまう人ばかりを、たくさん引き寄せてしまうのではないか?



人それぞれ、個性や役割や性格が同じでないことは、明白。

人によっては、「何が成功とか失敗とか、何がポジティブとかネガティブとか、そういうことに、あまりこだわりすぎないほうが心地良いし、前向きになれます」…、

みたいな感性の人も、たくさんいると思いますし。(割と、私もそう)。

もちろん、成功するシーンのイメージトレーニングしたり、ポジティブな言葉だけを使うようにする生き方が性に合っている人も、いらっしゃると思う。

どちらもアリだし、どちらも素晴らしいではないか?と思う。

一つに限定する必要性を、私は、全く感じないです。

音楽も、人生も、自分なりの理想を実現していく「手段」や「方法」や「ペース」は、正解は一つではないはずだ。



私は、あまりポジティブとかネガティブにこだわらないし…、そもそも、何がポジティブで何がネガティブなのか、あまり分からないけど、(^^;)

もし、本当に“ポジティブ思考”を追求したいなら、例えば、次のような考え方では、ダメなのだろうか?

「どうせ私なんか、ネガティブな言葉を使っても、ネガティブなことを考えても、成功してしまう。わざわざポジティブになろうとしなくても、私の人生、全く問題無い。もし人生に、失敗っぽい出来事が起こったとしても、どうせそれも、無駄にはならない。(宇宙は、そんな場所ではないからだ)。そもそも人生は、失敗の中にも発見や気付きはあるし、不幸こそ、軌道修正のチャンスかもしれない。たまに、自己否定や自己嫌悪などをすることがあったとしても、そんなことが、不幸や失敗や病気の要因・呼び水にはならない。…なぜなら、究極的には、ネガティブ性も自己否定も、成長や探究や気付きのバリエーションだからだ。」

よく、「メールでは気持ちが伝わらない」とか言うけれど…。

昨日、とあるコラムで読んだのだが、

「メールでは気持ちが伝わらない」、「Twitterなんかにハートは無い」、「メールでは何も伝わらない」、「メールなんかが発達したから、人間は冷たくなった。絆や思いやりが無くなった」、「現代っ子には愛や思いやりが足りない」、etc…、

言いたいことは分からないでもないが、そういう見方のほうが、よほどハートや思いやりが無いのではないか?と、思ってしまった。

私は、コミュニケーションの基本は、対面や対話だと思っていますし、大切なことは、直接会って言う派です。(Twitterも、やってないです)。

でも、メールやTwitterを全否定してしまうような意見は、極端すぎる気がしてならぬ。
 
(※むしろ、Twitterというものは、「他人の本音や気持ちが伝わり過ぎて困る」、と感じている人さえ、いるようです。まあ、使い方にもよるでしょうけど…。)
 


私は、人のメールやブログに癒されたり、励まされたり、クスッと笑ったり、勇気づけられた経験、多々あります。

だから、個人的には、メールでもTwitterでも、手紙でもブログでも、(その他、どんな表現手段でも)、真心・礼儀・ユーモア等を表現できる可能性はあるはずだ、と思っています。

逆に言えば、対面や会話だからと言って、必ず愛や真心や思いやりが込もっているわけでもないはず。

大事なのが「心」や「中身」なのだとしたら、コミュニケーション方法そのものや、表現方法のジャンル・手段・媒体そのものを、全否定するのはナンセンスだと思う。(全肯定するのも、ナンセンスだと思いますが)。
 

人間、メールよりも、対面の会話のほうが必ず分かりあえるかと言えば、意外と、そうでもない。

対面の会話だって、誤解や行き違いをしてしまう危険性は、常にある。
 
神様でもない我々は、いつもいつも、相手の気持ちや事情を完璧に分かってあげるなんて、不可能ではないだろうか?
 
だからこそ、メールだろうが会話だろうが、丁寧に言葉を選びたいと思いますし、相手の気持ちを察する努力もしたいですし。
 


私は、Twitterやメールや、日常会話や手紙といった、言語メインの表現手段はもちろん、

接客業でも絵画でも、音楽でもダンスでも、

その他、どんな仕事でも、どんな表現手段でも、人と人は、気持ちを伝え合ったり、お互い共感できる可能性は、常にあると思っていたいです。

(「メールでは気持ちは伝わらない」「会話なら気持ちは伝わる」「クラシック音楽にはハートがある」「流行歌にはハートが無い」というふうには、私は、感じません。表現手段やジャンルなどで、あまり差別はしたくないの)。
 

