2017.6.10-2

(今日、二つ目の記事です。先ほどの記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

どんな表現手段であれ、どんな表現ジャンルであれ、どんな言動であれ、どんな音楽作品であれ、

 

その表現者の心情や真意を、いつも100パーセント正確に表現できているわけではないはずだ、と思う。

 

我々人間は、不完全な存在だし。

 

言葉も音楽も行動も、不完全なツールだし。

 

(しかも、受け取る側も、誤解・偏見・思い込み・先入観などを一切捨てて、完璧に誤解なく受け取るなんてことは、人間には不可能だと思われる。それで良いと思うし、それで当然だと思われる)

 

 

 

 

だから、誰かの発言・作品・表情・演奏などを見て、

 

で、その人の内面や性格や真意を分かったつもりになりすぎて、

 

あまりにも(その人を)敵視しすぎたり、あまりにも神聖視しすぎたりしないほうが良いと思っています。

 

アートの表現であっても、何気ない日常の会話であっても。

 

 

 

 

どんな意見であれ、どんな言動であれ、どんな表現であれ、どんな表情であれ、

 

発言者(表現者)の意図・真意を完璧には現せていない可能性も高い。

 

なので、私は、あまりにも誰かを敵視してしまうのは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

他者の気持ち・真意は、一生懸命想像したいとは思いますが、あまりにも分かったつもりになってしまうことは、そう簡単にはしたくないと思う。

 

(「神聖視」はともかくとして、短絡的に「敵視」してしまうのは、特に良くないと思う。…「神聖視」の場合も、ナチスやカルト宗教みたいなのは良くないと思いますが、好きなアイドルやアーチストの「信者」みたいなファン心理なら、まあ可愛いものだし、私も経験あるので、そういう気持ちはよく分かります)

 

 

 

 

さて、我々は、あらゆる表現メディア・あらゆる表現ジャンル・あらゆる表現ツールを、全て好きになる必要は無いと思われる。

 

人それぞれ、自分の好みの表現手段・コミュニケーション手段を使えば良いと思う。

 

わざわざ苦手な表現手段・コミュニケーション手段を使わなくても良いと思うし、

 

わざわざ苦手な音楽ジャンルを、無理してまで聞くことはないと(私は)思う、

 

 

しかしながら、「このツールでは心が伝わらないに決まってる」、「このコミュニケーション手段では気持ちが伝わらないに決まってる」、「このジャンルやこのツールはあたたかいが、あのジャンルやあのツールは冷たいに決まっている」、「このジャンルやこのツールは心がこもっているに決まってる」、「このジャンルはダメに決まってる」、「打ち込みやメトロノーム通りやテクノ音楽は機械的に決まってる」、「生楽器や民族楽器の演奏は人間的に決まってる」、etc…、

 

という感じの先入観が強すぎると、自分好みの表現手段やツール以外のものを、一切聞く耳を持たない態度にもなってしまい、ちと厄介である。

 

(※しかも、例えば…、生楽器の演奏で、冷たくて無機的(機械的)な雰囲気を目指すことなども多々あるので、上記のような先入観・思い込みが強すぎると、表現者(発言者)の意図や真意を誤解する可能性も高くなってしまう)

 

 

 

 

特定のツール・メディア・表現方法の問題点を、ちゃんと具体的に指摘している場合は良い。(問題点だけでなく、改善点も同時に提案していれば、なお良い)

 

しかし、あまりにも妄信的に、特定のツール・特定のジャンル・特定の表現手段・特定のメディアを、全否定しているような人や、全肯定しているような人は、思考回路的に、カルト宗教や人種差別者などと変わらないのではないか?

 

個々の中身・内容・人間性・音楽性を吟味しようとせず、外側のカテゴリーで中身を分かったつもりになってしまう、という。

 

(例:「人と人は一緒に酒を飲まないと分かり合えない」「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」「言葉で語ることは陳腐」「若者(老人)は皆こういうもの」「○○人は皆こういうもの」「このジャンルはこういう音楽性」「この楽器はこういう雰囲気」みたいな見解も、同じこと。ジャンルやカテゴリーや表現メディアの種類によって、一括りにして、その中身・内容まで決めつけすぎだと思う。もっと個々の発言ごとに、個々の作品ごとに、個々の表現ごとに、その都度その都度、その内容や言い方や雰囲気を吟味しなければいけないと思う)

 

 

 

 

…などと書いている私自身、そういう発言をする人の真意を分かったつもりになりすぎて、それこそ「敵視」しすぎているかもしれないので、

 

私自身も、常に気をつけていたいことではあるが。

 

 

自分が感じたこと・考えたこと・判断したこと等は、全て、自信や愛着を持って良いと思うが、

 

同時に、あまりにも真実・正解だと信じ込みすぎないほうが良いのではないかと、私は思っています。

 

(「自分に自信が無い」「自分に自信を持たない」ということではない)

 

 

…というか、物事や出来事に「真実」「正解」というものが存在するとはイマイチ感じられず、

 

この世には、単に、無数の「主観」や「解釈」や「偏見」や「思い込み」が存在するだけだと思っている。

 

 

 

 

ちなみに私は、お互い自由に意見や批判を言い合える人間関係は好きだし、

 

音楽やアートでも、誰でも、自由な意見・感想・批評・レビューを言えるような空気が好きだ。

 

でも、生き方や感じ方を決めるのは、最終的には、その人本人だと思っている。

 

 

どんなに親しい間柄でも、価値観的なところや、生き方的なところや、音楽の好き嫌いなどは、

 

最終的には、「その人本人に任せる」という雰囲気が大事なのではないだろうか?

 

どんなに親しい間柄でも、結局は「別の人間」なのだから。

 

 

どういう音楽が好きか嫌いか、何を幸せと感じるか、何を楽しいと感じるか、何を自然体と感じるか、何を心地良いと感じるか、どう生きたいか、どう生きたくないか、何を頑張りたいか、何を頑張りたくないか、何に興味を持つか、何に興味を持たないか、、、

 

それらは全て、人によって異なることだ。

 

 

 

 

だからと言って、あまりにも「人に意見してはいけない」「人に配慮しなければいけない」「自分の好み・考えを言ってはいけない」という風潮では、息苦しいし寂しい。

 

お互いに、自由に意見や助言を言い合っても良いと思うし、批判や批評も自由に言って良いと思うのだけど、(私も言うし)、

 

しかし、その意見・助言・批評に同意しなかったとしても、そのことで誰かを責めたり、強引に同意させようとするのは、良くないのではないか?

