2017.09.05 Tuesday

〜インフォメーション〜

 (※通常のブログ記事は、この記事の下です)

 
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【作品試聴・歌曲(YouTube)】
 
『生徒諸君に寄せる』(歌詞字幕付き)
(作詩:宮沢賢治、作曲:山下晋平、歌:望月裕央)
『氷砂糖をほしいくらいもたないでも』(歌詞字幕付き)
(作詩:宮沢賢治、作曲:山下晋平、歌:望月裕央)
 
『松の針』(歌詞字幕付き)
(作詩:宮沢賢治、作曲:山下晋平、歌:望月裕央)

『氷砂糖をほしいくらいもたないでも(注文の多い料理店より)』
(作詩:宮沢賢治、作曲:山下晋平、歌:森圭一郎)
http://www.youtube.com/watch?v=hPD428BUKnA

『雨ニモマケズ』(ギター伴奏バージョン)
(作詩:宮沢賢治、作曲:山下晋平、歌:森圭一郎)
『雨ニモマケズ』(ピアノ伴奏バージョン)
(作詩:宮沢賢治、作曲:山下晋平、歌:望月裕央)
http://www.youtube.com/watch?v=7dRI4NTNr7Y


 
【作品試聴・ピアノソロ曲(Sound Cloud)】
 
(Sound Cloudでは、ピアノソロ曲をご試聴いただけます)



【作品試聴・バンド(YouTube)】

『久遠の詠唱 trailer』(Alchemy Crystal)
(全曲、山下はキーボードで参加。「序曲」「滅びゆく人々」「憧れのオリオン」「千夜物語」の4曲は、作曲を担当)
https://www.youtube.com/watch?v=5kVG5jtjPc8



【CDリリース情報(Amazon)】

CD『宮沢賢治歌曲集』(望月裕央×山下晋平)
全12曲。宮沢賢治の詩による歌曲が6曲と、ピアノソロ曲が6曲。¥2,500。
http://www.amazon.co.jp/dp/B008TSPHQC/

CD『雨ニモマケズ』(森圭一郎×山下晋平)
全3曲・シングルCD。宮沢賢治の詩によるソング集。¥1,000。
http://www.amazon.co.jp/dp/B0078KY7MM/

CD『静寂の庭』(山下晋平)
全10曲。ピアノソロ曲集。¥2,600。
http://www.amazon.co.jp/dp/B000UMX6AE/

(※全曲、山下晋平による作曲)。

CDは、Amazonの他、全国タワーレコード、HMV、新星堂、TSUTAYA等、有名店舗にてお求めになれます。(店頭に置いていない場合でも、注文すれば、取り寄せ可能です)。もしくは、山下まで、メールにてご注文下さい。

(※『静寂の庭』のみ、現在、流通が滞っているようです。お求めの場合、山下までメール頂ければ幸いです)

メールアドレス:arsantiqua_mail☆yahoo.co.jp
(お手数ですが、☆を小文字のアットマークに変えて下さい。件名に「CD注文」、メール本文に、お買い求めになりたいCDタイトルと枚数を、記載お願い致します。数日以内に返信致します)



キラキラ【楽譜】キラキラ

■『宮沢賢治の詩による六つの混声合唱曲  雨ニモマケズ』
  (作詩:宮沢賢治 作曲:山下晋平)

■『宮沢賢治の詩による六つの女声合唱曲  雨ニモマケズ』(混声3部対応)
  (作詩:宮沢賢治 作曲:山下晋平) 

どちらの楽譜も、ヤマハなど全国の楽器店にて注文すれば、取り寄せ可能です。楽器店にて、ご注文する冊数・楽譜タイトル・作曲者名・出版社名をお伝え下さい。(出版社名は「キックオフ」です)。

ネット・メール・電話での注文なら、出版社キックオフから可能です。

有限会社キックオフ(Chorus Score Club)
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2017.09.04 Monday

セッションライブでした

こんばんは。

 

今年は冷夏な印象でしたが、9月になると、さらに一気に秋めいてきましたね。

 

例年この時期は、まだまだ暑い印象ですが。。

 

 

さて先日、9/2はセッションライブでした。

 

イベント自体は多彩で、対バンさんはソロシンガーやアニソンバンド(?)もありましたが、

 

我々はメタル…、イングヴェイのコピバンでした。

 

 

いやぁ凄かった。。。

 

ぶっつけ本番に近いライブでしたが、バンドメンバーの皆さん凄腕で、かけがえのない体験となりました。

 

ギターの方は以前から知り合いでしたが、ドラム・ベース・ヴォーカルさんは、その日はじめてお会いする方達でした、

 

皆さん熱い魂と高い技術をお持ちで、驚異的でした!

 

(もちろんイングヴェイの楽曲も素晴らしく、作曲面・アレンジ面の勉強になったことも言うまでもない)

 

 

大袈裟に言うと、ライブ中、魂レベル・血液レベル・DNAレベルで、自分の全細胞が入れ替わったと錯覚する感じ(?)

 

脳天を突き抜けるような感覚でした。

 

「これだァァァ〜!」みたいな確信や歓喜や感動ですね。

 

 

本番10日前くらいに急遽誘われたので、練習や暗譜に苦戦しましたが、やって良かったです。

 

欲を言えば、もう少し練習期間が欲しかったのと、(キーボードもかなり難しいので)

 

もう何回か、あのメンバーでライブをやって、もっともっと超越的な感覚を味わいたかったですが、

 

でもまあ、「たった一度きり」というのが、名残惜しくもありますが、むしろ逆に心に深く残り、今後の自分の創作に活かせそうな気もしています。

 

とにかく凄かった!

 

 

演奏した中の3曲ほど、本家のライブ動画をアップしておきますので、もしご興味あれば。

 

ギターとヴォーカルが主役的ではありますが、キーボードも非常に美味しいです(笑)

 

ロックオルガンやチャーチオルガンを、これでもかと弾きたおせる曲も多いし、

 

チェンバロでギターとハモったり、高速シンセリード弾きまくったり、ぶっといシンセストリングスで凝った和音進行を満喫したり…。

 

今まで何となく聞いていたけど、実際にやってみると、凝ったアレンジ・構成・展開にも感銘を受け、大いに感涙でした。

 

決して速い・勢いだけではない、むしろブレない不動心や安定感や格調高さも、演奏しながら感じていました。

 

この体験も糧にして、今後も己の楽曲の制作・構築に励みます!

 

 

 

2017.08.31 Thursday

2017.8.31

少し時間が経ってしまいましたが、

 

8/16に更新した記事で、ひとまずエッセイシリーズは終了です。

 

(※8/16の一つ目の記事は、その後だいぶ修正しました)

 

ここ数年に体験したり、感じたりしたことを、今年はずっとエッセイ風に書いておりましたが。

 

ひとまず一区切り、ということです。クリボー

 

 

 

 

ところでブログやSNSでは、楽しそうなことや当たり障りのないことだけを書く、

 

という使い方も素晴らしいと思います。

 

 

しかし私の場合、ストレスを感じたこと・問題提起したいことなどは、むしろ書くべきだ、発信するべきだと思っているかも。

 

(単に自分の場合はそうしたい、というだけ。そうしない人を否定しているわけではないです)

 

 

もちろん発信する前に、しっかり自問し、

 

それがただの愚痴や不平不満なのか、それとも、建設的な問題提起として他の人ともシェアしたいものなのか、

 

前者の場合は発信しませんが、後者の場合なら、僕は発信したいと思ってます。

 

 

例えば、もしイジメや人種差別などを目撃した場合、、、

 

やはり僕は、「これはおかしい」「これはやめるべき」と発言したいと思う。

 

そういう発言をしない、穏やかで平和的な生き方も、もちろんアリだと思いますが。

 

(※ただし、そういう発言をしたら処刑されるような世の中の場合、そう簡単には発言できないと思います。あと、不用意に発言しすぎて、変な人にからまれて被害を受けないよう、気をつけるべきだとも思ってます)

 

 

 

 

ちなみに、私が「これはおかしい」「これはやめるべき」と感じることには傾向のようなものがあり(笑)、それは、

 

(1)何か一つの見方や感じ方や価値観を、全ての人に共通する真理・正義・常識(良識)だと思い込むこと

 

(2)人や音楽のほんの一面しか見ないで、(時には先入観やイメージで)、その人やその音楽を完璧に分かったつもりになってしまうこと

 

(3)たくさんの人達を、たった一つの共通項で一括りにカテゴライズし、そのカテゴリーの中の人は皆同じだと思い込むこと(※国籍、人種、年齢、職業、収入など)

 

(4)「クラシック=真面目」「ロック=騒々しい」「メール・SNS=心が込もらない」「ゲーム・アニメ=教育に悪影響」「電子楽器=非人間的」「人工・科学=地球や人体に害悪」みたいに、ジャンルやツールで決め込んでしまい、個々の中身・内容を吟味しないこと

 

(5)一つの失敗例や成功例を、誰にでも当てはめて普遍化・一般化してしまうこと

 

(6)誤解・偏見・思い込みに基づいて、他者を見下したり説教したり叩いたりすること(※冤罪とかも含む)

 

 

 

だいたい、そんな感じです。

 

個人的には、上記のような短絡的かつ一面的&理屈っぽい感じは、苦痛でしかない(笑)

 

僕は、「(他者のことは)完璧には分からない」「(何が良いか悪いかは)完璧には断定できない」と、素直に認めていたいと思う。。

 

 