どんな仕事でも、どんな表現手段でも、どんな伝達方法でも、、、
 
愛やハートや思いやりが込もっている場合もあれば、込もっていない場合もあるはず…、と思います。

しかも、そもそも、どのような言動や生き方を「ハートが込もっている」と感じるかも、当然、人によって違うものだ。

自分が好きなタイプの言動や生き方や表現手段だけを、「ハートが込もっていて優しい」、自分が嫌いなタイプの言動や生き方や表現手段は、「ハートが込もっていなくて冷たい」、などと言い切ってしまうことは、あまりに排他的、あまりに短絡的、あまりに喧嘩腰ではないか。

それに、他者の言動やメールやTwitter等を見て、「この人の言うことには心が込もっていないし、絆や繋がりが足りない」などと、パッと早急に判断してしまうこと自体、かなり失礼だと思う。

なぜなら、我々人間は、他者の内面や人柄を、テレパシーみたいに完璧に把握できる生物ではないから。

だからこそ我々は、表面的な言動や表情や身なり等で、人のことを判断するしかないのだろうけど…、

しかしながら、我々の感覚・視野・理解力では、他者の内面や事情の、ごく浅い一面的なことしか、分からないし見えない。
 
(それぞれの人が、見、聞き、理解し、感じていることは…、あくまで、その人なりの勝手な感じ方。「解釈」や「想像」にしか過ぎない。必ずしも「真実」とは限らない)。

人それぞれが、自分なりの見方・感じ方を大切にすれば良いと思うのだが、

しかし、自分の見方・感じ方だけを正解だと思い込んでしまうと、人は、独善的・排他的になってしまいがちではないだろうか?
 


加えて…、根本的な問題として、

例えば、とてもナィーブでシャイで、「私は会話よりも、手紙やメールやTwitterのほうが心を開きやすいです」、みたいな人がいたとしても、私は、別に悪くないと思っています。

寡黙な人や、人付き合いが苦手な人や、シャイな人や、軽妙な会話が苦手な人は、非難されるべきなのだろうか?

そんなことはないはず。

そういう人が、愛情や真心が足りないなんて、私は思えませんしね。(それはそれで、その人の魅力や個性としか思えない)。

もちろん、よほど無愛想すぎたり、よほど無口だったり、よほどコミュニケーション恐怖症の人などは、場合によっては、少しずつ心を開いてみたほうが良い場合もあるかもしれないけど、

でも、多少の「内気」「寡黙」「シャイ」「出不精」「口下手」くらいのレベルなら、「それもその人の個性であり魅力」と考えるほうが、私としては、楽しいし自然。

皆が皆、何でもかんでもオープンに語り合ったり、とにかく他者と議論したがったり、社交的なパーティ・コンパ・おしゃべり・宴会などを好きである必要は、私は、無いと思うのだ。

(ちなみに私自身は、初対面の人とでも、割と図々しく話せますけど。私は、“おしゃべり”ではないですが、“人見知り”でもないです)。

でも、人それぞれ。

世の中には、「私はおしゃべりは苦手です。私は人見知りです。私はメールや手紙のほうが、緊張せず正直に話せます。Twitterのおかげで、少し、他者とフランクに接することが出来るようになりました」、

みたいな人がいたとしても、私は別に、悪くはないと思う。

むしろ、そういう内気な人を過剰に問題視して、「冷たい」とか「ノリが悪い」とか、「メールでは気持ちは伝わらない」とか「現代っ子は愛や絆や繋がりが足りない」とか…、

頭ごなしに全否定してしまうほうが、よほど冷たいのではないか?

(※シャイで、口下手で、人と接するのが苦手な人って、別に現代っ子に限らず、どの時代にも、どの世代にも、必ずいると思います。でも、そういう人が「ダメ人間」のように扱われて良いとは、私は、思えないのです)。

ざっくばらんでオープンな人は、もちろん素敵だと思う。

でも、人との距離感・誠実なマナーを大切にする人や、あまり露骨に感情表現しない人だって、奥ゆかしくて素敵ではないか。

過度に人に迷惑をかけたり、露骨な差別思想・選民思想などでなければ…、
 
個性・感性・価値観・生き方は、人それぞれ違って良いはずである。
 

 
と、まあ、色々書きましたが、、、
 
「メールやTwitterなどではなく、フェイス・トゥ・フェイスで会話してみないと、相手がどういう人か分からない」、というような意見は、もっともではある。
 
特に、実際に会ったことない人の場合、メール・Twitterだけでは、その人の声、表情、会話のやり取りのテンポ感、その人の雰囲気、ムード…、
 
そういうような部分は、当たり前だが、分からない。
 
なぜなら、メール・手紙・Twitterというものは、声や表情を伝えられるツールではないからだ。(伝達のツールや手段によって、何が伝えやすくて、何が伝えにくいか…、違いがあって当然だ)。
 