 

 

 

 

誰かのことを責めても良いのは、明らかに他者の危害・迷惑になるような言動や、明らかな虚言や、明らかに他者を見下すような態度だけだと思う。

 

(あるいは、例えばワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想・意見を言っているような人も、明らかに間違いであり勘違いなので、指摘したり否定したりしても良いと思う。※事実に基づいていない意見・感想・勘違い・思い込み等)

 

 

 

 

さて、数回にわたって書いたシリーズも今回で最後です。

 

当初のテーマからは、かなり話もそれましたし、長くもなりましたが。

 

 

強引にまとめると、今のところの私の意見としては、

 

■「オープンな意見交換は好きだし、お互いオープンに意見・批評・批判し合うのも嫌いじゃないけど、最終的には、各々の生き方・感じ方を決めるのは、その人本人」

 

■「自分の好き嫌い・感じ方・価値観に、いくらでも自信を持っても良いけど、それを他者にまで当てはめすぎることは良くないのではないか。自分の好き嫌い・感じ方・価値観・道徳観念を、絶対的な正義(正論)だと思い過ぎないほうが良いのではないか」

 

■「感じ方・価値観は自由。ただし、どう考えても間違っている意見・感想・批判というものも存在する。それは例えば、ワルツを聞いているのに、「心地良い四拍子だなあ」というような感想。(あるいは、古風で保守的なスタイルで作曲されているのに、「アバンギャルドで現代的な曲だなあ」というような感想)」

 

■「外見・表情・ファッション・話し方・話す内容・行動・仕事ぶり・演奏・作曲などには、その人の内面や人間性が、確かに現れるとは思う。とは言え、どんな表現ツールも表現メディアも、不完全なものである。(そして誰しも、他者の内面(人間性)を100パーセント完璧に分かることも不可能だと思う)。というわけで、他者の内面・性格・境遇・事情・心情・人間性などを、あまりにも完璧に分かったつもりになりすぎてしまうのは、人間の能力と権限を超えているのではないか?」

 

そんなところです。

 

 

 

 

そしてさらに言えば、

 

言葉や音楽や価値観について、考えたり、追求したり、学んだり、(自分を)反省したりすることは、私にとっては、とても大切なことだけど、

 

実は、そこは「入口」にしか過ぎなくて、

 

そういう表面的な言葉・音楽・価値観の領域を超越してしまうような感覚に、日々、アートを鑑賞したり、創作したり、人と触れ合ったりすると、出逢うこともあります。

 

 

 

 

(自分の)感性・価値観・好き嫌いは大事だと思うのですが、それらを盲信しすぎていると、その側面・尺度・角度でしか感じることが出来ない。

 

だから、自分の感じる全てのことを大事にしつつ…、

 

同時に、自分の感じること全て、(自分の判断、自分の意見、自分の感性、自分の快不快、自分の価値観、自分の道徳観、自分の善悪感、自分の人生観)、

 

それら全てを、いっさい信用しないような感覚のほうが、私は心地良く感じます。

 

 

ほとんど説明不能なのですが、

 

自分自身をバカにして、自分自身を全否定しているような時こそ、実は、自分自身をとても大切にしているような感覚さえあります。

 

 

 

 

今まで生きてきた流れの中で、「自分はこういう人間」と、定まってしまっているようにも思えるが、(性格的にも、能力的にも、運命的にも、趣味も、感性も、価値観も、好き嫌いも)、

 

確かに、人生のほとんどは、人知や自力ではコントロールできないことばかりではあるし、

 

先天的な資質・体質・身体能力や、生まれ育った環境・境遇にも左右されてしまうのは事実だが、

 

しかしながら、今日の決意とか、今日の覚悟とか、あるいは根性や努力や意思によって、性格も能力も運命も創ることが出来るのではないか?今後、大いに変化する可能性も生まれてくるのではないか?

 

そういう気概や側面も、見逃したくはないのだ。

2017.5.31-2

昨日の記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

 

「言葉はレベル低い」「言葉は陳腐」「このメディアはダメ」「このジャンルはダメ」「メールでは気持ちは伝わらない」などと言っているような人が、

 

自分自身が寡黙になるだけなら自由だし、饒舌な人を嫌うのも自由だし、特定のジャンル・メディア・メール・SNS等に手を出さないのも自由だと思います。

 

無理してまで、自分の美学や好みや価値観を変える必要はないと思う。

 

 

 

で、そういう自分の美学(価値観)に自信や愛着を持ち、それを他者に「推奨」するくらいなら素晴らしいと思うのですが…、

 

あまりにも自分の美学(価値観)だけを盲信・絶対視してしまうのは、少々狂信的すぎると思う。

 

自分の美学(価値観)に自信や愛着を持ちつつ、同時に、「これはあくまで自分個人の見方でしかない」と、わきまえようと努めることも大事なのではないかと思ってしまいます。

 

 

 

そう言うと、「もっと自信を持て」「そんなに人に気を使ってられない」「細かいこと言うな」と思われる方もいるかもしれませんが、でも、私は気を使っているわけではないのです。

 

例えば、暴力や殺人や人種差別をしてしまうことは、たいていの人は心地良くないと思います、

 

それは、「他人に気を使っている」からではないし、「細かいこと言っている」わけでもないはず。

 

他者の肉体を痛めつけたり、他者が生きる権利を剥奪してしまうような行為は、やはり、単純に不快なものだと思います。

 

 

私にとっては、価値観的なことも同じ。

 

あまりにも何か一つの見解・意見・感覚・価値観のみを盲信し、それ以外を否定するような態度は、差別や暴力やイジメとほとんど変わらない、という感覚です。

 

(とても、心地良くない。決して、人に気を使っているわけではなく。決して、自分に自信が無いわけではなく。決して、細くて気難しいこと言っているわけでもなく)

 

 

 

 

…とは言え私は、自分自身の感じていることを、常に疑ってもいます。

 

上記のように感じること自体、「気にしすぎではないか?」、「神経過敏すぎるのではないか?」、「偏見・負けん気・攻撃本能・防衛本能・利己主義・自己正当化なども、誰もが持つものだし、(もちろん私も持っているし)、ある程度は容認すべきではないか?」、

 

そのように、常に自分自身を疑っているくらいで丁度良いです。

 

 

 

要は、自分のこだわり・正義感が強すぎて、心が狭い感じになってしまっては、それもまた心地悪いのだ。

 

人間、誰もが無知で独善的で利己的な部分を持っているので、

 

そういう苦しさ・愚かさ・哀しさもまた、人類全体の宿命のように感じることもある。(妙な連帯感や同胞愛)

 

 

なので、お互い指摘し合ったり、問題視し合ったりすることも大事だと思うし、

 

同時に、あまり責めすぎない感じの柔和な雰囲気が、何より大事だとも思っている。

 

 

 

いずれにせよ、犬や猫にだって、性格や行動パターンに個体差がある。

 

(例えば、引っ込み思案な子もいれば、好奇心旺盛な子もいる。無口な子もいれば、よく鳴く子もいる。大人しくて無欲な感じの子もいれば、多動的で強欲な感じの子もいる)

 

人間だって動物。

 

たいていのことは「人それぞれ」のはずだ。

 

 

もちろん人間は、努力次第・意識次第で、性格や個性を変えようとすることも出来るし、そうすることも大事かもしれない。

 

「持って生まれた性質のまま」ではなく、自分の意識次第で変えようとしたり、性格や生き方を成長させようとすることも、とても大事だと思う。

 

 

でも、そうであったとしても、

 