上記(1)〜(6)のようなことは、自分一人で勝手に思い込んでいるなら問題ないのですが、

 

人にまで共感・同意を強要したり、人に押し付けたりするのは、(本人に悪気や故意がなくても)、私はストレスを感じます。

 

 

 

 

どう生きたいか・何を心地良いと感じるかなども、日々、新たに探求していくものだと思っている、

 

なので、道徳的なことや価値観的なことの「完成」や「正解」や「真理」は、いまいち断定しにくいです、(※もちろん個人の意見です)

 

暫定的な「完成」はあり得るけど、永続的かつ普遍的な「完成」「正解」「真理」は、僕は無いのでは?と感じてます。

 

それは自信が無いということではないし、自分の意見を持たない(or持つな)ということでもないですが。

 

 

 

 

こういうエッセイとか書いていると、そこそこ気難しく見られることもありますが、

 

むしろ個人的には、ユルい感じが好きです、

 

この世に完璧な人間などいないし、あまりにも他者の発言や価値感を監視して、まるで鬼の首を取ったように厳しく取り締まりすぎる風潮は苦手です。

 

 

…と言うか、ユルい感じが好きだからこそ、

 

考え方・感じ方の正解を断定しすぎたり、他者の内面・性格を断定しすぎたり、人間や音楽のあるべき姿を断定しすぎたりするのが、好きではないのかも。

 

 

何の問題も無いような人を、いちいち難癖つけて非難したり、上から目線で見下したり、

 

「人間や音楽はこうあるべき・こう考えるのが常識」みたいな意見を、他者に強要しすぎる人を見ると、

 

何様のつもり?とさえ思います。

 

(※強要ではなく、推奨や提言くらいなら全く問題無し)

 

 

 

 

もちろん、「絶対に人のことを非難してはダメ・批判してはダメ」ということではなく。

 

例えば迷惑行為・暴力行為・差別思想などは非難して良いと思うし、あまりにも傲慢・独善・怠慢などの言動も、批判しても良いと思う。

 

(※あと、明らかに事実でないことを信じ込んでいる誤解・思い込みなども、非難というか、指摘して良いと思う)

 

 

そもそも、他者の価値観・見方・感じ方等を、無理してまで認めたり好きになったりする必要もないと思いますし、時には、他者に意見・批判を言っても良いと思いますが、

 

でも、もう少し、人それぞれ自分らしく生きたり感じたりするのを許容してあげても良いのではないか?

 

あまりにも自分だけが正しいと思い込まないほうが良いのではないか?

 

などと感じる時も多いです。

 

 

それは、「人のことを尊重せよ」とか「人のことを思いやれ」とか、そういう感じとも少し違うです、

 

例えば僕は、「食べ物の好みは人それぞれ違う」と思っていますが、それは別に、人のことを尊重しているからでもなく、思いやりで言っているわけでもなく。

 

「人それぞれ違うのが自然だし当たり前」と思うから。

 

価値観や感性や、ものの見方・感じ方・考え方なども、私にとっては同じことです。

 

 

 

 

…しかしながら、我々動物には生来の防衛本能・生存本能があるだろうし、限られた狭量な視野&エゴイスティックなのも自然なことなので、

 

ごく普通の人間であれば、ある程度、無知で利己的で排他的なのは当然だとは思っている、(自分も含めて)

 

 

そういう、人間が生来持っている無知や傲慢や、利己心や排他性や、先入観・思い込みなどを、

 

一切気にしない(or気付かない)のが、人としては度量が大きいとも言えるかもしれませんが、

 

ただし裏を返せば、そういうことに「気付けない(気にしない)」ということは、自分では無意識のまま、誰かや自分自身を傷つけている可能性も高い。。

 

 

 

 

人権や多様性を重んじるあまり、ピリピリして気難しい感じの人間になってしまうのはもちろん嫌だけど、

 

でも何も気づかず、悪びれもなく、無意識的に、差別や強要やレッテル貼りをするような人間になるのも嫌。。

 

 

なので、個人的には…、ほどほどにストイックに人権や多様性を重んじつつ(笑)、

 

同時に、自分を含めて誰しも、無知・偏見・狭量・短絡的・不完全・利己的な部分も持っていることを認め、

 

むしろ、そういうところにも親しみや労りや連帯感を感じる…、

 

(あるいは諦観や受容を感じたり…、時には偏った偏見や誇大妄想に、大いに面白さ・頼もしさ・パワー等も感じたり…)

 

 

そんな感じの心境かもしれません。

 

少なくとも、今のところは。

 

 

(※行き過ぎた義憤や問題提起というものは、独善的になってしまいがちなことも承知しています。なので、そこらへんはバランスというか、常に自分自身をチェックしながら…。意見を言ったり書いたりする時も、「自分は今、ただ単に誰かを責めたいだけではないか?」とか、「自分は今、物事や人物のほんの一例(一面)を見て、それを普遍化・一般化していないだろうか?」とか、「自分は今、自分自身の狭量さも反省しながら意見を言っているのか?」とか、「そもそもこの義憤や問題提起自体、私の偏見ではないのか?」などと、自問しながら…。自分自身に対して、常に疑いや批判精神も持っているつもり)

 

 

 

 

上記のような自問自答を、あえて人目に晒される場で、僕は書き記したいとも思ってます。

 

文章は決して上手くないし無駄も多いしスマートでもないが、そこは、あまり気にしていない(爆)

 

というわけで2017年の1月から、ほぼそういう内容の記事ばかりでした。(あらかた書き終えた)

 

 

 

 

さて、話は変わって、

 

数ヶ月以内に、自分の新しい音楽プロジェクトをお知らせ出来ると思います。

 

たくさんの方の強力な協力を仰ぎつつ、楽曲製作中です。マリオ

 

 

宮沢賢治シリーズ以降は新作をリリースせず、自分なりに色々と探求・勉強・研究していましたが、

 

その成果的なものの第一弾を、お知らせ出来ると思います。

 

何とか今年以内にお届け出来ればと思うのだが…!?

 

 

 

 

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2017.08.16 Wednesday

シュヴァルの理想宮

こんにちは、本日二度目の更新です。すらりん

 

それにしても今年は冷夏というか、8月に入って毎日降雨を記録しているそうですね。飴

 

この時期としては、ちょっと記憶にないほどの長雨ですが、いかがお過ごしでしょうか。

 

日照時間不足で、農作物とかに影響が出ないか心配です。。

 

 

 

 

さて先日、「美の巨人たち」という番組を見て、「シュヴァルの理想宮」という作品を知ったのですが、なかなか感動しました。

 

フランスの郵便配達人フェルディナン・シュヴァル(1836〜1924)、

 

彼が趣味で、独力で建てた巨大な宮殿です。

 

建築やアートの知識もなく、己の理想・空想・霊感に従って建てられた巨大建築。

 

建築に着手したのは43歳の時で、何と完成するまでは、33年間も創作に費やしています。

 

村の住人や上司からも馬鹿者扱いされたそうですが。。

 

 

技術的には稚拙なところもある感じでしたが、とことん自分の理想や空想やインスピレーションに従っているというか、

 

荘厳かつ精緻かつエキゾチックな感じの建築物で、思わず目を奪われます。

 

 

でも建築そのものにも惹かれますが、「33年間も創作に費やした」ということにも、大いに感銘を受けました。

 

私も、必ずしも上手でなくても良いし、長く時間かかっても良いから、

 

石を一つ一つ積み重ねるように、自分にとっての理想音楽を追求していきたいと思わされました。

 

 

あと、パッと技術や慣習やお約束で作りすぎず、何よりも大事なのは、じっくり己の理想・好み・霊感等に耳を傾けることかな?とも思わされました。

 

(※技術が要らないとはもちろん言ってないし、型や慣習やお約束を否定するわけでもないです。シュヴァルさんの作品も、独創的ではありますが、「建築」という形式・型・慣習・様式には則ってるわけで。誰の真似もせず、誰の影響も受けず、全くのゼロから作品を生み出したわけではない)

 

 

 

 

ちなみに、いわゆるナイーブ・アートとかアウトサイダー・アートと呼ばれる、

 

要は、専門的な教育を受けていない、独学的に創作されたアート作品の中では、

 

私は、アンリ・ルソーの絵画はとても好きですね。

 

あの独特の妖しい空気感!