だがしかし、そうは言っても、
 
もし、誰かとフェイス・トゥ・フェイスで会話したとしても…、
 
そう簡単に、その相手の性格や気持ちを、完璧に分かったつもりになったり、相手の人格を断定してしまったりすることなど、出来ないのではないか?
 
フェイス・トゥ・フェイスで会話したからと言って、「絶対に、誤解や決め付けや行き違いなどが生じない」ということは、人間には、無理なのではないか?
 
そう感じるわけです。
 

 
様々な人との関わり・様々な人間関係の中では、「メールやTwitterのやり取りがあったからこそ意気投合した」という例もある。
 
あるいは、「励ましのメールで、自殺を思いとどまった」というような事例さえ、多々ある。
 
もし、「メール・Twitterなんかでは、心の交流・交歓など起きるわけがない」と、決め込みすぎてしまうと、そういう事例や可能性を見逃してしまうだろうし、
 
逆に、「フェイス・トゥ・フェイスの会話なら、必ず心が通じる。必ず分かり合える」みたいに決め込みすぎるてしまうと…、むしろ、人の気持ちを想像したり思いやる感性が停止してしまう気がする。
 
とりわけ、「フェイス・トゥ・フェイスで伝えたのだから、絶対、(私の言うことを)分かってくれたはず。絶対、共感してくれたはず」などと思い込みすぎている人は、傲慢だし、短絡的だと思う。
 
そんなふうに思い込んでしまったら…、逆に、相手の気持ちを想像しようとしなくなり、相手のリアクションの細部や機微に、気付けなくなってしまうのではないか。

自分の気持ちを、真摯に伝えようとする努力・工夫を、怠ってしまうのではないか。そんなのは、単なる、「理解や共感の押し付け」ではないのか。


 
そういうわけで…、私は、コミュニケーションの手段・方法だけで判断して、そのコミュニケーションの質や内容まで、決め付けすぎてはいけない、と思っているのだ。
 
面倒でも、メールだろうが、対面の会話だろうが、電話だろうが…、毎回毎回、自分と相手、双方の気持ちを丁寧に伝え合ったり、ちゃんと想像しようとする努力の姿勢が、大事だと思う。

コミュニケーションの手段やツールや上辺だけで判断して、短絡的に相手の人格・性格・タイプなどを決め付けてしまうほうが、私は苦痛だし、何の楽しさも遊びも感じられない。
 
私が言いたいのは、「コミュニケーションは丁寧語や敬語やマナーを大切にしなさい」、というようなことではないです。

(むしろ、その逆です。そうやって、「上辺の口調や、上辺の表現手段や、上辺の伝達ツールだけで、人のことを判断しすぎてしまうのはナンセンスだ」、という話です。この記事は)。
 

 
あまり簡単に、他者の内面を決め付けすぎず、自分の内面も決め付けすぎず、
 
新鮮に心を開いて、他者のことも自分のことも、「いつも未知の存在」と思っていたほうが、私はワクワクする。
 
今までの過去の生き方・思考回路のパターンだけで、惰性で付き合うのでなく、
 
今この瞬間、(あるいは次の瞬間)、私も含めて誰もが、「どう感じるか」「どう思うか」「どうしたいか」、
 
それは常に未知だし、白紙だし、自由。
 
他者や自分や、人生や人間のことを、「分かった」なんて瞬間は、永遠に来ないのだ。
 
私は、そんなふうに感じているのが、今のところ、心地良いです。
 
(一応、この記事には、続きがあります。もし読みたい方は、コチラをクリック。ただし、相変わらず偏ってますし、毒スパイス満載DEATH!)