どういう生き方をしたいと感じるか、どういう生き方を心地良いと感じるか、どういう生き方を自然体と感じるか、

 

何を楽しいと感じるか、何を幸せと感じるか、何に興味を感じるか、

 

何を頑張りたいと感じるか、何を頑張りたくないと感じるか、、、

 

 

決めるのは自分だし、人類、全員一致なんてしてなくて良いと思う。

 

誰もが同じパーソナリティーを目指さなくても良いし、誰もが同じアートを気に入らなくても良いし、誰もが同じ考え方・感じ方・振る舞い方を目指さなくて良いはず。

 

 

そんなわけで、「これが誰にとっても共通する幸福」、「これが誰にとっても共通する良識(常識)」、「これが誰にとっても共通する自然体」、「このジャンル・メディアは(誰がどう使っても)こういうもの・ダメなもの・陳腐なもの・心が伝わらないもの」、

 

そういう感じの考え方や言い方は、私は抵抗ありますし、大いに疑問視しています。。。

 

 

…で、さっき言ったように、そういう感じの考え方(言い方)を、責めすぎる気持ちはないのだが、

 

日々、何かに疑問・抵抗感を感じ、それを表明することは、私は、悪いことではないし攻撃的なことでもないと思っている。

 

(例えば、誰かや自分の言動が、「これは差別・偏見・いじめではないか?」と思ったら、素直に疑問や怒りを表明することが、むしろ必要ではないか?と思ってます)

 

 

一人一人の人間も、我々の社会や文化も、「今ここ」が全てではない、

 

誰でも、今後も変化・成長していく可能性のある存在だと確信しているからこそ、時には、現状に対して批判・疑問視・問題提起することも、私は必要だと思っているわけです。(※自分自身が批判されたりすることも、そんなに嫌ではない)

 

…もちろん、人間、無理して変わる必要はないと思いますし、変わらないことの魅力もあるとも思います。

 

加えて、もし何かを批判・疑問視・問題提起するにしても、その言い方(伝え方)には、最低限の礼儀は大切だと思っていますが。

2017.5.30

ところで、「言葉はレベル低い」「大切なのは言葉じゃない」というような意見を、割とよく聞きます。

 

(※誰かの発言・意見の、その内容を吟味する前から、「多言は陳腐」「文字や言葉では気持ちは伝わらない」「メールやSNSでは気持ちは伝わらない」というふうに、決め込んでしまうような価値観)

 

 

そういう意見も、もちろん個人の自由だから良いのだけど、いまいち釈然としない感じもする。

 

そのあたり、思うところを書いてみたいと思う。

 

 

 

 

もちろん「言葉」というツールは不完全なものである。

 

言葉では、人生や音楽の真髄を現すことは不可能に近いと思う。

 

 

しかしながら、我々人間の多くは、「他者と気持ちを分かち合いたい」「自分の気持ちを表現したい」というような欲求があり、

 

それを100パーセント正確に実現するツールは、今のところ、世の中に一つも存在しないと思いますが、

 

 

我々はそれを承知で、気持ちの「分かち合い」を目指して、

 

(あるいは、自分の想い・魂・気持ちの「表現」や「発信」を目指して)、

 

止むに止まれず、我々は言葉を発したり、音楽を発したり、何か行動や表情やアクションを起こすのだと思う。

 

そのこと自体を否定的に見てしまうのは、個人的には、あまり好きになれないです。

 

 

 

 

我々の言葉も、音楽も、表情も、行動も、礼儀作法も、ジョークも、全て不完全なもの。

 

思っていることを、誰かに完璧に誤解なく伝えるなんて、そう簡単には出来やしない。

 

誰かの心や性格を、完璧に誤解なく理解するなんてことも、そう簡単に出来やしない。

 

(自分の心・信念・感性・価値観・美的センスなどを、100パーセント完璧に(作品として)表現することも、そう簡単なことではない)

 

 

でも、発言することや表現することに、尻込みしすぎることもないと思う。(慎重になる必要はあるとしても、必要以上にブレーキをかけることはないと私は思う)

 

誰でも、自分なりに思い付いた発言・行動・表現をすれば良いと思う!

 

 

 

 

そもそも、我々の発言や行動や作品や価値観というものは、何が正解か、何が良いか悪いか、何が愛があるかないか、何が思いやりがあるか無いか、、、

 

そう簡単には決められない。

 

 

だから、何が良いとか悪いとか、何が思いやりが有るとか無いとか、完璧には分からないまま、

 

今現時点での自分の感性や信念や良心に従って発言・行動・表現するしかないと思う。

 

 

…やがて自分の内面や価値観も、経験によって変化するだろうし、(他者からの影響や批判やアドバイスで変化することもあるし)、

 

そうしたら、発言・行動・表現も、自然と変化するだろうと思う。

 

 

 

 

人というものは、一生涯、信念や性格や価値観が変わらないことは稀だと思うので、

 

毎日毎日、その都度その都度、あらためて行動や表現を選択するしかないと思います。

 

(自分の)信念・感性・性格・快不快・価値観・善悪観などを、あまり固定化・正当化・マニュアル化してしまわず。

 

 

だからこそ、我々はお互いに、発言や行動や作品の内容(中身)を、時には批判し合ったり、問題視し合ったりすることも、僕は大事だと思っています、

 

誰しも完璧な人間ではないし、誰しも自分本位の尺度・立場でしか物事を見れないので、

 

誤解してしまったり、ひどいことを言ってしまったりする可能性も、誰にでもあると思うので。

 

 

 

 

そんなわけで、音楽作品についても、お互いの言動についても、オープンに意見や批判を言い合ったりするのは、私は全然嫌いじゃない。

 

 

 

 

でも、発言や作品の内容(中身)を、よく吟味しないうちから、

 

「(言葉は)どうせレベル低い」、「(文字や文章では)どうせ心が伝わらない」、「そのジャンルはどうせダメ」、「そのメディアはどうせ心が伝わらない」、「SNSはどうせ心が伝わらない」、「音楽はこうでなければならん」、「アーチストはこうでなければならん」、「言葉(文字)で語る奴は本質を分かってない」、「言葉(文字)で語る奴は理論・理屈でしか考えてない」、「こういうタイプの発言は冷たいに決まってる」、「こういう意見こそ良識・常識に決まってる」、

 

というような感じの意見(批判)は、その発言やその作品の内容を、いっさい聞く耳を持たない態度に思えてしまう。

 

(内容を吟味しようとする前に、外側のジャンル・パッケージの印象で決めてしまっているだけ。表現スタイルの印象で決めてしまっているだけ)

 

 

 

 

例えば「メールやSNSでは心が通じない」「ゲームやアイドルは内容が陳腐」みたいな意見も、たまに聞くことありますが、

 

そういう意見は、コミュニケーション方法や表現ツール・表現ジャンルという、「外側のパッケージ」で、その中身・内容まで決め付けすぎに思われてしまう。。。

 

もっと、個々の作品ごとに、個々の発言ごとに、その内容を判断しなければいけないと思うのだが?