 

(代表作の大半は50代に描かれているというのも、大いに勇気付けられる)

 

 

シュヴァルもルソーも、それぞれWikipediaをリンクさせておいたので、ご興味あれば見てみて下さい。

 

特にルソーのほうは、ページの下のほうに「ギャラリー」があって、けっこう多数の作品を見ることが出来ます。

2017.08.16 Wednesday

2017.8.16

ちょっと前回記事の続きです。(この記事だけお読み頂いても意味は通じます)

 

よく「多様性を重んじることが大事」と言われますし、私も同感ではありますが、

 

とは言え、何でもかんでも尊重したり認めたりすることは無理だと思います。

 

例えば、明らかに他者の迷惑になる行為や、明らかに他者を見下すような発言や、事実に基づいていない誤解などは、異議を唱えても良いと思うし。

 

 

誰かの言動や作品や演奏を、時には批判したり、疑問視したり、問題視したりしても良いのではないかと思います。

 

…最低限、その言い方とかは気をつけるべきだとは思いますが。。

 

当然、私の言動や作品も、誰かにとって気に入らない場合も多々あると思ってます。

 

(あと、自分の理解(共感)の及ばない人や行為や、作品や価値観に対して。無理に理解(共感)しようとしすぎたり、無理に分かったつもりになろうとしすぎなくても良いのではないか?と、私は思う)

 

 

 

 

で、それに関連して、、、

 

例えば、誰かの仕事上のミスや怠慢、誰かの不健康な生活習慣、誰かの無責任な暴言・暴論、スポーツや楽器のミス・技術不足なども、

 

もちろん問題視したり、批判したりしても良いと思う。

 

(「多様性を尊重することが大事」とは言え、何も問題視してはいけない、何も疑問視してはいけない、一切批判してはいけない、一切意見を言ってはいけない、とはならないはずです)

 

 

 

 

…でも、そういう場合であっても、まずは、その言動や作品や仕事ぶり自体を問題視するべきだと思う。

 

(その人の)言動や演奏や仕事ぶりを見て、その人の性格・人間性までをも、あまりにも断定しすぎてしまうのは、

 

私は、あまり良くないと思っている。

 

 

例えば、楽器・演奏が下手だったり、仕事やスポーツでミスしたりすると、「お前は頑張ってない」「お前は集中力が足りない」「お前は(仕事への)愛が足りない」「気持ちが足りない」「優しさが足りない」「心を込めてない」「プロ意識が足りない」、

 

みたいな感じの言い方ね。(´・_・`)

 

 

しかし実際は、スポーツや楽器をやったことある人なら分かるだろうが…、

 

達人なら、あまり集中しなくても、目をつぶってでも、雑談しながらでも、(ふざけながらでも)、簡単なプレーならミスしないが、(呼吸するように無意識でプレー出来る)、

 

でも素人は、どんなに集中しても、どんなに頑張っても、どんなに(その楽器を)愛していても、どんなに真面目に取り組んでも、簡単なことさえ、頻繁にミスするものである。

 

 

加えて、一人一人の人間の反射神経・能力・脳力・身体なども、生まれつき差があるものである。

 

でないと、165キロのボールが投げられる大谷投手は、とても集中して頑張って野球を愛しているが、140〜150キロしか投げられない投手や、試合に負けてしまった選手は、「集中してない」「頑張っていない」「気合・根性が足りない」「気持ちが足りない」「努力が足りない」「プロ意識が足りない」という風潮にもなってしまう。

 

 

 

 

ところで、少し話は逸れるかもしれないが、

 

「病は気から」「引き寄せの法則」「自業自得」「自己責任」「因果応報」「笑う門には福来る」みたいな言葉は、ある程度は真理だと思うが…、

 

しかし、人生に降りかかる出来事の原因を、100パーセントその人の内面・性格・努力・行動に求めすぎてしまうのは、私は間違っていると思う。

 

 

では、若くして病気になった人や、何かに失敗したような人は、皆、性格がネガティブで、ストレスが多く、笑顔が少なく、努力が足りなくて、生活習慣が悪かったのだろうか?

 

逆に、何かに成功した人や健康で長生きな人は、皆、性格がポジティブで、笑顔が多く、規則正しい生活で、前向きな思考回路だったのだろうか?

 

 

僕は、そんなことはないと思うですね。

 

実際私は、前向きで性格が良い感じの人でも、早死にしたり、試験や事業に失敗したり、時には災害・事故・冤罪・犯罪などに巻き込まれた人なども知っているし、

 

逆に、人の悪口ばかり言っていたり、怒りっぽかったり、集中力が欠如していたり、差別主義者だったりする人が、成功して長寿な人とかも、何人も知っている。

 

難関オーディションでグランプリとった人が、「まったく自信なかった。まさか自分が受かるとは思わなかった」と、謙遜でもなく、本当にそう思っているケースも何人も知っているし、

 

ネガティブでナイーブで自信が無いような人が、音楽家として大成功しているようなケースも何人も知っている。

 

(あるいは、心から親しみを込めて笑っているのに、「作り笑いするな」などと誤解されてしまうようなことも、誰にでも経験あるのではないか?…残念ながら、ポジティブに素直に生きていても、「笑う角」が叩かれたり誤解されてしまうことも起こりうるのだ。逆に、打算や演技だけの笑顔が賞賛されることもあるし)

 

 

 

 

そんなわけで、起こった出来事の原因や、成功・失敗や、体調不良の原因を、100パーセントその人の内面や生き方のせいにしてしまうような言い方は、少し残酷だと思う。

 

何が原因かなんて、様々な要因が絡み合っているだろうし、我々人間には、想像するくらいしか出来ない。

 

 

特に、病気になった人や、何かに失敗した人や、災害・犯罪などに巻き込まれてしまった人に対して、

 

それを本人の(性格や生き方の)責任・原因だと決めつけすぎるのは、失礼かつ残酷なことだと思う。

 

…大きな(事業の)失敗や大病のみならず、ちょっとした体調不良や失敗・ミス、風邪、体型(肥満)、肌質、身体能力、脳力、パニック障害・性同一性障害なども、よく、本人の生活習慣のせいだとか、食生活のせいだとか、ストレスのせいだとか、考え方が悪いからとか、性格が悪いからとか、ポジティブさが足りないからとか、気合・集中力が足りないからとか、覚悟が足りないからとか、気楽さが足りないからとか、頑張りすぎているからだとか、云々、、、

 

分かったふうに、理由や原因を断定されてしまっている場面を見かけます。(私自身、そのように断定されたことは多々あります)

 

 

確かに、本人の責任であるケースも多いでしょうが、

 

でも、持って生まれた資質や体質や育った境遇など、本人の努力ではどうにもならないことも、多々あるのではないか?と思います。(私の考え方は甘いかもしれないが)

 

原因や要因を推測するくらいなら素晴らしいけど、あまりにも断定しすぎてしまうのは、良くないと思うのだが?

 

 

 

 

人生は、何事も、本人の意志・心・精神・努力・生活習慣が大事なことは言うまでもないが、

 

でも、物事(出来事)の結果や成果というものは、必ずしも本人の心・精神・性格・努力とは、100パーセント一致するわけでもない。

 

本人の努力・選択では、どうにもならないことも少なくないはず、と思う。

 

 

 

 

(※どんな暴力もどんな性癖も、「持って生まれた資質だから許そう。本人の責任ではないから許そう」という主張ではないです)

 

 

 

 

音楽の世界でも、作曲や演奏が下手だったりすると、

 

「あいつはプロ意識が足りない」「あいつは一生懸命さが足りない」「音楽への愛が足りない」「心を込めていない」「精神性が低い」「心や魂がレベル低い」、

 

などと判断されてしまうことも多いが、

 

僕は、必ずしもそうとは言い切れないと思っている。

 

せいぜい、「一生懸命さが足りないように見える」とか、「愛や集中力が足りないように見える」とか、そういう言い方しか出来ないはずです。

 

(想像は出来るけど、断定は出来ないと思うのです)

 

 

 

 

誤解が無いように言っておきますと、

 

誰かの作品や演奏を聞いて「ヘタクソ」と言ったり「嫌い」と言ったりすることは、あまり問題ないと思っています、

 

感想は、個人個人、自由であるべきですし。

 

(無理してまで褒めることなんてないと思います)

 

 

ただし、誰かの演奏や作品を見て、「ヘタクソ」とか「嫌い」などと言うだけに留まらず、

 

「こいつはプロ意識が足りない」とか、「こいつは音楽(仕事)への愛が無い」とか、「こいつは人間的な心が無い」とか言って、その人の内面まで断定しすぎてしまうのは、必ずしも正しくはないと思う。

 

そういうのは、あくまでも「想像」でしかない、

 

自分の個人的な「想像」を、あまりにも真実と思い込みすぎてしまうのは、ちょっと失礼ではないか?と、私は思っています。

 

 

 

 

…私自身、音楽をやっても、音楽以外の仕事・バイトをやっても、要領は悪いほうなので、

 

心から一生懸命やっているのだが、ミスしてしまうこともあったりして、

 

で、「ヘタクソ」とか言われたり、ミスを指摘されたり、叱られたり、怒鳴られたり、時には殴られたりしたこともあったが、

 

それは、全然構わないのだが、(むしろ、ありがたいとも思ってます)、

 

でも、「お前は一生懸命さが足りない」とか、「お前は音楽への(仕事への)愛が無い」とか、「お前は集中してないからミスをする」とか、

 

私の心の中を想像で断定されてしまうのは、間違っていると思うのです。

 

 

 

 

低レベルの演奏や、仕事上のミス・不手際を、

 

指摘したり、叱責したり、呆れたり、怒ったり、嫌ったりするのは全然オーケーだと思う。

 

(※ミスが多い者や能力が低い者は、仕事をクビになったり、依頼が減ったりして、自然淘汰されるのも当然だと思う)

 

でも、そういうヘタクソな技術・ミスなどによって、あまりにも、その人の性格や精神性までをも断定しすぎてしまうのは、僕は間違っていると思う。。

 

 

 

 

もちろん、仕事・スポーツ・楽器演奏などで、あまりにもミス連発する者は、「本人の責任」「やる気・集中力の欠如」と判断されてしまっても仕方ないかもしれないが…、

 

でも、そういう場合であっても、例えば「集中しすぎてミスする」というようなケースも、あるかもしれないし。

 

そういう人に向かって、「お前は集中力が足りないからミスするのだ!」とか言って叱責するのは、私は良くないと思っています。

 

 

 

 

ミスや失敗というものは、心がまえや内面・精神・性格以外にも、様々な要因・原因が考えられる。

 