無題

自分の発する言葉・行動は、ちゃんと、自分の意思で選びたいと思う。

周りの人に合わせるだけでなく、空気を読むだけでなく。

もちろん、人や周囲に合わせることも大事だけど…、そういう時は、「周囲に合わせる」ということを、自分の意思で、納得して選んでいたい。

音楽も同じで、やはり、全ての音やニュアンスを、自分なりの意思・センス・美意識で、しっかり選んでいたいと思う。
 


でも、究極的には…、

そういう自分の「意思」というものが、どこから来るのか、本当は、私はよく分からない。

「これが自分らしさ」と思い込んでいることが、本当に自分らしいことなのかどうか、私は、よく分からない。(分からなくても、困ってはいないが)。

日々、単に、「私はこれが好きなはず」「私はこう生きるべき」と、思い込んでいるだけかもしれない。
 


それに、「音楽」というものも、自分の意思で選んでいるように見えて…、実は、音楽の流れ自体に、かなり“自発性”が強いようにも感じています。

(「私が音楽を操っている」というより、むしろ、「操られているのは私のほう」、みたいな感覚もあります)。
 


音楽のみならず。

私の言動・私の性格・私の感性・私の好き嫌い・私の価値観なども、

自分の意思で、明確に「選んでいる」というより、

“私”という人間は、「そのように出来ていた」「そのような資質を授かっていた」、

あるいは、単に、「自分とはこういうもの」「人間とはこういうもの」「音楽とはこういうもの」「他者とはこうやって接するべき」みたいに…、

様々な選択肢や可能性を吟味する前に、決め付けているだけのような気もしている。
 


こういうことを書くと、「自信が無いのね?」「悩んでいるのね?」みたいに勘違いする人もいるかもしれないけど、全然違う。

私としては、「明るい自己不信」とか「前向きな猜疑心」とでも呼びたいものだ。

つまり、今現在の「自分」や「常識」にこだわりすぎて、様々な可能性・選択肢を潰さないようにしたいな、と思う。

今現在の、自分の「正直」や「自分らしさ」を、100パーセント、信用しすぎたくない。

100パーセント疑うわけでもないけど。

私は、自分が思うこと・感じることは、「そのままでオーケー」だと感じていますが…、しかし同時に、私は、自分の思うこと・感じること全てを、盲信もしていない。

自分の言動に、最低限の責任は持ちたいものですが、(人との約束を守るとか、基本的なこと)、

しかし、一方で、人間が抱く想い・感情・感覚・欲望・価値観などは、一時的で流動的なもの。

実際、私は、5年前や10年前の自分とさえ、今現在は、真逆の感情・感覚・価値観になっているような部分も、多々あります。(変わっていない部分も、多々ありますけど)。

「何を心地良いと感じるか」「何にチャレンジしたいと感じるか」、
 
そういうところさえ、変わってしまったことも多々ある。

別に、変わることが良いわけではないし、変わらないことが悪いわけでもないし、ぶっちゃけ、変わろうが変わるまいが、どちらでも良いのだろう。

しかし、個人的には、変わったお陰で幸せになったことが多々あるので、今後も、今現在の“自分らしさ”を大切にしつつ、しかし、変に固着しすぎたくはないものだ、と思う。

無題

今の時代の日本人は、(と、ひと括りにしてしまって良いかどうか分からないけど)、

「みんな違ってみんな良い」、みたいな考え方の人が、割と多いのではないだろうか。良くも悪くも。

(すなわち、「考え方や生き方は、何か一つだけが正解なのではなく、人それぞれ色々あって構わない」、という感じの価値観)。

私も、そんな感じです。

かと言って、「では、お前は、全ての人を心から平等に好きなのか?」、などと問われれば、そんなのは無理&不可能だけど(笑)、

でも、人それぞれ、生き方・感じ方・価値観は違って良いと思うし、性格や好き嫌いも、違って良いと思っている。

その感覚に、嘘は無いと思う。

とは言え、私の場合…、「どんな生き方でも良いんじゃない?」みたいなフワッとした雰囲気は、あくまで、人と接する時のみ。

自分自身に対しては、そんなに心は広くないです。

妥協して、「俺、どんな生き方でも良いや〜」、「俺、どんな音楽でも良いや〜」とは、ならない。(今のところは)。

良くも悪くも、自分なりの理想や、憧れや、好き嫌いがあるから。

自分自身が、「これこそ素晴らしい!」「これこそ心地良い!」と感じられるような生き方や作品を、日々、追求したり、日々、見直して反省したり、日々、バージョンアップしたりしていたい。

(セルフィッシュなようですけど、だからこそ、他者に対しても、その人なりの理想や生き方を大切にして欲しい、と思えます)。

「みんな違ってみんな良い」というユルイ感覚と、「俺はこれしか好きじゃない」「俺は絶対こうやって生きたい」みたいなスルドイ感覚は、矛盾なく、共存すると思う。

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