 

なぜ一括りにして、そのジャンル(ツール)の発言・表現・コミュニケーションは、「全てがダメ」と思い込んでしまうのかが謎です。

 

 

批判や問題視をするなら、少なくとも、その発言について、その作品について、その文章や言い方について、(その表現内容について)、

 

よくよく内容を確かめた上でないと失礼だと思う。

 

 

…もちろん、例えば夜中に路上で大声で演説・演奏などしている場合、その「内容」や「クオリティー」以前に、行為そのものが迷惑なので、

 

そういう場合は、内容・中身を吟味する以前に、行為そのものを問題視して良いと思いますが。

 

 

 

 

我々はお互いに、発言・行動・作品・表現の、その中身や内容や言い方(伝え方)に対して、批判を言ったりしても良いと思うけど、

 

ちゃんと内容・中身・真意を確かめる前から、

 

表面的なジャンルや、表現手段や、表現ツールや、言葉数(文字数)や、しゃべり方や、ルックスや、年齢や、性別や、人種や、表現メディアの種類等で、過度に見下したり否定しすぎたりしてしまうのは、

 

イメージや先入観で、発言(表現)の内容までをも決めつけてしまっているだけだと思う。

無題

今一度、じっくり作曲を勉強したい。。。

他人の評価とか売れる売れないとかより、まずは自分自身が誇れる曲、自分自身が本当に感動できる曲…。

もう一息な気がします。

…いや、もう二息か、もう三息?四息?^^;

でも、全く届かないわけではない感覚。


闇雲に気合でチャレンジ・創作することも大事だが、世のマスターピースの研究や、自作との冷静な比較検討で見えてくることも大事。

最近、ようやく出発地点というか、ようやく分かってきた感じのことも多々あるので、今年も一人で頑張ります。。。


もちろん、モラトリアムであることに酔っているわけではなく、音楽道というのは、とてつもなく奥が深いということです。

一つ一つ、今見えてきた課題に取り組みたい。



それぞれの場所で戦っている皆様お疲れ様です、

今のままでも充分なのでしょうけどね、私も誰でも。


でも、縁があって与えられたこの人生、

やはり、今一歩の努力・練磨・研鑽、

あるいは、今一歩の自然体・幸福感・心地良さ、

それは多くを望みすぎということではなく、

無理をしすぎるということでもなく、

まさに「縁」というか、

縁があって出会わされたこの「自分」という人間や、縁があって出会わされた他者、仕事、状況、社会などなど、

そこに真摯に取り組み、真摯にぶつかる以外に、特にやりたいことも無いように思われる…。


何かが嫌だったら改善を目指す、好ましかったら感謝して味わう。。。

シンプルだけど、それが大事だと思います。

…もちろん、「何を嫌と感じるか」「何を好ましいと感じるか」、

そこも、先入観や思い込みに支配される場合も多いので、あまりにも頑固に信用しすぎてはいけないとも思うが。



人生、自力や努力ではどうにもならないことも多い、

されど、不遜ながら、自力の底力・可能性を信じたい気分でもあります。


…ん〜、まあ、そのあたりは、どうでも良いのですが、何より大事なのは作品クオリティー。

もう一息、勉強しよう。。。

最近の雑感

最近、痛ましいテロのニュースありましたね。
 
宗教・思想の違いを理由に攻撃してしまうなら、人間と人間というのは、永久に交わらない、永久に交われない、
 
人生自体が、何かの罰のような殺伐としたものになってしまう。。。



 
あ、ちなみにこの文章は、2〜3週間前に書いたものなので、最近あった出来事とかは反映していないです。



 
テロや宗教や思想だけの話でもなく、我々の日常にも同じことが言えると思う。
 
人間、人それぞれに道がある。
 
(根本的には「人間皆同じ」と感じられる部分も多いが、表面的には、それぞれに違いもあるように感じられる)。
 
ポジティブ寄りの人もいればネガティブ寄りの人もいるし、行動的な人もいれば思索的な人もいるのが当たり前。
 
のんびり屋さんもいれば、理想・目標に向かって頑張りたい人もいるだろうし、感情的な人もいれば論理的な人がいるのも当たり前。



 
なので、お互い、感じ方や生き方を尊重し合うのが、私は好ましい。
 
…いや、「尊重し合う」なんて高度でなくても良い、
 
せめて「容認し合う」「やたらに攻撃しない」くらいの世の中なら、大満足かもしれない。



 
あと、「人間とはどう生きるべきか」とか、他者の性格・心情とか、他者の置かれた事情・状況とか、、、
 
そういうことを、あまり分かったつもりにならないのも大切だと思う。
 
なぜなら、完璧に分かったつもりになってしまうのは、人間の能力の限界を超えているから。

 
他者を思いやることは大切かもしれないが、

他者の心境や事情を、我々は完璧に分かってあげられるわけではないし、

そもそも「どう生きたいか」ということは、人によって違うし。



 
…とは言え、「謙虚であること」「他者を尊重すること」が、あまりにもマスト・義務みたいな雰囲気になってしまうのも、それはそれで窮屈でもある。
 
自分の意見に自信を持ったり、誰かの意見に反対したり、誰かを批判したりするのも、誰もが持つ当然の権利だと思います。
 
自分の意見は一意見に過ぎないと自覚しつつ、その上で、相手の意見に「反対」を表明するのなら、特に問題ないと思う。
 
(※議論や批判や意見の言い合いを、「良くないこと」と解釈しすぎてしまうことも、少し過敏すぎる。そういう雰囲気だと、自由な意見交換や、切磋琢磨までも失われてしまいやすい)。



 
問題なのは、あまりにも「これが正しい意見」「これは間違った意見」という前提で話してしまうことだと思う。
 
そういう話し方というのは、「私はあなたとは話し合いません。私が正義です。私が神です。私がルールブックです」と言っているのと、同じ雰囲気を感じます。
 
個人的には、明らかな迷惑行為や犯罪行為以外は、あまり頭ごなしに否定したり禁止したりするべきではないのではないか?と思います。



 
「1+1は3です」という感じのことを言っている人には、「それは間違ってます」と伝えて良いと思う。
 
でも、「数学は好きだ」「数学は嫌いだ」という感じの意見に対しては、どんな意見であっても、「それは間違ってます」とも「それは正しいです」とも、私は言う気にならない。
 
まずはその意見を尊重して、賛同するなり反対するなりスルーするなりします。

 
ちなみに、「人は皆、数学を好き(嫌い)になるべきだ」、「人は皆、数学を専門的に学ぶべきだ」、「数学なんて、無くすべきだ」、「数学とは、こういう心構えで学ぶべきだ」、「アーチストたるもの、こうするべきだ」、「男(女)というものは、(○○人というものは)、こういうものだ」、「私は(あの人は)、こういうタイプの人間だ」、
 