先天的な原因もあるかもしれないし、後天的な原因もあるかもしれない。

 

(単に、向き不向き、得手不得手もある)

 

もちろん、本当に、気合いや集中力の欠如が原因の場合もあると思いますが。。。

 

 

 

 

誰かのミス・失敗を目撃した時は、その人の内面や性格や生き様を決めつけてしまうよりも、

 

具体的かつ科学的なアドバイスをしたり、上達のコツを教えたりするほうが私は好きだ。

 

ネチネチ性格診断したり、「お前は愛が無いから失敗する」、「お前は集中力が足りないから失敗する」、「お前は学生気分だから(仕事で)ミスが多い」、「気持ち・気合い・努力が足りない」、「ポジティブさが足りない」とか言って、その人の内面を断定してしまうより、

 

具体的な問題点や改善点を指摘・アドバイスするほうが、よほど建設的だと思う。

 

 

もし集中力の欠如など、本当に精神的・性格的なことが、失敗の原因になっているなら、それをネチネチ責めるのではなく、

 

では、どのように集中すれば良いのか、どのポイントに集中すれば良いのかを、具体的に提案なり助言なりすれば良いと思います。

 

(ただただ無闇に「もっと集中せよ!」ではなくて。集中するにも、優先的にどのあたりに集中したら良いかというポイントは、あるはずなのである)

 

 

 

 

…いずれにせよ、その人の内面・考え方・生き方だけが、100パーセント、その出来事を引き起こす原因になっていないのではないか?と思います。

 

本人の意思や努力では100%コントロール出来ない、DNAや潜在意識、生まれ育った環境や境遇や習慣、持って生まれた脳や反射神経、持って生まれた体質や遺伝子、

 

そういう要因も、人それぞれの能力・知力・体力・性格の違いの原因になっているだろうし、

 

その人の人生で起こる出来事の原因にもなっていると思う。

 

 

 

 

人生、何事も、本人の努力や選択、意思や集中力が大事であることは言うまでもないが、

 

100パーセント全てを本人のせいにしてしまうのは、私は良くないと思う。

 

(誰かの言動・演奏・作品・仕事ぶり等を見て、その人の性格や心理をあまりにも断定しすぎてしまうのも、良くないと思っています)

 

 

 

 

ただ、分かってはいる、

 

一般的な価値観としては、

 

■「人生は自分の努力・選択の結果なのだから、あまり先天的な資質(性質)のせいにしたりするのは、みっともない」

 

■「現状に満足いかないなら努力するべき」

 

■「演奏や作品や仕事ぶりで、人格や性格を判断されるのは当然のこと」

 

というような考え方が、一般的だとは思う。

 

その通りだとも思う。

 

 

私も、基本的には「人生は自己責任」だと思うし、自分の望むことを自分で実現できるよう、努力すべきだと思っています。

 

「人生で起こる全てのことには意味(意義)がある」というような考え方も、私はとても好きだし、

 

自分の夢・希望・願望を実現化させることが出来る、自分のパワー(可能性)のようなものも信じていたいと思う。

 

(※ちなみに個人的には、もはや人の批判とかは、あまり気にしないかも。何をやるにせよ、あまり人の批判を恐れたり、人の反応を気にしすぎたり、人に気に入ってもらうために何か(創作活動とか)するのではなく。まずは、自分自身の内部から沸き起こる衝動・願望・夢を大事にしたいと思ってます。その結果として、人様に気に入って頂けたら、もちろん嬉しいですが…)

 

 

 

 

私も基本的にはそういう考え方なのですが、しかし同時に、本記事で書いたような見方・感じ方も忘れたくはない、という感じです。

 

何が起きても、全て「本人のせい」「本人が引き寄せた」「本人が選んだ結果」「本人に原因がある」「自業自得」と断定しすぎてしまうのは、私は少々受け入れがたいし、100パーセント真理・真実とも思えないです。

 

(あと、演奏・作品・仕事・健康状態・スポーツ等がイマイチな人は、必ず100パーセント「内面や性格や心構えがダメな奴」と断定しすぎてしまうのも、とうてい真実とは思えないです)

 

 

 

 

なので、もし何か望ましくない出来事に見舞われてしまったとしても、

 

あまり「自分のせい」「自業自得」「バチが当たった」などと、考えすぎないほうが良いと思います。

 

物事や状況が上手くいかない時は、しっかり自分を反省したり改善したりすることも大事だと思いますが…、

 

同時に、必要以上に「自分のせい」にして、あまりにも自分を責めすぎてしまうこともない、と思う。

 

私自身、自分を必要以上に責めてしまいがちなので、そのように思うのでアルが…。

 

 

 

 

そもそも、ポジティブな考え方を出来ること自体、とてもラッキーというか、恵まれていることだとも思う、

 

たまたまラッキーにも、脳や心身が健康に生まれつき、今、たまたま平和で豊かな国(状況)に生きているからこそ、前向きに考えることが可能な気もする。。

 

中には、生まれつき逆境(不遇)でも前向きに生きていらっしゃる方々もいて、それは本当に尊敬に値しますが、

 

私も含めて大抵の人は、もし生まれつき逆境(不遇)だったりしたら、そう簡単には、前向きに生きることさえ容易ではない気がします。

 

 

 

 

とかく成功した人は、気難しいストイックな性格でも、軽くて楽観的な性格でも、(どんな性格・パーソナリティーであっても)、

 

「その性格ゆえに成功した」と判断されがちだし、

 

「この人は魂や人格や人間性が素晴らしい」とか言われたりもする。

 

 

でも成功してない人は、ストイックだと「頑張りすぎ」とか「もっと自然体になれ」とか言われたり、楽観的だと「危機感が足りない」「一生懸命さが足りない」なんて言われたりもする。(時には、人格・人間性・精神性を低く見られることもある)

 

 

要するに、割と多くの人が、あまりにも結果重視で、

 

個人個人の人間性やパーソナリティーそのものを認めようという気は、実は、あまり持っていないようにも思われる。

 

 

個人的には、(人生や出来事の)結果・状況・能力・作品・演奏力・健康状態・成功不成功などを切り離して、

 

もっと、その人そのものを認めるというか、

 

…いや、認めなくてもいいから、せめて否定したり断定したり見下したりしない世の中になれば良いな、と思う時も多いです。

 

 

 

 

いずれにせよ、人生に起こる出来事…、

 

成功や失敗や健康や病気は、

 

こういう生き方が原因だとか、

 

こういう性格や考え方が原因だとか、

 

こういう気分で生きれば必ず人生は成功するとか、(or失敗するとか)

 

あまり軽々しく断定できないと思うのだが?

 

出来事を引き起こす原因・要因を、あまりにも断定しすぎてしまうのは、自分の心の中だけでやってるなら自由だけど、他者に言い過ぎてしまうと、ちょっと失礼で意地悪かな?と思います。

 

 

 

 

もちろん、他人のことに「いっさい口を出すな」ということではなく。

 

(他者のことを)応援したり、心配したり、自分なりの意見・提案・批判・苦言・アドバイス等を伝えることは、素晴らしいことだと思うけど、

 

でも、その人の性格や、その人の能力や、その人の心理や、

 

その人が成功するための方法・秘訣や、

 

その人の目指すべき道や、

 

その人が今までどれだけ頑張ってきたかとか…、

 

そういうことを、あまりにも分かったつもりになってしまうような言い方は、少々傲慢だと思う。

 

人生の決定権・選択権は、その人本人にあるべきだと思いますし。

 

 

 

 

人生や健康や成功・不成功の方程式など、神様でもない我々には、誰にも完璧には分かることは出来ないのではないか?と思っています。

 

考察や推察くらいは出来るが、断定までは出来ない。

 

…しかも、全ての人に共通する成功哲学・人生ルール・望ましい考え方なども、無いように思われますし。

 

 

 

 

他者の性格や、他者の想いや、他者の(今までの)頑張りなどは、エスパーでもない我々には、100パーセント完璧に分かるわけはない。

 

誰かの演奏や作品や仕事ぶりを見て、気に入らなければ、厳しく批判しても良いと思うけど、

 

その人の内面や、性格や、これまでの努力や、集中力や、愛の深さや、プロ意識の有無などは、そう簡単には断定することは出来ない…。

 

 

 

 

…そうは言っても、もちろん我々は、誰かの演奏・作品・振る舞い・仕事ぶり等を見て、

 

その人の内面を想像してしまうし、その人の人格を判断してしまうのも当然だけど、、、

 

でも、自分の単なる想像を、あまりにも100%「真実」と思い込みすぎてはいけない、と思う。

 

我々は誰しも、物事や人物の、せいぜい「氷山の一角」くらいを見る視野(能力)しか持っていないので。

 

 

 

 

表面的な演奏・作品・成功不成功・仕事ぶり等は、お互い遠慮なく批判や意見を交換しつつ…、

 

で、その奥底の内面・性格・人間性・パーソナリティー等に関しても、もちろん批判や意見を言い合って良いと思うけど、

 

ただ、その部分に関しては、そう簡単には断定することは出来ないし、そう簡単には何が良いとか悪いとかも言い切れないので、

 

もし意見交換する場合、真摯に「考察」「推察」「提案」するくらいしか出来ない気がします。

 

 

(※演奏・作品・仕事ぶり等の…、それら一つ一つの「意図」なら、割と断定することは可能だと思いますし、比較的、見つめ直したり改善したりしやすい部分だとは思います)