というような意見は、まずは言い分を聞いてみて、納得すれば、「なるほど、そうなのかもしれない」と思うことも、たまにあります。

 
が、そういう感じの意見は、だいたい視野が狭く、独善的な意見も多いので、納得できないことのほうが多いです。

個人の意見ならともかく…、

「人は皆」「○○人は皆」「男(女)は皆」「アーチストは皆」という感じの、文章の主語が大きすぎる場合、やや独善的に感じられてしまうことも少なくない。

(※とは言え、「主語が大きい」ということ自体に過剰に反応し、その主張の内容を聞く前から、頭ごなしに否定しすぎてしまわないよう、気をつけたいと思っています)。



 
いづれにせよ、そういう独善性というものが、争いの元になってしまう理由の一つだと思う。

 
しかしながら、独善性というものは、我々は誰でも持っているものなので、それを「無くそう」としすぎるより、
 
■自分自身も独善性を持っていると自覚すること
 
■自分自身も視野が狭いと自覚すること
 
■他者の独善性や視野の狭さにムカついたとしても、心の奥のどこかで、「ああ、自分も同じだな」というような共感性・許容性を持つこと

その三つが、大事ではないかと思う。
 
でないと、「私は真理や愛や思いやりを知っている」「あなたは真理や愛や思いやりを知らない」というパターンにも陥ってしまいやすい。



 
そもそも言葉というものは不完全で、物事の一面だけを定義してしまうものである。
 
言葉は大切であるし、言葉や態度や行動や表情で、我々は自己を表明し、他者を判断するしかない。
 
しかしながら、表面上の言葉・態度・行為・表情だけで、その人の中身や本質を100パーセント分かったつもりで判断してしまうのは、人と人を分断させるだけで、あまり良いことは無いように思われる。

誰だって、誤解されたら嫌な気持ちになるだろうから…。



 
我々は、表面に見える言葉や態度や行為で、どうしたって人のことを判断してしまうけど、
 
そういう自分の判断・直感・感情・思考を、絶対視しすぎない態度というものが、私は大切なように思われる。
 
(※自信を持ってはいけない、ということではない。「自分に自信を持つ」ということと「自分を絶対視しない」ということは、矛盾無く両立すると思う)。



 
あらゆる言葉、あらゆる行為、あらゆる表情、あらゆる思考、あらゆる直感、あらゆる感情は、一応は大切にしつつ、(なるべく言葉や行為に心も込めつつ)、
 
でも、心のどこかで、それらをあまり信用しすぎない態度も、そんなに悪くないように思えてくる。
 
信用しすぎると、自分の価値観に自惚れてしまい、自分の判断や価値観のみが正しいと信じ込んでしまう。
 
すると、自分とは違う判断をする人や、自分とは違う感じ方をする人や、自分とは違う価値観を持つ人を、「間違っている」と思い込みやすくもなってしまう。

(あるいは、「この人はこういうタイプ」「あの人はああいうタイプ」「私はこういうタイプ」と、固定的に定義してしまいやすくもなる)。


そんなスケールの小さい自信なら、むしろ、無くても良いのではないか?と思う。

むしろ、「何も分からん!」という感覚のほうが、個人的には「自信」と呼べる感覚もあります。

その理由は、まとまったら、また近々更新してみたいと思いますが。






もちろん、どう考えても批判されるべき破壊的な考え方・攻撃的な考え方・短絡的な考え方というものは、あるかもしれない。。。

そういう考え方に対して、「自分は同意しない」と表明することも、全然悪いことではない。






思うに…、どんな考え方・どんな感じ方であっても、それを他者に強要したり、他者に強引に同意を求めたり、明らかに迷惑行為をしないなら、私は、許容できるはずだと思う。

私だって、狭い視野のまま、好き勝手に考え、好き勝手に感じているのだ。

誰しも、狭い視野でしか生きられないのだ。

そういう意味では、人間皆同じだし、そこに共感性を感じれば、愛しさや労りのような感情も込み上げます。






だから、キーポイントは、私なりには、「自分の考え方・感じ方は、世界に多様に存在する感じ方の一つにすぎない」と、自覚しているかいないかだと思う。

…いや、自覚などしていなくても良いから、少なくとも多少は、他者の考え方・感じ方に、許容的なムードを持っていること。

そのムードさえ有れば、どんなにトンチンカンな価値観であろうが、どんなに破天荒な感性であろうが、むしろ興味深いものとして、私は受け入れることが出来る。

逆に、どんなに立派な価値観であろうと、妙な自負・優越感が強すぎたり、その価値観のみを「正義」「正解」「常識」と思い込んでいるムードが強いと、やはり、受け入れることは難しいのではないだろうか。

2013.12.18

どうも、「私は常識的な人間だからこう感じる」とか、「私は変わり者だからこう感じる」とか、「私は○○なタイプだからこう行動する」とか、

あるいは、「こう感じる私ってば変わり者」、「こう感じる私って感覚的なタイプ」、「こういう考え方をする人は○○なタイプ」、「こういう生き方をする人は自然体」、云々…、

そのような定義や評価やレッテル貼りが、私は、とても面倒くさい。

ぐちゃぐちゃして、気持ち悪い。

もっとシンプルに、もっと単純に、「今、私はこう感じる」、「今、私はこうしたい」、「今、私はこれが好き」、「あなたは今、どう感じますか」、「あなたは今、何が好きですか」、

それだけで良いのではないかと、感じてしまうのだ。

 
それが、どんなタイプかとか、まして、どんな生き方が良いか悪いか、どんな人が変か普通か、どんな人が自然か不自然か…、
 
いちいち分析したり評価したりするのが、私は、とても面倒くさい。
 


もちろん私も、たまには言うけど。

「あの人、変だよねー」とか、言う時もある。

そういう発言をする人のことも、当たり前だが、いちいち咎めたりなんてしない。
 
私がここに書いていることも、これに固着しすぎて気難しい雰囲気になってしまったら、意味が無いし。

でも、心の奥では、そういう発言・判断・評価というものは、かなり主観的で、かなり“自分目線”に基づいたものだと、わきまえてはいる。

2013.10.5(1)

「愛」という感情(?)は、よく、「恋」とは別物だと言われる。

その通りだと思うし、さらに言えば、私は「愛」と「好き嫌い」も、別のものだと感じている。

「愛」という感情は、特定の個人にというより、だいたい全ての存在に、だいたい沸き上がる感じもします。

(嫌いな人などに対しても、不思議と沸き起こる。嫌いな音楽作品などに対しても、だいたい不思議と沸き起こる。…むしろ、嫌いな人や嫌いな作品に対してこそ沸き起こる、妙な愛しさというか(?)、妙な共感というか(?)、妙な寂しさというか(?)…、言語化不可能なあの感覚は、何なのだろう?)。

でも、それは、もしかしたら私だけではなく、同じように感じている方も少なくないのでは?とも思うのだが。



私には、嫌いな人や付き合いにくいと感じる人は、もちろんいるけど、(人と口論になることも、もちろんたまに有る)、

でも、表面的に「嫌い」であっても、その人の存在自体は応援したいし、人それぞれ、その人らしい花を咲かせて欲しい、と思う。

仲が悪い人などには、お互い頑固で気難しい部分があることに、不思議な可笑しみ・親しみ・共感・連帯感さえ、感じる。

(私の人生の中で悪者を演じさせてごめんなさい、とも思う。…あるいは、そういう感情や思考や判断の全てが、みみっちくてアホらしいギャグのように感じる時もある)。



そもそも私自身、好き嫌いの激しい人間。

どんな人のことも、どんな音楽作品のことも、無条件に「好き」になるなんて、私にはハードル高すぎて不可能。

だからこそ、私は、人それぞれの“好き嫌い”を、尊重したくなるのかもしれません。

心が狭いのは、私も同じだから。



そんなわけで、他者や自分の、表面的な“発言”や“行動”や“作品”を嫌うことはあっても、

その人自身…、

その存在自体…、

この不思議な「人生」というものを授かった者どうし、

皆それぞれ、良くも悪くも、偏った目線や価値観を持つ者どうし、

(皆それぞれ、良くも悪くも、自分に誇りを持ったり、自分を嫌ったり、他者との摩擦に悩んだり、他者との触れ合いに癒されたり、他者を責めたり、自分を責めたり、調子に乗ったり、反省したり、ピュアだったり、腹黒かったり、優しかったり、自己中心的だったり、見栄をはったり、謙遜したり、謙虚なことを自負にしたり、自己アピールしたり、自己アピールしないことをアピールしたり、努力したり、さぼったり、自惚れたり、人や自分を騙したり…、)

意外と、ほとんど皆、「似た者同士」とも感じる。



人それぞれ、性格・役割・立場・状況・健康状態・生き方・好き嫌い・価値観などは、誰一人、同じではない。

(同じでたまるか、とも思う。「皆同じでなきゃいけない」みたいな空気ほど、息苦しいことは無い)。

でも、大雑把に「人生」というものを俯瞰すると、「人間皆、良くも悪くも似たようなものかもしれない」とも、私は感じる。



人間の、あらゆる思考・感情・感覚・価値観・ポリシーなどは、全て、単なる誤解や盲信や思い込みのようにさえ、私は感じる。

そして、そのこと自体にも、私は、不思議な労りや、愛着や諦観のようなものも感じます。

(※「人は皆違う」という感覚と、「人は皆似ている」という感覚が、私の中には、矛盾なく共存しています)。

…かと言って、繰り返しになるが、誰のことも、どんな音楽作品のことも、全て平等に「好き」になれるわけではないけど。

だが、好きな人も嫌いな人も、好きな音楽作品も嫌いな音楽作品も、その全てが愛しいような感覚は、確かにあるのだ。



我々の「好き嫌い」も、「思考」も、「感覚」も、「性格」も、「価値観」も、「生き方」も、「ポリシー」も…、

全て、表面的と言えば表面的なもの。

どれも、大切だとは思います。

けど、どれも、「自分」という限られた狭い目線・経験に条件付けられた、いわば“条件反射”みたいな側面も有る。(単なる思い込みや決め付け)。

どれも大切だけれど、どれも絶対的なものでは無いし、どれも本質的なものでも無い気がします。

(どれも、服やファッションみたいに脱ぎかえ可能。どれも、立場や状況が変われば、自然に変化していくもの)。
 


「では、絶対的で本質的なものは何か?」、「“自分らしさ”や“自然体”とは何か?」などと、自分に問うなら、

明確な答えなどは出ないが、

あえて言えば、私なりには、「そんなものは無いし、そんなものは要らない」。

もしくは、「分からないし、分かろうとしない。決めないし、決めようとしない」。

という回答になります。

(まあ…、「決めない」というふうに、決めているだけかもしれないが…)。

無題5

私の性格・能力・感性・生き方・考え方などの全ては、私が、独力で獲得したものではない。

私が、今現在の性格・能力・感性・生き方・考え方でいられるのは、

私が豊かな国に生まれ、健康体だからこそ、可能だったこと。(多分)。

(例えば、戦争地域や貧困地域やスラム街などに生まれたら、私は、今の自分のような感性・能力・価値観・パーソナリティーの人間には、ならなかったと思う。まずは、逃げるのや食べるのに必死で)。

だから、もし私が、自分の生き方・考え方・感性・作品などを、気に入っていたとしても、

それを「自分だけの手柄」として語るつもりは無いです。

私の生き方や考え方や、私の能力や性格なんて、「豊かさ」や「健康」という、バックボーンがあってこそ。

境遇や状況に、依存しているのだ。

もし明日、重病になったりしたら、私なんぞ、即刻ネガティブになるかもしれないですしね。(分からないですけど…。)



で、以下、本題ですが、

人間というものは、それぞれ一人一人の、自分の意思やセンスで選ぶ「生き方」「言動」「振る舞い」…、

それらが、もちろん大事だと思います。

そこが、一般的に言う「その人らしさ」だと思います。

そういう「生き方」や「言動」や「振る舞い」を、我々は、お互いに評価し合い、

(人を)好きになったり、嫌いになったり、尊敬したり、軽蔑したり、恋したり、褒めたり、責めたり、応援したり、非難したり、いじめたりするのは…、まあ、当然だと思うし、仕方ないと思う。

でも、この記事の最初に書いたように、

人間というものは、長所も短所も、良さも悪さも、100パーセント、その本人だけの手柄や責任ではないはずです。



元来、僕は非常に個人主義で、いわゆる“国民性”とか“県民性”とか“若者らしさ”とか…、
 
安易にカテゴライズしてしまうことが、あまり好きではないです。

しかしながら、他者や自分の「生き方」「言動」「振る舞い」というものを、完璧に100パーセント、その本人の手柄や責任と見なしてしまうのも、苦手だ…。



人それぞれ、生まれ育った境遇・時代、現在の状況・立場・体調、持って生まれた容姿・家庭環境・経済状況…、

それらは、人間の本質ではないけれど、

でも、そこから完璧に自由に生きることは、人間には、不可能に近いと思われる。

(境遇や社会と、無関係に生きることは出来ない)。

だから、人格や振る舞いの100パーセントを、私はあまり、「人のせい」だけには、したくないです。(100パーセント、パーソナルに受け取りすぎたくない)。

誰しも、本人の意思や努力では、どうにもならないことの一つや二つ、あるはずだから。



例えば、とてつもなくネガティブな人に出会ったとしても…、

それをあまり、「その人の弱さ」とは、受け取りすぎたくない感覚があります。

きっと、他者には分からない、何かトラウマや事情もあったのかもしれないから。

責めすぎるより、ある程度“そのまま”を認められれば、と思う。



ただし、だからと言って、、、

良い大人が、いつまでもトラウマや境遇のせいばかりにしたり、いつまでも不平・不満・悪口ばかり言って、自分の現状の生き方や振る舞いを改善しようとしないのは、残念に思う。