2017.08.03 Thursday

無題803

他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、自分の意見・見方・価値観を押し付けてくるような人に対して、

 

その行為や言動に関して、「やめてほしい」とか「私は同意しない」とか、「私は悲しい」とか「私は傷ついた」とか、

 

あくまで「自分がどう感じたか」「自分がどうしたいか」「自分がどうして欲しいか」を伝えるのは、僕は、悪いことではないと思っている。

 

(伝えても改善してくれないなら、その人から離れるべきだと思う)

 

 

でも、そういう人に対して、「あなたは愛が無い」とか、「もっと思いやりを持て」とか、「もっと優しくなれ」とか、「普通の人間ならこう考えるのが常識(あんたはおかしい)」とか…、

 

そうやって、その人の性格を断定しすぎたり、道徳や常識を断定しすぎたり、その人の内面を矯正しようとしすぎるのは、ちょっと違和感がある。

 

 

 

 

迷惑行為・暴力行為・押し付け行為の「振る舞い」をやめさせることは必要だろうし、

 

私がどう感じたか・私がどうして欲しいかを伝えることも必要だろうと思うが、

 

しかしながら、その人がどういう性格なのか、その人がどう生きたいのか、その人の言動がどういう真意なのか、その人がどういう環境で育ってきたのか、そもそも愛や思いやりとは何なのか、そもそも人間とはどう生きるべきなのか、etc…、

 

我々は、100パーセント完璧には分からないし、そう簡単には断定できないことだからだ、、、

 

 

 

 

…とは言え、これは難しい問題だと思う!クリボー

 

どういう行為・どういう発言・どういう振る舞いが、愛や思いやりがあるのか、

 

そういうことを、意見したり教育したり指導したりすることは、可能だと思うし大事だとも思う。

 

 

しかし、あまりにも愛・思いやり・常識・道徳観の正解を定義しすぎてしまうと、各々の個性や、各々の愛情の自然な発露が、現れにくくなるような気もする。

 

なぜなら、愛や思いやりの感じ方・表現方法も千差万別だと思うから、方程式のような定義・正解・マニュアルは、存在し得ないと思うので。

 

 

それに、意見する側の人間(指導する側の人間)が、「愛とはこういうもの」「常識とはこういうもの」「思いやりとはこういうもの」「幸福とはこういうもの」「人とはこういうもの」と、

 

あまりにも答えや正解を決め込みすぎてしまっていると、ちょっと傲慢だと思うし、視野が狭すぎるとも思う。

 

人それぞれに、様々な個性・生き方・感じ方があるだろうし。

 

 

(※しかも、愛や思いやりを追求しない生き方も、僕は悪くないと思います!人生で何を追求したくて何を追求したくないか、個人の自由だと思う。…さらに言えば、意外と、「愛」や「思いやり」を追求しようとする人ほど、非常に限定的にそれらを定義してしまう傾向も強いようにも思え、皮肉なことに、むしろ「愛」や「思いやり」から遠ざかってしまうような印象すらある。全員がそうだとは言わないが)

 

 

 

 

そんなわけで、(愛や道徳や人生観に関しての)教育・指導も大事だと思うのだが、

 

最終的には、一人一人が自分の良心・感性・価値観・道徳観念などを見つめ、自分の発言や行動や作品を、自分自身でチェックするしかない気もする。

 

 

もちろん人と人は、お互いに意見や批判や、提案やアドバイスを言い合うのも素晴らしいことだと思います!

 

この世に完璧な人間などいないと思いますし、

 

それに、「人と人はお互い干渉してはいけない」「人の生き方に一切口を出してはいけない」というような風潮では、寂しい気もしますし。

 

…でも、だからと言って、誰かが誰かに、あまりにも(自分の)価値観・善悪観を押し付けすぎるのは、良くないとも思うのだ。。

 

 

 

 

人と人は、お互いに意見・批判・提案・アドバイスの言い合いも大事だろうし、心温まるものだけど、

 

(その前提の上で言いますが)、

 

■「愛や思いやりの定義、感じ方、考え方は、人それぞれで良い」

 

■「愛や思いやりを表現する方法・言動・振る舞いも、人それぞれで良い」

 

■「そもそも、愛や思いやりを追求しようとしない感じの生き方も、悪いことではない」(※迷惑行為・暴力行為とかはもちろんNG)

 

■「何を心地良いと感じ、何を心地悪いと感じるかは、人それぞれで良い」

 

■「人生の目標、夢への近づき方なども、個人個人でバリエーションの違いがあっても良い」

 

■「他者の性格・内面・真意などは、完璧に分かることは出来ない」

 

■「自分が正しいと思うことでも、誰にでも当てはめるべきではない」

 

 

そういう感じの雰囲気が、私は好ましいです。

 

 

 

 

「それじゃあ傍若無人な連中がのさばるだけ」、と言う方もいらっしゃるかもしれないけど、

 

さっきも言ったように、他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、明らかに他者を見下すような態度をとる人や、意見・価値観を押し付けてくるような人に対しては、「やめてほしい」とか「(私は)悲しい」とか、「(私は)賛成できない」とか、

 

「自分がどう感じたか」「自分がどうしたいか」「自分がどうして欲しいか」を伝えるのは、まったく構わないと思っている。

 

もし被害が生じる場合は、法で裁いたり罰したりすることも必要だと思う…。されるがまま無抵抗が美徳とは思ってないです。

 

 

 

 

そんなわけで、私の主張は、「のさばらせて我慢して泣き寝入りせよ」「何でもかんでも許容せよ」という主張ではないですし、

 

「人と人は一切干渉し合うべきではない」「人の言動に一切口を出してはいけない」という主張でもないです。

 

 

ただ、他者の真意・性格などを、あまりにも分かったつもりになりすぎないほうが良いのではないか、

 

物事の道理・正義・道徳・マナーなどを、あまりにも分かったつもりになりすぎないほうが良いのではないか、

 

明らかな悪事・差別・誤解・意地悪などは否定すべきだと思うが、愛とか思いやりとか礼儀というものは、あまり何が良いとか悪いとか、何が愛情深いとか、何が冷たいとか、

 

そう簡単には決められないのではないか?

 

礼儀や愛情表現の仕方も、人によって違って良いのではないか?

 

よほど他者の迷惑になっていなければ、人それぞれ皆、自分なりの価値観・感性・パーソナリティーで生きれば良いのではないのか?

 

私の主張は、そんな感じです。

 

 

 

 

しかも我々は、他者の性格・真意のみならず、

 

自分自身の性格・願望・衝動・真意・快不快でさえ、ほんとうには分かっていない可能性も高いと思う。

 

自分自身の想いや感覚や価値観というものも、固定観念や思い込み、見栄や自己保身、被害妄想や排他主義などに縛られていないとは、簡単には言い切れないのではないか?

 

 

例えばですが…、私自身のことを言えば、

 

例えば、噂話・陰口に花を咲かせることや、お笑い芸人のように誰かを「イジる」ことや、上から目線で誰かを指導(助言)することなどに、つい、心地良さを感じてしまう瞬間もあったけど…、

 

でも、ふと気がつくと、「これは、ほんとうに私にとって快楽なのだろうか?ほんとうに私が目指したい心地良さなのだろうか?むしろ、不快ではないか?」とも感じ、

 

虚しくなったことも多々あります。

 

ただ単に、「優越感」と「心地良さ」を混同しているだけではないか?と。kyu

 

 

 

 

なので、(今現在の)自分の心地良さ・幸福感・満足感の基準を、100パーセント信用しすぎず、「これは本当に自分が望むことだろうか?」と、常に自分を疑うというか、自問し続けることも大事だと思っている。

 

基本的には、自分の今現在の感性・価値観に自信を持って良いと思うのですが、

 

同時に、心の奥底のどこかで、「本当にそうだろうか?」と、常に自分自身にツッコミを入れているほうが、私は心地良い感じがします。

 

 

(自分自身に対して、常に批判的・否定的な態度でいるほうが、むしろポジティブな生き方ではないか?とすら思っています。僕は、自分が思ったこと全て・感じたこと全て、もちろん大事にしたいですが…、しかし同時に、常に容赦なく疑ってもいたいです)

 

 

 

 

音楽表現やエンターテインメントの表現も、何が良くて何が悪いか、何が素晴らしくて何が陳腐か、、、

 

教育したり指導したり批評したりすることは大事だと思うが、

 

やはり、目指す道は人類全員が同じでなくても良いはず。

 

 

私自身、今まで、様々なタイプの素晴らしさに感動してきたので、

 

音楽やアートやエンタメの価値基準を、あまりにも限定・定義・断定しまうことは、不可能だと感じています。

 

 

それでも僕は、今後も意見や批評やレビューを表明したりするだろうけど…、

 

自分が好きになれないものにも、長所や存在意義は感じているし、

 

逆に、自分が好きなものにも、とても偏った美意識・価値観・人生観を、だいたい常に感じている。

 

(というか、「個性」や「長所」というものは、ほとんど「偏り」と同義語だと感じている)

 

 

 

 

では最後に、強引にまとめると、

 

■「愛や思いやりの定義、感じ方、考え方は、人それぞれで良い。生き方、振る舞い方、人生の目標、夢への近づき方なども、個人個人でバリエーションの違いがあっても良い」

 

■「だからと言って、誰のことも必ず尊重せよ、必ず許容せよ、必ず理解せよ、必ず好きになれ、というわけではなく。自分の理解・共感の及ばない人のことを、無理してまで好きになろうとしたり、分かったつもりになりすぎることもない」