現状が嫌なら、変えるための一歩を、自分の意思でスタートさせないと。

(自分や現状を、「変えられるか」「変えられないか」が重要なのではなく、一歩を踏み出すこと自体が、何より大事だと思われる)。



不平・不満・悪口というものは、ある程度なら良いガス抜きにもなるし、悪いものではないと思う。

そういう不平・不満・怒り・自己嫌悪などの中にこそ、自己発見や、新しい一歩を踏み出すキッカケが潜んでいたりすることも、多々ありますし。

だから、ある程度は構わないと思う。

しかし、あまりにもトラウマや、アンラッキーな境遇・現状や、不平・不満・怒り・恨み・妬み・悪口などに、ずーっと「居続けよう」とする人は、

やはり付き合いにくいし、何より、「勿体無い」。

今日の自分の新しい可能性を、自ら抹殺してしまっているように、思われる。

昨日の自分を、ただただコピー&ペーストしているだけのように、思えてしまう。

(無論、私も常に、陥りやすいことだけれど)。



さて、少々話はそれたけど、

私が大事だと思っていることは、概ね、次の二つだ。

(1)「生き方」や「言動」や「振る舞い」というものは、本人の意思や努力やセンスで、自由に選べる。全て、本人の責任である。

(2)「生き方」や「言動」や「振る舞い」というものは、本人の意思や努力やセンスだけでは、必ずしも、100パーセント自由には選べない。全てが、本人の責任ではない。

矛盾しているではないか?という批判や、ツッコミあるかもしれない。いただくかもしれない。

しかし、私の心の中では、(1)と(2)は、矛盾せず、共存・同居・両立しています。

(むしろ、どちらか片方の考え方に傾きすぎると、私は、居心地の悪ささえ感じます)。
 


私は、基本的には、(1)の個人主義かもしれないが、

しかし同時に、個人の意思や努力ではどうにもならない宿命、境遇、時代、運命、使命、巡り合わせ、遺伝的傾向、経済的環境…、
そういうものも、あると思っている。

何でもかんでも、本人の手柄や責任にする気はないのだ。



※さらに別の視点では…、そういう残酷な“宿命”や“境遇”というものさえ、「深いレベルでは本人が選んでいる」「魂のレベルでは本人が引き寄せている」、みたいな考え方があることも、承知しています。

そういう考え方も、私は割と信じているし、割と好きです。
 
…とは言え、世の中には、生まれつき病気・障害を背負った方や、想像を絶する貧困・戦争状態に生まれてくる子もいるので…、そういう子達を見てしまうと、私は、「全ては本人の責任だ」なんて、口にする気は失せます。
 
私のような、五体満足で、今健康で、ある程度豊かな国に生まれた者が、そういう意見を言っても、「ちょっと冷たすぎるし、思いやりが無さすぎる」と、私は感じてしまう。



この世の中には、私などには理解できないことが多々あり、私などには受け入れられないことも多々ある…、
 
ということを、私は、受け入れてるつもり。
 
そして、ただ「受け入れる」だけではなく、
 
「もっと改善したい」、「ただ現状を“受け入れる”だけでなく、改善・改良したい」、
 
というような気持ちが沸き起こることがあれば…、そういう自分の気持ちや衝動は、なるべく受け入れて、なるべく実行に移したいと思う。

無題4

(前回記事の続き)

「人間には自由意思は無い」みたいな考え方も、意外と私は、嫌いではないです。

すなわち、「人間の生命や言動の全ては、神や魂やDNAのプログラミング。私達は、銀河系や自然現象や動物達と同じように、“大いなる何か”によって創られ、運営されて(生かされて)いる。心臓のスイッチ押すのも止めるのも、自分の意思では出来ない。人生に起きること全ても、宇宙意思・宇宙法則に則ったことしか起きない」、みたいな。

そう考えると、なんだか、余計な力みとかを手放せる感じもする。



ただし、だからと言って、

他人に失礼なことを言っておいて、「これも神様の意思」とか、「これも天から授かった私の性格」とか言って正当化したり、

病気の人・悩んでいる人・苦しんでいる人などに対して、「それもあなたの運命」「それも宇宙や自然の意思」「それもあなたが引き寄せています」、などと言ったり…。

そういう態度は、やはりカチンとくるし、違和感あるけど!(^O^)/

無題3

いわゆる『成功哲学』や『引き寄せの法則』の話を聞いていると、

たまーに、免罪符や霊感商法みたいなインスタントさを感じてしまう。
 
私だけかな…。

(そういう話の全部じゃなくて、あくまで「たまに」です。私、『成功哲学』や『引き寄せ』の愛読書も、ありますし)。

要は、「これを買えば救われますよ〜」という言葉と、「こういう言動をすれば成功できますよ〜」「前向きになれば金持ちになれますよ〜」みたいな言葉が、たまーに、似ているように感じられるのだな…。(^^;)



確かに、「前向き」な人は付き合いやすいし、一緒にいて心地良い。

しかし、どういう生き方を「前向き」と感じるかは、意外と人によっても違う。

ゆえに、「こういう生き方こそが前向き!」「こういう性格こそが前向き!」というふうに、

正解を一つに定めすぎてしまうこと自体に、私は、それこそ「前向き」になれないのだ。



あと、「前向きに生きる」ということと、「前向きっぽい言動を演じる」ということは、全く違うとも思っている。

例えば、トップタレントや、トップミュージシャンや、大成功されている俳優・女優さんなどでも、

「まさか自分がオーディション受かるなんて思わなかった」「自分に自信があるところは一つも無い」というような人が、オーディションに受かってしまう例も、多々ある。

逆に、「自分こそ受かる」「自分には才能ある」と、心から前向きに信じていても、落ちてしまうケースも、多々あります。



つまり、いくらポジティブっぽい思考や言動を演じていても、いわゆる「成功者」にはなれないケースも、多々あるのだ。残念ながら…。

と、言うよりも、

「(オーディションに)受かりたい!受かりたい!」みたいな人の中には、もしかすると、心の奥底はネガティブな人もいるのかもしれないし…、

逆に、「受かるかどうか分からないわー」「どうせ私は落ちるだろー?」とか言っている人の中にも、もしかしたら、心の奥底はポジティブな人も、いるのかもしれない…。

なぜなら、ネガティブかポジティブかと言うのは、表層の言葉や表情やポーズではなく、その人の深層のムード・雰囲気・存在感みたいなところに宿ると思うから…。



スポーツ選手や作家や映画監督などでも、大成功された人でも、意外とネガティブ発言を連発するような人も、いないでもない。(例:野村監督のボヤキ節とか)。

音楽家でも、シューベルトやラフマニノフやチャイコフスキーなど、非常にナイーブでネガティブな性格だったらしいが、

言うまでもなく、音楽の分野においては、地球を代表する成功者だ。
 
(彼らの生涯が幸せだったかどうかは分からないが、少なくとも「素晴らしい音楽を作曲する」ということに関しては、大成功していると思う)。



そもそも、一般的に「ネガティブ」と呼ばれてしまうような性格も、ちょっと見方を変えれば、その人の魅力的な個性であり、長所である場合が多い。

もし、ラフマニノフやチャイコフスキーが、めちゃめちゃ明るくて、全く悩まないポジティブな性格だったら、

あのように繊細でロマンティックで、多くの人を癒すような曲や、多くの人をウットリ酔わすような曲は、多分、作れなかっただろうと思う。(音楽すら、やらなかったかもしれない)。
 
ベートーヴェンなども、もし彼の人生に苦難がゼロだったなら、あのように勇壮で、情熱的で、多くの人を勇気づけるような曲は、作れなかっただろうと思う。(加えて、もし、耳の障害が無ければ、彼の晩年の作風…、ひたすら瞑想的に、内的な静寂に浸るような曲も、多分、作れなかっただろうと思う)。

そしてそれは、アーチストのみならず、誰であっても、同じこと。

一見「神経質」「ネガティブ」と思えるような性質も、
 
一見「困難」「苦難」と思えるような状況も、
 
それこそが、その人の個性・使命・魅力・長所と表裏一体であるような場合は、少なくないと思う。

だから、私は、苦難を感じないフリをしたり、無理矢理「ポジティブ」っぽい言動を演じようとすることのほうが、よほどネガティブな場合も多いと感じてしまう。

「わざわざ個性や長所を潰してしまうことないじゃん?」と、思うのだな。

(むしろ、自分や誰かを「ネガティブ」と定義してしまう心こそが、ネガティブなのではないのか?とも思う)。
 

 
人生、深刻になりすぎる必要は無いし、余計な苦難・苦労をする必要は無いと思うけど、
 
しかし一方で、苦労・努力・真剣さなどを忌み嫌い、いつもいつも明るいキャラのフリをしようとするのも…、自分の成長の芽を、自分自身で摘んでしまっているようにも感じてしまう。



※ただし、“型”や“演技”から入って…、
 
つまり、ポジティブなフリをしているうちに、その人らしい個性や長所が花開く場合も多々あるから…、

「演技やポーズは全てダメ」とも、言い切れない。
 
要は、何も、言い切れないと思う。
 
様々なケースや事例があるから。
 
何でもかんでも、一切合切、言い切れない。

未来永劫、十中八九、言い切れないと思います。



私は、個人的には、『成功哲学』や『引き寄せの法則』というのは、有ると思っている。

でもそれは、我々の表層の言葉や表情や、表層の性格や生き方や、表層の感情や考え方など、(ポジティブかネガティブかとか)、

そういう「表層」ではなくて、もっと奥深い深層の意識とか、無意識レベルの思い込みとか…、そういう深いレベルのことだと思う。

(我々には、感知や認知や自覚することすら、難しい部分)。



例えば、冬…、水面がカッチコチに凍っていても、深い水面下では、とうとうと流れている大河もあるかもしれないし、

逆に、水面は凍っていなくても、全体的な流れとしては、沼のように淀んだ川もあるかもしれない。

どちらの川が良い悪いではなく。
 
要は、表層の水面を見ただけでは、我々には、物事の本質や流れは、完璧には分からないのではないか?と思うのだ。

それと同じく、人生に起きることの全ての理由や理屈を、人間の理性・感性で、全て完璧に把握できるとは思えない。



だから、この宇宙に、「成功哲学」的な法則があるとしても、

人間の視野で、完璧に理解できるような法則化・ルール化は、私は、無理だと思っている。(※個人の意見です)。

もし仮に、法則化したとしても、例外ばかりになってしまうと、私は思う。



…例えば、分かりやすい例で言うと…、

「病は気から」みたいか格言は、『引き寄せの法則』や『思考は現実化する』の考え方に近い気がするけど、

とてもじゃないが、“絶対的な法則”とは言えない。

もちろん、「病は気から」という格言は、ある程度は真理だと思います。

でも、その格言(法則)に当てはまらないケースの人も、絶対、いるはずです。

…でないと、「病気の人は皆、心や精神が健全じゃないから病気になった」、みたいな図式になってしまうではないか。

“健康”に関することのみならず…、何に関することでも、そんなふうに断定してしまうのは、あまりに無知で失礼なことだと思う。

なぜなら、どう考えても、明るくて前向きで性格良い人が…、若くして大病になったり、生まれつき病弱だったり、事業に失敗したりするケースも、ありますから。

つまり、表層の「ポジティブ」「ネガティブ」「生き方」「言動」「性格」「感性」「価値観」という要素だけでは、人間の良し悪しや、将来の行く末などは、完璧に占うことは、出来ない気がします。

(さらに言えば…、“病気”や“失敗”や“失恋”というような現象を、他者が、あまりネガティブに解釈しすぎるのも、良くないと思います。病気や失敗を、労ったり、心配したりすることは当然だとしても…、誰かのことを、「敗者」「弱者」「不幸」「(病気や失敗を引き寄せた)本人の精神性が悪い」というふうに、短絡的にネガティブなレッテルを貼ってしまうのは、あまりに失礼というものです)。



だいたい、「成功するために前向きになろう」という意識って、私には、真の成功者の風格ではない気もする。
 
自分にとっての「前向きに生きる」ということを、真摯に追求するなら、素晴らしいことだと思う。

でも、自分が今、本当に前向きなのかどうか、心の奥底を内観しようとせず、
 
表層の言葉や表情ばかり飾ったり、上辺の前向きっぽいポーズばかり演じたり…、

そんなことをしていたら、それこそ「類は友を呼ぶ」で、表面的なポーズばかりを演じる友達や恋人を、たくさん引き寄せてしまうのではないか?

「成功」や「失敗」という要素だけで、人のことを判断してしまう人ばかりを、たくさん引き寄せてしまうのではないか?



人それぞれ、個性や役割や性格が同じでないことは、明白。

人によっては、「何が成功とか失敗とか、何がポジティブとかネガティブとか、そういうことに、あまりこだわりすぎないほうが心地良いし、前向きになれます」…、

みたいな感性の人も、たくさんいると思いますし。(割と、私もそう)。

もちろん、成功するシーンのイメージトレーニングしたり、ポジティブな言葉だけを使うようにする生き方が性に合っている人も、いらっしゃると思う。

どちらもアリだし、どちらも素晴らしいではないか?と思う。

一つに限定する必要性を、私は、全く感じないです。

音楽も、人生も、自分なりの理想を実現していく「手段」や「方法」や「ペース」は、正解は一つではないはずだ。



私は、あまりポジティブとかネガティブにこだわらないし…、そもそも、何がポジティブで何がネガティブなのか、あまり分からないけど、(^^;)

もし、本当に“ポジティブ思考”を追求したいなら、例えば、次のような考え方では、ダメなのだろうか?

「どうせ私なんか、ネガティブな言葉を使っても、ネガティブなことを考えても、成功してしまう。わざわざポジティブになろうとしなくても、私の人生、全く問題無い。もし人生に、失敗っぽい出来事が起こったとしても、どうせそれも、無駄にはならない。(宇宙は、そんな場所ではないからだ)。そもそも人生は、失敗の中にも発見や気付きはあるし、不幸こそ、軌道修正のチャンスかもしれない。たまに、自己否定や自己嫌悪などをすることがあったとしても、そんなことが、不幸や失敗や病気の要因・呼び水にはならない。…なぜなら、究極的には、ネガティブ性も自己否定も、成長や探究や気付きのバリエーションだからだ。」

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