 

■「他者の危害・迷惑になるようなことをする人や、明らかに他者を見下す態度をする人や、自分の意見・見方・価値観を押し付けてくるような人に対しては、異議・反論を表明しても構わない」

 

■「そういう人のことを、もちろん嫌ったり怒ったり軽蔑したりしても良いと思う。ただし、自分自身も、その人のことを一面的にしか認識できるはずがないので、誤解・思違い・決め付けをしている可能性は常にある。そのことは、常に頭の片隅に常に置いておくべきではないか」

 

■「人と人は、お互いに意見・批判・提案・苦言・アドバイス等を言い合うことも大事だと思うけど、あまりにも、何か一つの見方や価値観を「正解」と決め付けるぎるのは、あまり良くないのではないか?」

 

 

そんなところです。

 

おしまい。

 

 

 

 

…言うまでもなく、ここに私が書いていることも、

 

世の中にたくさんあるうちの、あくまで一つの意見・一つの見方にすぎないと思っていますが。

 

私自身、明日には考え方が真逆になっている可能性だって無いとは言えない。。すらりん

 

(追記※この記事には続きあります。コチラです。もしよろしければ)

2017.07.31 Monday

無題731-5

本日、記事を四つ(五つ)更新しましたー。マリオ

 

例によって、当ブログは私の独断・偏見を記録する場ですが、もしご興味あればどうぞ。

2017.07.31 Monday

無題731-4

「アートや音楽というものは、他者との比較ではなく、未来・過去に縛られるのでもなく、知識・理論でもなく、今この瞬間の感覚」、

 

「アートや音楽というものは、相対的ではなく絶対的なもの」、

 

というようなことを言っている人も、たくさんいらっしゃると思う。

 

 

でも、そう言う人達も、今まで見たり聞いたりしてきた数々の作品や演奏…、

 

それらを相対的に比較することも、ちゃんと出来ると思います。

 

(作曲家ごとの個性とか、演奏家ごとの特色とか、ちゃんと認識や比較は出来ると思う)

 

 

 

 

そもそも、もし、全く比較をしないような知性・感性・生命体というものが存在するなら、

 

そいつらは、何かを良いとか何かを悪いとか感じることは無いのではないか?

 

と思う。

 

ただ「現象」だけが在る感じ。

 

 

「これが良い」とか「これが悪い」とか、「これが好き」とか「これは嫌い」とか、「これは優しい」とか「これは冷たい」とか、「これは絶対的」とか「これは相対的」とか、「これは自然体」とか「これは作為的」とか、、、

 

そういう判断や認識するということは、そもそも我々は、相対的な比較や差別をする習性があることの証明だと思うのだが?

 

 

 

 

アート作品・音楽作品を鑑賞したり演奏したりしている時の感覚は、確かに「絶対的」「瞬間的」「無心」「忘我」「無条件」と言えるかもしれないが、

 

でも、どんな音色もどんなリズムも、何でもかんでもオーケーではないはずです。

 

 

どんな駄作でも、どんな下手な演奏でも、「心や魂や愛さえ込められていればオーケー!」「無我夢中で没入していればオーケー!」とはならないはずです。

 

(心や魂や愛が大事なことは異論ないけど、それだけで良いとは私には思えません)

 

 

あまりにも下手クソな演奏では、心地良く聞くことは無理だと、私は思う。(´・_・`)

 

もちろん音楽は、必ずしも技術第一ではなく、「ヘタウマ」や「ウマヘタ」みたいな作品(演奏)も、たくさんあるとは思いますが、

 

いずれにせよ、「なんでもかんでもオーケー」「どれもこれも同じくらい素晴らしい」とは、ならないはずです。

 

 

各々、好みの違いはあるだろうけど…、

 

誰でも、とりわけ好きに感じる作品もあれば、それほど好きにならない作品も、あるはずです。

 

 

 

 

だから私は、そう簡単に「比較は良くない」とも言い切れない気がしています。

 

なぜなら、そう言ってしまうと、自分に嘘をつくことになるから。

 

だって私には、「好み」や「嗜好」や「選り好み」というものが、明らかに有りますから。。

 

(※どんな音を聞いても、どんな音楽を聞いても、全く同じように感じることは、私には出来ません。なので、「比較は良くない」とか「音楽は絶対的だ」とか「誰もがオンリーワンで素晴らしい」とか、私はそう簡単には言えません)

 

 

 

 

たぶん我々は、鑑賞や演奏や作曲をする時、心の奥のどこかで、理想の音と現状に鳴っている音とを比較し、

 

それらを天秤にかけて、相対的にバランスをとったり、

 

理想の音・タイミングに近づくよう、(自分の)音を制御したり調節したりする知性・感性も、常に働かせているはずなのです。

 

意識的せよ、無意識的にせよ。

 

動物みたいに、ただただ無心で「わーっ!」と吠えたり叫んでいるだけではないはず。

 

(「わーっ!」と吠えるような表現や、「騒音」や「叫び声」のような雰囲気を目指す作品なども、もちろん多々あると思いますが…、だからと言って、そういうタイプの作品に、まったく技術が必要ないとは思えないです。

 

…あるいは、「偶然性」や「無意図」で創作する試みなども、大いにアリだと思いますが…、非人為的な「偶然」や「無意図」を意図しているわけだから、やはり知的ではあるし、「そういう意図が有る」と言えると思います)

 

 

 

 

あと、(音楽は)「今この瞬間」「今ここ」とかも、よく言われるけど…、

 

やはり音楽というものは、数秒前の旋律・和音からの繋がりで、「今この瞬間」が有るものだとも思うので、

 

私は、あまり安易に「今ここ」「過去にも未来にも縛られるな」とは言い切れないと思っています。

 

 

 

 

とは言え、私自身、

 

演奏や作曲というものは、冷静な「比較・検討」「調節・制御」というよりも、

 

むしろ「自然発生的」と感じられるほど、瞬間的かつ自動的な作業にまで昇華されている感覚も、実感として、よく分かります。

 

(例えば「体が勝手に動く」「メロディーが降ってくる」「考えるな感じろ」「ボールが止まって見える」みたいな状態)

 

 

 

 

しかしながら、表現・演奏・作曲をするには、長年の蓄積や修練が必要だし、

 

音と音の比較も必要だし、

 

余分な音や余分な力みの取捨選択も必要だし、(※音のコントロールや、呼吸や身体のコントロールが必要)

 

数秒前に鳴った音からの繋がりも大事だし、

 

数秒後に出す音のイメージも必要だろうし、

 

 

…要は、比較・調節・制御・知性・技術・取捨選択・論理的把握というものも、どう考えても必要!

 

 

そういう意味で私は、あまり断定的に、「音楽は絶対的なもの」「音楽は瞬間的なもの」「比較は良くない」「理論より魂が大事」「技術より心が大事」「直感と衝動のみが大事」「考えるな感じろ」とは、言いにくいと思っている。

 

 

 

 

そもそも僕は、理論や技術というものが、魂や心と相反するものだという認識が無いですね。

 

(※あと、「相対的」と「絶対的」も、相反する感覚だとは思えないです。音と音を冷静に比較したりしても、絶対的な感覚が薄れるとは思えないです)

 

 

 

 

したがって、音楽というものは、

 

絶対的ではあるが、大いに相対的でもあるし、

 

技術や理論というものにも、感情や直感が同居しているし、

 

意図的に音を選びつつ、無心&自然発生的な感じもするし、

 

「今この瞬間」の行為ではあるのだが、過去に聞いた音楽と比べたり、未来(数秒後)に出す音をイメージしていたりもするので、

 

あまり断定的に、「音楽は絶対的だ!」「音楽は今この瞬間だ!」「考えず感じろ!」「技術より心!」とは、私は言い切れないです。

 

言い切れないし、言うつもりもないですし、(たぶん)言ったこともないですし。

 

 

 

 

(音楽は)「相対的か絶対的か」、「瞬間的か永遠的か」、「技術か心か」、「意図的か無心か」、「自己の表出か自己の消失か」というのは、

 

個人個人の感じ方・とらえ方の違いに過ぎないとも言えるが、

 

 

私なりには、音楽というものは、

 

■「相対的感覚と絶対的感覚が矛盾なく両立している」

 

■「時間に則って表現しつつ時間は止まっている」

 

■「技術と心は別のものではない」

 

■「理論と直感(衝動)は別のものではない」

 

■「意図を持ちつつ意図を忘れている」

 

■「自己を表現しつつ自己を忘れている」

 

■「今この瞬間を意識しつつ、数秒前(数秒後)のフレーズとの相関関係・繋がり等も、大いに意識している」

 

■「自由で無条件な活動ではあるが、同時に、色々な制限・制約・条件に基づいた不自由な活動でもある」

 

 

そんな感じではないかと思っています。

 

 

様々な内的感覚が矛盾なく共存・混在しているので、

 

そのどれか一つの感覚だけを取り出して、「音楽はこういうもの!」とは、言い切れないのではないかと思います。

 

 

 

 

(※話は逸れますが…、知性による比較ではなく、本能や感覚で「こっちのほうが心地良い」「こっちは怖い」というような、動物的勘・野性的判断も、もちろん人間も持っていると思います。でも、そういう直感的な判断というものも、やはり、物事を比較・差別・選別している感じはします。

 

…しかも、明らかにエサをくれる人を怖がる動物とか、直感的に突進して崖から転落死する動物とかもいるので、「動物的勘」や「直感」や「本能」というものは、常に正しいわけでもないです。…個人的には、正しいものなんてこの世に存在しえない、と思っていますがね)

 

 

 

 

そして、最後に一つ。

 

アートや音楽やヨガやスポーツだけが「絶対的」で「瞬間的」で「瞑想的」で「無条件」なのではなく。

 

人間のあらゆる行為は、絶対的かつ瞑想的でありうる、とも思います。

 

 

であれば、禅問答のようなことを言いますが、

 

何かと何かを相対的に比較検討することも、絶対的な体験なのかもしれないです。

 

(過去や未来に想いをはせることも、今この瞬間のことなのかもしれないし)

 

 

すなわち、究極的には、この世には「絶対的」も「相対的」も、「能動的」も「受動的」も、存在しないとも言えるかもしれません。

 

(同じものを、個別に切り取って名付けたり、違う側面から名付けているだけ)

2017.07.31 Monday

無題731-3

「夢」とか「願望」とかいうものは、考えて計画的に意図するというより、ブワーッと衝動的・直感的に湧き上がるものかもしれないが、

 

しかし同時に、皆、生まれた時代の状況・環境・科学・文化・知識・社会システムなどを、しっかり認識しながら、

 

その前提条件の範囲内の夢・願望しか、生まれにくいものだと思う。

 

(後天的に身についた固定概念からも、そう簡単には自由になれない)

 

 

 

 

例えば、ピアノという楽器が無い時代に、私と全く同じ魂・同じ感性の人間が生まれたとしても、「ピアノを弾きたい」という夢・欲求・願望など、持たなかったはずです。

 

なぜならピアノが存在しないので、そんな欲求・願望・衝動を持てるはずがありません。。すらりん

 

 

 

 

宇宙や地球という概念・知識が無い時代に生まれたら、「宇宙飛行士になりたい」なんて夢は存在し得ないだろうし。

 

独裁国家に生まれなければ、「革命を起こしたい」「人民を解放したい」「圧政をやめさせたい」なんて夢も、存在し得ないだろうし。

 

お金という概念・システムが存在しない社会に生まれたら、「金持ちになりたい」なんて夢も存在しえないだろうし、

 

人種差別が横行していなければ、それをやめさせたいという夢・願望も存在しえない。

 

野球というスポーツが存在していなければ、「野球をやりたい」「野球選手になりたい」という夢も存在しえない。

 

 

 

 

要するに、「I have a dream!」と言うためには、直感や衝動だけではなく、

 

ある程度は知的に、現在の状況・環境・常識・科学水準・音楽ルール・社会システム等を認識している必要があると思う。

 

 

要は、たいていの人は皆、知的で打算的な存在だと思う。(悪い意味ではなくて)

 

自分では、その事実に気づいていなくても。

 

意識的にせよ、無意識的にせよ、皆、状況・環境を頭で把握して、その範囲内で、夢や願望を心に描いているはず。

 

(※作曲や演奏も同じこと。我々は、思うがまま・思いつくままに演奏(作曲)しているつもりでも、そもそも「リズム」「メロディー」「ハーモニー」というような概念自体・ルール自体、生まれた時代の常識に従っているだけ。模倣しているだけ。…「音楽」というものは、無心で衝動的な活動でもありつつ、後天的に与えられた前提条件の範囲内での、知的な活動でもあるのだ)

 

 

 

 

それに気づかず、「俺は誰の影響も受けず、誰の真似もせず、時代や流行にも左右されず、自由に思うがまま生きてるぜィ!過去にも未来にも縛られず、頭で考えず、今この瞬間、魂と直感だけで生きてるぜィ!俺の音楽は唯一無二よ!」

 

などと言いながら、ギターなど弾いて、曲や詩などを歌っている人がいたとして、

 

でも、そもそも「ギター」という楽器自体、

 

「コード」「リズム」「ハーモニー」という概念自体、

 

「言葉」や「音楽」というツール自体、

 

後天的に身についたものであり、生まれた時代・環境・状況・文化・知識・他者が築いた仕組みに縛られている証拠。

 

過去に身に付けたことに、大いに縛られている証拠。

 

(要は、他者や社会から影響を受けているわけです。頭も使っているし、ちゃんと知的に色々と把握・認識しているわけです)

 

 

 

 

で、私は、それで良いと思っています、

 

時代や環境や他者の影響を受けず、「無」から何かを創造するつもりなんてありません。

 

個人的には、他者・時代・社会・環境からの影響のもとでしか生きれないと思うし、創作できないと思っています。

 

ただ、そのことを自覚していたいとは思いますが。

 

(「俺は誰にも影響受けてない」とか「俺は頭で考えず直感だけで生きてる」とか、あまり勘違いしたくない)

 

 

 

 

他者・時代・状況・環境・文化・社会から独立した「夢」や「願望」や「直感」や「自分らしさ」なんて、どこにも存在しないと思っています。

 

 

 

 

では、「自分とは何か?」と自問するなら、、、

 

大袈裟に言えば、「あらゆる全てが自分自身」であり、「独立した「自分」なんてどこにも存在しないのではないか?」

 

そんな感覚です。

 

 

 

 

なので、日々、自分の心に湧き上がる、

 

「これは心地良いこと」「これは心地悪いこと」「こうしたい」「こう生きたい」というような判断・直感・衝動・願望も、

 

無意識的に、後天的に身についた固定概念や、生まれた時代の常識・環境・科学水準の範囲内だけに囚われている可能性も高いので、私は、100パーセント信用しすぎたくないです。

 

もちろん全否定すべきものでもないけど、無条件に全肯定しすぎるものでもないかな、と。

 

 

今現在、心に湧き上がる判断・直感・衝動・願望・快不快・夢などは、ちゃんと大切にしつつ、

 

同時に、そういう判断や直感や夢が生まれる前提となっている、後天的に身についた概念自体・常識自体を、常に疑っているくらいが、私は心地良いです。

 

 

 

 

↑などと書いていること自体、私は常に疑ってもいます。

 

要は、自分の判断や直感や価値観に自信が強すぎて、心が狭い感じになってしまうのは、それもまた心地悪いのだ。

 

あまり自分自身を絶対視しすぎない態度・雰囲気が、私は心地良いと感じます。

 

(自分に自信が無い、ということとは違いますし、優柔不断とも違います)

 

 

 

 

上記のようなことを言ったり書いたりすると、「もっと自信を持て」とか言われたり、誤解されてしまうことも多いです。。。

 

でも、そういうことではないです。

 

しっかり自信は持っていても、

 

同時に、時には自分を反省したり見直したり改善したりする、柔和な態度・雰囲気が好ましく思います。

 

 

そもそも「自分」という存在自体、曖昧かつ多面的で、環境や状況とも絡み合っているので、

 

「これが本心」とか「これが自分らしさ」とか、あまり特定・断定できないとも感じています。

 

(「自分」という存在は、けっこう「暫定的」というか(?)、「今現時点では自分はこうしたい」「今現時点では自分はこう思う」とか、その程度のものでしかない気がしてます。「固定的に定まった自分」というのは、そもそも存在しないのではないか?という感覚です)

 

 

 

 

そんなわけで、冒頭にも書いたように。

 

あらゆる夢や願望や、あらゆる直感や発想や、あらゆる創作や表現というものは、

 

魂から直感的に湧き出たものかもしれないが、

 

同時に、生まれた時代の状況・環境・科学・文化・知識・社会システムなどを、しっかり認識しながら、

 

その前提条件の範囲内のものしか、生まれにくいものだと思う。

 

 

 

 

すると、究極的には、、、

 

■「自分」という個別な人格は存在していない

 

■「私」という存在は、環境や時代や状況や他者と結びついた、いわば「総体的な存在」としか言えない

 

上記のような認識にもなります。

 

そういう認識や感覚は、ちょっと寂しい気もする反面、不思議に安らぎや心地良さも感じます。

 

 

 

 

そして上記に書いてきたようなことは、私のことだけではなく、他者についても同じこと。

 

他者も、誰しも、「独立した個別の存在」というより、(後天的な)環境・境遇・時代・文化・状況と結びついた、総体的な存在、、、

 

どんな長所も短所も、どんな性格も能力も、100パーセントその人だけの功績ではないし、100パーセントその人だけの責任でもない気がします。

 

(※だからと言って、犯罪行為・迷惑行為・暴力行為などを、「後天的な教育・境遇が悪かっただけだから許そう」「本人だけの責任ではないからお咎め無し」、という主張ではないですが)

 

 

長所と思えるような人格や能力も、短所と思えるような人格や能力も、時代や状況が変われば、長所は短所になるかもしれないし、短所が実は優れた長所・才能でもあるかもしれない、

 

なので、あまり短絡的に、何が短所だとか決めすぎず、責めたり見下したりせず、

 

どんな資質・能力・パーソナリティーであれ、生きる道・活かす道はあるのではないか?

 

 

…いや、そもそも活かす道や、誰かや何かに役立つ能力なんかでなくても、

 

どんな人も、まずは見下されないですむ世の中を目指すべきではないか?

 

そんなふうにも思う。

2017.07.31 Monday

無題731-2

(※前回記事の続きですが、この記事だけ読んでも意味は通じます)

 

「日本の伝統を大切に」「日本らしさを大切に」などと言っている人の多くが、普通に洋式の衣食住で暮らしているし、そもそも大陸から伝わった文化を日本オリジナルのものだと勘違いしているフシも否めない。。

 

で、それと似た感じなのですが(?)、エコとかロハスとか言う人の「自然」は、むしろ人間に都合良く自然を制御してる場合が多いと思いますし、

 

「人は自然のままが良い」「あるがままが良い」みたいな意見も、人間の性格や言動を、社会的かつ文化的に調教・教育したものを、「これこそ人間の自然な姿だ」と思い込んでいる場合が多い気がします。

 

(あるいは、人間や自然の美しく見える部分だけを「自然」と思い込んでいるだけ、とか)

 

 

そもそも人間が、本当に自然のままの姿になってしまったら、過酷な自然環境の中では生き抜けないと思いますし。

 

 

 

 

例えば、虚言や自己保身や利己主義や、

 

あるいは、とんでもなく汚く残酷に見えるような病気や天災や、悪人や汚物だって、

 

それらも、この宇宙や生命や地球の生成の流れで現れたものである以上、「自然」っちゃあ「自然」なものだ、と思う。

 

 

で、それら汚いもの・病気的なもの・不潔なもの・理不尽なこと・傲慢なもの・暴力的なもの・利己主義的なものを、

 

嫌ったり、見下したり、矯正しようとしたり、掃除しようとしたり、治療しようとしたりするのもまた、自然なことだろうし。

 

(※科学や医療や人為的な創作・作為などを、「不自然なもの」とする考え方もあるかもしれませんが。個人的には、それらも「自然なもの」という認識です)

 

 

 

 

「起こったことを全て受け入れる」「何も変えない・何も足さない・あるがまま」というスタンスだけが、自然体なのではなく。

 

僕は、「これは受け入れがたい!」「これは変えなければ!」という感じの心理状態も、むしろ自然なものとして受け入れるほうが好きですね。

 

 

 

 

そもそも「自然」というものは、残酷で理不尽で利己的な側面もあるものだと思う。

 

時には、理不尽で不平等としか思えないような障害・病気・逆境・不遇もある。

 

生命や人生や動物というものは、不平等でもありますし。

 

(持って生まれた個体差がある。能力にも、容姿にも、寿命にも、生まれた環境や境遇にも)

 

 

…しかも、そこらへんの猫やハトや虫を見ても分かるが、強い者が弱い者に暴力を振るったり、食べ物を奪ったり殺害したりすることも、決して珍しいことではない。

 

生存本能や防衛本能というものは、利己的な側面も多いと思う。

 

とは言え、そういう「不平等さ」「不均一さ」こそ、「人それぞれの個性」「人それぞれの長所」であるとも思いますが。

 

 

 

 

もちろん動物は、利己的で弱肉強食なだけではなく、

 

利他的で献身的な衝動・本能というものも、人間含め、多くの動物は持っていると思う。

 

 

 

 

要するに、利己的な側面も利他的な側面も、そのどちらもが自然ってものだと思う。

 

 

 

 

…究極的には、宇宙のあらゆる現象は、全て等しく「単なる現象」だとは思う。

 

本来的には「美」も「醜」も無いし、「良」も「悪」も無いし、「自然」も「不自然」も無いし、「利己」も「利他」も無いし、「作為」も「ありのまま」も無いように思われる。

 

 

とは言え、たいていの人は、自分なりの好みや美醜観や善悪観を持ってしまっているはず。

 

たいていの人は、道端の犬のフンより、花や夕日を美しいと感じてしまうだろうし、野球の緩慢な消化試合より、極限まで訓練されたイチロー選手の大舞台でのプレーに感動(応援)してしまうだろうし、傲慢で不躾な人の言動より、他者のことを思いやろうとする人の言動を好きになってしまうだろうと思う。

 

でも、それで良いのではないか?と思う。

 

(犬のフンが「悪いもの」と言っているわけではなく。花や夕日だけが「良いもの」と言っているわけでもなく。名人や達人や成功者だけが素晴らしい、と言っているわけでもなく)

 

 

 

 

もし私がフンコロガシやハエとして生まれていたら、排泄物は「良い匂い」と感じると思いますし、

 

深海魚として生まれていたら、光は苦手なのだから、夕焼けなんて美しいとも思わないはずです。(直視できないかも?あるいは、そもそも視力が無いのかも?)

 

 

つまり、(人間の)「美的感覚」なんてものは、普遍的な宇宙の真理ではないし、善悪や道徳や人格とは無関係だと思う。

 

要は、自然自体が美しいわけではなく、

 

「ヒト」という動物の生理や習性や身体能力、あるいは後天的に身についた美的価値観などによって、花や夕焼けを「美しい」と判断しているにすぎない。

 

 

 

 

もちろん「自然は美しい」とか、言っても良いと思う!^^;

 

私も言うし。

 

でも、「そう言っている私って心が綺麗」「人間も自然もありのままが美しい」みたいなことを付け加えてしまうのは…、

 

人間や自然の美しく見える部分だけを見て、「これこそ自然」と決め込んでいるだけだと思われる。

 

 

 

 

もし私が「夕焼けが美しいなー」とか、「花が良い香りだなー」とか言っても、心が綺麗なわけでもないし人格が良いわけでもない、

 

そんなものは、ハエやフンコロガシが、排泄物を「良い匂い!」と感じるのと大差ない気さえしている。(※もちろん彼らが、そう感じているかどうかも分からないけど)

 

つまり、単なる個人的な主観である。

 

宇宙の真理でもなければ、道徳の規範でもない。

 

 

 

 

宇宙のあらゆる事象は単なる「現象」にすぎないが、

 

個人的な主観が、何かを美しいと感じたり醜いと感じたりしているだけ。

 

そういう個人の主観・判断・趣味・快楽を、(普遍的な)真理や道徳と結びつけすぎてしまうと、少々押し付けがましいし、ややもすると差別的でもある。

 

自分の主観・趣味・価値観と違う人に対して、「センス悪い」「心が無い」「愛が無い」「不自然」「もっと自然になれ」、などと言い出してしまう人も多いので。

 

 

僕は個人的には、「そんな小難しいこと言わず、個人的な趣味・快楽として、普通に楽しめば良いじゃん?」と思います、

 

単なる個人的な趣味・嗜好・感覚・判断・価値観などを、これこそ普遍的な真理だとか、これこそ道徳の見本だとか、これこそ自然体の見本だとか、人間は皆こういうものだとか(?)、

 

そういう、ややもすると排他的なことを思い込まずに。

 

 

 

 

もちろん自分が「良い」「美しい」と感じたものは、思ったまま発言して良いと思うし、他者に推奨したりしても良いと思います!

 

でも、単なる自分の主観・価値観・好き嫌いを、人間全てに当てはまる、この世の普遍的な真理・正義・自然・良識だと思い込んでしまうのは、僕は良くないと思う。

 

 

…いや、思い込むだけなら仕方ないか。

 

考え方は人それぞれ、自由であるべきだし。

 

ただ、それを素朴に発言しすぎてしまうと…、自分好みの道徳や、自分好みの自然体や、自分好みの自然観を、他者に強要しているだけになってしまう可能性はある。。。

 

(もちろん私も、そうなっている可能性は常に有る)

 

 

 

 

さて長くなりましたが、

 

個人的には、今のところ、「自然よりも不自然のほうが好き」という意見です。

 

理不尽で利己的で、不平等で残酷な「自然」や「あるがまま」よりも、

 

頑張って理想の世界を築かなきゃ、と思う!

 

 

 

 

人間も自然の一部なので、

 

ある程度、不平等・利己主義・弱肉強食なのは当然ですし、そられ全てを無くすべきとは思いません。

 

ある程度は、利己主義も自然なものだと思いますし。

 

 

ただ、それを認めたうえで、

 

最低限、誰でも衣食住や教育が保証され、ある程度は均等にチャンスを与えられ、

 

そして、あからさまな差別・誤解・暴力・偏見・冤罪・不平等・利己主義・イジメ・パワハラ・セクハラなどが、あまりにも公然のこととして存在しない世界のほうが、私は好きです。

 

 

 

 

私の主張は、「誰もが利他的になれ」というようなことではなく。

 

むしろ逆かもしれません。

 

人間完璧ではないので、誰でも、無意識的に差別をしてしまったり、無意識的に利己的になってしまったり、無意識的に(他者を)誤解してしまうこともある、

 

(※「言葉」も「行動」も「音楽」も完璧なツールではないので、(表現者の)気持ちや真意や意図は、常に、誤解されたりする可能性はある)

 

 

でも、それが当然だと思うので、

 

その事実を認め、「あまりにも自分の判断・解釈・価値観を盲信しすぎないようにする」、

 

そんなイメージです。

 

 

自分が感じたこと・判断したことに、大いに自信は持っていて良いと思いますが、

 

同時に、(自分のことを)盲信・過信しすぎず、

 

たまには一歩立ち止まって、自分の判断・言動・価値観を見つめなおしたり、反省したりすることも大事なのではないだろうか。

 

 

「私という人間は、時には誤解や差別をしてしまう存在である」、

 

そういうことを素直に認めている感性は、僕は大事ではないかと思っています。

 

 

 

 

そんなわけで、あまりにも自信満々に「ありのまま」で、自然すぎるのや自然体すぎるのは、僕は良くない感じがしてます。

 

 

すなわち、「あるがまま」「自然のまま」に甘んじるだけではなく、

 

(人間社会や自分自身の)現状を、反省したり、嫌悪したり、時には憤ったりして、

 

より理想的な世界(より理想的な自分)を創造する力を持っていると思うわけです。